金色日記 Diary in Gold ★Milennium special★


11月27日(土曜日)

 フランスのインターネット書店、bol.frをたまに、というか、よく、というか、利用している。すると、こないだ、PAGE DES LIBRAIRESという読書雑誌を送ってきた。「お得意様にタダで3号分お送りします」と書いてあった。
 この雑誌は、大きさも厚さも、L'EXPRESS並みで、編集者や全国各地の書店員の「オススメ本」など、要するに「本の紹介」が目的の雑誌で、隔月刊のようだ。
 11月号は、「ベルリン」特集だった。L'EXPRESSにもドイツ特集があった。

 ベルリンといえば、いま、もっとも、2000年にふさわしい都市である。

 だだっ広い広場や空き地の再開発が進んでいる。

 1989年の11月9日に、「壁」がなくなってから、10年経った。分裂していたドイツは1つになって、新しい文学が花開いたのだろうか? 「初めは、多くに編集者はそう思った。しかし……」と、ガリマールの、編集者兼ドイツ文学翻訳家のベルナール・ロルトラリーは言う。「経済的にも心理的にも問題が多すぎて、期待したほどの文学の開花はない」。あ、向こうでは、翻訳は、編集者がやってしまうことも多々あるのだ。あっちでは、インテリのお仕事で、日本みたいに、編集者=作家の小間使いのイメージはない。もちろん、私にも、ないけどね。



 ベルリン育ちの二人の作家へのインタビューもある。この二人の男女の作家は、私と同世代。男性のハンス・ウルリッヒ・トゥライシェル(1952年生まれ)は、ベルリンに魅力を感じて住み続ける。とくに、西ベルリン。「西ベルリンは、西ドイツの一地方ではない。そこは、ドイツのどこにも似ていない外国のようなところで、そこにいるだけで、人は、外国へ出ることなしに、外国体験ができる」。
 一方、女性作家の、ブリジット・ヴェンデアベーケ(1956年生まれ)は、ベルリンから脱出して南フランスに住んでいる。「レイシズムのあらゆる形の存在する暴力的な都市、ベルリンにはいられない」。

 トゥライシェルの、「この都市に長くトラウマは残るだろう」という言葉は印象的だ。



 スーパー・モデルの元祖? クラウディア・シファーが表紙のL'EXPRESS(International)11月4_10日号。「ついにドイツを愛することができるか?」という言葉が大きく、表紙に書かれている。一介のジャーナリストで大学の教師から、文化大臣に任命された、マイケル・ナウマンのインタビューを読む。

 ドイツでは、初めて「文化大臣」というポスとができた。荒廃した文化を立て直すために。映画作りのためにも、大幅な予算を取って援助する、という。いま、『ラン・ローラ・ラン』ぐらいしか、ないからね。

 黒いマフラーにトレンチコート姿の、やはり、ジャーナリストにしか見えない男が、深夜のカフェに一人座っている。これが、この国の、文化相である。



 なお、bolは、英国のサイトもある。仏語が苦手な人はこちらで。



Page & Express




 なんか、急に、わざとらしく寒くなってきましたね。

 ご意見ご質問等は、「掲示板」(Faut/Land)にどうぞ。



11月28日(日曜日)

 京都在住の女性詩人が、詩集を送ってきた。なんで? って、見ると、「エクリチュール」とか、そんな言葉が出てくる。
 その後、その詩人の所属する同人誌を、べつの人が送ってきて、それは、ずーっと来ていたのだが、なんとなく、ぺらぺら見てしまう。なんと、その女性詩人の「パリ日記」が巻頭にある。

 そこにも、なにやら、エクリチュールとかある。私が仮想していることを先にやられたって感じ。でも、書いてあることは大したことなくて、こんなもん、べつに行かんでも書ける、とか……。

 つーか、ふーーーん、そのテード、とか思ってしまい、結論は、「人の振り見てわが振りなおせ」(笑)。

 やー……でもなー、なんでわかっちゃんだろー? 私が常々、「パリ」とか「エクリチュール」とか、口走ってることが。

 あ、この人、全然名前、聞いたことない人で、47年ぐらいの生まれの人。西暦だってば(ここを見てたら、すごーくヤバイ雰囲気だけど、その可能性がゼロとは断言できない。でも、正直なカンソーですから)。だいたい、返事の書きようがないんです(苦笑)。年賀状でも出しとくか。



11月29日(月曜日)

 上記↑のオバサン(詩集の経歴を見なおしてみたら、49年生まれでした。失礼)の、某同人誌(それなりの知名度のある詩人も混じってる玉石混交の変なザッシ)に発表された「パリ断章」を、街へ出るバスの中で読む。

 「チュイルリー公園」とか「ペール・ラシェーズ」とか「ミラボー橋」とかが、章立てになっていて、なんかさー、まんま「ガイドブック」とゆーか、それ以下とゆーか……。パリの街をひたすら歩き回って、「パリという街を身体に刷り込むために」とか「geno-text」とか「pheno-text」とか、わけのワカンナイこと言ってるけど、文体は、俗な「ポルノ小説」

 「昨年の秋、師であり父でもあるYの病名を夫人から知らされたのが始まりだった。その日以来、未知の衝動が私を襲っていた。美しい衣服、濃いメークや試したこともない濃い香水、お酒、sex……。あらゆる快楽の中を転げ回りたかった」だと。まー、トシを考えてほしいですねー。

 「エルメスへもう一度いって」とか。行くなー! そんなとこ。これで、大学で、仏文学とか、どーもそういうものを教えているらしい。今年の3月に、FLD講座に出席したとき来ていた、某私立大の仏文のセンセーとかいうオバサンを思い出してしまいました。仏語のレベルはサイテーでした。この「詩人」がどうだかは知らないけどさ、文章からは、中年女のナルシシズム以外は感じられない。

 ふんで、最後に、空港へ向かうバスに乗るための地下鉄に乗っていて、開けられた窓の外から、さっき降りて行ったばかりの少年たちに、「コーラを顔に浴びせられた」なんてあるの(←笑)。「二人は浅黒い肌をした少年だった」って、なにが言いたいんだろ?

 私は、この「断章」を、そのまんま「東京」に移し替え、「新宿御苑」とか「靖国神社」とか「二重橋」を歩き回って、変な感傷に耽っているオバサンを想像した。なんかちょっと、不気味というか笑えるというか。

 うーーーん、どこの大学か知らないけど、このテードの人が教えてるのかー……とか。

 やっぱ、これは、年賀状も出せないや(この種のオバサンとは関わりにならない方が身のためだろう)。それに私の年賀状は30部限定だし。

 ま、私なんかに詩集送ったのが運のつきでしたね。なんせヒマなんだから(笑)。



 妹のコドモ、天才少年(?)アキラの誕生日なので、かねてからの約束通り、FAXを送る。と、数時間後に、見事なネコを描いた絵を送り返してくる。小学3年なので、まだローマ字は習ってないが、4年の兄に聞いて、AKIRAと署名を添えてきたのはいいが、Rの小文字が「一筆で」書いてないので、Yに見え、それを電話で妹に、なにげなく、言うと、向こう側で聞いていて、「なんか不都合でもあった?」としきりに気にし、妹は彼を寝かせるために、いったん電話を切ったが、その後も、それについて、「ボクの立場も考えてよー」とぐずってしまい、困ったとか。

 小学生に「立場」なんかあるのかー?!

 本人は、カッコよくローマ字で書いたつもりなんでしょうが、それにケチつけられて、なんか、いたくプライドを傷つけられたようだ。妹は、「自己評価高がすぎて困る」と、覚めたまなざし。ほんとに、妹は、近頃珍しい、控えめな親である。



12月2日(木曜日)

 ひぇ〜〜、もう12月かぁ〜〜。いろいろ、いろいろ、忙しいなー。

 ……などと言いながら、

 賀陽亜希子(かやあきこ)詩集『身体論ほか』(書肆山田)を読んしまう。ついつい……。前半は、「若い男」へのあこがれ。というか欲望。それを抱いてしまった(オバサンの)自分の身体への思い。後半は、その身体から死への思い。

 こう書くとなんか、すでによいものであるかのようである。ま、私が書くとな。

 この人は、若い男をなんかすごく、よいもののように考えている。そして、アタマの中で勝手に妄想する。その妄想を体裁のよい言葉で粉飾したというのが、この人の「詩」である。

 それがよくない。詩とは、欲望の粉飾ではない。(←至言!)

 まあさ、私なんか、たしかにオジサンには厳しい反面、若い男にも対して興味ないから、こういう欲望を笑ってしまうのだ。詩を読んでいるとなんとなく、この人の生活が見えてしまのだが、若い男に食事をおごる金があったら、私なんか貯金しますね(けんじつー!)。

 しかし……。書肆山田も、こんな本よく出すよ(って、ここまで言っていいのかなー? ひょっとして関係者が見てたりして。萩原健次郎とか。あ、個人名だすな)。

 ま、賀陽氏には、返事出しておきましょう。Amazon.comのオマケの絵葉書で。



12月3日(金曜日)

 リーガロイヤル・ホテルにて、バレエの仲間たち(十数人)と忘年会。この開場を提案したのは、この私である。なんせ、ミレニアムだから、ゴーカにいこうではないのって。

 レッスンが終わった午後3時過ぎからの「デザート・バイキング」。いろんな種類のケーキ、サラダ、軽食、コーヒー、紅茶、ジュース、食べ放題で、1365円(税込み)。んー、「安くてどうもスイマセン!」(←知ってる人がどれだけいるか)。みんなに喜ばれて、ほんと、いいことしてるよ。



 いやー、この日記だが、どこが「Millenium special」だかって、気もして来たな。



12月4日(土曜日

 『ワイルド・ワイルド・ウエスト』__バリー・ゾネンフェルド監督+ウィル・スミス+ケビン・クライン

 予告編から予想されたとおり、あんまり面白くなかった。設定、役者、どれをとっても面白そう、なのに、である。

 おそらくは、仕掛けに頼りすぎたせいか。

 どーでもいいんだけど、見るチラシ、見るチラシ、すべて、「全米で大ヒット」とか書いてあるけど、アメリカ映画は。いったい、「大ヒット」でない映画ってあるのか?

 映画が面白くないと、タワー・レコードで聞いて、結構惹かれた、ウィル・スミスの歌う主題歌も、なんか面白くなくなったから不思議なものだ。もちろん、エンリケ・イグレシアス歌う『バイラモス』(日本では、性懲りもなく、「ヒデキ」が歌ってる。イイトシして)も。



12月5日(日曜日)

 昨日は眠たくて、上記↑「日記」を更新できなかったので、今日更新した(って、すでに「明日」であるが)。



12月6日(月曜日)

 掲示板に「眞」さんが紹介してくれたWebへ行って、私も、頭木弘樹さんという方の、評論(「『訴訟』の生原稿について+語られすぎたカフカのために」)と翻訳(『審判』(氏は『訴訟』と訳している)の初めと終わりの章)(テキスト)ファイルをダウンロード(400字詰め原稿用紙にして300枚ちょっとですか)して、ざっと見ました。

 一応、私も「テキスト・クリティーク」の関心を持っているので、こういう対応をしました。

 まず評論の方は、なるほどたくさんの文献が引用され、勉強されていることもわかりますが、これは、「文芸評論」というよりは、「卒論」といった感じです。とくに気になったのが、

 「今回初めて文章を書く者の言うことでは、なかなか信用してもらえないだろうから、評価の定まった偉大な現代の小説家たちの言葉をなるべくたくさん引用するようにした」

 という箇所である。これは、評論を書くものとして、最初から敗北を宣言してしまっているようなものである。自分の「読み」を展開するのが「評論」であって、すでにある「権威」によりかかって、その傘の下でものを言う態度は正しくない。こうした「権威」でも、間違っていることがあるのである。

 また、次のような箇所も気になった。

 「彼らの言っていることは、驚くほど一致している。考えてみれば、驚くことはないわけで、真実がたとえ一つではないにしても、真実どうしがくい違うことはありえないのだから、あたりまえのことだ」

 この言動は、カフカのテーマと反するように思う。カフカは、「真実どうしがくい違う」。そういう世界を描いてみせたのではなかったか。



 つづいて翻訳の方であるが、この方の言を借りると、「初めて生原稿から翻訳」ということである。それは具体的にどういうことなのか? サザビーズで売りに出された原稿を脇に置き、見ながら訳したのか? それとも西ドイツのどこたらの会場に飾られていたのをコピーしたモノを訳したのか?

 「生原稿からの翻訳」というのは、そういう意味合いを持つ。むしろ、あるテキストを翻訳する場合、底本としてどんなものを使用したのかを明記すべきである。

 また頭木氏は、その生原稿の発見により、(氏は原題を『Der Process』としているが、それがカフカのつけた題であり、『Prozess』というのは、編者のマックス・ブロートがつけた題なのだろうか?)『審判』の書かれた年代が明確になった、として、その構造をテキスト分析から明らかにしたH・ビンダーの「推定」には誤りがあったとしている。しかし、どの部分が先に書かれようと、テキストの構造に変更がなければそれでいいではないか、とも思うが。

 それより重要なのは、ブロート版に欠けていた「断片」と「夢」がどの位置にあったのか? ということではないだろうか? 氏の文章にはこの部分に関する言及はないようであったが。

 また最初の章の「逮捕」と、最後の章の「終り」のみを訳す理由として、この小説の真髄はこの箇所のみでことたりる、ようなことを書かれていたが、これも、「物語」そのものではなく、エクリチュールそのものが重要であるカフカの作品に対する対し方として疑問である。

 訳文そのものについて、拙宅にある『決定版カフカ全集(マックス・ブロート編集)5』「審判」(新潮社 中野孝次訳 1981年刊)と、「逮捕」と「終り」それぞれ、最初の20行ほどを比較してみましたが、それほどの違いはありませんでした。

 むろん、この新潮社版は、「ブロート編集」であり、彼はカフカのテキストをある意味で「書きなおして」しまったのだから、そしてオリジナル原稿(すでにこの時点で見つかっている)のコピーがあったとしても、版元の許可が得られず、オリジナルなものとして再構成できなかったことを、中野孝次は、「訳者解題」で書き、また、「正しい順序」を記している。

 つまり、「初めて生原稿から訳した」ということの意味が、私にはよくわかりませんでした。



12月7日(火曜日)

 ↑昨日の「日記」に関して、そのWebの人には、べつに知らせる必要もないか、と思った。あんまりよいことも書いてないし、これは、正式な反論というより、ただの「感想」にすぎないので。でも、それもフェアでないかなと、そのサイトのBBSにこの日記に書いた旨、書き込んでおいた。そうしたら、その掲示板の、常連みたいな人が、本人より先に、ここを見て、書き込んでいた。

 「初めて生原稿から訳した」の意味がわからない、と私が書いたのに対して、それは、ダウンロードした原稿をよく読んでないからではないか、ちゃんと、

>「本稿は、その生原稿の訳である。生原稿から直接というのは、初めてのことになる。
 公開と同時に、ドイツのS・フィシャー書店から、マルコム・パスリー(Malcolm Pasley)による、生原稿の校訂版と、詳細な原稿調査の報告が、2巻本で出た(Franz Kafka, Der Process, Kritische Ausgabe, S.Fischer Verlag, 1990)。これを参考にした。」(強調、山下)

 と、書いてあるではないか、と。

 これはさー、「参考にした」であって、「底本とした」ではない、のよね、それは、誤解を招く表現だと、再度書き込みしたところ、

 この評論の著者本人から、「(それを参考にしたが、)ほかからも情報があって、その本を訳したとは言えないとこともある

 というような回答があった。

 ホメロスや紫式部の時代の「原稿」ならともかく、いやしくも、近代の「小説」の原稿の翻訳に、底本がはっきりとは示されない、とは、どうしたことだ、と、私なんか、まず思ってしまったのです。それで、「初めての生原稿からの翻訳」もなにもないではないか!

 だいたいにおいて、この「論文」(?)には、全体として、そういう不分明なところがあり、それが気になって、つい突っ込んでしまったのだが、

 「本稿は、その生原稿の訳である。生原稿から直接というのは、初めてのことになる

 って、表現だって、曖昧だよ。どこで「初めて」なのか? 「日本で、ですか?」と、掲示板で訊いたところ、「そうです」ということだった。だったら、はっきりそう、書いてよねー。

しかも、その訳文も、内容的には、中野孝次訳と大差なくて、その指摘に対しては、単語のここが違ってる、とか言うわけよ。それが、全体として、どういう「違い」に繋がるのか、よくわかんない。むしろそういう違いを示すなら、いちいち、原文をあげて、両者の訳の違いを示してみたらどうですか、拙「プルーストを求めて」みたいに。とは思えど……

 ま、私としては、どーでもいいわけよ。がんばってねー、である。だって、ほんとに、ただの「感想」なんだもの。

 それにしても、どこの掲示板でも、本人でもないのに、すぐにしゃしゃり出て来て、助っ人をする**がいるんだなー……。

 それにこの経緯も、べつにまた、ここに書く必要もなかったけど、そこで、「日記に追記します」と書いちゃったもんで。こういう律義なとこが災いするんだろーけどさ。



 ほんとは、昨日も違うこと書くはずだった。美容院へ行ったんだけど、そこで読んだ『25ans』に出ていたのだ──。

 セリーヌのコートと、ブルガリのネックレスのお値段。40万円と400万円だって。白い目で見られるわけだわ。



12月8日(水曜日)

 あのさー、昨日の↑この人のことだけどさー、わざわざそこへ行ったのはさ、眞さんの書き込みに、「カフカの生原稿からの初めての訳」なんて、書いてあったからなの。

 生原稿ってのは、その人の肉筆原稿って、ことだから、「ふーーん……」とか、やや疑いを持っていったわけよ。

 そいで上記のような経過があるんだけど、どうもこの頭木さんて人、「生原稿」に対する誤解があるみたいね。「生原稿」「生原稿」って、声高に言うからには、それがウリなわけで、それは、この人によると、サザビーズで一億円とかの値段がついたそれなんだけど、聞いてみると、どうも曖昧なことしか言わないわけよ。なんかそのへんぼかしておきたいみたい。

 しまいには、「なんでそんなことを問題にする?」なんて言う始末。

 じゃあ、あんた、何を見て訳したのさ?

 カフカ本人が書いた原稿でないとしたら、それのコピー? それとも、なんとかって人が校訂した原稿のコピー? それは原稿のコピーなわけ? それとも製本されたもの? 

 実際は、「公開と同時に、ドイツのS・フィシャー書店から、マルコム・パスリー(Malcolm Pasley)による、生原稿の校訂版と、詳細な原稿調査の報告が、2巻本で出た(Franz Kafka, Der Process, Kritische Ausgabe, S.Fischer Verlag, 1990)」のをもとにしたみたい、なんだけど……

 それを「一々説明したら長くなるので、『生原稿』にした」だって。

 それじゃあ、「生原稿からの訳」じゃないよー! それでは、「看板に偽りあり」だよ。なんかまがい物の商品扱ってる店みたい。

 そりゃ、確かに、あるオリジナル・テキストを翻訳する場合、ほかにも参考にする文献はあるでしょうよ。だったら、底本は何何で、ほかに参考文献として、何何を参照したと、きちっと明記すべきじゃないの?

 しまいには、「素人なんだから(ケチつけてイジメルな)」みたいなこと言うしー。とんだヤブ蛇。

 ハイハイ、カフカの生原稿を日本で初めて訳したのね、エラカッタね(ふふ……)。



12月9日(木曜日)

 『リトル・ヴォイス』__マーク・ハーマン監督(『ブラス!』の)+ジェイン・ホロックス+ユアン・マクレガー+ブレンダ・ブレシン+マイケル・ケイン

 主役のジェイン・ホロックスの歌う、「ジュリー・ガーランド+ビリー・ホリデイ+マリリン・モンロー」は、吹き替えではない。これはこのまま、舞台で演じていたものを映画にしたという。その「劇的なるもの」が見物である。人と口もろくにきけない内向的な少女が、大歌手になって歌いまくるその瞬間は、映画ではなかなか経験できない劇的な感動である。

 にもかかわらず、というか、その劇的なるものを、劇的ならしめるために、俳優たちは抑えた演技をする。そのアンサンブルがすばらしい。あくの強いうらぶれたプロモーターのマイケル・ケインはマイケル・ケインなりに、はじけたオバサンのブレンダ・ブレシンはブレンダ・ブレシンなりに。それに、ユアン・マクレガーの、今はもう存在しないような初々しい青年も貴重である。

 個人的には、ブレンダ・ブレシンの「オバサン」演技にのめり込み。このヒト、いったい何種類の「庶民のオバサン」ができるのだろう?

 
 




 


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