プルーストを求めて1 A la recherche de Proust

                 註:アンドレ・モーロワにも、同名の評論があったようだ。


 プルーストの『失われた時を求めて』というテクストは、懐が深く、汲めども尽きないものがある。ここでは、そのテクストが与えてくれる、さまざまな「問題」を考えていきたい。


1、「他者の立場」(テクストの内へ)

 プルーストを読んだことがある人もない人も、プルーストの、この『失われた時を求めて』を、いったいどんな小説と思っているだろうか?

 作者の分身であるブルジョワ階級の「私」が、幼少時に見聞きした、いろいろなことどもを綴ったお話であると? 正直言って、私もまだ、この小説を読んでいる途中なのだ。

 しかし、読み進むにしたがって、これは、もっと違う小説なのだ、という気持ちがしてきた。では、どんな話か? 今のところ、この小説は、「どんな話か?」という問いかけを拒んでいるように見える。われわれはそこで、何かを学ぶだけなのだ。



 いま、人は、小説のなかでさえも、「私が私が……」と言いつづけ、他人の立場を想像してみる、ということをしない。このブルジョワの少年は、たとえば、こんなふうに、貧しい少女の内面へと入り込む──。

 「私」は自分の寝床に母を呼びたいあまり、女中のフランソワーズに、「母から頼まれた探し物があったけど、それは、見つからなかったよ、といってくれ」と、ウソを言って、母のもとへ行かせる。

 もし、母が自分を愛していてくれたら、自分のうそと調子を合わせ、「じゃあ、行くわ」と言ってくれるかもしれない。しかし、フランソワーズは、「お答えはありませんでした」と答える。私のウソがばれたばかりか、母の冷たい態度にも失望する──。

 「que depuis(のちに)」と、プルーストはそこで、小説の時間を飛ばす。(しかし、文章はまだ、同一文内である。彼は、従属文を使って、べつの時間を語っていく。これは、プルーストの文章の特徴でもある。)「豪華ホテル」で、何度も、「私」が見聞きすることになった場面──。

 ある貧しい少女が、ホテルのコンシェルジュに、同じように、「お答えはありませんでした」と告げられる。少女は、答える。「なんですって? そんなはずありませんわ。私、もう少し待ってみます」──そして、少女は、ホテルのロビーで待ち続ける……。(99/10/27)

 そして、ホテルでの様子が詳しく語られる。

 「フロント係が彼女のために補助ガス灯をつけてやろうとするのを、あくまでいらないと言い張り、そこに居すわって、それからは、たまにフロント係がドア・ボーイとお天気の話を交すのや、フロント係がふと時間に気がついて、急にドア・ボーイをうながし、ある客の飲物を氷にひやしに行くように言いつけるのを、ただそのままきいているだけである」(筑摩文庫版、井上究一郎訳)

 この文章だけで、「私」の視線は、貧しい少女のみならず、フロント係や、ドア・ボーイにも注がれる。19世紀のホテルのロビーは薄暗いだろうし、客は、金持ちにかぎられるだろう。

 ただ、「私」が、ママから受けた仕打ちがどんな気持ちだったかを表現するために、作者は、わざわざ物語の時間を未来に向かって流してまで、これらの人々を描くのである。そのとき、このエピソードは、どちらが主であるか、わからなくなる。
 なぜなら読者は、そこにはっきり、そんなホテルでの情景を見るからであり、そこにも、ある物語を読み取るからである。

 こうした想像力を働かすことが、「他者の立場」に立つということであって、小説に価値があるとしたら、こうしたことが常に行なわれるからである。

 たまたま豊かな家に生まれた「私」は、おそらく、こうしたホテルの客であったろうが、そのとき、ほんの一瞬しか見なかったものを、想像力によって、ここまで詳しく描くのだ。そして、その想像力とは、「もし自分がその少女だったら」と考えてみることでもある。

 そして、こうした「惨めな感覚」は、今の時代でも、場合こそ違え誰もが感じたことのあるものだと思う。

 なのに、どうして、それを、「他者」のものとしても、考えることができないのだろうか? (10/28)



2、「プルーストの人生」(テクストの外へ)

 ウラジミール・ナボコフの『ヨーロッパ文学講義』(TBSブリタニカ、野島秀勝訳、1992年刊)によると、プルーストの『失われた時を求めて』という作品は、「英訳で4000ページ、ほぼ150万語から成る」。「プルーストがこの作品を書きはじめたのは1906年の秋、パリにおいてであり、初校が完成したのは1912年、それからその大部分を書き直し、以来、1922年の死に至るまで改筆と訂正を繰り返した」。

 これを大雑把に計算してみよう──。初校が何ページであったのかはわからないが、とりあえず4000ページとすると、6年間に4000ページということは、1年に666ページ。ちょうど厚い本一冊にあたるが、それを、6年間書き続けたことになる。

 その後、彼は、加筆訂正を繰り返すから、おそらくはこの何倍も書いたに違いない。

 この、20世紀の初頭に書かれた、一見悠長に見える作品は、非常な速さで、休みなく書かれたことになる。

 しかも、最初の形は、いまのような順序ではなかったというし、草稿は、バラバラのノートのようであったともいう。

 彼が生前にその作品を完成した「本」として見たのは、第1巻のみである。

 これほどの長い時間、これだけにとりかかり、しかも、その完成した姿の全体像、作家にとっての仕事の形である「本」を見たのは、ただの1冊となると、彼の人生はいかなるものだったのだろう?

 あるいは、今の作家が考えている「作品=本」とは、違う観念を持っていたのかもしれない。

 「扱われている時代は1840年から1915年、第1次世界大戦にかかる半世紀以上にわたっており、登場人物は200人を越す」

 そのような数字をあげたうえで、ナボコフは言う。この小説は、

 「全巻これ宝探しであって、宝物は時間であり、隠し場所は過去である」(10/29)



 プルーストが、その人生の後半、16年をかけて書いた、75年の時間が流れる小説を、われわれは、いったい何時間かけて読み終えるのだろう?

 プルースト研究の第一人者であり、すぐれた文芸批評家のジャン=イヴ・タディエは、『二十世紀の小説』(牛場暁夫・鈴木順二・比留川彰訳 大修館書店 1995年刊)なかで、次のようにのべている。

 「読解(レクチュール)も時間の中における、ページに沿った運動である。しかし、その時間は散文の物語(フィクション)の時間でもなければ(物語が24時間または30年で展開する小説を20時間で読むことができる)、語りの時間でもなく(過去の追憶があるからといって、私たちはページを逆にめくり、200ページ前に物理的に逆戻りする必要はない)、もちろん執筆の時間でもない(現代作家のうちで、読者がその読解(レクチュール)に執筆に要したのと同じ時間を費やすことを、誰が夢見なかったであろうか)。マラルメが戦ったのは、またジョイスが『フィネガンズ・ウェイク』で戦ったのは、時として浅薄または無意識的なものに陥るこの読解(レクチュール)の速さに対してではなかったのか。難解性と多義性は、読解(レクチュール)の時間を大幅に引き伸し、草稿や抹消がいくつもあるのと同じように読解(レクチュール)の回数も増やすことになり、読解(レクチュール)の時間をエクリチュールの時間に近づける」(太字強調、山下)

 そうやって、この小説は、われわれを彼の人生そのものへと、引き込む。(10/30)




3、「劇的な物語」(テクストの内へ)

 夜寝る時から始まる「私」の繊細な感情の描写という透かし編みの向こうに、物語らしい物語が語られる。映画化されるなら、この物語が中心になりそうだ。事実、この小説は、映画化は不可能だと言われながら、『スワンの恋』という作品が作られている(他にもあるかもしれないが)。私は見ていないが、スワンを演じるのは、ジェレミー・アイアンズで、この配役を知った時から、この小説のスワンという文字を見るたびに、彼の姿が浮かび上がる(笑)。

 「私」の一家は、彼の父親の代から近所づきあいしているスワンという男との交際に心を砕き、噂の種にしたり、惹かれたりする。家族の噂話を通じてスワンという人物が浮かび上がる。もちろん、「私」もよく観察している。

 スワンとはいったいどういう人物なのか?

 骨董集めなどの典雅な趣味を持ち、上流階級の人間とも親しくつきあっているらしい。しかも、高級娼婦を妻にした。「私」の家の老女たちには、いろいろ贈り物を持って来てくれる──。(11/2)




4、「意訳との戦い」(翻訳とは何か?)

 スワンが帰った後、大叔母が、スワンは老けたという──。

Et mes parents du rest commencaient a lui trouver cette veillesse anormal, excessive, honteuse et meritee des celibataires, de tous ceux pour qui il semble que le grand jour qui n'a pas de lendemain soit plus long que pour les autres, parce que pour eux il est vide et que les moments s'y additionnent depuis le matin sans se diviser ensuite entre des enfants.(folio版 P34 L3_9)

それに、私の両親は彼(スワン)の老け方は、普通でない、過度の、恥ずべきものだとみなし始めていた。それは、独身の人たちに当てはまるもので、彼らにとって、次の日のない特別な一日は、他の人々より長いと感じられる、なぜなら、彼らにとって、それは空で、朝から積み重ねられる瞬間は、とりわけ子どもたちに分け与えられることもないからだ。(山下訳)



 この文章は、非常に訳しづらい。なんとか日本語に移そうとすると、頭が痛くなる(苦笑)。それを、井上究一郎氏は、次のように訳す。


それに私の両親も、彼のそんな老けかたに気づきはじめていて、それが正常ではなく、度を越し、人目にもはずかしいような、たとえば独身を通した男たちの、あすというものがなくてあけた一日が、まるで空白で、いたずらに朝からかさなるその時間がやがて子供たちのためにあれこれと分配される予定もなく、人よりはずっと長い一日であるように思われる、そんな人たちの誰にでもよくあるあの老けかただと思うのであった。


★上記赤字部分は、直訳からは出て来ない、内容理解のために添えられている補助的な、言葉である。こうした言葉は、生半可では出て来ない。もちろん、どんな小説であるか、すっかり頭の中に入っているからだが、私には、意訳とのぎりぎりの戦いのようにも見える。(11/4)



5、「会話、会話、会話」(テクストを色分けする)


<<Il fait aussi moins souvent ce geste qu'il a tout a fait comme son pere de s'essuyer les yeux et de se passer la main sur le front. Moi je crois qu'au fond il n'aime plus cette femme.____Mais naturellement il ne l'aime plus, repondit mon grand- pere. J'ai recu de lui il y a deja longtemps une lettre a ce sujet, a laquelle je me suis empresser de ne pas me conformer, et qui ne laisse aucun doute sur ses sentiments, au moins d'amour, pour sa femme. He bien! vous voyez, vous ne l'avez pas remercie pour l'asti>>, ajouta mon grand-pere en se tournant vers ses deux belles-soeurs./ <<Comment, nous ne l'avons pas remercie? Je crois, entre nous, que je lui ai meme tourne cela assez delicatement, repondit ma tante Flora.____Oui, tu as tres bien arrange cela : je t'ai admiree, dit ma tente Celine.____Mais toi tu as ete tres bien aussi.____Oui, j'etais assez fiere de ma phrase sur les voisins aimables.____Comment, c'est cela que vous appelez remercier!s'ecria mon grand-pere. J'ai bien entendu cela, mais du diable si j'ai cru que c'etais pour Swann.(P34 L13_L31)



 Guillemet(ギュメ=<<>>)で囲まれた文章が二つ。前のには、地の文が続き、後のは、まだ、ギュメで閉じられていない……。

 これだけの文章の中に、何人もの人々の会話が詰め込まれている。客が帰った後の、噂あり、反省ありの、ホストの家の人々のとりとめのない会話である。

 ママがいないと寝ることができない少年は、これだけのおとなの会話を、すべて耳にし、記憶していたのだろうか?

 「しっかりと胆に銘じておかなければならぬことがある。つまり、この作品は自叙伝ではなく、話者はプルーストその人ではなく、人物たちは作者の心のなかにしか存在しなかったということである。したがって作者の人生に入ってゆくことはやめよう」(ウラジミール・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』P270)




それに彼(スワン)は、彼の父親とそっくりのあのしぐさ、目をこすったり、額を手で触ったりするしぐさを、そんなにしない。私は、結局のところ、彼はもう、あの女を愛していないのだと思うわ」(私の母の言葉__山下註)「もちろんだとも、彼はもう彼女を愛していないさ」祖父が答えた。「私はそのことで、かなり前に、彼から手紙をもらったよ。すぐに、その手紙に従うつもりはなかったけどね。彼のその気持ちには疑う余地はないね、少なくとも、彼の妻に対する愛に関して。ねえ! きみたち、きみたちは彼にアスティ(イタリア産の発泡性白ワイン)のお礼を言わなかったね」祖父は、彼の二人の義妹たちの方を向いて、付け加えた。「なんですって? 私たちが彼にお礼を言わなかったですって? 私は、ここだけの話、とっても繊細な感じに言ったと思うわ」フロラ叔母が答えた。「そうよ。あなたはとってもうまくやったわ、偉いわ」セリーヌ叔母が言った。「まあ、あなただって、よくやってよ」「そうね。親切なご近所さんというフレーズは、自分でもよかったと思うわ」「なんだって? あれがきみたちがお礼と呼ぶものだったのかい?!」祖父は叫び声をあげた。「それなら確かに聞いたよ。でも、それがスワンに対するものだとは、いくら私でも思わなかったよ……」(山下訳)


 仏語では(あるいは、古い日本語でもそうか)、一つのカッコの中で、何人もの会話が続けられる。カッコ内で、「と、**が答えた」とか、「と**が言った」と補えばいい。あるいは、ダッシュで仕切られる。

 最後のカッコ内の文章は、まだ少し続くが途中で省略してある。

 こんなふうに、スワンが帰った後の会話が続けられる。

赤紫=私の母

紺色=祖父

=フロラ叔母

ピンク=セリーヌ叔母

 そこに、スワンという男のイメージが、曖昧だが、魅力的に浮かび上がる。(11/6)




6、「微細な視点」(Vue minuscule)

 「それからずいぶん年月が経っている。父のろうそくの光があがってくるのを私が見た階段の壁がなくなってからも、もう長い。私の内部でもまた、いつまでもつづくと思いこんでいたずいぶん多くのものがくずれさり、そして新しいものが築かれ、それがそのはじめには予想もつかなかった新しいつらさやよろこびを生むようになった、──古いものが私にとって理解しにくくなったと同じように。父がママに、「坊やといっしょに行っておやり」などということえおやめるようになってからも、またずいぶん長くなる。そんな時間がふたたび私に生まれる可能性はもう二度とないだろう」(P61_P62)

Il ya bien des annes de cela. La muraille de I'escalier, ou je vis monter le reflet de sa bougie n'existe plus depuis longtemps. En moi aussi bien des choses ont ete detriutes que je croyais devoir durer toujours et de nouveles se sont edifiees donnant naissance a des peines et a des joies nouvelles que je n'aurais pu prevoir alors, de meme que les ancieenes me sont devenues difficiles a comprendre. Il y a bien longtemps aussi que mon pere a cesse de pouvoir dire a maman : << Va avec le petit >> La possibilite de telles heures ne renaitra jamais pour moi.(P36L30_39)


太字の部分、Folio版に註あり。筑摩文庫版にはなし、「プルースト全集」版(筑摩)にもなし。集英社版、鈴木道彦訳にもなし。

註:Combray sera detruit pendant la guerre, ainsi qu'on l'apprendra dans Le Temps retrouve. Mais Du cote de chez Swan a ete publie avant la guerre, et Proust songeait ici a la maison d'Auteil(voir p.6, n.1), qui fut detruite lors du percement de l'avenue Mozart, a la fin des annees 1890, episode qui apparait dans Jean Santeuil (p.864-870).

 「コンブレーは、戦争中に壊される。それは、「見出された時」の中に出て来る。しかし、「スワン家の方へ」は、戦前に出版された。プルーストは、オートゥイユの家で、これを考えている(P6の註1参照)。その家は、1890年の終わりに、モーツァルト通りが貫通するとき、壊された。そのエピソードは、「ジャン・サントゥイユ」の中に(P864_870)出て来る」(山下訳)


★しかし、コンブレーは、架空の街であると、たしか、井上氏の「解説」にあった。


★このように、Folio版の註は、単なる註に留まらず、「解説」というか、ある種の「読解」になっている。このようなテクストが、小さな字で、ざりげなく、ペーパーバックの末尾に置かれているのである。



6ページの註がついている文章は以下のものである。

...dans ma chambre a coucher de Combray, chez mes grands-parents, en des jours lointains qu'en ce moment je me figurais actuels sans me les representer exactement et que je reverrais mieux tout a l'heure quands je serais tout a fait eveille.(P6L37_41)

……祖父母の家のコンブレーの私の寝室で、正確に思い浮かべることができないまま、私がいま、このとき、現在だと思っている遠い日々の。それはあとで、完全に目覚めたときには、もっとはっきりと見ることができるだろう。


その註は、以下のものである。


註: La maison de Combray tien a la fois de la maison du grand-oncle maternel de Proust, Louis Weil, a Auteuil, au 96, rue La Fontaine, ou Proust naquit, et de la maison de la soeur de son pere a Illiers, pres de Chateaudun, la tante Elisabeth, epouse de Jules Amiot, marchand drapier. Dans Jean Santeuil, Illiers apparait d'ailleurs parfois sous le nom d'Eteuilles, qui rappelle Auteuil. On a l'habitude de rapprocher la geographie de Combray(malgre le nouveau site que Proust lui affecta apres 1914 : voir p.134, n.1)et celle de la region d'Illiers. Quant au nom, il y a pres de Mereglise, non loin d'Illiers, un village du nom de Combres ; Combray evoque Combourg, ou Chateaubriand passa son adolescence ; Combray fait aussi songer a Fenelon, << le cygne de Cambrai >> (Proust connut un descendant de son frere, Bertrand de Fenelon); enfin un village de Normandie, pres de Lisieux, s'appelle Combray. Autour d'Illiers, on trouve Mereglise, Montjouvin, Roussainville, Tansonville, Vieuvicq, noms qui reviendront dans Swann.

「コンブレーは、プルーストの母方の祖父、ルイ・ヴェイルの、フォンテーヌ通り96番地のオートゥイユの家、そこでプルーストは生まれたのだが、そこにも、イリエの、シャトーダン付近の、父方の姉妹、ラシャ販売業者ジュール・アミオの妻であったエリザベス叔母の家にも似ている。「ジャン・サントゥイユ」では、イリエは、ときおり、オートゥイユを想起させるエトゥイユの名前で現われる。コンブレーの地理1914年以後、プルーストはそれにあてた新たな場所にもかかわらず。134ページ、ノート1参照)は、イリエ地方のコンブレーと関連づけられる習慣がある。名前に関していえば、メレグリーズの近く、イリエから遠くないところに、コンブルという名前の村がある。コンブレーは、シャトーブリアンが青春時代を過ごしたコンブルグを想起させる。コンブレーはまた、フェネロンの「コンブレー(Combrai)の白鳥」を思わせる(プルーストは彼の兄弟のベルトラン・フェネロンの子孫と交際があった)。そのコンブレー(Combrai)は、やはり、リシュー近くのノルマンディーの村であり、コンブレーと呼ばれる。イリエの周囲には、「スワン」の中に再び現われる、メレグリーズ、モンジュヴァン、ルサンヴィル、タンソンヴィル、ヴューヴィックという名前を見出すことができる」

 上の註を、例えば、集英社版鈴木道彦訳の付録の冊子のコラム、斉木眞一「コンブレーとイリエ」と比較してみよう。

 「冊子」より。

 「コンブレーは架空の町だが、創造に当たってプルーストは父の故郷イリエを念頭においていた


「……コンブレーを第1次世界大戦の戦場に近づけるためプルーストが後にあって変更した点であって、1913年の初版では、イリエと同じくパリ南西部のシャルトル近郊となっていたのである」

「イリエはパリから南西に百キロ余り、小麦畑の中にある古くからの小さな田舎町だ。町の性格や雰囲気、規模など、コンブレーと多くの点で共通している。しかし、個々の場所については、かなりの相違が見られる。例えば、父親の生家ではなく、伯母の家で少年時代を過ごす習慣になっていたプルーストは……」



 上の「註」訳と、下の「コラム」の、太字のところを比較すると、下の「コラム」は、果たして、どういう「資料」から、そう断言できるのか、疑問に思わないこともない。

 なるほど、このようなことは、文学の本質とは関係のないことかもしれないが、ことプルーストに関して、そのテクストは、読者をそういうもの思いにも誘い込む。

 つまりは、読者を、かぎりなく微細な視点へと。(11/20)
 





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