プルーストを求めて2 A la recherche de Proust

Proust


7、「タディエのプルースト」

 プルーストを語るさい、プルースト学の第一人者であるジャン・イヴ・タディエを抜きにすることはできない。タディエはすぐれた文芸批評家である。文章は明解で、読んでいくうちに、その世界の「見取り図」のようなものができる。

 bol.frで注文していたJean-Yves Tadie『Proust』(Edition Gallimard, 1996)が届いた。

 その序文で彼は問う──。「なぜ、また新たに伝記なのか? まるで画家に、なぜ何度も静物を、肖像を描くのかと問うように」

 Pourquoi une nouvelle biographie de Proust? Autant demander a un peintre pourquoi de nouvelles natures mortes, de nouveaux portraits.(P6L1_3"Avant-propos")

 その書き出しからして、これは魅力的な本である。Proutのオリジナル・テクストと並行して読んでいこう。また彼は次のようにも言う──。

 Or la tache du critique est d'enclore une bibliotheque dans un seul livre ; celle du biographe, un homme(ou une femme). Bien souvent, lorsque le prestidigitateur ouvre sa boite, l'homme a disparu, ou l'oeuvre. Le romancier ne connait pas l'ame de ses personnages dans tous ses recoins ; le biographe non plus ; il faut l'accepter.(P7L20_25)
 
 「ところで、批評家の仕事は一冊の本の中に一つの図書館を囲い込むことである。伝記作家の仕事では、一人の男(あるいは女)の中に図書館を囲い込むことである。かなりしばしば、手品師が箱を開けると、男が消えているように、作品が消えている、ということがある。小説家は登場人物の魂の奥底までは知らない。伝記作者もまたしかり。そのことを覚悟しておかねばならない」

                                  (2000/1/18)
 

 この人の文章を「明解」などと言ってしまったが、それは、「簡単」とか「単純」という意味ではない。むしろ、哲学的な深みがある、生半可な取り組みでは太刀打ちできないところがある。軽い読み物を読むようには、この人の文章を読むことはできない。

 タディエは、伝記に「哲学」を持ち込んだ、あるいは、プルーストの仕事と見合う語彙、深みで作家に向かおうとしているかのようだ。

 氏の「伝記」観が現われている「引用」(マルセル・シュウォッブ『架空の生活』ガリマール1957年より)。

 <<L'art du biographe consiste justment dans le choix. Il n'a pas a se preoccuper d'etre vrai ; il dois creer dans un chaos de traits humains(...). De patients demiurges ont assemble pour le biographe des idees, des mouvements de physionomie, des evenements. Leur oeuvre se trouve dans les chroniques, les memoires, les correspondances et les scolies. Au milieu de cette grossiere reunion, le biographe trie de quoi composer une forme qui ne ressemble a aucune autre.>>(M.Schwob, Vies imaginaores, Gallimard, 1957, p.22.)
 

 「伝記作家の芸術はまさに選択にある。真実であるかどうかを気にする必要はない。カオスの中に人間の顔を作り出さなければならない。辛抱強い造物主が、伝記作家のために、思想や表情の動きやできごとを集める。彼らの作品は、年代記や、回想録、書簡集、古典の注釈書の中に存在する。この大まかな集合体の真ん中で、伝記作家は誰にも似ていない人物を形づくるものを選別するのだ」
 

註:マルセル・シュウォッブは、フランスの作家(1867-1905)。彼の短篇集や散文詩、翻訳は快楽主義的、博学、耽美主義的作品をなす。("Le Petit Larousse ILLUSTRE '98"より)
 

 結局、「作家」の人生には、それほど興味を引くようなできごとはない。なぜなら、彼の生は、「書くこと」に捧げられているのだから。

 書くという行為の「目に見えなさ」、「形のなさ」、「曖昧さ」は、しかし、「作家」の頭の中では、あるロジックを持って存在している。

 それでも書かれる伝記とは、いかなるものになるのか?

 プルーストは、1908年まで、自分は「小説家」たりえるだろうか、と思い悩んでいた。それは、自分の書いているものは果たして、小説なのだろうかと、悩むことにも通じると私は思う。

 Il ecrit pourtant : <<Tout s'encaine dans une vie d'artiste selon l'implacable logique des evolutions interieurs.>> Et encore : <<Pour moi les circonstances sont quelque chose. Mais une circonstance, c'est la chance pour un dixieme et ma disposition pour neuf dixiemes.>> La biographie montre << une disposition interieur plus forte que la chance, et l'evolution interieure selons une implacable logique >> ; les evenements, les rencontres, les amours memes n'importent pas plus que chez l'un des maitres de Proust : Jean Racine.(p11 L24___L32)
 

 「しかしながら、彼(プルースト)は書いている。『すべては芸術家の人生の中で、内的進化の抗い難い論理によって繋がっている』そしてまた、『私にとって、人生の個々の事態は何らかのものである。しかし、ひとつの事態、それは、10分の1の偶然と、10分の9の、自分が制御できるものである』伝記は、『偶然より強く、内的に制御しうるということと、抗い難い論理に従った内的進化』を示している。できごと、出会い、恋愛さえも、プルーストにとっては、その師の一人、ジャン・ラシーヌにとってより重要ではない」

 プルーストの生は、より意識的に、書くこと、天職として、小説家であることに向けられた。これは、『失われた時を……』のテーマでもありうるのかもしれない。

 プルーストは、リセを去ってから、手紙に自己を告白することをやめた。

                                   (2000/2/16)
 

 つまり、作家の一生などを書こうとしても、それは、書斎で過ごされる時間に一番意味があるのだし、ほかのできごとの中にはそれほど意味があるようには見えない。それでもなぜ、「伝記」なのか?

 少し長くなるが、「序文」の最後の部分すべてを訳してみる。
 

 「反論、プルーストの伝記を始めようとしているにもかかわらず、それは、彼自身が、『サント・ブーヴに反対して』やジャック・エミール・ブランシュの本、『ダヴィデからドガへ』の序文の中で、あるいはヴィルパリシス夫人のキャラクターを創造しながら、この文学の一ジャンルについて書いた激しい批判を思い出させることにある。しかしそれは、いつも継続中であった。プルーストは誰も阻止しない。というのも、彼自身絶えず、彼の愛した作家や芸術家の生活の奇妙さを示してきたから。ハーディーのように、存命の人々に質問したり、伝記や書簡集、バルザックやラスキンからミュッセやサント・ブーヴへの、を読むことによって。ボードレールについての1921年の記事で、彼は詩人の伝記を下書きを書いている。彼はその一節に、書いている。ヴィクトル・ユーゴーは、『ブーズになりきっている』そして彼の人格でであるこの詩に生気を与えている。<ユーゴーは女性たちを納得させようとする。もし彼女たちの趣味がいいなら、軽薄な若者を愛さず、老いたケルトの吟遊詩人を愛するだろう>ヴィニーはサムソンになりきる。そしてマリー・ドルヴァルの女の友情に嫉妬する。では、なぜ、ボードレールは、レズビアンの女性たちに興味を持つのか? <この連絡将校の役割、なぜボードレールはそれを選び、いかに書いたかを、知ることに、どれほど興味を持ったか?>プルーストはここで、伝記の機能を理解させようとしている。<なぜ?><いかに?>と言って。ただ<何を?>ではなく。もはや描くことが問題ではない。内的な体験が問題なのだ。それはやがて文学や小説の人物に変換される。伝記は、<プレハブ作りに曖昧な小説>を物語るのではない。小説のソースについて語るのである。それは、小説を可能ならしめたものについて。伝記は形のないものに形を与え、ばらばらなものをまとめ、外観に方向性を与える。それは、もはや存在しない声を聞き、死んだ人々に生を与える。死者たちの対話。──生きている人々と死者たちの」(強調、訳者)(p12)
 

 タディエは、プルーストの伝記を書くにあたって、プルースト自身の伝記に対する態度を検討し、それについて語り、従おうともしている。

 伝記についてさえ、タディエはプルーストから学ぶ。

 これからタディエが書こうとする「プルーストの伝記」は、プルーストの小説のソースをさぐり、それがいかに小説へと変貌していくのか、という、いわば、「内的錬金術の工房」の解明となるだろう。
 
 

                                   (2000/2/17)
 
 
 


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