21世紀のプルースト Proust au 21e siecle


3 シーニュの物語

 ジル・ドゥルーズは、『失われた時を求めて』を、過去の回復の物語とは見ず、シーニュの物語と見る。le temps passe(過ぎた時)ではなく、le temps perdu(費やされた時)なのだ。ドゥルーズはこの小説を、シーニュの修得(apprentissage)の物語だと言う。ここには、さまざまなシーニュが溢れている。そしてシーニュはそれぞれの世界を形成する。

1、社交界のシーニュ
2、愛のシーニュ
3、物質的感覚のシーニュ
4、芸術のシーニュ

 つまり、最後には、この小説は、最も奥深い芸術のシーニュに収斂する。

 さて、シーニュとはなんだろうか? 「シーニュは、時間的な修得の対象であって、抽象的な知識の世界ではない」(『プルーストとシーニュ』宇波彰訳、法政大学出版局)とドゥルーズは言う。ある磁場を形作る記号のようなものか? しかしいずれにしろ、一言で説明できたら、この『プルーストとシーニュ』という本を書いた意味はなくなる。

 掲示板で御水乃さまが、ヴィルパリジ夫人のサロンの場面の他の部分に比べて精細を欠くという印象を持たれた箇所、

 「ともかく私は自分に言いきかせるのであった、ゲルマント夫人という名ですべての人々に通っているのはたしかにこのひとなのだと。この名があらわしているよくつかめない生活、その生活をたしかにこの肉体がつつんでいるのであり、その生活をいまこの肉体がこのサロンのなかに、さまざまな人々のあいだに、もちこんだのであり、その生活をこのサロンが四方からとりまき、その生活によってこのサロンは実に強烈な反応を受けているのであって……」(「プルースト全集4 第三篇 ゲルマントのほう氈v井上究一郎訳より)

 これをFolio版で見ると、

 「En tout cas je me disais que c'etait bien elle que designait pour tout le monde le nom de duchesse de Guermantes : la vie inconcevable que ce nom signifiait, ce corps la contenait bien; il venait de l'introduire au milieu d'etre differentes, dans ce salons qui la circonvenait de toutes parts et sur lequel elle excercait une reaction si vive que je croyais voir, la ou cette vie cessait de s'etendre,...」

 となり、この文章は句切れなく、14行続く。直訳してみよう。

 「ともかく私は思ったのだった、みんなにとって、ゲルマント公爵夫人という名前が指し示していたものが彼女だった、その名前が意味していた想像もつかない生活、それを、この体が含んでいるのだ、いまそれは、違っているものの真ん中に招き入れられた、四方八方から彼女を丸め込もうとするこのサロンの中に、そしてそのサロンからは、私も目にしたこんなにも生き生きとした反応を引き出していた、そこでは、彼女の生活は展開するのを止めていた、……」

 つまり、ここでも、なんらかのシーニュが動いている。濃い字で示した言葉は、シーニュと関わりを持つ言葉でもある。

(2001/3/7)

(1)「公衆便所が発するシーニュ」

 祖母の体の具合が悪くなり、母は医師に「散歩」を提案する。医師はそれもよいかもしれないと許可する。祖母が出かける場所は、掲示板で御水乃さまがおっしゃるところの、「公園のサロン」である。あそこの月桂樹の茂みの前のベンチに座れば、月桂樹は薬用の効果もあり、歴史的な意味でも、体にいいだろうと。ちょうど「私」には、友だちと会う約束もあるので、祖母をそこへ連れていくことになる。
 御水乃さまは、「それを原語でなんと言うか、知りたい」とおっしゃる。「それ」とは何か? 「そこへ話者は入らなかった」と、御水乃さまはおっしゃる。「そこ」は、死の象徴のような場所であると。そしてその場面は、話者の夢ではないのかと……。(確かにこの箇所の文体は、pittoresque という文体で書かれている。つまり、劇的効果を高めた、とでも言おうか←この文章、保留(4/1))。

 なんのことはない、「そこ」とは、公園の公衆便所のことである。周知のように、フランスの公衆便所には、トイレ番の「オバサン」がいる。彼女に金を払ってからでないとトイレに入れない。いや、後で払う場合もある。値段は決まっていない。チップというか、「寸志」というものである。

 つまり、シャン=ゼリゼにある公園の公衆便所を、「シマ」にしているオバサンにとって、そこは、彼女の「サロン」なのである。そして、彼女は、括弧つきの「公爵夫人」と呼ばれる。その「箱」は、訳文では、「古い小さなあずま屋」と呼ばれる。着いたばかりですでに吐き気を催した祖母がそこへ向かって走っていく。原文では、le petit pavillon ancien。「私」は祖母を待つ間、ベンチに座って「公爵夫人」と公園の守衛との会話を聞いている。「公爵夫人」は言う。

 「私はお顧客(とくい)さまを選んでいます、そう誰もかれもここにはおむかえしませんよ、私のサロンと呼んでいるんですからね。私のお花があってちょいとしたサロンに見えませんこと? とてもご親切なお顧客さまがいらっしゃるものだから、いつもどなたかが美しいリラやジャスミンの小枝、それから私のすきなお花のばらをもってきてくださるのよ」(井上訳)

 ...je choisis mes clients, je ne recois pas tout le monde dans ce que j'appelle mes salons.

 そして、「公爵夫人」は、サロンの「上客」である裁判官の話を披露する。その後、みなりのよくない女が急いだ様子でやってきたが、「公爵夫人」は、自分のサロンへ招待することを拒否する……(笑)。

 ここでは、実際のサロンが、この公衆便所の「サロン」の重ねられ、あるシーニュを発する。ここでわれわれは、何を「習得」するのか? 現実のサロンの軽薄さかもしれない。

(2001/3/25)

(2)死のシーニュ

 「私」が「入ることを拒んだ」あの「四角い箱」が、「棺」を表しているのではないか、という御水乃さまのご意見を確認するため、再度その箇所を、それを含む少し前から、少し後まで読んでみた。シャンゼリゼは、ガブリエル大通りにあるその公園の公衆トイレは、われわれが「公園の公衆トイレ」から想像するのと違って、公園の中央に、一段と高くなった茂み(月桂樹の)の中にあるようだ。

 そこには、「私」の家の老女中が、「公爵夫人」と呼んだ、料金徴集の老女がいる。そう、「私」は、少年の頃、そこでフランソワーズが用をたすのを待ち、その時、その女に話しかけられた経験がある(『花咲く乙女たちのかげに』)。そのとき、「公爵夫人」は、「あなたならタダにしてあげるから、使わない?」と誘われている(笑)。今度も、そういう「好意」を「夫人」から受けるが、「私」は、遠慮している(「夫人」は、昔の「私」は覚えてないようだ)。

 このトイレの一部屋は、作中、cabine、cubes de pierre(四角い石の部屋)と呼ばれ、前者は、「トイレの個室」そのまま、後者は、文中で、la porte hypogeenne de ces cubes de pierre ou les hommes sont accroupis comme des sphinx,....(人々がスフィンクスのようにかがみこむ四角い石の地下埋葬所の扉)と表現される。

 確かにここに、「地下埋葬所」という言葉は出て来る。しかし、これは、その後の「スフィンクス」と関係する考古学的な墓のことで、現実の棺と、それほど強い結びつきを持っているとは、私は考えない。しかし、まったくない、とは言えないだろう。

 正直な話、私は、フランス語で、「棺桶」あるいは「棺」が、なんと言うか知らない。いま、「仏和辞典」で引いてみた___。cercuei, biere (やや文語的)だそうである(むしろ、後者の方を、小説で見たことはあ)。

 普通、われわれが思っているような「墓」に対応する言葉は、 tombe, tombeau、「墓地」は、cimetiere、パリに残る、初期キリスト教徒の「地下墓地」は、catacombes だ。これらの言葉はよく目にする。

 それよりも、私が注目したのは、祖母が母の願いとデュ・ブールボン医師の勧めで外出する場面の前後を覆う、「死のシーニュ」である。これについては、後ほど見ていく(つづく(笑))。(2001/3/29)

 祖母のかげんがよくない。主治医のコタールに見せるが、「私」はどうもこの医師を信用できない。人間の肉体と病気に関する考察が続く。おのれの内部に住む、完全なる「他者」、見知らぬ者としての、病気。
 「私」は勘で、デュ・ブールボン医師に見てもらうよう母に懇願する。彼は神経科の医師だが、深い教養があり、結局のところ、「私」の勘は、彼にすがるように言う。おそらく、彼の深い教養、文学的素養が、祖母のそれと呼応するかもしれない。
 ある意味では、神頼みにも似た、この医師の選択は、すでに、なにか、深いところで、祖母への「死に行く者への祈り」のプレリュードとなってはないか?
 デュ・ブールボンは、祖母の病は神経的なもので、散歩すべきだと言う。しかし、ここにも、すでに、なにか、「死」を予感し、それから目を背けようとする何かが働いてはいまいか?
 母と私もまた、躊躇する祖母を外へ連れ出そうとする。何か、彼女の病気を、大したものでないと考えたいとよう気持ちが働いているようだ。
 ほんとうにかげんの悪い祖母は、着替えにも手間取る。それが「私」を苛立たせる。公園に着いたら着いたで、すぐに公衆トイレへと駆け出す祖母。祖母の気持ちが悪い、という感じが、われわれにも伝わり、およそ、吐き気を催した人間なら誰しも「共感できる」場面が描かれる。
 そして、彼女は、例の「個室」の中で、苦しさと戦いながら、料金徴集の老女=「公爵夫人」と公園の守衛の会話を聞いている___。

 たっぷり半時間は経ち、やっと出て来た祖母。私は「公爵夫人」への気まずさから、その場を離れ、小道に出る。追いかけてきた祖母は言う。

 「私は『公爵夫人』と監守さんとの会話をみんなきいたわ」「そっくりだったよ、ゲルマントとヴェルデュランの小さな核とに。よくもまあ! ああいうことを伊達にすました言葉に置きかえられたものだね」(井上訳)

 ここでわれわれは、果たして「ゲルマントとヴェルデュランの小さな核」とは何だろう? と思う。これ(上記赤字部分)を原文で見ると、

 C'etait on ne peut plus Guermantes et petit noyau Verdurin

確かにnoyau は、「核」であるが、petit noyau と言えば、「少数の常連」である。そこで、恐れながら、拙訳を試させていただく。

 「ほんとにゲルマントと常連客のヴェルデュランみたいでしたよ」

 さらに続く、モリエール『人間嫌い』(Le Misanthrope 1666年初演)からの引用、「ああいうことを伊達にすました言葉に置きかえられたものだね

 この原文は、

 qu'en termes galants ces choses-la etaient mise

 この文章は、よく引用される有名な部分あるらしい。モリエールの芝居では、オロントという男がソネットを書き、フィラントという男がそれを披露してくれと頼む、オラントは自作の詩を読み上げ、フィラントは、上記の言葉を言って、感心する。そこで、フィラントの友人で主人公のアルセストが、「よく言うよ、卑しいおべっか使いめが」みたいなことをフィラントにささやく。いま、Moliere全集(Editions du Seuil, 1962)でその箇所を確かめながら、実を言えば、この戯曲を読んではいない。しかしざっと見たところ、アルセストとオロントは、「恋敵」のようである。従って、オラントの書いたソネットは、恋する女に捧げる詩であろう。そういう状況を加味して上記の文を訳せば、

 「色男の言葉で、(それらは)書かれてる!」

 しかしまあ、プルーストの「公衆トイレ」の場面では、井上氏の訳のように、祖母は言いたかったのかもしれない。しかし彼女の意識はすでに普通の状態にはないと思うので、もっと深い、シーニュを持つものかもしれない。ことに祖母は、文学作品の引用がとてもすきなのだ。おそらく彼女の意識は、それらの断片で満たされていることだろう。しかも、他人には予想もつかない結びつき方によって。

 この箇所は、もう少し続けさせていただきます(笑)。(2001/4/1)

 さらに祖母は、文学作品からの引用を続ける。セヴィニェ夫人の言葉から。

 「『あれをきいていて、私は、あの人たちが私のために何かわかれのたのしさを用意してくれているように思いましたよ。』」(井上訳)

 そう訳しながら、筑摩全集版では、井上氏は、引用箇所は不明と、欄外の注に書いている。この箇所の原文は、

(1) "En les ecoutant je pensais qu'ils me preparaient les delices d'un adieu."

 実は、Folio版には、この箇所に注がついて、どこからの引用か、ちゃんと解説してある。その注によると……

 セヴィニェ夫人が、グリニャン夫人へ宛てて書いた、1680年6月21日付の手紙である。セヴィニェ夫人は、ラ・アムリニェール夫人の退屈な訪問の不平をこの手紙に書いている。「三日前からあの女は、ここに突っ立っています。私はそれに慣れつつあります。というのは、彼女は不器用で自由のよさを知らない、私だったら、すきなことをして過ごすこの自由の、たとえば、彼女から離れるとか、私の労働者たちに会いにいくとか、書き物をするとか。これが侮辱だって、彼女が気づいてくれるといいんだけど。こんなふうに私は、わくわくするような別れの楽しみを用意しているんだわ、すてきなお友だちを相手にしているときには不可能なね」(『書簡集』第二巻、984ページ)

(2) "Ainsi je me menage les delices d'un adieu charmant qu'il est impossible d'avoir quand on a une bonne compagnie"(上記赤字、対応原文)

 (1)の祖母の言葉に戻ると、青字部分のみが、セヴィニェ夫人からの引用で、それの対応は、(2)の青字部分である。

 つまり、セヴィニェ夫人のもとの文章は、「嫌な人間と別れる」楽しさ、皮肉たっぷりの「別れ」である。しかし、別れに楽しさがあるとしたら、こうした、嫌なものとの別れのみであろう。

 プルーストに戻ると、「私」は、この祖母の引用がいつもよりたくさんなされた、それは、祖母が、自分のかげんの悪さを気取られたくないから、と推察する。これらの引用の言葉は、実を言えば、そう「聞き取った」のではなく、祖母が口の中でぶつくさ言っているのを、「私」が推察し、復元したのだとさえ告白している。ひょっとしたら、祖母はこんなふうには言わなかったかもしれない。しかし、祖母の好みをよく知っている「私」は、正確に復元しえたのかもしれない。いずれにしろ、ここには、Adieu「別れ」という言葉が使われている____。

 祖母のすきな文学作品を復元することも含めて、この箇所はすべて、「私」が用意した、祖母への「別れのお楽しみ」(les delices d'un adieu)ではないのか?

 それは皮肉な、残酷な、滑稽なことではあるが、そもそも死とはそういうものであり、作家であるプルーストは、外科医がメスをふるうような冷たさで、死、たとえそれが肉親の死であっても、を観察し、プルースト≠「私」でないにしても、少なくとも、作家を目指す「私」は、このようにして、死というものを修得していく

(2001/4/4)

(補記)

 ちなみに、集英社版、鈴木道彦訳、『失われた時を求めて5』「ゲルマントの方1」を入手して、petit noyau が、どのように訳されているか見た。やはり、「(ヴェルデュランの)小さな核」であった。ただし、こちらの場合、「ゲルマントや、ヴェルデュランの小さな核」と、読点で区切っているので、文章の構造はこちらの方が明確である。

 しかし、ついでに言えば、鈴木訳は、「公園の監守」を「営林署の役人」と訳すなど、かえって事情がわかりにくい場合もある。全体的な印象としては、巻末には、ゲルマント一族の系図や、場面ごとの索引(Folio版のレジュメにあたるもの)などもあり、注もたくさんあり、「わかりやすさ」を目指した、「親切な」編集となっている。

 しかし、プルーストにおいて、果たして、「わかりやすさ」とは何か? 「親切な」編集とは、どういう意味があるのか? という問題もある。

 それにつけても、井上、鈴木、両訳を比べると、やはり、「原文に忠実」なのは、井上究一郎の方でしょうね。

(2001/4/5)





 


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