4 作家修行
「ゲルマントのほう 二」の話は、前の巻から時間的にも直接に繋がっていて、それは、公園で具合の悪くなった祖母についての話であり、彼女の病気と、それから予感される死への考察である。このプルーストの小説は、すぐ隣り合った行がべつの時間へと飛んでしまうこともあるのに、こうして、話が続いているのに、「巻」がべつになっているのは、ただ単に、長さの問題から、どこかで区切りを設けた方がいいという問題でもなさそうである。
祖母の容態がどうも普通ではない。彼女をとりまく人々、たまたま通りで出会って診てもらったE...教授、「私」の母、女中頭のフランソワーズ……などの様子が子細に冷静に観察されるが、ここでわれわれは、すでに小説が「関心」を持ち始めているものが、「死のシーニュ」ではないことに気づく。
死を語りながら、小説は、ナボコフの比喩に従えば、「プリズム」の、べつの反射が見られるのである。それは、祖母の衰弱とともに語られる、わが家に頻繁に訪れるようになった作家ベルゴットの衰弱、そして、そこから繋がっていく芸術に関する考察である。
「そして内心こんなことを自分に反問するにいたった、ホメロス時代から大して進んでいるわけでもない芸術と、たえまのない進歩の状態にある科学とのあいだに、われわれがつねに設けるあの区別には、なんらかの真実があるのだろうかと。もしかすると芸術は、その点では普通に考えられているのとは反対に、科学に似ているのかもしれなかった、独創的な新しい作家はいずれもおのれに先だった作家を乗りこえて進歩をとげるのだ、と私には思われてくるのであった、したがってこんにち新人といわれる作家に、二十年後になって、私が苦労なくついてゆけるであろうときには、またべつの作家が出現して、その人のまえに現在の新人がベルゴットのあとを追ってすみやかに後退しないとは、誰が私にいえたであろう?」(井上訳)
こうした考え方は、すでに構造主義的であるし、ここまでの死についての考察も、構造主義的である。なお、今村仁司によれば、「構造主義」というのは、方法のことであり、思想の一流派を指すものではない。
そしていみじくもここに、「ホメロス」に言及されているが、プルーストの、比喩を多様しながら、その比喩が、べつの「風景」や思想を語っていく文体は、ほかならぬホメロスその人を思わせるのである。
つまりは、この『失われた時を求めて』という小説全体が、「作家修行」の小説であろうことは、容易に想像されるのだが、それは、この箇所にも露呈してる。
(2001/4/10)
5死のディスクール
ウラジミール・ナボコフは、『ヨーロッパ文学講議』(TBSブリタニカ、野島秀勝訳、1992年刊)の中の「プルースト」の章で、次のように書いている。
「プルーストはプリズムみたいだ。彼、ないしそれの唯一の目的は屈折させること、そして屈折させることによって、回想のうちに一つの世界を再創造することである」「ここに焦点の移動があり、それによって虹色に輝く縁が生まれる。これこそ独特なプルースト的水晶であって、われわれがこの小説を読むのも、この水晶を透かしてである」
この論文集のオリジナルは、アメリカで、1980年に出た。今となっては、この言葉は正確であるとは言えない。彼の言わんとする印象は、なんとなくわかるが。より正確には、次のように言えよう。つまりプルーストの文章は、
常に動いている。映画的である。しかしこの映画は、現実の映画として描くには、微細すぎる。それは微分を思わせる。そして弁証法的である。
これをこそ、プルーストは、ベルグソンから学んだに違いない。ゆえに話は、たえず同じ場所にいながらも、どんどん移り変わっていく。
死に直面している人間(祖母)の扱いに関して、「百姓女」の、決して愛情がないわけではないのに、その無教養ゆえに、即物的な残酷さ(女中頭フランソワーズ)を描き、同じように、その死の噂を聞きつけ、ただ貴族としてのかっこつけのためにだけ乗り込んで来るゲルマント公爵の俗物ぶりをも冷徹に描く。
われわれは、こうして事態から、小説はすでに、「死のシーニュ」から、「死のディスクール」に移っていることを知る。
人の、つまりは「他人」の、死をめぐる人々の、あらゆるふるまい、思惑が観察される。
プルーストは、「すでに死んでいる祖母」と、「死につつある祖母」との間にある時間を描き出そうする。もはや「生」とは言えないが、「死」に向かってかぎりなく収斂していく時間。その微分的時間を言葉に変えて見せる。
今村仁司は、『現代思想の基礎理論』(講談社学芸文庫、1992年刊)で、構造論の特性について、次のように説明している。
「複合的関係態のなかにあるとき、たとえば私は『いまーここ』に『同じきもの』としてあるのではなく、『ここーあそこーいたるところ』にあり、かつ多種類の時間のなかで生きている。認識論的レベルでは、ただひとつの固定点や準拠点に還元する操作ではなく、諸概念の移転と転送の操作こそが肝腎となる。構造論的方法とは、準拠点をもたぬ方法であり、移転・転送・搬出等々の道を歩む方法である。認識論的複数主義、認識論的相対主義、知的空間の脱中心化、こういったものが構造論の特性となる」
これはそっくりそのまま、プルーストの小説についても言える。
(2001/4/14)