● 藤原明子(829〜900)_____文徳天皇女御。藤原良房の娘。母は嵯峨天皇の皇女、潔姫。清和天皇・儀子内親王の生母。天皇は更衣紀静子所生の惟喬親王を皇太子にと望んでいたが、太政大臣良房に遠慮する。(「年表 女と男の日本史」藤原書店 より)
● 在原業平(825〜880)_____平安時代の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。在五中将・在中将と称される。阿保親王の第5子。歌風は情熱的で、古今集仮名序に「心あまりて言葉たらず」評された。「伊勢物語」の主人公とされる。色好みの典型として伝説化され、美女小野小町に対する美男の代表として後世の演劇・文芸類にもてはやされた。家集「業平集」。(『辞林21』三省堂 より)
● 清和天皇(850〜880)第56代天皇(在位858〜876)名は惟仁(これひと)。文徳天皇第4皇子。8歳で即位。外祖父藤原良房が初めて人臣摂政となった。水尾帝(みずのおてい)。(『辞林21』より)
● 藤原高子(842〜910)___父長良(冬嗣長子)の早逝により、兄基経は叔父良房の猶子となる。「応天門の変」騒ぎ頃入内し、貞明・貞保両親王を生む。廃后理由は20年以前の件で、政治的謀略説も有力。(「年表 女と男の日本史」藤原書店 より)
藤原冬嗣 国経
| ↑
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| 基経
| ↑
| (兄弟)
|_____長良------------------高子
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| (兄弟) |
| 良房------明子
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| (兄弟) |-------清和天皇
| 順子
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尚侍美都子 |---------文徳天皇
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仁明天皇
歌について
『伊勢物語』は歌物語と言われる。各段に必ず1つは歌が入っている。ほとんど歌だけの段もある。さて、この歌の扱いであるが、たとえば、それが、正当な翻訳の場合、その歌の魅力を生かすため、原文のまま載せてあって、欄外にその「意味」が書かれている。少なくとも、『源氏物語』の、谷崎潤一郎や瀬戸内寂聴の場合はそんなふうだ。歌を「現代語訳」してしまえば、その歌は別のものになってしまう……。それなら、オリジナル・テキストとて同じではないか……。
もとより拙『業平より愛を込めて』は、『伊勢物語』を書き換えた「小説」であるので、大胆にも(自分でこういうのだが(笑))、歌も書き換えた。これは画期的なことである、と自分だけで思っている(笑)。それもまた、この「小説」の楽しみのひとつと思っていただければと思う。
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底本について
底本を、できうるかぎり明らかにする。というのが、小説とは「書き換え」であると考える私の姿勢である。拙『業平』の底本は、『新 日本古典文学大系』(岩波書店)17、「竹取物語 伊勢物語」の巻である。「伊勢物語」の校注者は、秋山虔(けん)氏であるが、氏の註は、巻末に付せられた細川幽斎の『伊勢物語闕疑抄(けつぎしょう)』をもとにしているとはいえ、すばらしいものである。これだけでひとつの論文のようである。
ではこの岩波の底本はと言えば、それは「凡例」にあるように、「学習院大学蔵本定家筆本」である。
ちなみに、『源氏物語』の訳で言えば、谷崎も瀬戸内のをばさまも、「底本」を明らかにはしていない。いったいどの本を訳したのか、興味のあるところである。
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誰がオリジナルの『伊勢物語』を書いたのか?
この物語は在原業平がモデルであると言われながら、というか、確かに業平が主人公なのであるが、作者は不詳とも、また業平自身だとも言われている。後者の説を否定する材料としては、テキストに、業平の死からずっと後の時代のできごとが入っているというものである。
しかし私は、このように、筆から筆に書き継がれてきた物語群に対しては、そのようなことを言っても始まらないと思う。そもそも、書くというその行為が、アノニム(匿名性)な側面があると思うから。ここはひとつ、岩波ジュニア新書『日本古典のすすめ』の「伊勢物語」の解説者、片桐洋一氏の説にしたがって、『伊勢物語』の作者は、在原業平であるという立場を私も取ろうと思う。
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『伊勢物語』から『源氏物語』へ
『源氏物語』(1007年頃)は、『伊勢物語』(859年頃)が書かれて、150年ほどのちに書かれた。当然、紫式部は、この物語を読んでいた。どころか、『源氏』こそ、『伊勢物語』の書きなおしではないのか、というのが私の説である。皇女を母に持つ業平は、体制から外れて、さまざまな世界の女と関係を持ちながら、歌の世界を極める。これは、天皇にはなれずに、女から女へと耽美的な生活を送る光源氏とまったく同じではないか? 紫式部は、そんな男にあこがれ、もっと美しく描いてみようと思ったのではないか? ただ「オリジナル・テキスト」を比較してみた場合、『源氏物語』の文章は非常に難解である。そこには作者の自意識が入り込んでいるせいか? バージニア・ウルフなど読んでみたことはないが、なんとなく、無責任な連想から、重ね合わせてしまう。
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日本語について
「業平」から離れてしまうが、谷崎源氏は、原文を尊重して、主語が省かれている。それが、本来の日本語であったと。実のところ、翻訳家の柳瀬尚紀氏の目差すところもそれだということを、氏の近著『翻訳はいかにすべきか』(岩波新書)を読んで知った。氏の『ユリシーズ』も、ひとつの代名詞も使わず訳されるそうである。
こうした仏語で言う、puriste(「(言語の)純正語法主義者」Le Dico(白水社)より)的態度には、私は是ということはできない。なぜなら、西洋の思想は、あくまで西洋の、代名詞がちゃんと存在する、ゆえに明確な、文脈で再現されるべきだと思うし、それをもとに形成されたわれら現代日本人の言語も、代名詞や主語を持つものだと思うからである。トーマス・マンの、あの端正な思想=文体は、高橋義孝氏の端正な西欧文脈によって、われわれに、「ああ、トーマス・マンなんだ」と認識されうるのだと思う。さて、池内紀、柴田翔両氏訳の、『ファウスト』はどうだろうか? 機会があれば検討してみたい。
(2000/2/11)