(メタ)小説
「私のように美しい女___あるいは、いかにして私は火星人を愛するようになったか」
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私は薔薇の茂みから、バルコニーを見ていた。すると、奥から私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おお、ジュリー、ジュリー! どうしてきみは、ジュリーなんだ!」
そしてバルコニーに姿を現して、私がいるのも知らずしゃべり続けた。
「薔薇はその名前がなくても、かぐわしい香りに変わりはないのに。おお、ジュリー、いとしい人、いっそのこと、その名前を捨ててくれ!」
「どっかで聞いたような台詞だこと」
私は姿を現して言った。
「なんだ、きみか。そこにいたのか」
「私はあなたと同じように名門の生まれだけど、従姉妹に誘われるまま、街の、ちょっとクールなおネエさんがたのグループに加わって遊んでおりました。ただハンサムだというだけで、ワケありのおニイさんを追っかけたこともあります。でも、ふざけて潜り込んださっきのパーティーで、あなたを見初め、なんか考えが変わっちゃったんです」
「どう変わったというのかな?」
「紋切り型の恋も悪くないな、って……」
「実はぼく、こう見えても、雑誌の編集をしてるんだ。『紋切り型推奨雑誌』というんだ」
「いっそのこと結婚しちゃいませんか?」
「どこで?」
「親しくしている牧師がいるんです」
「プロテスタントですか」
「まずいですか?」
「いえ、どうだってかまいません。で、ぼくは、どんな恰好をして行けばいいんでしょう? その……教会へ」
「私、教会って言いました?」
「じゃ、なかったんですか?」
「いえ、そうですが」
突如、彼は興奮したように手すりから身を乗り出した。
「うーーーん! ここからじゃ、熱いくちづけもできないな」
「熱い、熱い、くちづけもね」
「熱い、熱い、熱い、くちづけだ!」
「うーーーん、あなたのタラコくちびるとのくちづけは、完全に激辛メンタイコの味でしょうね」
……などといったやりとりを私は夢想していた。私はまだ仮面をつけたまま、当家の一人息子の様子を窺っていた。類まれな美貌というほどでもない。しかし、これまでの生き方を変える動機となるには、じゅうぶんに新鮮な男。私は女の身で、バルコニーの下で待ち、愛を告白し、確かめ、そして、死へとまっすぐに繋がる恋の物語を生きるのだろうか?
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午前と午後の二回、ひどい夢をみた。午前のは、重い荷物を持って、どこかへ帰るところを、幼友達に送ってもらうというものだった。汽車の時間までにまだ間があったので、その友達と、雑談したりして遊んでいた。やがて出発が10分前に迫っているのを知った。私はおおあわてで、荷物を荷物預かりから取り出し、改札に向かおうとした。だが、荷物が重く、思うように動きが取れない。チェホフの芝居に出てくるような、大きな革のトランクと、あといくつかの荷物を持っているのだ。発車の時間は迫る。私はプラットフォームまで、行けるのだろうか?
だが、行きついたとして、いったいどこへ、帰ろうというのか? 故郷へ? 故郷は、たった今、発とうとしている町ではないか。
午後の夢は、故郷の川の土手へ行くと、母親と甥たちが、海水浴のように、シートを敷き、座っていた。ほかの人々もいる。そこは、川なのに、まるで海辺のように、人はふるまっているのだ。空や、水の色までもが、海を装っている。まるで、芝居の書割のようだ。
そう感じながらも、私は彼らと楽しみたくて、川の水に入る。大波が来る。川までがまるで、海のようにふるまおうとしている。岸から1メートルも離れないうちに、ひどく深くなっている。私は流れに逆らって泳ぐ。とても苦しい。………
それは、死の匂いだった。
午前の夢は、記号としての死。午後の夢は、風景としての死。そして二つの夢の共通点は、「重さ」。体にのしかかる重さである。それが、肉体の衰弱を意味しているという点においても、これらは、死と関係がある。
私は、懐かしい人と接しながら、ひどく孤独だった。
結局のところ、この一日、私は寝る以外に大したことはせず、意識は、その二つの夢の狭間で、たゆたっていた。
人生とは、意識の総体であり、かりに、生き生きとして活動的な日があったとしても、それは意識がそう夢みているのかもしれない。
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彼らの文明は、滅びかけていた、そうな。なんでも、彼ら個々人は、独立した魂を持っていなくて、共通の魂しか持ってなかった、そうな。だから彼らは、人間の個々の記憶というものを求めて、地球にやってきた、というのだ。
ここはどこ? どこでもない。
私は誰? 誰でもない。
いまはいつ? いつでもない。
あなたは誰? 誰でもない……いや、私は私だ。
でも、どこかで見たような場所。どこかで見たような人。どこかで聞いたような歌。どこかで……生きたような時代。
きのこのように、ビルがにょきにょき育つ。時計が12時になると、人は機会じかけの人形のように眠ってしまう。そして記憶を採っていく者がいる。額に、注射器のような、しかしそれより少し派手めの、蝙蝠の羽のようなものがついた器具を差し込んで。ああ、その器具さえ、よく見りゃアール・デコなのだよ。
この映画はむかしむかし、そのむかし、見たことある。『バットマン』のゴッサム・シティよりはかわいい街。フリッツ・ラングの映画よりは、思想性に乏しい。
蛆虫のように突然わいた娼婦連続殺人事件。皮膚の感じが「フレディ」を思わせる刑事。そして殺人容疑者である記憶喪失の主役の男と、彼の妻である美しい歌姫。記憶。記憶。
なんだ、彼らはこんなものがすきだったのか。
どうして太陽が昇らない?
実は…………。
それは、誰の記憶なのか? 私が今思い出しているのは。
種明かしをしたい。その、あまりにもお粗末な結末の。そうしたい欲望。
彼らは間違っていた。採るべきは、記憶ではなく。欲望であった。
いったいどこの星からきたカッペか?
とにかく、その街は、***だったのだ。
びっくりでしょ? でも、がっかりでしょ?
正直な話、私は彼らの考えていることがわからなかった。なぜ、文明が滅びてはいけないのだ? 案外そんなところに、古きよき地球の、保守根性が露呈してはいないか?
宇宙人を装ってはいたが、実は同じ地球人だったのではないか? しかも当局の回し者。当局ってどこ? ほら、あの壁の向こうさ。
当局の男は言うだろう。
あなたはこのなかのどの役をやりたいですか?
1、主役の記憶喪失の男
2、彼の妻である美貌のクラブ歌手
3、ソフト帽を被った痩身の刑事
4、殺される娼婦
5、街の謎に気づき自殺する刑事の同僚
6、宇宙人に協力する精神科医
7、キョンシーを思わせる宇宙人
どの役をとってもいきつくところは同じです。このなかに、**の人物は一人もいません。あの美しい歌姫さえも。
「じゃあ、いったい、なんだったんだよー!」と、あなたは叫ぶでしょう。
われわれの歴史はその後始まります。
私は、「『バイブル』を書いたケチなユダ公」かもしれません。
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1998年も終ろうとしている今、そして地球上には、さまざまな問題が溢れかえっている時、火星のことを考えているのは、NASAの「Mars
Surveyor Project」の面々か、天文オタクの連中か、ルネ・ヴァンダール何某か、さもなくば、火星人その人、ぐらいなものだろう。
そして、私もまた考えていた。なぜって、この小説の題名に「火星人」が言及されているからである。べつに、小説の題名に「火星人」がついているからと言って、中身に火星人が出て来なければならないとか、それについて言及しなければならないということはない。
しかし、考えてみれば、この小説は、題名からもわかるように、スタンリー・クーブリックの、『博士の異常な愛情、あるいは、いかにして私は水爆を愛するようになったか』に、インスパイアされて書き始めたものである。あの映画は、第二次世界大戦下のアメリカのホワイトハウスの要人たちによる作戦会議と、現場で戦闘機を操縦している兵士を、交互に描いたものだった。円卓についた要人たちは、重々しい顔をして、「博士」から水爆についての説明を受けていた……。一方、戦闘機の操縦士は……。
実際、細かいことは忘れてしまった。ただこの映画から学んだことは、
1、設定のシリアスさに比べて、作りをわざとチャチにすることによって、そこにある皮肉、批評性が浮かび上がる。
2、題名から想像される内容を徹底的に迂回することにより得られる異化効果。
であった。
つまり、彼らは全然真剣じゃなかったのである。第二次大戦下の合衆国の状況について。にもかかわらず、彼らは「水爆」について話し合っていた……?
今思い出そうとしても、ほんとうに、細かいことを忘れてしまった。ただ、ピーター・セラーズ扮する「博士」が、水爆の必要性について、合衆国の要人たちに説明しているとき、勝手に右手が「ハイルヒットラー」してしまうところだけしか、覚えてない。これは、この小説の前の方でも言及したと思うが。
私がこれを書き出す少し前、コタツに横になりながら、考えていたことはべつのことである。私はまだ東浩紀の「超デリダ論」『存在論的、郵便的』を読んでいて、これは、「後期デリダ」について論じられたものだが、それによると、デリダ的立場を取れば、「記憶」もまた、現在から過去へと一直線に遡れるものではなく、それは、「行方不明の郵便物」のようなものである──。
そうだな……と考えながら、眠ってしまって、ハッと目を覚まして頭に浮かんだことは、映画『ベストフレンズ・ウェディング』の「べつの結末」であった。
そうだ、その題材で、この小説の続きを書こうと一瞬は、啓示を得たように思ったのだが、しだいに意識がはっきりしてくるに従って、その考えにも興味を失った。要するに「べつの結末」とは、主人公(女)が、かつての親友(男)と、やはりケッコンしてしまう、というものだからだ。
もはや、そういうオチにはうんざりする。なんで、そんなオチを新鮮と思えたのか──?
などと考えているうちに時間は過ぎ、たまたまプリント・アウトしていた、NASAの「火星探査船のスケジュール」を見た。火星探査船は、この12月にすでに打ち上げられていて、10ヶ月後には、火星に着陸する。そして、火星の気候とか、地表の下に氷があるかどうかを調べるのである。
つまり、こんな世紀末の年の暮れに、地球には、いろいろな問題が溢れかえっているのに、「火星に氷があるかどうか」なんて、どうでもいいと、おおかたの人は思っている。そんなものに、巨額な費用をかけるなら、もっとほかに……。
しかし、このプロジェクトはずっと前から決まっていたことであり、それに関する予算は、それ相当の機関で、それ相当の手続きを経て決められたものであるからして……。
地球は、フレキシビリティーを著しく欠き、ゴワゴワして、やりにくい星になっていた。そしてそれに、誰も気づかなかった。その星にひどく古い「過去」があったことなど、誰も考えてもみない。歴史学者とか考古学者にしても、自分たちが「過去」だと信じる概念をルーティンとして、こねくり回しているだけだ。それは、もはや、「過去」とはべつのものなのに──。
と、私はここまで、学習した。