「私のように美しい女」第2部

私のように美しい女──あるいは、いかにして私は『オデュッセイア』を書いたか


9「無人島あるいは女」

 実際の話、飛行機事故に遇い、海に不時着し、一人だけ生き残り、大海原を何日も漂流し、無人島に辿り着き、そこで何年も過ごすはめになり、しかし辛くも生き延び、幸運にも船に見つけられ、文明社会に帰りつくといった出来事は、そうやすやすと、われわれの上に降りかかるものではない。降りかかるものではないが、まったく降りかからないとも言えない。
 しかも、私は女であった。なるほど、南アフリカの白人の作家、J・M・クッツェーの『敵あるいはフォー』という作品は、女が島へ流れ着く物語である。しかも、「クルーソーの島」へ。この「クルーソーの島」というのがミソである。つまりそこは、無人島ではなく、すでに、先行者がいた……。つまり、あのクルーソーが、という話であるからして、女が無人島で一人格闘する話ではない。同じく、『ロビンソン・クルーソー』のパロディーとしては、ミッシェル・トゥルニエの『フライデー、あるいは、大平洋の冥界』などという小説もある。つまり、こういうシチュエーションは、すごく冒険物語としてあこがれられる、ということなのかもしれない。でも、そんな冒険物語など、すでに時代遅れだと思っていた。思っていたところに、ハリウッドが、トム・ハンクス主演で、そういう映画を作ってしまった。国際宅配便、Fedexのシステムエンジニア、トム・ハンクスは、社の所有である飛行機で事故に遇い、そういう状況に陥った。____
 島は、冒険小説ファンが思っているような甘いものではなかった。たわわに実る果物も清い水の流れもない。火をおこすことだって、そんなに簡単にはいかない。すべてが、荒涼とした、徒労と孤独の世界だ。トム・ハンクスは悪戦苦闘するが、映画は、「Four years later...」などと言って、その苦労を、適当に切り上げさせている。
 ……ったく、と、私はひとりごちた。映画や小説はいいよな、生き残れることが決まっているのだから。私がものすごい確率を生き抜き、無人島へ辿り着いた日が、どんなであったか、すでに私は覚えていない。そう何日も経っていないような気がするのだが。クッツェーの『敵あるいはフォー』の女主人公は、船の反乱で殺された船長と小舟に乗せられ、海に放りだされるのだが、その小舟から島目指して泳ぐために海に飛び込んだ時の、自らの描写、「長い髪が私にまとわりついて漂っている。まるで海の花みたい」(本橋哲也訳、白水社刊)は、余裕綽々だな。
 髪は長かろうと短かろうと、潮にまみれて異物のようであるし、そんなことに気づいたのは、ずっと後の事で、事故当時は茫然自失、漂流及び、島へ辿り着いたのも、無我夢中であった。あとは、気持ちが落ち着くのと平行して、生理的不快さがつのって来た。日記をつけるとか、舟を作るとか、そういうことはまだ、思いつかなかった。ただ、ELLEのメールニュースに書かれていた、トム・ハンクスの例の映画の紹介記事の「無人島へ行ってみたくなる」という言葉が何度も頭に浮かんだ。もはや「バカヤロー」とも思わなかったが。
 文明社会へ無事戻れるという保証はなかった。それが私を焦らせた。チクショウ! こんな無人島へ来てまで、焦らせられるのか! 今は何日になるのだろう? 太陽の沈むのを数え、当然のことながら、生理日を数えた。誰も見ていないとは思えど、生理の日々は、妙な屈辱を味わっていた。トム・ハンクスには、予想外の気持ちだろう。
 それやこれやで、頭の中は、海の漂流物みたいに、いろいろな思いの漂流物に満たされたが、舟を作る(なんとか飢えはしのいではいたものの)には、恐ろしい年月がかかり、やっとできたその舟で、勇気を奮い起こし、大海原へ出たのだが、大波に遇って、私は哀れ、海の藻くずと消えてしまったのだ。
 飛行機事故を生き延び、無人島へ辿り着き、しかも私が女であったとして、なんの意味があろう? 私のプロバイダのサーバーには、いまだにELLE-Mailが届き続けているだろうか? 「オシャレなニュース」を「お届けするために」。




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