その言葉は、超タカ派の国防長官、ジーン・ハックマンにとってさえ、気恥ずかしくなるようなワイセツな言葉だった。そう、それはワイセツ以外のなにものでもなかった。今、この、二十世紀もやがて終わろうとしている時期に・・・。
 しかし諸君、世の中には、さらにワイセツな言葉だって存在するのである。それが事実かどうかは別にして。それは、「ユダヤ人殲滅のためのガス室は存在しなかった」という言葉である。何年か前、日本では、そういう論文が雑誌に載って、一大スキャンダルを巻き起こした。書いた人は、はっきりと記憶しているわけではないが、確か、評論家としてのキャリアが知られているわけではない医師であった。載せた人物も糾弾された。その人物は、表向きだけかどうかしらないが、その出版社内では左遷され、人々がその事件について忘れてしまった頃、別の会社に拾われ、花形編集者として蘇った。そして今では、スキャンダルをいかにものにするかといった、ハウツウ本まで出している。果たして、この本は売れるのか? この人物について、私が詳しい取材をして知っているというわけではない。ただ私は、私が目にすることができた範囲内の「巷の資料」で、自分が受けた感じを言っているまでである。はっきり言って、今の日本は、「ユダヤ人問題」などどうだっていいのである。なぜなら、日本人は、ユダヤ人ではないからである。だから、「ガス室が存在しようがしまいが」、それは、日本人の本質的な問題ではないのである。それよりは、「聖子の離婚」、芸能人の私生活のスクープの方が、重要なのである。日本人の「ジャーナリズム」とは、その程度のものなのである。

「声を大にして、いったい何が言いたいのだ?」

と、私は私に言う。いまや、「火星人」は、どこかに吹っ飛んでしまった。おお、そうだ。ワイセツな言葉、であった。だから、「ユダヤ人強制収容所にガス室はなかった」という言葉はワイセツである。「ハイル・ヒットラー」よりも、ということである。なぜ、ワイセツかというと・・・。
 だいたい、すぐに、日本のマスコミは、相手の言い分として、「こういう資料が存在する」という反論を紹介する。そして、その資料の信憑性を問題にする。このやり方は、大して深くものを考えたことのない人間を、納得させる。まっ、テレビのワイドショーしか見てない人間はそれでいいでしょうよ。そういう人は、レニ・リーフェンシュタインが、「私はナチス党の党員だったことは一度もないし、ナチがどんなことをしていたか、まったく知らなかったのよ。今になって、その事実を知って、なんて恐ろしいこと・・・と震えたわ!」なんて言っているのを聞いて、なるほど、彼女はイノセントだと、信じるだろう。

 レニ・リーフェンシュタインは言った。「そうよ、私は何も悪いことなんかしてない。私はただ美しいものを撮ろうとしただけ」
 レニ・リーフェンシュタインは、ヒットラーに依頼されてナチス党の党大会とベルリン・オリンピックを撮った。彼女の、映画監督としての腕は最高である。彼女は決して妥協せず、ナチス党大会においては、夥しい人の列というものが、ベルリン・オリンピックにおいては、人間の肉体というものが、いかに美しく見えるかに工夫を凝らした。実際のところ、このドイツ女はしごくタフである。90歳を超えた今も、「美しい魚」を撮るために海にも潜っている。彼女が執着するものは強く、美しい肉体。それは、アフリカのある部族の肉体についても言える。60歳頃だったか、彼女はそれにすっかりのめり込んでいた。「強く美しい肉体」、それが彼女の思想だった。
 つまり、「弱く醜い肉体」は、

「抹殺されなければならない!」

 だからそれがどうしたというのだ? それが火星とどういう関係にあるというのだ? どういう関係にあるかはしらない。ただ、われわれ地球人は、火星人を甘く見ていたということだ。火星人は、われわれが想像する以上に狂暴だった。
 思想もイデオロギーも形而上学も関係なく。すべてを焼き尽くしていった。火星人の辞書にないもの。
1、容赦
2、躊躇
3、悔恨
 この三つの欠如がどんなものか、やすらかに眠っているきみは知らない。火星人の円盤(この言葉には、相変わらず笑いを禁じ得ないが、笑ってる場合ではない)は、すぐ隣りの国まで飛来し、すでに隣国は消滅している。たとえきみが夢のなかでどんな恐ろしいものを見ようと、それは火星人よりはずっとやさしい何かなのだ。なぜならその魔物は、きみ自身の脳の中で作り出されたものだから。
 だからわれわれは、レニ・リーフェンシュタインを許そう。彼女の撮った、青い海の中を泳ぐ黄色やショッキングピンクの魚を受け入れよう。殲滅収容所問題をただのワイドショー的テーマにすりかえてしまう日本の「ジャーナリスト」や、ワイドショーのお客さんたる日本人を許そう。・・・火星人が通り過ぎたあとにはきっとそう思う。もしも「思う」ということが可能なら。

7

 実際、今にも雨の降り出しそうな、ただの草地を見ていると、「ガス室はなかった」と思わずつぶやいてしまう。そうつぶやかずにはいられない。「おれは聖書を書いたただのケチなユダ公にすぎない」と、レナード・コーエンは唄っている。「返してくれ」「返してくれ」「返してくれ」と。その写真を見ているとたしかにそんなふうに思ってしまう。『レクスプレス』に大写しにされた、白黒のアウシュヴィッツ。そこはただの牧草地帯のように見え、手前には、農夫がトラクターみたいなものに乗って、道を急ぐ姿が見える。実際は急いでいるわけではないのかもしれないが、なぜかその写真の曇り具合は(白黒のせいか)、今にも雨が降りそうで、農夫は急いでいるように見える。そして、すごく遠くには倉庫のような建物がポツンとある。
 「でも正直いうと、私はその論文を読んだわけじゃない。『マルコポーロ』という雑誌に載ったんだけど。問題になってから新聞の記事で読んだだけ。私にとって内容の真偽が問題ではなかったから、読む必要はなかった。たとえそれがどんなに真摯な論文であろうと、問われているのはべつの問題なのだ。その論文を載せた編集長はその会社内では対世間的に、一線を退き、今度復活した時には、当の問題にした新聞社の新雑誌の編集長になっていた。これまでの女性誌の殻を破った新しい女性誌というのだけど、つまり、ファッションとかお化粧とか、そういうのを脱して、もっと『社会性』のある記事を取り上げるっていう趣旨よ。派手に宣伝されていた創刊号をチラッとみたけれど、『社会性のある記事』って、つまり、芸能人のことか、と思ったわ。You know? 日本のマスコミってのはごらんのようによくわからない行動をする。批判した人物を陰でこっそり拾い上げたり。倫理ってものが存在しないから、コネさえあればなんでもできるのね。でも私は、裏の事情についてはわからない。ただなんとなくの印象よ。私はなにがキライって、その編集者(?)の編集者としてのセンスよ。この人の社会性ってなんなの? 木村拓也とガス室は同じものなの?」
 ここはイングランドの片田舎。ある冬の朝、私はベッドのなかで、私の小説について説明した。「あんまり興味が持てないな」とローズヒップは答えた。


 どこかで見たような景色の中に、旧式の円盤が飛来した。旧式ってつまり、何に対して旧式というのか? 昭和三十年代頃の少年漫画に出てくるようなやつという意味さ。ということはつまり、どうせアメリカの漫画かイラストを参考にしているだろうから、名犬ラッシーが活躍していた頃かなあ。日テレの水曜特番だか何曜特番だか忘れたが、懲りもしないUFO特集に出てくる、典型的な円盤ともいえる。つまり筆者が喚起したいのは、決してスピルバーグ以後の豪華な円盤ではないということだ。(そう、地球の年代は、大まかに分けて、「スピルバーグ以前」と「スピルバーグ以後」に分かれる。一部に信じられているように、「ビル・ゲイツ以前」と「ビル・ゲイツ以後」ではない)。
 それはまったく意外であった。時はまさに、1997年・・・われわれはすでに超豪華な円盤を知っているのに、実際やって来たものが、あのチャチなノスタルジックな、年代ものの空想科学小説にしか存在しえないと思ったその様相であったとは。人々は最初、そのあまりのチャチさに唖然とした。その者たちは「あ」という口のまま炎につつまれた。
 二十世紀も終わりに近づいたというのに、あのH・G・ウェルズもマッツァオの、旧態依然たるフォルムはなんだ?! 目撃した人々は一瞬いまがいつなのかわからなくなった。しかしそれは地球人の勝手な考えである。火星人の乗る円盤が、地球の進歩に合わせて、「進歩」していなければならないという法はない。それではなぜ、「あの年代」なのか? そんなことは火星人のみぞ知る事柄である。

"It's none of your business!"

ああ、そうかい。「どこかで見たような景色」、それはホワイトハウスだったかもしれないし、サハラ砂漠だったかもしれない。ともかく二十一世紀三年前には「どこかで見たような景色」がわんさかあった。そこへ旧態依然の粗末な、いや、つつましやかな、もうちょっと気のきいた言葉を使えば、省エネルギー型の円盤がわんさか飛来した。賢明な読者諸君は思うだろう・・・

「なんで今ごろになって?」

それには良心的な火星人は答えてくれるだろう。

「カセイジントキトバショエラバナイアルネ」

しかも。円盤の腹には、ほとんど地上からは読めない大きさで、

「save the Earth」

と、刻まれていた。


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