そろそろ「更新」しなければならない時期だが、正直言って何も思いつかない。手持ちのネタもなければストックもない。毎回本番で書いて来たもんね。
どうせこの小説は「破綻」しているのである。初めからそれは承知の上であった。だいたいインターネット上でまともな小説を読もうなんてやつがどこにいる?
そういう人がもしいたとしたら、よほど奇特な人である。「この本」は寝転がっても読めず、早く先を読みたくなっても、その先はいつ現れるかもわからない。それにいちいち、ページをクリックしたり、スライドさせたりするのも手間だ。
あんたたち読者はここにいったい何を求めているだね? ひょっとしてなんかお宝が、普通の本にはない貴重な情報が、見つかるかもしれないと思っているのかね? まるでここが、ブエノスアイレスの古本屋みたいに。その実在さえ疑わしい手記のコピーが見つかるとでも思ってるのかね?
たとえば、『火星黙示録』とか、『火星人の存在についてのある記録』とか、『鏡と火星人』とか、『火星における迷路の問題』とか。実際のところ、『火星人の存在についてのある記録』に関してなら、まったく聞いたことがないというわけでもない。まさにそのことを記すために、このホームページを開いたと言っても差し支えないのだから。
一昨年の夏、どこからということは明かすことはできないが、ある英語の古本を私は手に入れた。その本は、『火星人の存在についてのある記録』と題され、それほど人の興味を誘うものではなかった。ただ第1ページ目に、エピグラムのような短い文章が記され、
とあった。その本自体は、1868年、パリのある修道院で印刷されたものだった。
(100年以上も前に、ファイルとはどういうことだ?)
オックスフォード英語辞典が手元にあったら、Fileという言葉がいつ頃使われ出したのか、わかるかもしれないと思ったが、今それは手元になく、調べることはできなかった。いずれにしろ、その本の内容は、「ファイル」だというのである。どこの、なんのための、ファイルなのだろう?
しかしそれが「コンピューター」に保存するためのファイルだとしても、130年前という年代は、別にそれほど驚くものでもない。なぜなら、1400年代にレオナルド・ダ・ヴィンチはすでに、「コンピューターのようなもの」を作っているからだ。
けれども、常識で考えうるかぎり、ある文章のかたまりを指して、「ファイル」だという習慣は、最近のものだと思う。とにかくその言葉に惹かれ、その本を読み始め、引き込まれた。そして、その日本語訳を、大学ノート3冊に作った。そしてその直後、私はある人物に会うためにパリへ行った。その時、その人にそれを見せようと、その本を持って行った。
われわれはノートルダム寺院近くの小さなホテルで落ち合った。しかし朝になってみると、その人物は姿を消していた。その本といっしょに。
私はこの事件を未だに解しかねている。むろん、私が作ったその本の日本語訳は手元に残っているが。私が疑問に思っているのは以下のことである。
私は洋服を脱がされて両手と両足を水車に縛り付けられていた。足元には身を切るような冷たさの水があった。つまり私は拷問にかけられるところだったのである。ところで私は拷問て言葉が大嫌い。好きな人っているかしら?
いるかもね。第一、『・・・拷問史』とかなんとかいう本がいろいろ出ているくらいだから。たしかにああいう本を本屋で見かける。でも、絶対に手に取って開いてみたりなんかしない。気持ち悪くなるから。どうしてああいうグロテスクな絵を載せるのかしら?
ヨーロッパの博物館にはそういう拷問の道具を集めたところがあるみたいね。拷問は大昔からある。日本人も日本人なりの方法で拷問した。なぜ拷問なんかするのかしら?
人に苦痛を与えて、ほんとうに問い質したい何かがあるのかしら? それにしては、そのやり方の
おっと、そんなことを考えてる場合じゃない。命の危機。なんとか脱出する方法を考えなければ・・・。拷問者はサディスティックな笑い(ほとんど普遍的なその表情)を浮かべながら、壁のスィッチを押した。すると、私が縛り付けられた大きな水車が回りだし、私は徐々に足元から水没していくのだった。拷問者は怒鳴るように言った。
私は答えた。
拷問者は叫んだが、殴りつけようにも水車のところまでは手が届かなかった。私の体はすでに、胸のあたりまで、水に沈んだ。そして水は
にもかかわらず、私にはまだ冗談を言う余裕があった。正直言ってこの手の状況には慣れている、とまでは言う気はないが、初めてではない。そして過去に遭遇した危機に比べて最悪というほどでもない。第一、もし私が水の中に潜ったら、相手の視界からは逃れていることになり、しばしの自由が与えられる。この死ぬほど冷たい水を我慢したら。5分・・・それはおそらく普通の人には永遠の時間だろう。その永遠が2、3度繰り返された。私のスリップはぐっしょり濡れて、その下が丸見えである。なんでまたスリップなんか・・・。旧式の下着。それは私が、どちらかと言えば、保守的な女であったから。まあ、それはともかくとして、私は脱出のためにアタマを巡らした。アタマは巡らすためにある。物理的にも、比喩的にも。目の前に、わが師の死体が漂っていた。師は、あそことあそことあそこに拳銃を隠す習慣があった。あそこのひとつは、あそこ。「息子」の隣り。私は水中で太い縄の巻き付いた右手を無理やり引っ張り、自由にした。手は血にまみれたが、氷のような冷たさで痛みは麻痺していた。それから、手を伸ばし、師のズボンに突っ込んだ。・・・
次に拷問者が私を水中から引き上げた時には、右手の拳銃が火を吹き、拷問者の膝を打ち抜いていた。
私は床に尻をついた拷問者に拳銃を向けて言った。拷問者は訝りながら(なにに訝っていたのか)、
と口走った。
そう答えると同時に銃は彼の心臓を打ち抜いていた。念のために、頭にも一発。
ここで冷静な読者は考えるだろう、水中にあった銃の火薬は湿っていなかったのか? ご心配なく。H&K社の銃は、ローラーロックという技術で、火薬が爆発した後の100万分の1秒のあいだ、薬室を閉鎖します。そのおかげで、水中でも砂漠でも零下でも酷暑でも使用可能なのです。こういうことをあの映画はなんら説明してなかった。それが重要だったのに。
私は死んだ男から着るものを剥ぎ取って身に纏い表へ出た。
火星の寒さは格別だ。地球には、もっと卑劣な、もっと残虐な拷問が存在している。そんなもの大嫌いだ、とは言ってられないような。それが私の心を、もっと冷たくする。
私は探偵事務所に勤めている。読者諸賢が「探偵事務所」からイメージする、あの「探偵事務所」とは大違いである。つまりきっと、読者諸賢は、どこかうらぶれたビルにある、うらぶれたオフィスを想像するに違いないからである。私が過去のあるもと警官か弁護士かなんかで、トレンチ・コートを着ていて、酒に酔っていたりする。・・・はっきり言ってそういうイメージは時代遅れの紋切り型である。
私のオフィスはメインストリートの一等地にあり、ワン・フロアの吹き抜け、周囲の窓からは明るい陽射しに照らされた高層ビルと川と、ひとかたまりの緑が見える。私の着ている服は高級ブランドで、だからといって決してきらびやかというわけではない。私が常時担当する依頼者は70人あまり、一日に受ける電話は200本。コンピューターですます仕事も多いが、もちろん現場へもでかけていく。
依頼人といったん契約が成立すると、私は依頼人のすべてを預かることになる。つまり「事件解決」までの、ふるまいや健康管理、メンタルケアなどである。われわれはどんな役所もさじを投げたケースをも扱うし、また依頼が役所そのものから来ることも、あるいは外国の政府から来ることもある。
われわれのモットーは、「金がすべてだ!」である。実際、金を積めば、世の中のあらゆる事件は解決する。南米での「ミッシング」も民族紛争も、われわれは金で解決してきた。
ときには時空を超えて依頼が舞い込む。・・・あれは、依頼者の身の安全を考えて、はっきり何年何月とは明かせない、1300年代のあるところからやって来た。そんな依頼はどうやってくるのか?
そもそもそんなことが可能なのかと、読者諸賢はお考えであろう。
そのルートはあきらかにできないものの、それはお察しのとおり、「ネット」を通じてやって来る。わが社のホームページにそれが入力されているのである。そんなものはただのイタズラではないのか、あなたはそうおっしゃりたいのでしょう?
わかります。しかしわが社では、公開できないある方法で裏を取ることになっている。まあ、イタズラならそれでもいい、金が入らないというだけのことだから。しかし事件解決ののち、金はちゃんと指定の口座に支払われている。
それはもっともな疑問である。答えはわりあい簡単なものである、その点に関しては。つまり、そうした組織が「キリスト教会」に存在したのである。
まあそれはともかく、私が受けた依頼は、異端審問にかけられ、火刑が決まった息子の命を救いたいというものであった。まず私はそのことによって、「歴史」が変わってしまうものか、調べた。さいわいその修道士の息子は「歴史」のなかでは、いないも同然の存在であった。それだとわりあい簡単にカタがつく。もしなんらかの意味で「歴史」に介入しなければならなくなると事態はいささか複雑になる。
私は教皇とその周辺の人事を探り、もっともふさわしい手段で、「教会」に金を送った。とまあ、ここでは簡単に述べておくが、実際はもう少し複雑である。なぜなら、その頃の金の価値と今の金の価値の差異をはからねばならないからである。
つまりそのように、私の仕事はうまくいっていた。ある夜、私は「すばらしいアイディア」を思いつき、パソコンで書き始めた。それは25ページにもなった。コピー屋で150部のコピーを取り、表紙を付け冊子にしてもらった。それを会社の上司や同僚のロッカーに入れておいた。
それがすべての始まりだった。いや、すべての終りというべきか。なぜ、そんな行為に及んだのか、なぜそんなアイディアを思いついたのか。_____