20

 『シルトの岸辺』という小説が読みかけであったことを不意に思い出した。どことも知れぬ寂れた軍港、いったい「向こう側」には何があるのか? 主人公はどういう人物だったのか? それさえ思い出せない。読みかけの本は夥しくある。なのにそれがなぜ思い出されたのか。
 湿った夜。湿った空気が支配する深い闇の夜。そんな夜に接し、記憶は不意にそれを引っ張り出したのだ、記憶のアーカイブから。
 どこの国? いつの時代? それほど昔でないに違いない。けれどどこ、いつ、と限定しようとすると途端に輪郭は曖昧になる。ただ非限定の夜が垂れ込めている。
 「境界」へ向かおうとする一艘のボート。闇と闇の間を切り裂いていく黒い小さな塊。
 私はなぜ、そこへ赴任したのか? それは自らが望んだことに違いない。そこはひとつの基地で、建物の最上階か地下には図書室を備えていた。そこで私はこの基地に関する秘密の存在を垣間見る。秘密そのものを見たわけではない。その存在を「垣間見た」にすぎない。
 だがどうしてここは、こんなにも霧が立ち込めるのか? どうしてこんなにも夜は深いのか? 差し当たっての私の関心は、当然、海の「向こう側」に向けられる。静かな、その闇の向こう。もちろん朝は来る。だが銀色の靄に覆われている朝は、すぐに灰色の昼に変わり、再び闇の中に沈み込む。
 ここの住人は、館長と同僚の若者二人、調理人。他にもいたかも知れないが思い出せるのはそれだけだ。
 なぜ・・・・・・と、私は考える。ジュリアン・グラックはあんな小説を書いたのか? 誰も喜ばせるものではないそれを。そこにはどんな寓意さえも認められない。
 夜が、いま私がこの時間を生きる夜が、それを不意に思い出させた。おそらくは同じ種類の夜が、私に訪れているのであろう。
 同じ種類の夜の中で、われわれは出会うことができるだろうか? 時間を超えて。われわれ。私と、他者。
 私はもう一人の作家、セリーヌについて考えた。この作家の著作はまだ読んだことがなかった。しかし同じように「夜」について書いていると思った。
 夜は時代を無効にする。時間を溶かし、人の心理を剥き出しにする。
 都大路はとっぷりと日が暮れて、凄まじいまでに荒れ果てた景色に覆いをかけていく。雨はまだ降っていなかった。私は頬のニキビを気にしながら、しだいに深まっていく夜の空を見上げた。


21

 読売新聞6月21日付夕刊(西部版)、「文芸時評」で、松原新一は、ある作品を取り上げている。それは、「火山地帯」という同人誌に、井上百合子という人が書いた作品で、『健次のいた街』というのであった。
 松原氏は、その作品について次のように書いている。

 「『健次のいた街』は、ホスピス病棟に入院中の『私』が、隣のベッドの患者佐代子と、その夫の運転する車で紀州の街を旅するのだが、そこには『有名人、健次の家』がある。どう読んでもこれは中上健次だが、四十代半ばで世を去った健次とは『私』は小学生の時に同級生だった。母の命令で『私』は健次の家にどぶろくを買いに行かされたことがある。犬に襲われ、どぶろくの入った瓶がこなごなに割れてしまった時、健次は母親に頼んで新しいどぶろくを持たせてくれた。
 酒の密造で暮らしを立てねばならない健次の家と、それを買いに行かねばならない自分の家と。その子供どうしの間に通っていた連帯の感情の記憶を、『私』は忘れていない。健次のいた集落は取り壊され、彼も転校したまま、会うこともなく歳月が流れ、二十年を経て作家としてはなばなしく登場した健次を、遠くから見ることになった。
 作品には『健次もまた、本当に生まれ育った筈の、闇でどぶろくを売っていた家のことを、決して書きはしなかった。健次の書くエッセイのどこを読んでも、二度目の新しい故郷の話しか出てこなかった。そこで生まれてから、ずっと住んでいたようにいつも書かれてあるのだった。健次は本当の故郷を捨てている。
 何故、と私は問いはしない。すえた匂いが戻ってくるのは、健次にも私にも辛いことだった』とある。『私』のなかで、互いの出自の悲しみと辛さとをわかちあえる『隣の人』としてつねに健次は傍にいた。この『健次』が中上健次であろうとなかろうと、それはどちらでもよい。
 ただひたすらにこれは悲しい小説である。二十年ほど前、和歌山からの帰りだという、中上健次に大阪で会った時、『作家はみんな自分の悲しみの歌をうたっているんだ。それが批評家にはわからない』とつぶやいていた姿をあざやかに思い出したほどである。」

 ここには、日本人の、「出自」という言葉に対する典型的な態度がある。この小説も、この批評も、ひとつの紋切り型の世界観しか示さず、いったい作家にとって、「出自」なるものがいかなるものか、思索を深めてみようともしない。

 エドガー・アラン・ポーは、旅役者の子だった。しかし「ノルマンの古い家系の末裔であると夢想するのが好きだった。このロマンティックな憧れは、彼の出生の憐れな事情に劣らず切実なものであった。早くから孤児となった彼は、ジョン・アランという貿易商に引き取られ、その姓を貰う。やがて養父に連れられてイギリスへ行った。・・・」と、ボルヘスは、『バベルの図書館』のポーの巻の巻頭に、ポーの「不幸な生涯」について書いている。(富士川義之訳 国書刊行会)
 しかしそれを次のように結論づける。
 「ポーの神経症と貧乏は疑いもなく不幸なことであったが、しかし人生は、すばらしい作品の構想と執筆という不断の幸福を彼に授けてくれた。不幸こそが彼の必要とした道具であったとさえ言うことができる」
 つまり作家が自分の「(他人から見れば)不幸な(ように見えるかもしれない)過去」について語らないとしたら、それは、

創作上の「宝」である可能性が高い。


22

 巨大な円盤が斜めに空を横切り、火を吹きながら、地面に激突した。われわれはそれを、未明の砂漠に突っ立って眺めていた。われわれ、私とジョーンズ部長は。
 円盤は巨大ではあったが、古めかしい色とデザインであった。斜めに地面にめり込んでいた。あたりはすごい砂煙。
 砂煙が落ち着き、円盤の全貌が見えると、ジョーンズ部長は、片手にFBIのバッチを高く掲げて叫んだ。
 「領土法違反だ、逮捕する!」
 われわれは少しの間待ったが、円盤からは何の応答もなかった。われわれは顔を見合わせた。ジョーンズ部長は目で「行け」の合図をした。
 私は銃を構えた。それはサックスのように馬鹿でかい新品の銃だった。しかし思いついて部長の方を見た。
 「銃の使い方がわかりません」
 部長は自信たっぷりに答えた。
 「構わん、強気で行け!」
 そう言って彼は見本を示すように、レバーをガチリと引いてみせた。
 私も同じようにした。
 円盤は依然、しらんぷり。まるでわれわれを馬鹿にしているかのようだ。ジョーンズ部長は円盤に向かって歩き出した。私も急いで彼に従った。
 彼は、扉(とおぼしきところ)を足で蹴った。すると、それはやはり扉だったのだ、簡単に開いた。われわれはあらためて銃を構え直した。・・・・・・
 果たして、そのなかには、何があったのか? ジョーンズ部長はあくまで職務に忠実なFBI捜査官だった。私は二週間ばかり前に採用になったばかりの、パートタイムの職員だった。なぜ、私のようなヤワな女が採用になったのか? 今時はひどい就職難だというのに。
 FBIの秘密の資料によれば、世界には、というか、地球には、1500種類のエイリアンが侵入しているという。
 それではあれは、いや、あれも、エイリアンだったのか?
 われわれは円盤の内部をずんずん進んでいった。そして______
 確かに私は、円盤のなかの、暗い廊下のようなところを歩いていったのだ。しかしどこまで行っても廊下は終りそうになかった。私は不安になってジョーンズ部長の方を見た。すると、そこに、彼の姿はなかった。私は「部長!」と呼びながら、少し戻ってみたが、なんの気配もなかった。
 このまま戻るべきか? 前に進むべきか? 私は迷った。そのとき、彼の声が脳裏によみがえった。
 「構わん、強気で行け!」
 私は進むことにした。銃をすぐ撃てる状態にして。撃てる・・・と思うけど。
 一時間も歩いただろうか。一時間だって? いったいこの円盤の内部はどうなっているんだ? 誰も姿を現わさなかった。エイリアンさえも。
 私はそこに、少なくとも、3時間は留まっていただろうか。ただただ暗い廊下が続いていただけだった。この廊下は、螺旋状になっているに違いない。それにしてもジョーンズ部長はどこに行ってしまったのだろう?
 私は引き返そうとした。体の向きを変えたその時、
 突然、青空が見えた。もう日が昇ったのか。それが円盤の破れ目から見えているのか。私はそう思った。そして明るい方へ、歩いていった。

(この章は独立して、べつの小説になるかもしれません。続きは、そちらでお読み下さい。それにしても、いったい「その先」には何があったんでしょう? 「私」はいかなる事態にいるのでしょう? ジョーンズ部長はどうなってしまったのでしょうか? もちろん、私=作者は知っています。じゃあーねー!!)


23

 時代が変われば、価値観変わる。「違う」考え方をしているというだけで、死刑になった時代があった。なにと、「違う」考え方だというのだろう? つまり、「主流派」と。では、なにが、「主流」だというのだろう? つまり、神は絶対である、ということだと思うのだけど、実際のところ、当の「主流派」にも、その「なにが」はわからなかった。で、とりあえずは、時の、権力者に反する者ということなんだけど、その権力者というのは、法王であった。そして、それは、教会内の政治で決まった。
 エドガー・アラン・ポーの『落し穴と振り子』は、異端審問の拷問の様子をただ延々と描写しただけの作品である。話者は、「拷問される者」である。四百字詰め原稿用紙にして、50枚近く、ほとんど、「拷問される者」の意識の流れだけが描かれる。
 主人公は、何度も死に瀕し、死よりも恐ろしい恐怖に晒されるが、その小説が、「手記」という形であるかぎりにおいて、最後には助かるのだろうか、と読みながら思う。
 この主人公が助かるのかどうか、ここでは触れないでおく。あるいはこの話は、冥界の「手記」であるかも知れない。
 異端審問と言えば、ヨーロッパの中世に行われたことであるが、ひとくちに、中世といっても、11世紀頃から、16、7世紀まで幅広い。異端審問は、形や程度を変えながら、この幅広い世紀に渡って行われたようだ。しかし、ポーの小説の拷問の様子は、どこか、近代を思わせる。ポーは1809年、19世紀の初めに生まれた、われわれから見たら、300年近く前の人である。
 ・・・・・私はなにが言いたいのか? つまり、FBIはこのような時代を超えたケースをも取り扱うということである。
 つまり、「正統派キリスト教とは、違った考えを持ったがために、拷問される者」を開放するのは、連合軍ではなく、われわれFBIである。
 つまり、異端審問は、「合衆国に対する犯罪」とみなされる。_____ アリゾナ特別捜査官駐在事務所、月形半子特別捜査官、墜落した円盤調査より帰還後の報告書より。



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