24

 20世紀末の地球では、アメリカの火星探査機が火星に着陸し、27年前に、そうやって月に、人が降り立った時のように、沸き立っている、というほどでもない。
 私は新聞をろくに読まないので、詳しいことは知らないが、やれ、岩石がどうの、噴火の痕がどうの、生命が存在した可能性がどうの、と言っている、らしい。
 今更マスコミが騒ぐまでもなく、そんなことはすでに、わかっていたことである。この小説の前の方の章でも書いたが、火星はほぼ地球と同時にできた、「双子」なのである。だからして、ある時点までは、その進化過程は似ていてしかるべきである。
 いったい地球のマスコミは、火星をなんだと心得ているのか?
 火星と地球は「双子」だったのに、ある偶然から、違う道を進むようになった。それは宇宙の均衡のちょっとしたアンバランスだった。地球は熱く燃え続け、火星は急速に冷えていった。火星には、生物の進化を育む環境が整わなかった。火星に生物がいるとしても、それは、藻とか微生物のような、原始的な生命である。
 そういうことがわかってしまうと、物語が作りにくくなる。もはや誰も、火星に高度に発達した生物がいて、それらが地球にやってくるなどという物語を作らないだろう。
 大昔に見えたあの赤い星も、もはや、神秘のベールをはがされた。
 昔はよかったね、昔は。そうだ、地球には、「昔」というものがあった。「歴史」というものも、「時間」というものも。
 そして、地球人は、21世紀には、火星に、植民市のようなものを作るだろうか? いや、その考えは、それほど有効とは言えない。第一、火星の環境は厳しすぎる。人工のドームのようなものを作るにしても、膨大なコストの割には、得るところが少ないだろう。
 それではなぜ、地球人は、火星を探索するのだろう? それは、そこに火星があるからだ、としかいいようがない。クリントン政権がそれを是としていて、それは代々伝わってきたアメリカの使命であると、各大統領が思い込んでいて、それを続けているからだ。
 かつてライバルであったソ連は崩壊し、その残骸のひとつであるロシアは、火星のような状態になっているというのに。
 かつて、火星に生命が存在したとして、それがどうしたというのだ? それが高度に発達した文明を持っていたとして、それがどうしたというのだ? もはやわれわれ地球人はそんなことにはかまってられない。いま、地球人は、同じ言語を持っているもの同士の間でも、互いに意志疎通を欠き、お互いがお互いの「エイリアン」となっている。
 あれから37億年・・・。われわれは長く生きすぎたのか?


25

 BPがGPと別れたと、友達が言っていたけど、ほんとうかしら? なんでも彼女はスポーツ紙の見出しで見たとか。「スポーツ紙なんかいいかげんなことが書いてあるのよ」とあたしは言った。しかし彼女はほんとうだと言い張った。帰って夫に言うと、夫は、それはほんとうだ、別の女のホームページ(BPファンのページ)にも書いてあった、しかし、もうずいぶんと古いネタだけどね、と言った。あたしはついこないだ、なんていう雑誌かは忘れたけれど、ちょっと気取った(つまり『スクリーン』とか『ロード・ショー』とかじゃなくて)映画の雑誌を本屋で立ち読みして、というのも、その雑誌、BP特集だったから、BPのインタビューを読んだら、随所に「グイニーはおれの太陽だ、結婚が待ちどおしい」というような言葉が見られたから、ふーん、彼は彼女にメロメロなのかーと思い、やはりみんな結婚ってものがしたいのかな、とも思っていたんだけど。だから、にわかには信じられなかった。けれど、もしそれがほんとうなら、やはり、人間てのは、それほど単純なものじゃないんだとわかって、ちょっとうれしい。だいたい、そのインタビューでも、ちょっとおかしいなと思った箇所があって、それは、「ぼくたちは少なくとも、2週間は、間をあけずに会うようにしている」と言っているところだった。前は一ヶ月だったとか。そうか、二人ともスターともなると、普通の婚約者のカップルと違って、そんな程度にしか会えないものかと思ったけどね。それにしても、やはりBPは役者だったのね。熱々ムードを演じていたのよね。そしてもしそうなら、それがどうしたというのだ? あたしの人生になにか関係するのかしら? 関係するなんてとても信じられない。第一、よく考えてみれば、あたしはそれほどBPがすきってわけじゃない。じゃあ、なぜそんなこと問題にするの? それはつまりあたしの意識がそういうふうにできているからよ。芸能人がくっついたりわかれたりすることなんかどうだっていいのに、そうした話題が意識に入り込んでしまうの。だからあたしは自分のことをそれほど程度の高い女だとは思っていない。だからカレもきっと嫌気がさしたのだわ。カレの電話はずーっと留守電で、まるでいないかのよう。初めからカレなんか存在していなかったかのよう。これはひょっとしてあたしの妄想かもしれない。べつにカレから、夫と別れて自分を選んでくれと言われたわけじゃない。男は他にもいろいろいる。なのになぜあたしは彼に執着しているんだろ? なぜBPじゃいけないんだろ? なぜ現実にいる男みたいにBPに熱をあげることができないんだろ? べつにBPでなくてもいい、手の届かない、ゆえに無害な、男に熱中することはできないのだろう? カレも手の届かないところにいるような気がするけど、電話番号は知ってる。そして留守電は聞こえる。でもこの頃、その留守電のデフォルトで入っている女性の声ですら、妙に個性を帯びて来て、ひょっとして、これは誰かの声? なんて思ってしまうほどなのだ。ほんとうにいい年してって、思うけど。じゃあ、どんなことを考えれば、年相応なのかしら? 教育問題? 政治問題? どっちもあたしの人生にそれほど関係があるとは思えない。第一、あたしの、人生なのだから。だから人生で一番問題なのはなに? と考えると、自己実現? つまりこうあるべき自己を形成すること? ちゃんとした職業を持ってさ。そのためには・・・。でも考えはいつもカレの方へ行ってしまう。ひょっとして、あたし、恋しているのかしら? いい年して? 何歳なら「いい年して」って言われないのかしら? 何歳が恋にふさわしい年齢なの? いずれにしろ、『失楽園』なんて無理。だってカレはずーっと「お留守」なんですもの。しかたないから、ジョン・ミルトンの『失楽園』でも読むわ。それはこんなふうに始まるのよ、「神に対する人間の最初の反逆と、また、あの禁断の木の実について・・・おお、天にいます詩神よ、願わくばこれらのことについて歌い給わらんことを!」(平井正穂訳 岩波文庫より)。


26

 人が木に括り付けられ、今にも火を点けられそうになっていた。群集はそれを取り囲み、「早くやれ!」と言うように、はやしたてていた。私は群集のなかに混じって、その様子を見守っていた。木に縛り付けられた男は、私を、「助けてくれ」という目をして見た。だが私に何ができよう。もししゃしゃり出て、見知らぬ人物の命乞いをしようものなら、こっちが危ない。かわいそうだけど、そんな無謀なことはとてもできないのだ。
 火点け係りが二名、棒の先に藁を巻き付け、それに火を付けたのをもって現れた。いよいよ人々は興奮し、息を呑んだ。縛られた人の足元に積まれた藁に点火した。藁はめらめら燃え上がる、黒い煙があがる。人々の喚声もあがる。縛られた人は煙に咽て、咳き込んだ。
 もー・・・なんて、趣味。なんて趣味の悪い時代。こんなふうに死刑を見世物にし、しかも、人々もそれを楽しんでしまうなんて。
 私は気分が悪くなって、口を押さえ、うつむいた。
 すると、その時、人々の声が一瞬止まった。と思うと、前より激しくなり、それは歓声というよりは、抗議の声に変った。不審に思って私は顔を上げた。
 その時、すでに縛られた人の姿はなく、どこへ消えたのだろう? もうすでに焼けてなくなってしまったのだろうか? それにしては早すぎる、とあたりを見回すと、一人の男がもう一人の男をかついで走り去っていくところだった。むろん、追手が追った。しかし男は振り向いて、ここでは存在しない銃を、懐から素早く抜いて撃った。追手はびっくりして足を止めた。しかしまた追い始めた。今度は、銃は追手に当たったようだった。私はそれまでの様子を走って行って見た。
 助けた男が、どこへ行くのか興味があった。群集もいっしょになって彼を追いはじめた。大騒ぎになったが、やがて男はどこかへ姿を消した。どこへ?
 険しい崖に建った壮麗な修道院。私はやっとのことで、そこに辿り着いた。すっかり夜になっていた。人の気配のないのを見計らって、正面の礼拝堂へ入った。祈りがすんだところか、ローソクが赤々と燃えていた。だが、人の姿はなかった。いや、あった。たった一人、一番前の椅子に座って、脚を組み、ワインなんかを飲んでいた。私はその人物にゆっくりと近づくと言った。
 「ミスター・ボンド。こんなところでお会いするとは、夢にも思いませんでしたわ」
 タキシードの男はゆっくり顔をこちらに向けた。
 「これはこれは・・・」と笑いかけてから、彼の顔は真面目になった。「どこかでお会いしましたかな?」
 「ええ、いまここで」と私は答えた。
 「どうしてぼくがボンドだと?」
 「ただの当てずっぽうですわ。よくあるナンパの手口」
 「するとあなたは、ぼくをナンパしようと?」
 「だって、ここは退屈なんですもの」
 「確かに退屈です」
 「私、宗教なんかには全然興味ありませんの」
 「ぼくもです」
 私は彼の隣りに腰を下ろし、彼の手からワイン・グラスを取った。
 「ではなぜ、あの死刑囚を助けたんですの?」
 「死刑には賛成できないからですよ」
 「でもあなたは、数え切れないほど人を殺してるでしょ?」
 そう言って私は、ワイン・グラスを長椅子の上に置き、彼のシャツのボタンに手をかけた。
 「でも、ぼくは、法のもとに、合法的に、無抵抗な者を殺すわけではありません。ぼくが殺るのは、やむをえない時です。いつだって正当防衛です」
 私はおしゃべりな男の口を唇で塞いだ。そして自分が、不本意にも、抹香臭い時代にいることを忘れた。



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