近道 回り道 2007.12.22

よく建物、例えば会社や学校の建物の出入口の前に芝生があって道がその周囲を回って行くような配置ってありますよね。車寄せなんてみなそうです。
そんなとき道路を歩かずに芝生の上を歩いて近道をする人がいるのもよくあることです。その結果、芝生の上に踏みわけ道ができるってことにあいなります。
つまりこんな位置関係だ
建 物入口




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そんな場合近道ができるかできないかを決定する理屈があるらしい。
つまり、道路でないところを歩く障害と心理的な壁と、遠回りするための負担の比較で近道を通るか道路を歩くのかが決まるという当たり前というかまあそういったものらしい。

似たようなものでバスの乗り方もある。
私は結婚してから数年ごとに引っ越しをしていた葛飾北斎のような男だった。
葛飾北斎は89年の人生で93回引っ越したそうだ。
一時期住んでいた所はバス停のすぐそばであったが、そこはバスの始発から1キロくらいのところで、バスがそこまで来るうちにバスは満員になってしまう。それで私はいったん始発の停留所まで乗ってバスに乗って行って、そこから行きたい方向のバスに乗って通勤していた。片道1キロで往復2キロのロスだが、その時間のロスと勤め先まで座っていけるかを天秤にかけてロスのほうが少ないと判断したわけだ。この少し回り道をしても楽をしたいという場合に、戻ることが許容できる距離というのはどのように決まるのだろうか? もちろん通勤距離によることは間違いない。
私の場合、通勤距離が15キロ バスの時間にして約30分であったので、1キロ戻って数分余分にかかる程度はハードルではなかったわけだ。これが通勤に1時間乗って行くなら2キロ時間にして5分くらい戻ることはいとわないのだろうか?
この算式は簡単に作れるがその係数は実際に調査してみないとわからない。そして人によっても係数は変わるだろう。元気のある高校生なら少しの時間でも惜しんで立って通うのを選ぶかもしれないし、老人なら時間はかかっても座っていけるほうを選ぶかもしれない。
まあ現実には、そんなこと誰だって考えて行動してますよね、
特に長距離になりますと初期投資はある程度かけても座りたいという気持ちが優先するでしょう。
新幹線通勤の人が品川で乗ると座れないからと、いったん東京駅まで戻って座るなんてのはよく見かけます。でもあれって正確には品川と東京間の運賃を払わないといけないんじゃないかしら? それとも品川発と東京発の運賃は同じなのかな?

組織に属するか離反するかということを決定する理屈もあるそうだ。
組織っていってもなんでもいいんです。クラブ活動でもいいし、会社でもいい。住む都市でも、暴力団でも、家族でも、配偶者でもまったく同じ関係になる。
組織に属することは、属することから得る利益と、属することによる義務が発生しそれは拮抗する。そして、組織に参加するかしないかということは、構成員が組織のための犠牲(貢献)と組織に属することによって得られる利益がどちらが大きいかによって決まる。
そんなこと考えてみるまでもなく自明である。 もちろん利益とか犠牲とは相対的なものだ。
会社の賃金とか福祉と仕事のきつさやキャリアになるかならないかを比較して、継続して働くか退職するかを決めるのは当然である。また転職するあてがあるのかないのかという状況によって変わることもある。
囲碁クラブにいって楽しいかとか強くなるかというメリットと、月々の費用や幹事などの雑用あるいは種々行事への参加が強制されるなどのデメリットと比較して、クラブに続けるかやめるかが決まる。
では組織に参加が強制される場合はどうだろうか?
../ranger.gif 徴兵制があるとき、兵役に就くことを強制され否応はないわけだが、このときだって自らを傷つけたりあるいは脱走ということをしても組織から離脱しようという行為はあり得る。
クリントンは兵役を拒否している。
いずれにしても軍隊という組織に参加するときの利益(周りからの称賛とか社会的評価とか)と犠牲(自由がないとか生命の危機)との比較で組織への参加、離脱は決定される。

じゃあ身の回りにある最大で最高位にある組織について考えよう。
なんだそれ? なんて言わないでほしい。国家であることは明白でしょう。
国家、私たちにとって日本だが、それに属するか否かはどうやって決まるのだろうか? あるいは決められるのだろうか?
現代社会において地上のすべての土地はいずれかの国に所属し、そこに生まれた人はその土地を治める国家の定めによって国籍が決まる。
南極だけはいずれの国にも所属しない。
大方の国は国籍を離脱する権利を国民に認めている。
もっとも北朝鮮の憲法第72条では「祖国及び人民を離反する者は、法により厳重に処罰する。」とあり、これは国籍離脱を禁止するものだろうか?
認めている国であってもその権利は自由に行使できないことが多い。だって行きたい国が拒否すればどうしようもないから。
まあ仮定の話として対照表を作ってみる。
権 利
義 務
  • 安全保障
  • 治安維持
  • 社会福祉
  • 国法を守る義務、あるいは国家と運命を共にすること
  • 税金を納めること
  • 国家の不名誉を負うこと
優先の順序としてはこうなるのだろう。この順序を理解しない文化人、芸能人が多くて困る。こちらも順序としてはこうなるのではないだろうか?
熟考すればもっととり上げるべき要素があるかもしれないが、まあこのさいどうでもいい。
いずれにせよ、左側が大きければ国民としての誇りをもち国民であり続けるだろうし、右側が大きくなれば出国希望となりその大きさにより願望から計画となり実践に移る。
もちろん左側は民主主義国家であるからには有権者自らが求めることができ、それは同時に右側によって裏打ちされる。つまり組織の権利と義務とは表裏なのである。そもそも権利と義務は等しくなければならないというのは自然の摂理だろう。
生まれる国を選べず、生まれた国家に属することはある程度やむを得ない。俗にいう運命ってやつです。
しかし自分が属する国家を良くしようとするということは国民にとってできることであり、しなければならないことである。
自分の国を貶め(おとしめ)悪い国だ、生まれてこなければよかったという論理はどう考えてみてもおかしいのである。
そういう意味では前述の組織に属するか離反するかという基準はつかえない。 しかし権利と義務というものの認識は物質ばかりで量られるものではない。教育しだいでの受け止め方考え方によるものが大きい。滅私奉公ではないが、国家とはそういうものだと教えられれば国民の義務を納得するだろう。
国家は打ち出の小づちでおねだりすれば何でもしてくれる、してくれないのは国家が悪いと教えればそう信じるだろう。
国民年金も納めずに、社会福祉がどうこうと叫ぶのは権利と義務を理解していない人である。
外国の脅威を知らずに防衛を無用だというのは自由だが、その結果己の生存権を危うくするのも己の自由である。


話がだいぶ寄り道、回り道したが、まとめは簡単である。
組織に属するか否かは自由な場合もあるが国家に属するか否かは自由ではない。
しかし、国家を良くするか否かは自己責任である。



小春様からお便りを頂きました(07.12.23)
おはようございます、小春と申します。
私も義務を果たさずして何故権利を主張するのか、その気持ちが分かりません。
私に言わせれば「甘ったれるな」この一言に尽きます。
20歳になってから選挙を棄権したことはありません。
入院中も不在者投票を手配してもらいました。
選挙は義務ではありませんが、おかげさまで正々堂々と政治に文句たれ批判して、「政治家って役に立たないわね〜」と言うことが出来ます。
日本人であるなら、日本を大事に思い、良くしていこうと努力するのが普通なんじゃないですかね。
日本という恵まれた国にいながら、国を大事に思う気持ちなくしてあれこれ要求するばかりか、その国を貶めるような発言をする人を見ると信じられない気持ちでいっぱいです。
そんなに日本がお嫌いなら、どうぞ他の国へ行ってくださいネ、と思います。
菊のご紋のパスポート持ちながら海外で自国の悪口を言っている人がいると聞いて目が点になりました。どこまで恩知らず〜
小春様、毎度ありがとうございます。
まあ、そうカッカしないでください。
おかしいことをおかしいぞ!ということ、当たり前のことを当然だということ、言えること、そういうことが当たり前の社会にしていきましょう。
あらま様からお便りを頂きました(07.12.23)
徘徊人生
佐為さま あらまです
「近道、回り道」を読んで感ずることが多々あります。
小生の半生を振り返ってみますと、近道どころか回り道、さらに徘徊をしている人生ではないかと思う時があります。小生の周りの人々を見渡すと、志(こころざし)半ばで倒れる人を見かけます。その様子を見るにつけ、途中に困難があろうとも最後まで希望を捨てないで邁進することが必要だと思いました。希望を持っている人は、たとえ本人が倒れても、必ずそれを受け継いでくれる人がいるものだと思います。
さて、国家と国民との関係は、会社と社員の関係よりも、親と子の関係のほうに近いと思います。会社は選ぶことが出来ても親を選ぶことは出来ません。同様に国を選ぶことが出来ることになっているようですが、現実的に移民の生活を見ていて分るように非常な辛酸を舐めるものです。
小生は、この国に生まれてきて、ホントによかったと思っております。
あらま様 毎度ありがとうございます。
いつも申し上げておりますが、私はそうまじめ真剣に考えて書いているわけではありません。ダジャレ人間であることはご存知でしょう。
今回はしがらみとか思惑と言っても、単に利害関係、それも具体的損益計算に還元できるのではないかということを書いたまででございます。
ちょうど、重信房子の裁判がおこなわれておりまして、一体彼女はテロリストだったのか、ボランティアだったのかと思いめぐらしております。
しかしながら、彼女の娘の行いを見ていると、親が子に与える影響はものすごいですよね、
私が子に残せる財産は私の生きざまだけだろうし、価値があるものだろうかとこれまた悔いとともに思いめぐらしております。

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