私はいかにしてダジャレを語るようになったか 2008.04.12

私は生まれたときからまじめで堅物(かたぶつ)だった。過去形で言わなければならないのが残念だ。
本当に面白みもない真面目人間であった私が、ダジャレを語るようになったのは、家内の影響である。
私は弱い人間で感化されやすいのである。

本日は私がいかに家内に感化されダジャレ人間に陥ったかの経過である。
私の家庭は海軍軍人であったオヤジの影響で冗談も言えない家風であったのに対し、家内の家は冗談というか言葉遊びが好きだったらしい。
ダジャレと言葉遊びは同じなのか違うのか定かではない。
家内と知り合ったのはもう30年以上も前のことであるが、それ以来話をしていて通じないことが多々あった。別に方言とかアクセントが違うというのではないが、慣用句というか例えが通じないのである。

柳生である
柳生一族の陰謀
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「あの人、やぎゅうなんだよね」と家内が言う。
やぎゅう?野牛のように乱暴な人なのか? 常識が通用しない人なのか? いったいどんな意味なのだろうか?
実は話は簡単で、家内と結婚した頃に「柳生一族の陰謀」という映画があり、テレビ番組もあった。ということから単に「陰謀をめぐらす様な腹に一物ある人」という意味なのであった。
当時の私は勘が鈍く(今でもだが)ぱっと理解できなかったのだ。

もうテレビとかコマーシャルとかから、家内は新しい形容詞とか言い回しをバンバンと作成してしまうので、ついて行くのは大変なのである。
「隣の奥さん、原選手よ!」
これは理解できた。原辰則をもじって、「腹立つなり」である。
原監督が現役だった80年代半ばの頃である。その後「あの人、原監督よ!」になったが最近は使わない。
「あの人、社会保険庁よ」なんて言ったら家内は舌を噛んでしまうだろう。

「隣の奥さんボンレスハム」これはひねりがなく、そのものズバリである。
ただ、このようにあまりにも直接的なのはご本人の前では言えない。
もっとも、家内もボンレスハムであるのは言うまでもない。

「木馬ちゃん」
木馬といってもかわいいとか、素敵という意味ではぜんぜんない。
木馬と言えば、トロイの木馬、とろい人のろまな人のことを木馬ちゃんという。もう何をしてもとろくて、相手にしてられないよねという意味。
幸い、我が家の豚児たちは木馬ではなく、生きた馬に育ったようだ。
もっとも生き馬の目を抜く人種もいるので油断ならない 

「さあて2時間」
この意味はおわかりだろうか?
そのものずばりで、客が来て「そろそろ帰ろうか」というのだが、なかなか帰ってくれない。そういう人を形容する言葉である。
「あのおじさんは、さあて2時間だものね」と言いつつ、影でほうきを逆さにするのである。そんなおじさんを持つ私は肩身が狭かった。
それどころか私の新婚時代に、職場の人が仕事が終わってから酒を飲んで10時頃に我が家に寄るということは珍しくなかった。
いやあ、まいりましたね
相手がいる限りこちらも酒を飲んで付き合わなくてはなりません。
さあて2時間どころか、さあて3時間、4時間となり・・・
当時の先輩・後輩の関係では、もう遅いですからなんて言ったものなら・・・

「ブラックホール」
もうそのものズバリ、手当たりしだい物を欲しがる人です。最近家内のお友達が家に遊びに来ました。彼女、見たもの触るものなんでも「頂戴」「ちょうだい」と、いい大人が何でも欲しがります。
爪楊枝の入れ物、お菓子の載ったお皿、出されたせんべいが袋に残っているのを見て袋ごと持っていきました。
そのお客様が帰った後、「ホワイトホールはどこかしら」とのたまわっていました。
理論上、ブラックホールに入ったものはホワイトホールから出てくるそうです。家内は最新科学を知っているのです。 

「アナスイならまだアンスン」
だいぶ前のこと、中学生の姪が「アナスイ買って〜、アナスイ買って〜」というのです。
私は「アナスイ」という音からなにも想像できなかった。
娘は何でも知っているので聞くと「ANNA SUI」という化粧品のブランドとのこと
はたしていくらくらいのランクなのか? おじさんとしては心中穏やかではありません。
ショッピングセンターで探しますと、おお!安心しました。
高いものではありません。
家内は東北弁で「アナスイならまだアンスン」まだ子供だから心配ないという意味。
だいぶ昔だがNTTのコマーシャルで
母親が「あやまった、あやまった、うぢの娘は長電話であやまった」というと
電話工事のおじさんが「サスケネー、サスケネーてれほーだいだもの」という
サスケネーとは「さしつかえない」がなまったもの。我が祖国の言葉が全国的になったかと喜んだものです。
しかしアナスイ、アンスンすべからず
子供の成長とともに「アナスイ」は、あっという間に「ヴィトン」になり「シャネル」になり「エルメス」になる。
もうビンボーおじさんは姪に近寄れません。
聞くところによると、エルメスの店に入るには100万円くらい用意していかないとならないらしい。

家内の実家がそういう言い換えとか言葉遊びというかの原因として、思い当たることが一つある。それは家族で花札をしていたことである。
花札にちなんだいろいろな言い回しがある。
「月見に一杯」とか「花見に一杯」というと、私のような花札と縁のない人間は夜桜でお酒もいいなんて思うのが関の山。そうじゃありません、花札の役のこと
「あかたんあおたん」という新谷かおるの漫画を見ても洒落というかひっかけがワカリマセン
「いのしかちょう」が「猪鹿蝶」とは頭に浮かびません。まして「しかと」がなぜ無視することなのか
さすが花札で鍛えられた家内恐るべし 意味不明 

しかし家内の感化力は私だけでとどまってしまったようだ。娘も息子も家内の言葉遊び、私のダジャレに染まらず、私の素敵なアイデアをおやじギャグとさげすむ・・悲しいことだ


本日の誓い
せめて家内とダジャレを鍛えあいたいと思う。
私はいかにしてまじめに語るのをやめて、笑い話を愛するようになったかと違うぞとおっしゃったあなたはするどい!
人間は複雑ですからいろいろわけがあるのよ 



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