喪中につき 2008.12.07

年賀状を書く季節である。習慣と言いますか世の中の慣習と言いますか、どのご家庭でも毎年12月上旬になると年賀状を書くのが普通でしょう。 ../nenga.jpg 年賀状の本来の意味から考えると年が明けてから書くべきだろうが、元日に届けてほしいので12月のはじめから中頃に書き投函する。考えると変な話だが、昔からなので誰もなんとも思わない。もっとも最近では、はがきの年賀状から携帯電話の年賀電子メールに移りつつあり、特に若い世代では大晦日の真夜中に携帯のメールを送るのが一般的らしい。ニュースによると中高生一人あたり30通くらい年賀電子メールを送るとのこと。そうなると年賀状本来の意味に戻るのかもしれない。だがそのおかげで毎年、大晦日の真夜中、年の変わり目は電子メールが錯綜して電話会社はパンク状態になる。
日本人の心いまだ廃れずというべきか、そこまでコミュニケーションが必要なのかというべきか、あるいは単に電波の無駄使いというべきか、

ところで、年賀状を書く時期はまたお亡くなりになったお知らせが来る時期でもある。お葬式があったお宅では、喪に服しているので年賀のお祝いが来ると困るのか、受け取る相手がいないのに年賀状がきたのでは相手に申し訳ないと思うからか、あるいは単なる風習というか礼儀なのだろうか。

さて前振りはいいかげんにして・・・今年もまた年賀状を書く季節となり、そして忌中につきとか、喪中につきというはがきが何枚か来た。いとこが亡くなったというのが二枚あった。前も書いたが私にはいとこが数十人もいて、ほとんどのいとこは結婚して奥さんあるいは夫がいるからその倍、大変な数である。いとこの8割は私より年上で、既に過半は鬼籍に入られたが毎年二・三人から喪中のはがきが来る。
近しい付き合いなら亡くなるとお葬式のお知らせが来るが、縁が遠くなるとお葬式のお知らせはなく、年末に喪中につきなんてハガキをいただいてはじめて亡くなったのを知ることになる。
そして亡くなった知らせが来ないも多いのではないかと思う。いとこといっても現在では付き合いも疎遠であるし、それに私は引越しに次ぐ引越し男で住所の変更を失念したりしているのもあるし、相手方も引っ越ししても住所変更を知らせてこない方もいるだろう。そんなわけで音信普通という方も多い。それも時代というものだろうと自分に言い訳する。
義理と付き合いを大事にしたオヤジが生きていたらお叱りを受けてしまうだろう。

さて今年来た忌中のはがきでエッツというのがあった。私より7歳くらい上なのだがいとこの中ではまだ若い方に入る。この人は中学校を卒業して東北の田舎から集団就職の蒸気機関車に乗って東京に出て行った。出発の時には我々一族が駅で見送った記憶がある。
そこには私たち一族だけでなく、そのいとこと同じく都会に就職していく子供たちを見送る大勢の人がいた。日の丸の旗を振り元気でね〜と大声で励まし、列車には大勢の子どもたちが乗っているありさまは、出征兵士を送る風景と同じようなものだったのだろう。そして就職した工場の悪劣な環境で、日本の復興と高度成長を支えた産業兵士だったのも同じだ。
彼がお盆や正月で田舎に帰ってくると、我々年下のいとこが電気がきていない彼の家に集まって、都会の話を聞いた。彼は親方と呼んでいた社長と数人の従業員の会社で機械部品のバフかけをしていた。
バフといっても知らない人が多いだろう。金属でも木材でもなんでも表面をきれいに仕上げようとすると、まず刃物の跡のでこぼこをやすりなどでとり、さらに紙やすりなどで細かな傷をとり、そして最後に布に研磨粉をつけて磨く。布を手でこすっていては疲れるし効率が悪いので、円盤状の布をモーターで回転させるのがバフである。ピアノの鏡面も、クロムめっきの鏡面もみなバフ仕上げのおかげである。

そのいとこは新宿ってどんなところかということや、封切り映画を観にいったにいったこと、都会では真夜中でも人が歩いていることなど都会情報を話してくれた他に、親方がお金をぴんぱねしているという愚痴もあった。
    注記
  1. そのいとこが私たちの住んでいるところを「田舎」「田舎」と呼ぶのにすごく抵抗を感じた。正直言って、ものすごく私はバカにされた感じがした。
  2. 当時田舎に新作映画が来るのは、都会で封切りされてから半年とか1年かかった。
../okane.gif だれでも働いて数年すればお金のことはわかってくる。親会社から一個いくらで仕事をもらい何個仕上げればいくらになり、従業員の賃金がいくらで電気代・家賃がいくらで親方にいくら残るということは簡単な算数である。下働きでもそのカラクリを知っているから不満があったのだ。時々帰ってくるいとこの話を聞いて、我々は都会というものと社会の仕組みを学んだのである。
当時の私たちにとって、東京ははるか遠くの都会で、中学校の修学旅行で行く地であった。今で言えばハワイかロスくらい遠かった。

その後何年かして、そのいとこは独立して親方となり若いものを雇って、ぴんはねする立場になった。そして少しは羽振りが良くなったが、車を乗り回すとかでかいビルを建てたなんてことじゃない。単に若いものを飲みに連れていってピンハネ分の埋め合わせした程度だったのだろう。
さらにその後何年かして、彼の営んでいた微小企業より少し大きな工場のオヤジに見込まれて、そこの娘さんと結婚してその工場を継いだ。使う人数が数人から20人くらいになった。中学校を出て集団就職してきた者にとっては大出世に違いない。
その後、幸せな家庭を築き、二人の子供が生れた。そういうのを成功と言ってもいいと思う。私はいとこがそんなふうになったのを誇りに思っていた。
その後、二度のオイルショック、そして何度も不況があった。不況になると小企業に最初にしわ寄せがくるし、好況の時は最後にそのおこぼれを頂戴するという厳しい現実だが、そのいとこはなんとか30年間会社を経営することができた。
80年代末から中小企業でも産業の空洞化、海外展開などをする時代になって最後の頃はどういう状況なのかよくわからない。ともかく最後は息子に譲らず廃業してしまったと聞く。

30年の間、親戚の結婚式とか葬式でしかその方にお会いしなかった。都合せいぜい7〜8回だろう。付き合いといってもそんな程度である。
最後に会ったのはいつだったろうと思いめぐらした。たぶん私が都会に出てくる前、2000年頃に、その方の親父さん、つまり私の叔父の何十回目かの法要だったはずだ。
そんなことを思い返し、いとこがどんどん少なくなるなあ〜とハガキを手にして少し悲しかった。
高度成長期を支えた人たちがいなくなると日本はこれからますます変わってしまうのだろう。マンガ「あしたのジョー」を知らない人はいないだろうが、あの舞台背景にある貧しさ、飢餓、あしたこそという思いを理解できる人は少なくなりつつある。そしてその時代背景を知らなければあしたのジョーは理解できないのだ。
貧しさを体で知らない世代は、キャプテン翼の時代以降しか理解できないに違いない。
そして行動成長期、三種の神器、新三種の神器も知らない人たちばかりになったら、日本は本当に戦後ではなく、私たちの生まれ育った日本とは別物になってしまうのだろう。
三種の神器とは白黒テレビ・電気冷蔵庫・電気洗濯機のことで、新三種の神器とはカラーテレビ・クーラー・カーのことである。


本日の疑問
三丁目の夕日はとうとう沈んだのだろうか?
夕日が沈むと夜になるのだろうか?
そして日はまた昇るのだろうか?


タイトルと本文と結論が整合していないぞ!なんておっしゃるお方、
そんな細かいことにこだわってはいけません。 



私は青い鳥!様からお便りを頂きました(08.12.08)
音信普通
いつも楽しく拝見させていただいております。
音信不通が音信普通になっているところに、妙に惹かれてしまいました。
最低限、身内だけでも死ぬまで音信普通でいられるよう暮らしたいと思います。

私は青い鳥!様 えええーーーーーー
変換ミスですよ〜
とはいえ、後で笑いの種になるから残しておこうって・・・


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