外から見たISO その7 08.12.20

「外から見たと題しているのに一向に外から見たことについて書いていない」なんて苦情はきたことがこない。なぜなら、誰もこんな駄文を読んではいないのだろう。 
しかし本音を言えば、このうそ800は読めば読むほどするめのように味が出てきるのではないかと自負しているのだが。
最近ではいろいろな大学あるいは大学院で、環境マネジメントとか環境経営とか銘打った学科とか講座がある。そんなところで学んでいる学生あるいは院生は、私のところで学べば少しは実学というものが身につくのではないかと思うのだ。もっとも大学の先生を超えてしまって返って評価されないかもしれない。 
../moudoku.gif なにしろこのウェブサイトは一般的なテキストやインフルエンザワクチンのように、毒を除いて飲みやすく安全に作られていない。毒薬とは言わないが、劇薬のようで使い方を間違えると死にはしないがまわりからピエロに思われる恐れがある。

さて、本日はそんな大学で学ぶ学生の認識から・・
CEARという季刊誌がある。ISO14001審査員の登録機関であるCEAR(環境マネジメント審査員評価登録センター)が登録している審査員に配っているものである。
審査員あるいは審査員補の登録をしていてメリットというのは、年に二回程度の講演会とこのCEAR誌だけだ。費用対効果を考えると元が取れない。
毎号とも環境法改正情報とか、審査員の登録方法が変わりましたという程度の情報しかない。それでも毎回何らかの記事や寄稿があり読むと面白いものもある。
2008年12月号に「環境問題に目を輝かせる学生」という寄稿があった。書かれた人は同志社大学経済学部で環境マネジメントという講義をされている方で審査員資格も持っていると書いてある。
その方が教えている学生がISO14001についてのレポートから、ISOにどのような認識を持ったか抜粋したものが載っている。

まあ学生だし現実の企業の公害防止の実態とか、環境管理というか環境経営を知っているわけではないからあまりどうこういうこともないが、そりゃないだろうというのが目につく。
子育てに忙しい家庭の主婦でもなく、中学生でもなく、環境マネジメントを学んでいる学生のISO規格や認証についての認識がこの程度だということは、恐るべきことだ。
恐るべきというと誤解される恐れがある。
呆れてしまうというべきだろうか?
環境マネジメントと銘打っても、大学の講座でISOとか第三者認証を深く究めるべきだなどとは思っていない。しかし骨のところ、規格の意図、認証とは何ぞやということだけは知ってほしいと願う。
規格の意図を知らずに環境側面のテクニックを磨いても意味がないし、目標が高いと違反の恐れがあるなんて間違っては困る。規格の取得なんて言っては恥ずかしい。

そんなことを思うと、私が語っていることは一般社会人には全く理解困難なレベルであり、それどころか審査員の方々にとっても理解できないのかもしれない。 
おっと理解されているのかどうか、人の内心は分からない。しかし、それを実践していないことは間違いない事実のようである。
ISOとか認証という意味も意義も価値も理解されていないなら、第三者認証制度を良くしようなんて叫ぶことはまったく意味のない、私の一人相撲であったのか!?

本日の質問
今日は何とか外から見たISOのタイトルに見合ったものでありましたでしょうか?


ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(08.12.21)
規格を取得
規格を取る

うーん、この学生は先生が教えたことを聞いていなかったのか理解できなかったのか? まさか先生がそんなことを教えたわけはないよね?
でも単に普通に国語の意味を考えただけでも考えるとおかしい!って気が付けよ


そもそも勘違いの元は、EMSの活動が資格や免許を取得することと同義であると捉えていることにあるのでしょう。
しかしこれは無理からぬことで、この学生はある意味正しい理解をしていると思います。
話は少し逸れます。
先日、某大手認証機関のISO9001改正説明会に出かけて行ったのですが、実に異様な光景を目にしました。1社1名限りということだったので、出席者はおそらく管理責任者か同等の人たちのはずです。
それが話の内容を理解しようという姿勢ではなく、認証機関のエライさんの説明を一言一句もらすまいと懸命にメモをとっているのです。また、質問は「先ほど○○○という説明でしたが、それは×××をしないと不適合になるということでしょうか?」とか「××しないとダメですか?」とかいったものばかりでした。なんのことはない、「改正説明会」ではなく実態は「審査対策説明会」だったのです。
要するに規格改正の意図がどのようなもので、自社のマネジメントシステムをよりよいものにしていくためにどう活かすかということはまったく考えておらず、“どうしなければ”審査に支障が出るのかが関心事というわけです。
つまり、認証機関にとって規格改定はメシの種、登録組織にとっては認証を維持する上でのハザードでしかないというのが実態です。
このように、企業の大半が規格改正を改善のためのチャンスと捉えずに厄介事としか考えていないような運用実態であるのに、EMSを教える教授や教えを受ける学生が本来の意義を正しく理解しているはずがありません。

これは無事故を装うために測定値異常を隠したことを意味すると理解する。目標を厳しくすることと、うそをつくことは全然違う。
高い目標を設定してそれが達成できないときは違反を隠すことになるのか?といえば、そんなことはない。それは目標設定と全然違う次元のことであり、コンプライアンスあるいは企業風土の問題である。
この学生は環境マネジメント以前に企業のコンプライアンスというか企業倫理を学ぶ必要がある。


これも目標管理の正しい運用というものが大半の企業で行われていない実態を反映しているのでしょう。QC活動の発表会、つまりウソつき大会に多く見られることです。
またまた品質の例えで恐縮ですが、「クレームの半減」とか「不良ゼロ」とかいった絵に描いたモチの品質目標がどこの企業でも見られることと同じです。
心意気だけで設定された目標は、達成の裏づけも見込みもハナっからないのですから、期末になればウソをつくしかありません。その結果、ウソをついても許されるような甘い企業体質が定着してしまいます。
目標設定とウソをつくこととは密接な関係があるのです。
まず組織のニーズ・願望を分析し、達成に至るプロセスを検討して得られた見込みを目標に据えるというCAPDサイクルに目標管理の考え方と手法を切り替えないと、いつまでたっても「ISOなんてちっとも役に立たない」という声はなくなりません。
ヤマカン経営から科学的アプローチ経営への転換の問題であると思います。

(おばQ様風に)今日の結論。
“現場”である企業の最前線が間違っているのだから、それを“ネタ”にしている先生が間違ったまま捉え、結果として学生が勘違いをするのはプロセスアプローチからすれば当たり前である。「恐るべきことだ、呆れてしまう」とバッサリ斬り捨てるのは酷というものである。

たいがぁ様 毎度ご指導ありがとうございます。
うーん、いずれにしても結論は「ISOなんぞ認証機関にさえ理解されていないんだ。一般社会にとってはどうでもいいことさ!」ということになるのでしょうか? 
ところで私は定年になったら大学院に行って環境マネジメントを研究しようと思っておりました。
研究テーマは「なぜISOは無力だったのか?」を考えておりました。
もう大学院に行って学ぶまでもなさそうです。

うそ800の目次にもどる