老後 その1 2009.11.23

還暦を過ぎ、定年退職までの日数を指折り数えるようになると、改めて歳をとったと感じる。体力が衰えたわけでもなく、特段持病があるわけでもないが、引退しなければならない歳になったという現実を認めざるを得ない。 さて、老後をどう過ごすのか?ということが目前の課題だ。
以前、市民講座のようなところで「老後の3K」というものを聞いた。健康、経済、生きがい(気持ち)でこれを老後の3Kというそうだ。
はたして私に3Kがあるだろうか?

歳をとったらどう生きるべきかのお手本として、真っ先に思いつくのは自分の父親のことだ。オヤジは明治45年生まれ、56歳で定年になった。正確に言えば勤めていたところは大企業ではなく、規則上は明確な定年というものはなかったが、勤めている人はみなその頃になると会社を辞めるのが恒例となっていた。オヤジが会社を辞めた時、私は高校を出て働き始めて数年というところで同居していた。
オヤジは何もしないでいることのできない人で、会社を辞めるとすぐ、近所の自動車修理工場に手伝いに行った。修理工場といってもオヤジより数歳若い人が一人でしている生業みたいなもので、オヤジの親しい友人だった。
そのご主人はシベリア抑留されていて、よくぞ生きて還ってきたものだとご本人がいつも語っていた。当時私の周りにはそういう人たちがたくさんいた。
オヤジは押しかけで賃金などもちろんなしだった。オヤジは戦争の時、自動車部隊にいて通り一遍の修理はできた。昭和40年当時の自動車は現在のように電子回路の塊ではなく、ケーブルとレバーとギアなどのメカだけだったので戦争の時乗っていたトラックとほとんど違わなかったのだろう。
自宅から歩いて1分のところにある修理屋にほとんど毎日行って、主人と二人で修理に来た車をいじっていた。
車です
当時の車は良く故障したのである。
スピードメーターのワイヤーが切れた。パンクした。クラッチワイヤが切れた。クラッチが摩耗した(当時はオートマなんてなかった)、方向器のランプが切れた、ワイパーが動かなくなったなどなど
ボーリングの機械はなかった。もっとも昭和40年頃にはボーリングするようなことはほとんどなくなった。
ボーリングとは長年経過してシリンダが摩耗して変形すると、内面を少し削って丸くすることだ。ボーリングすると少し排気量が大きくなる。バイクなんかは馬力アップのためにボアアップといってわざわざすることがある。
その後、車のキーをなくしたという人がけっこういるのを知ってスペアキーを作る商売を始めようと機械一式を買って、その友人のところで合い鍵作りを始めた。その機械が当時20万か30万したと思う。高卒の初任給が4万もしないときだから、今のお金にすれば6・70万くらいの感覚だろうか。母親はなんでそんなことを始めるのかとだいぶ反対した。田舎町の町はずれで、小さな修理屋の片隅にいては合い鍵作りの客など来るわけもない。いつの間にか機械は埃をかぶったままになった。まあオヤジのやりたいことができて良かったのではないかと思う。

修理といっても常に客が来るわけでもない。オヤジは何もしないでおられない男だったので、また近くの農家と話をしてそこに手伝いに行った。オヤジは百姓の生まれだったので、農作業は一応何でもできた。手伝いと言ってもこれまた押しかけであり、無給だ。時々農作物をいただいてきたが、まあこれもオヤジの趣味と言うか生きがいだったのだろう。
野菜です ほどなくして私が結婚した。家内の家は百姓だったので、それからはオヤジは10キロほど離れた家内の家に押しかけていき、農作業を手伝った。家内の家では蚕様(かいこさま)を飼っていたので、人手があるのはありがたかったろう。
蚕は成長するときは常に桑の葉を与えなくてはならず、また繭(まゆ)を作る時は、もう大変忙しいのである。

車の修理屋、近所の農家、家内の家、相手がどう思ったかわからないが、オヤジはけっこうそんな生活を楽しんだのではないだろうか?
経済的には軍隊に行っていたので恩給もあり、私もお金を入れていた。そして当時はなにより今ほどお金のかかる生活をしていなかった。電気だって毎月200kWなど使っていないし、車といってもスバル360で月の走行距離は数100キロ程度、食べ物も野菜はほとんど頂きものだし・・贅沢しなければ十分暮らしていけたのである。
オヤジはそんな生活をして、67歳くらいで亡くなった。合い鍵の機械は修理屋にくれた。修理屋の人はだいぶ恐縮していたが、こちらこそだいぶ迷惑をかけていたのではないだろうか。

さて、オヤジの老後が私に参考になるかといえば・・まず私は働きものではない。怠け者だ。なにも働かずに過ごしたいとは思わないが、農業もできないし、車の修理もできない。それに近くに農家もないし修理屋もない。いやこれは冗談だ。
オヤジが定年後も身を粉にして、朝から晩まで、しかも他人の家に押しかけてまで働くという感覚は理解できない。 まあ私はのんびりとどこかの会社で軽作業でもさせてもらおうか。合い鍵作りでもなんでも、何か事業を始めようなんて考えたら家内がビシッと拒否するのは間違いない。
とりあえず、あくせくすることはない。じっくり近所のご老人方の暮らしを状況視察して考えよう。
みなさん、私の今後がどうなるのか、ひとつ当てっこしませんか?

本日のタイトル
なぜ「老後 その1」なのかといえば、「老後 その50」くらいまでいくのではないかと 



ふっくん様からお便りを頂きました(09.11.23)
老後かぁ〜
老後は、黄門様になって世の審査を渡り歩くのはどうでしょうか?それともISO俗世間とは離れて、悠々自適な生活・・・
おっと、思い出しました。社会人大学生になるのではなかったのでしょうか?老いてますます壮健な佐為さまを期待しています。
私は自分自身の人生のしまい方は決めています。20年後、子供も育ってひとり立ちしたら・・・そして自分自身が元気なら・・・
子供たちに科学を教える塾を開きたい。夢ですけどね、元気なら実現させたい。また年に一度くらいはオーストラリアかハワイに行きたいですね。
ま、夢ですけどね。

ふっくん様 毎度ありがとうございます。
まあ、そうせかさないでくださいよ・・考え中であります。
ところでハワイの天文台に行ってみたいですね。
あそこは登山でなくて車に乗って山頂まで行けると聞きました。
一晩(二晩でもいいですが)山頂で星を眺めていたら最高でしょうね。
その前に先立つものが・・・_| ̄|○

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