「自然との共生というウソ」 2009.04.25

著 者出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
高橋 敬一祥伝社新書978-4-396-11152-62009年4月5日760円全一巻

「自然」とはなんでしょうか?
草木が生えていることでしょうか? それは世界的にいって「自然」ではなく、日本においてだけ「自然」であるようです。
アラビア半島や中国西部に行けば砂漠が「自然」でしょうし、アラスカに行けばツンドラが「自然」でしょうし、もっと北に行けば氷雪風景が「自然」でしょう。
では「自然」とは人間の手が入っていない状態なのでしょうか?
もちろん氷雪地帯なら人間の手が入っていないのは間違いないでしょう。イヌイット(エスキモー)がいかに頑張っても氷と雪の風景を変えることはできないでしょうから。
では、砂漠は人間の手が入っていない状態でしょうか?
世界の砂漠には人が木を切ってしまったとか、灌漑農業による塩害のために砂漠になったところが多いそうです。中国人は現時点、一生懸命に砂漠化に励んでいるそうです。じゃあ、砂漠は自然ではないのでしょうか?
日本だって、里山なんていうのは人が手入れして維持している状態であり、極論すれば盆栽です。じゃあ、里山は「自然」ではないのでしょうか?
明治神宮や新宿御苑には巨木がうっそうと茂っており原生林のように思えます。そこは人間の手が加わっていないのかと言えば、そこの木々は全部人間が植えて育てたのです。でも人間が手入れしていても訪れる人はそこに「自然」を感じるだろう。

いったい一般の人の考える「自然」とはどういうものでしょうか?
他人が考える自然というものがいかなるものかわかりませんが、私にとっての自然とはどんなものだろうか。
私のオヤジの本家は、私の家から歩いて1時間少しの所にあり、子供の頃はしょっちゅう遊びに行った。そこは開墾と呼ばれており、親父の親父がこれまた長男でなく、分家して山を開墾したところだった。オヤジの兄がそこを相続したが、面積わずか6反(約60アール)ほどの田畑で、家族4人食っていけないという貧農だった。それで叔父は東京に働きに行き、奥さんが農業をして子供たち(私のいとこ)を育てていた。
それはともかく、実家は林に囲まれておりうさぎもリスも野ネズミも時たま姿を見かけたし、キツネは毎晩鳴いた。今の言葉で言えば「自然」そのものだ。私はブナの原生林も、釧路湿原も尾瀬ケ原も見たことがなく、子供の時から見ている林を自然だと思っていた。
ところでその農地のまわりの林に人間の手が入っていなかったかといえば、そんなことはない。どこかのおじさんが雑木を切り炭焼きで暮らしを立てていた。一角の木を切ってしまうと炭焼き窯移動した。何年かして雑木が伸びて炭焼きできる頃になるとまた戻ってきた。決して人間の手がはいらないわけではなかった。
実家のあった開墾は1980年頃に林は全部伐採され、起伏はきれいに平らにされて、工業団地となり、工場が建ち、痩せた土地を耕していた貧農や炭焼きたちは工場の従業員に大出世した。「自然」がなくなって悲しんだ人はいなかったように思う。
きつね 家内の実家は私の本家よりさらに田舎にある。21世紀の今も工業団地にもならず、住宅地にもならず、キツネは毎晩鳴き、夜はイノシシが出て畑の作物を荒らす。いたちは日中でも見かける。だいぶ前だが義弟は会社帰りに道路でハクビシンを見かけたという。それはさすがに珍しいことであった。稲刈り時期にはマムシに気をつけないとアブナイ。今でもそんなところだ。
見る人が見れば「自然」がいっぱいの素晴らしい環境である。もちろんそこも人間の手が入っていないわけではなく、人間が手入れしないと現在の状態は保てない。
採算が取れなくなって放置したリンゴ畑は、あっというまにリンゴの木はアカシアに負けしまい、そのアカシアも数年でならやくぬぎの木に負けてしまう。今年でリンゴ畑を止めて20年くらいになるがもう立派な雑木林で炭焼きができる。林の中の踏みわけ道は人が草刈りをし生えてきた木を切らないと、1年もしないうちに道がなくなってしまう。
自然と見える風景は実は絶え間ない人手を入れることによってその状態が維持されている。
ところでそんな「自然」がいっぱいのところは素晴らしいかというと、上水もないし、下水もないし、都市ガスもない。国道に出るまで一応舗装はされているが狭い道を、車でかなり走らなければならない。暮らしてみると、あまり便利なところではない。都会に暮らしている人がそんな風景を見て素晴らしいといっても、実際に住めばカルチャーショックを受けるだろう。正直言って私も住みたくない。

「自然」とはなんだろう?という問いに、回答は一つではないとは思う。
この本は、「自然とはその人の原風景である」と定義する。つまり人間の手が入っているとかいないとは関係ないのだという。その人が生まれたとき、物心ついた時の記憶が自然なのだという。言われてみるとその通りのように思う。その人の原風景であると定義すれば、人によって自然と認識するものが違っていても、すべて説明がつく。
原生林に来て開墾した人にとって、原生林が「自然」だろう。植林し育て伐採している人にとっては人工林が「自然」だろう。田園に生まれ育った人には、田畑やその周辺の里山が自然だろう。都会に生れ住んでいる人にとっては、公園や河川敷が自然だろう。
とすると、自然保護というものも、その人の原風景を保つことだと予想される。決して人間の手が入っていない状態を維持することではないようだ。

偉い学者も自然保護の団体も、生物多様性が重要だという。いろいろな生物がいることは生態系の健全化につながると言う。そう言われるとそのような気になるが、それは本当なのだろうか?
朱鷺(とき)を繁殖させようなんて活動は多額の税金を使って行われている。朱鷺がいるといかなる価値があるのか?私にはわからない。そして朱鷺という1種類の鳥が生物多様性において大した効果はないように思う。
朱鷺を保護し天然痘を撲滅することが、生物多様性における意味がどう違うのか私にはわからない。イリオモテヤマネコを保護しヤンバルクイナを保護し、ハブを駆除することはどう理解すればよいのか? 発電所の建設用地にワシが数羽いるために、工事を止めることは適切なのか?

恐竜だあ カンブリア大爆発はその前のいた生物が滅んだからその隙間を埋めるためであろうし、恐竜が小惑星のために滅んだからこそ、今人間がいるのではないだろうか?
ということは人間が己の浅はかさで地球温暖化をもたらし人類と温暖化に対応できない種が滅んでも、それによって新たな種の大爆発が起きるならそれもありだろう。もっとも地球温暖化がそれほどのカタストロフをもたらすとも思えない。今の温暖化防止というものはお金儲けそのものだという著者の意見に全く同意する。
この著者は自分の原風景を保存したいという思いを否定しないが、それを自然保護ということは故意か無意識かを問わず正直ではないという。私もそう思う。
「私たちは地球の未来のために自然保護をする」と言わずに、「私たちは自分たちの郷愁のために、更には金儲けのために活動する」というべきだろう。

本日の名言
山が荒れたというが、それは山が自然に戻っただけなのさ


ロケットけんちゃん様からお便りを頂きました(09.04.26)
自分の原風景を保存したいという思い、確かにありますね。
田舎に帰って良く訪れるところが人家から少し離れたところにある小川の洗い場です。そこでは昔と同じように澄んだ水が流れ、粗雑に組まれている石畳も昔のままです。かっては野菜を洗っていた人がいましたし私も良く靴を洗いに行きました。しかし今ではもう人気もなくしんと静まり返っています。そういえばあれだけたくさんいたメダカも全くいなくなりました。これは日本全体でそのようですね。
時を青年時代に移しますと、狭い路地裏の小さな食堂、おかみさんが「あらいらっしゃい」と声をかけてくれて看板娘がにっこり微笑む。こういった原風景はよみがえって欲しいと思うのですがもうその路地を訪れても跡形もありません。行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず(方丈記)の心境です。自然保護として蛍やメダカを飼育する公園もよいのですがやはり物足りませんね。
ロケットけんちゃん様 コメントありがとうございます。
メダカがいなくなったのはカダヤシとの競争に負けたとか、ブラックバスに食べられたためとか諸説あるようです。
看板娘がいなくなったのは自動販売機との競争に負けたせいです。
その代りジェンダーフリーの怖いお嬢様が増殖しているようですよ。
方丈記といってしまえばもうそれまでですね。

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