貨幣進化論 10.12.08

著者出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
岩村 充新潮社4-10-603666-82010/9/251300円全一巻

お金とは何だろうか? 50年も昔のこと、小学校でお金の働きは三つあると習った。ひとつは価値を保存することであり、ひとつは交換することで、ひとつは価値を測ることと習った覚えがある。
確かに預金や年金などは価値を保存することだろうし、スーパーでの買い物や電車賃を払うことは物あるいはサービスと価値を交換することであり、ヴィトンのバッグと海外旅行どちらがいいかを比較をすることは重さと長さを比較するようなもので、お金がないと比べようがない。
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もちろんヴィトンと海外旅行どちらを選ぶかという判断は可能だが、費用対効果、あるいはそのために払う犠牲を値踏みするためには、お金というものさしがないと困難だろう。
15年も前のこと、私はパソコンを買うか、海外旅行に行くか、ISO審査員の研修を受けるかと悩んだが、結局審査員研修を受けることにした。これは、あんまり関係ないか?
もちろん学者によっていろいろな考えがあり、もっとほかの説明もあるだろうと思う。

お金というものが存在するという前提で、お金の働きというか機能を考えれば今のような話になるのだろう。しかし、そもそもお金ってなんだろうと考えると、これはなかなか説明ができないことに気がつく。
お金がない時代は物々交換だったと小学校で習った。海彦が取ってきた魚と、山彦がとってきたイノシシを交換するというのはありそうな気がする。現代においても旧共産圏諸国が外貨がないときに、バーター取引といって早い話が物々交換をしていたのは有名な話だ。
しかし魚をもっている人がじゃがいもをほしがり、じゃがいもを持っている人が肉をほしがり、肉を持っている人が魚をほしいというような三すくみの場合は、欲しいものとの直線的な物々交換はできない。またお互いに持っているものそれぞれが、どのくらいの量なら等価かという交渉もたいへんだ。そんなわけでお金というものが発生したであろうとは普通の人にも想像できる。

しかし、お金というものが決済手段として通用するかどうかは、お金という物体が信用されないとならない。強制的な力で「これは価値があるから決済手段として使え」といったところで、信用は得られないだろう。現実に内乱状態の国とか、経済が混乱状態にある国においては、その国の政府が発行している通貨ではなく、外国の信用できる通貨、例えばドルとか円あるいは金地金で自分の財産を保全しようとするだろうし、決済にも使われるのが現実である。
つまりお金がお金であるには、信用されなくてはならない。
じゃあ、どうして信用を得るのか? となると、このへんで私の場合は説明に詰まってしまう。
日本においても、地震や交通機関が止まった時は、札束よりカップラーメンのほうが価値があると判断される場合もある。つまり、価値あるものとの交換機能より、価値あるもののほうが直接的であることは当然だ。

この本はたまたま図書館でみかけ、タイトルが面白そうだったので借りてきたのです。
私が図書館に行くなんてことは青天の霹靂といえることです。
ちなみに霹靂とは突然のカミナリのことで、めったにないということ。
この本の冒頭50ページで、仮想の島でお金がどのようにして発生したのかの物語が描かれています。「パンの木の島の物語」というのですが、ものすごく面白く、ためになりました。
詳細はこの本を買うなり図書館で借りるなりしてほしいのですが、この「パンの木の島の物語」を読むだけでもたいへん面白く勉強になることを保証します。

現実の社会は「パンの木の島」よりも複雑で、物語に出てくるように善人ばかりではありません。まずお金を発行することは利益を得ることですから、権力を持つ人は自分の貨幣を発行しようとするでしょうし、それによって争いが起きるでしょう。またお金は生活とか社会が動くために必要とされますが、お金を目的とする人が必ず現れてマネーゲームをはじめるでしょう。
そういえば「お金を儲けて何が悪い」と語った方がいましたが、私はお金を儲けるのが悪いとはいえないと思います。しかし本来であれば、結果としてお金が儲かるのではないかという気がします。まあ、私はお金に縁のない人生でありまして、若くして巨額の富を得た方とは人種が違うのでしょう。

1000

日本銀行券
★★千円

★★DE6289000
この本を読んで学んだことはたくさんありますが、バブルという言葉もそのひとつです。
経済学では「自分が使って味わって実感できる価値ではなく、他の人が買ってくれるだろうという期待に基礎をおく価値(p.109)」のことなんだそうです。なるほど、単なるバーチャルという意味ではなかったのですね。アメリカの1980年頃のSOx規制がバブルと呼ばれ、現在の二酸化炭素排出量取引がバブルと呼ばれるのはその意味だったのか! とひざを叩きました。

ただ後半になりますと、この方はかなり慎重派です。三橋貴明とはだいぶスタンスが違います。
景気回復のための施策についても、絶対にインフレを起こしてはならないと語っています。石橋を叩いて渡らないように思えます。長年、日銀にいて実務を担ってきたということから、経済はおもちゃではないと認識されているのでしょうか?
私には金融政策など、どのように舵を切るべきかなんてわかりません。具体的な施策になれば経済学者や政治家あるいは財務担当者など、いろいろな立場で、いろいろな考えがあるでしょうし、また同じ方法が、あるときは良い結果となり、あるときは裏目になるということもあるでしょう。
まあ、政策論についてはひとそれぞれということで・・・

読んで決して後悔はしません。お勧めします。


ふっくん様からお便りを頂きました(2010.12.16)
昔、秋葉原で・・・
まだ秋葉原がバリバリの電気街だったころ、目当てのスピーカスタンドを見つけて店員に「これもらいたいのですが、いくらですか?」って聞いたら、店員しばらく考え込んで。。。
「お客様はこの商品にいくらの値段をつけますか?」
「え!」
実はお店のほうでも古い商品なので処分しようかなと思っていたみたいで・・・でも、私にとってみればやっと見つけた貴重な商品。
うーん、ここでどのくらいの価値をつけるか・・・本来なら自分にとって数万円の価値があるが、新米サラリーマンにはお財布事情もあるし・・・。
「よし、5000円!」
「では、それで(OKです)」 そのときはそれで終わったのですが、時代が進み、デフレ時代になって何でも安ければそれでいいという世間の空気の中で、事あるごとにこの店員の一言を思い出します。
お金がその商品(あるいはサービス)に払う代価なら、安い=それだけの価値しか認めていないということですからね。結局今は皮肉な言い方をすれば、お宅の商品(サービス)は価値のないものですよって言っているような気もします。
ふっくん様 毎度ありがとうございます
昔・・何年位前までが昔なのでしょうか?
秋葉原では値切りということが当たり前でした。私も年に一二度上京しますと必ず秋葉原によってはオーディオとかパソコン部品などをながめたものです。
ほしいものがあると、いくらまで負けてもらえるのかと交渉しました。
あんな時代もあっ〜たねと♪(中島みゆき)
時代が変わって、アキバにはメイドと中国人しかいなくなったようです。
今はアキバまで電車で40分のところに住んでいますが、年に1度も行きません。
日本経済が元気を取り戻せば、アキバも生まれ変わって歩き出す〜よ♪(中島みゆき)

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