持続可能性 2 2010.04.11

持続可能性とはよく言われる。今世間で言われている持続可能性とは、高い生活水準をいつまでも続けられることを意味するようだ。
もちろん持続可能性という言葉が使われても、あるいは辞書に載っていても、そういう状態が存在できるのかは別物である。
不死とか、瞬間移動という言葉があるが、いまだにそれを見た人もいないし、実現した人もいない。だから持続可能性というものがあり得るのか、ありえないのか、どうだろう?
少なくとも私はそれを証明したものを見ていない。
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話はパット変わる。話が変わるのは私の得意技である。
今の暮らし、私の暮らしに限定しても良い。非常に快適でありラクチンである。
毎晩、お風呂に入れる。毎晩お風呂に入るのが素敵だと思う人もいるし、思わない人もいるかもしれない。朝風呂が好きな人もいるだろう。朝風呂に入れるということがいかにすごいことかをご存じだろうか?
私の出身地には「「小原庄助さん なんで身上つぶした〜♪ 朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした〜♪ ああもっともだ もっともだ〜♪」という歌がある。朝ゆっくり寝ていたり、朝風呂に入るような暮らしをしていては財産をなくして当然だということだ。
まあ、あさから酒を飲んでいては・・道徳上も良くないだろう。 

私が生まれた時、長屋がいくつもあり何十戸も暮らしていたが、風呂がない。全員2キロも離れていた銭湯に行っていた。だから毎日風呂に入るなんてとんでもない。週に2回とか3回入るのが普通だった。江戸時代とか明治のことではない。昭和30年頃(1955年頃)のことだ。
父親の実家はへんぴな開墾地にあり、電気も来ていなかった。お風呂はドラム缶に水を入れて薪で焚いて沸かして入った。中に板を敷いていたのか、下駄をはいて入ったのかは忘れた。若い女だって屋外のドラム缶の風呂に入ったが、当時はそんなのが当たり前で恥ずかしいという気もなかったのかもしれない。
私が大人になり、家内と結婚してはじめて住んだ長屋には風呂がついていた。それをみて親戚の人が「たいしたもんだね」と言ったのを覚えている。風呂付の貸家はたいしたものだったのである。大昔のことではない。1975年のこと。
その頃、出張でビジネスホテルに泊まったりすると、明るい風呂でシャワーから温水がでるのに感動した。年に1度くらいしか出張はなかったが、そういう風呂に入るのが楽しみだった。今思うと狭いビジネスホテルだったのだが・・
お風呂は暗かった
当時住んでいた家の風呂はワット数の小さな電球でそれをカバーがあったのでますます暗かった。
風呂場では漏電を防ぐために電球そのままでは使えなかったらしい。
いまでもそうか・・・
今の我が家にはエコキュートの風呂がある。いつでも入れる。しかもお湯の温度は一定である。熱すぎることもなく、ぬるいこともない。しかも温度は一定に保持されている。初めに入った人も、おしまいに入った人も同じ温度である。温水のシャワーも使える。まさに天国のようだ。
え!お宅もそうなんですか?
そりゃよかった。でもそれを実現しているということは大変なことだと思いませんか?
きっと大量にエネルギーを使い、またそのシステムはものすごく初期投資も維持するにもお金も種々資材も使っていることでしょうね。

水の次に生活に必要というのは便所だ。今では便所という言葉は差別語らしく、トイレという怪しげなカタカナ語を使うようになった。ま、それはおいといて・・
私の子供時代、便所はくみ取り便所である。それはどういうものかといえば、家を建てるときに穴を掘って大きなカメをそこに埋める。そしてその上に便所を作り、板の上から排泄するといういかにも原始的で簡単である。かめにし尿がたまると、近くの農家に頼んでくみ取りに来てもらう。くみ取ったし尿は肥だめといって畑の傍に穴を掘ってそこにためておく。そして完全発酵してから畑に肥料としてまくのである。
だから便所は臭い。くみ取りに来てもらうのはありがたいが、くみ取りの人は何百メートルも肥だめまで天秤棒で担いで行くのだが、道々臭い。そして担いで歩けば桶が揺れてそこからチタチタと中身がこぼれるというのは当たり前で、くみ取りの通った道にはウンチが点々とあり、臭い、汚い。
肥だめにも思い出がある。私たちが表で遊んでいると、誤って肥だめに足を入れたりということは多々あったのである。
中学校の時、くみ取りの人が来てくれなくて、何かで悪さをした連中が学校の便所のくみ取りをさせられたことがあった。学校のくみ取り便所から農家まで運んで行くのである。その後、やらせられた連中はすごいことをしたぞと威張っていたし、我々も尊敬した。そんな時代だった。
今なら保護者が怒り狂って市役所に駆け込むのではないだろうか。先生は首かもしれない。
私が結婚して最初に住んだ長屋は当然くみ取りである。それから子供ができたり事情があったりして、何度も引越しをしたが、トイレはくみ取りとか、大きな県営住宅に住んだときも水洗ではなく、個別浄化槽であった。水洗になったのは1990年頃かそれ以降である。
千葉に来て街から大分離れたマンションを買ったのが2年前だが、マンションは市との協定でわざわざ下水道管を引いたという。そのときまわりの戸建住宅は市の下水道が来てなく個別浄化槽なのである。2010年の今まさに下水道の工事をしている。

暖房だって、練炭こたつは電気こたつとなり、石油ストーブとなり、温風ファンヒーターとなり、エアコンとなった。
交通機関も、通信インフラ、衣類も、食べ物も、娯楽も同じ・・もうエジプトのファラオにも、ローマの皇帝にも、江戸時代の将軍にも、想像もできないようなとんでもない暮らしをしている。

おみあし 話はパット変わる。
某所で年配の男性と妙齢の女性が話しているのを、聞くともなしに聞いていた。
「持続可能性は最優先です。」
「私もそう思います。みなが豊かな暮らしをしていてはいつかは破綻してしまいます。」
「農業だって有機農業をしなくてはなりません。」
「有機農業で作った野菜は栄養豊富でおいしいんですよね。」
見るとはなしにそちらに視線を向けると、若い女性の指先に目がいった。
ネイルアートというのだろうか? 爪にエナメルを塗った上に、カラフルな小さなビーズがきれいに付けてある。きっとこの女性は炊事をしないのだろう。足元をみるとピンヒール。肥桶を担ぐには不似合いに思えた。
家に帰って家内にその話をすると、きっと農業をしたことがない人だねとひとこと
私の父方の祖母は、1960年頃父の兄が電気も来ていない開墾地を捨てて東京に出て行ったときに、東京には行きたくないと我が家に移り住んだ。その祖母は長年農業をしてきたせいで農夫症・俗に地面をなめるというが、背が曲がりヨタヨタと歩いていた。そして70代半ばで亡くなった。それでも当時としては長生きした方だった。機械化される前の農業とはいかに厳しい仕事だったかということだ。
ひとつ、提案である。
有機農業をしようと語るには、一度有機農業をした人だけに限定しようではないか。
いや、それでも甘いかな。
最低1年間、有機農業に従事した者だけとしよう。

持続可能性とは簡単ではない。応接室で語られる言葉でも、マニキュアをした人が語る言葉でもないように思う。それこそ地に足を付けて、そういう生活をしている人が語るべき言葉だろう。
以前も似たようなことを書いたことがある。
だけど、黙っていられなくてまた書いてしまった。決してボケて同じ主題で書いたのではない。

本日の怒り
私は持続可能性を語ることは許さんなんて理不尽なことは言わない。
しかし、ネイルアート・ピンヒール・きれいなおべべを身に付けて、優雅な暮らしをして語って欲しくない。
まして有機農業がステキなんて ふざけんじゃねー
金田一ではないが、ばあちゃんの名にかけて、そのような者を許すことはできない。



外資社員様からお便りを頂きました(10.04.12)
佐為さま
都会育ちの私でも、判る範囲にて。
とある日本の会社が経営する有機農場で、「木酢酸」を使っており、その社員が当社は「農薬ではない自然の材料を使っている」と誇っておりました。確かに木酢酸は、「農薬登録」がされていませんが、それゆえ成分の管理も、危険度も不明なのだと危惧しています。
廃材から作ればシロアリ用殺虫剤の蒸留成分も入りますし、自然の木だけを材料としても成分としては、クレゾール、ホルムアルデヒト、ベンゼン、トルエンなどを含んでおり、どの程度 有害物質や発がん性物質が含まれているかは、供給側に管理義務がないのですね。
「自然なものは良い」という信仰もゆきすぎると、管理義務のあるメーカ製品ではなく、手作りの屋台の食べ物を良しとするようなことになります。通常、有機農法と無農薬はセットになり、周辺農家からの農薬に「汚染」されない範囲のみ有機適用ですなどと、さも大変なように説明がありました。 しかし、周辺農家までみな無農薬になれば、害虫リスクは大きく増えるのではと疑問をもっています。 もしそうならば、農薬あっての有機農法という不思議な事例もありえます。有機農法だろうが、今時 農機具に石油は必要ですから、燃料代など必要なエネルギーが、従来の無期肥料による農業より改善されていないと、持続可能というのも怪しい気がしますが、この辺りの説明は寡聞にして聞いたことがありません。
私の台湾の知人が、道楽で高級茶の販売をしているのですが、この茶園は標高千m程度の高山で、それゆえ害虫がほとんどいません。 栽培、取り入れ、加工は、地元の山岳少数部族を中心に、人力を中心に行っています。(茶園が急斜面にあるので機械化が困難)
それでも無農薬はほぼ無理で、少量の農薬と無機肥料も使う必要があります。この農園では、労働賃金が日本の1/3程度ですが、このような農法をすると、茶葉の原価は100gで三千円を越えます。
値段が高い一番の理由は、気温が低いので成長が遅く収量が少ないからです。私も、このお茶を日本で売らないかと言われたことがありますが、小売なら100g 六千円くらいは必要なので断りました。(笑)
とは言え、台湾や中国の金持ちは、100g六千円でも高級茶なら買うので、ビジネスとしては成り立ち、持続可能なのですね。
また、同様な農法で、無農薬も可能なのですが、収量との関係で、更に高い茶となります。
それが成り立たないので、収量を上げるのに適切な範囲で農薬も無機肥料も使っています。 知人の言い分は、値段と味とのバランスだと言うことで、私も持続可能な農法とはそうしたものだと思います。(完全無農薬、有機栽培の茶も飲まして貰いましたが、おいしくはありませんでした。)

外資社員様 毎度ありがとうございます。
100グラム3000円ですか・・・声なし
私には縁がなさそうです。会社で無料の給茶器のお茶がまずいと言いながら、ペットボトルのお茶も買わない・・買えない私です。
持続可能という言葉はやたら使うお人がいますが、過去そのようなものが存在したのかどうか定かではありません。
エジプトの王朝は1800年くらい続いたのは間違いないそうです。それならナイル流域は持続可能だったのか?といえば自明なこと、ナイル河の氾濫が農業を支えました。
イラクやインドでは氾濫が土壌の塩害を浄化するほどではなく衰退しました。
ギリシアは今では荒れ地しかありません。
中国の黄河は上流の森林の消滅と水そのものの汚染によってもう使い物にならないでしょう。
私が知る限り持続可能な社会とは人口が非常に少ない状況下の焼畑農業だけのようです。というか原始社会においてのみそれが存在したということに過ぎません。原始社会が長期間(1万年くらい)続いたからたぶん持続可能だろうと想像するだけです。
持続可能とはお茶の間でコーヒーとアップルパイを食べながらお話する話題に過ぎないようです。
おお!あれは私を殺しに来た環境論者ではないか!

ふっくん様からお便りを頂きました(10.04.12)
えー!!!
「便所」って差別語になったのですか〜!信じられないです。私、今でもフツーに便所って使っています…赤面!
あー、そういえば小学校の頃、汲み取りトイレの近くを歩いた友達が臭いなんて言ったら先生にぶっ飛ばされていました。今ならどうなるだろう…。持続可能性とか、二酸化炭素とか…広げれば広げるほど話題に尽きない環境問題に乾杯です。
よく全人類がアメリカ人のような生活をすると地球が何個いるとかいう話がありますが、私…天邪鬼なので思うのですが、アマゾンの奥地やアフリカの原住民が、アメリカ人のような生活をすることが幸せなのかなと感じます。彼らは彼らの生活スタイルが幸せなのではないかなと。世間様は自分たちの尺度で考え、本当の豊かさを取り違えているような気がしてなりません。

ふっくん様 毎度ありがとうございます。
いえ、私の言いすぎです。
便所とは差別語ではなく、忌避語ではないでしょうか?
鳩山さんとか麻生さんが公式な時にどんな言い方をするのか、興味があります。

あらま様からお便りを頂きました(10.04.13)
田舎の暮らしは・・・
佐為さま あらまです
拙宅のある田舎にも、定年を待たないで、リストラされた中高年が、都会から田舎暮らしを始めに来る人がいますが、その多くは、余りにも不便でキツイので、また都会に戻っていきます。
ましてや、有機栽培、無農薬だなんて、非常に大変です。
除草剤の代わりに草取りを頻繁にしなければなりませんし、除虫剤の代わりに手で虫を取らなければなりません。
さらに、堆肥などで土を整えるなんて、大仕事です。
有機栽培は、家庭菜園でさえも大変な「事業」です。
ましてや、林業、漁業なんて、シロートが簡単に出来るものではありません。
また、「昔は良かった・・・」なんていう人は、昔の苦労や痛みを忘れたからでしょう。
実際に、昔の生活に戻ったら、不便で不自由でやっていられないと思います。
一度身についてた便利さに慣れると、元には戻れないと思います。

あらま様 毎度ありがとうございます。
 昔は良かった・・
 今の若い者は・・
これってエジプトの時代からの常とう文句のようですね。
私は今の暮らしが好きです。ただいつまでもこんな快適な暮らしを続けることは困難だとも思います。だって石油がなくなればご飯を炊くにもどうするのでしょうか?
まあ、有機農業をしようとか、無農薬野菜を語る人よりは、農業に近いかと思うので彼らが音をあげて倒れても私の方が長続きするかと期待しております。


外資社員様からお便りを頂きました(10.04.19)
佐為さま
原住民による高級茶 100g 3千円は原価ですから、日本で売れば市価は一万円になります。
事実、大陸では770人民元で売っていますので、ほぼ一万円ですね。
それでも、中国の金持ちは買いますので、日本には あまり高級茶市場はないのだと思います。
ここで大事なのは、価格が折り合えるかが継続可能かのキーです。
継続可能な農法やら、消費は、もう一点 大きな誤解があるように思います。
エネルギー面で継続可能だという判定があれば、もう気にしないで良いのでしょうか?
万一 核融合等が可能になって、化石燃料に頼らないで膨大なエネルギーが使えたとしても、世界中の人がアメリカ人や、金持ち中国人のような生活をしたら、大いなる無駄なのだと思います。
以上

外資社員様 毎度ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね、
人間の欲望は切りも限りもないので、制約条件がなければ問題にぶつかるまで拡大してしまうように思います。
全然関係ないですが、8ビットのマイコン時代はBASICのプログラムを組むのに少しでも文字数を減らそうと必死になったことを思い出します。
今ではメモリーの制約は実質的にはないも同然です。
あのころが良かったとか懐かしいとは言いませんが、無駄をしているのは事実でしょうね。
人間のさがなのでしょうか?

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