聖書物語 2010.12.04

私は東北の田舎に生まれ育ち、文化とは無縁の教育を受け、いや教育を受けずに育った。キリスト教なんてものに出会ったのは、記憶にある限り小学生の頃、尼さんつまりシスターが私の住む長屋に来て、子供たちを集めて聖書の話をしてくれたことである。
私の生まれた近くには・・といっても数キロ離れていたが・・修道院でもないだろうが、キリスト教の尼さんが何人も住んでいる教会のような施設があった。そこの尼さんがときどき、周りの町や村に出かけては、早い話が紙芝居をしてくれていたのである。
普通の紙芝居は、子供たちを集めて飴や駄菓子を売って紙芝居を見せた。買わない子供は追い払った。まあ、それも商売だから当然だろう。
それに対して、キリスト教の紙芝居は、子供たちを集めて飴や駄菓子を無料で配り、紙芝居を見せた。紙芝居の絵が辛気臭くても、ストーリーが理解できなくても、ただで飴がもらえるということは貧乏人にとってはすばらしいことだ。そんなわけでキリスト教の尼さんが来ると聞くと、隣近所の子供たちは我先にと集まってきた。まさに蜜に群がるアリである。そんな時代が本当にあったのだ。1955年頃だろうと思う。
../2008/tree.gif
そのようなけなげな布教活動によっても、私の隣近所にはキリスト教徒はいなかったし、子供たちでキリスト教になったものは一人もいない。一番近くに住んでいるクリスチャンは、以前書いたことがあるがアーメンみよちゃんというおばさんで、我が家から2キロ以上離れていた。
じゃあ、クリスマスはしなかったのかというと・・どうだろうか。
クリスマスプレゼントというものはノートとか鉛筆とか枕元にあったような気がするが、クリスマスにツリーを飾ったり、ケーキどころか、うまいものを食べたという記憶はない。
なにしろ、当時はみな貧しかったので、お正月に雑煮を・・おせちではないよ・・食べられれば幸せだった。餅はご馳走だった。我が家で餅を食べてなくなると、親戚の家に行って餅を食べさせてもらった。単に餅を焼いてお醤油を付けて食べるだけだ。当時はみかんもめったに食べられない果物だった。なにしろ干し柿のむいた皮も干しておいて甘くなったら食べた時代である。今の人には想像もつかないだろう。
息子がお正月に雑煮よりカレーが食べたいなんていうのを聞くと、正直私はさびしくなる。
お断りしておくが、貧乏を自慢する気はない。また私の子供や孫にそんな貧しい暮らしをしてほしいわけではない。ただそんな時代があったということは事実である。

中学生のとき学校の帰り道でキリスト教の神父だか牧師だかわからないが、道端でめったに通らない通行人を呼び止めて神がどうたらと話かけていた。今なら振り切って通り過ぎるだろうが、当時の私はものめずらしさに立ち止まった。だいたい、田舎の畑の中の舗装もしていない道路で、見たことのない人がいて話しかけてくるなんてめったにないことである。

「主はすべてを許します」とか「裁きの日が来る」とかいう話を聞いても、正直何を言っているのか理解できなかった。話している言葉が日本語と思えなかった。
当時のキリスト教の布教方法は営業的センスがゼロといっても良い。相手の知識レベルとか関心事を把握して、どういうアプローチをすべきかを考えないと、セールスでも布教でも成功するはずがない。
だいたい、イエス様もいっているではないか、自分がしたいことではなく、人がしてほしいことをしろと
パウロは最高のセールスマンなんていわれている。現代の宣教師はパウロを見習わねばならない。

ともあれ、そのおじさんはただで聖書をくれるという。しかも、その聖書は英語と日本語が並んでいて英語の勉強になるという。スバラシイ!
私はありがたく聖書をいただいて帰った。
当時も今も私は本を読むのが好きで、暇さえあれば読んでいた。もちろん子供だったから難しい本は理解できなかったが理解できなくても手当たり次第に読んでいた。今と違うのは、手に入る本が限られていたということだ。親戚がいらないというリーダーズダイジェストの古本をもらってきては必死に読んだことを思い出す。

頂いてきた聖書はもちろん新約聖書である。マタイからローマ人の手紙まで何度も読んだ。紙芝居で聞いた創世記がないので不思議に思ったが、あとで聖書には新約と旧約があると知った。まあ、ただなのだから文句は言えない。
その聖書はやがてぼろぼろになり、結婚した頃に捨てた。その後も新約を買い、ぼろになるたびに買いなおしている。旧約も何度も読んだ。新約と旧約を頭に入れておくと、何かを書く時にネタ切れにならない。私だけでなく、古今東西の名作のほとんどは、聖書からネタを拝借していると思う。
もちろん聖書から引用する時は、間違えないようにその箇所を読み直している。私だってそんないい加減ではない。

../mose.gif つい最近、仕事でちょっと出かけて御茶ノ水か水道橋で降りたら、駅の外で若者が道行く人にパンフレットを配っている。生まれ育ちが貧乏性の私は、配っているものはなんでももらわねば損とばかり手を出した。私の前後でそのパンフレットを受け取った人は一人もいなかったようだ。もらったパンフレットはバッグに放り込んだ。
さて、用を済ませた帰り道、電車の中で先ほどのパンフレットを取り出した。そしてそのとき始めて表紙に「聖書」と印刷してあることに気がついた。そのときまで、千葉動労のスト支援とかサヨクあるいはウヨクのパンフレットだとばかり思っていたから。
パンフレットを開くと、創世記からはじまり、なんと旧約と新約の物語全編をたった30ページにダイジェストとしている。しかしそのサマライズは私から見て十分に成功していると思われる。しかも通常の聖書解説書にはないものがある。それはその出来事が起きた年代が記されているのだ。アダムとイブが創られたのは西暦前4026年で、モーゼが紅海を渡ったのは前1600年だったとははじめて知った。

その後毎日の通勤の電車で読んだ。もちろん通勤一往復どころか片道で読んでしまえるページ数であるが、読むと結構面白いのだ。読み返しても飽きない。原作である聖書が良くできているのもあるが、このダイジェスト版もよくできている。
別にクリスチャンになることもないが、こんな面白い聖書を多くの人が読まないのはもったいないことだ。ましてキリスト教の人たちは無料とか低廉な価格で聖書を提供してくれる。ありがたく頂いて読みましょう。面白いから。

本日の不思議
我妻は、聖書を読もうなんて思いもしない。息子も聖書を読んだことがないようだ。
娘はどうだろうか?
これほど面白いベストセラーなのに、みなさんどうして読まないのだろう?



木下様からお便りを頂きました(2010.12.07)
茶々 (キリスト教ジョーク)
ユダヤ人「主よ、息子がキリスト教に改宗すると言います。なんとかしてください」

主「おお、家もそうだ。」

木下様 まいどありがとうございます。
いやあ、調べるとたくさんあるんですねえ〜
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Cupertino/2261/sekaishi/j-shukyo-01.htm


あらま様からお便りを頂きました(2010.12.08)
創世記
佐為さま あらまです
「始めに言葉ありき・・・、言葉は神とともにあり・・・」
小生はそのように暗記していました。
ところが、ウィキソースの創世記を見ると、それがないのですね。
そこで、調べてみると、これは「ヨハネの福音書」の冒頭であって創世記ではないということみたいです。
そもそも我々の住む世界の森羅万象はどのようにして生まれたのか・・・ 最初に法則(言葉)があって、神とはいわゆる法則である。そして、ビックバンとともに、その法則にしたがって、世界が開けた・・・なんて、宇宙開闢の瞬間を聖書の文章から想像したものでした。
子供の頃は、そんなことを考えたものでしたが、今では、分らないことは無理して考えないクセがついてしまいました。
ところで、アダムとイブが創られたのは西暦前4026年で、モーゼが紅海を渡ったのは前1600年なんだそうですね。
そんなことを韓国や中国に知らせれば、早速、歴史を捏造して、われわれの方がもっと古い・・・と言い出すでしょう。
どんな歴史を作り出すのか、楽しみです。

あらま様 毎度ありがとうございます。
旧約の冒頭は「はじめは形なく」であったかと思いまして、旧約をめくりますとやはり形がなくでありました。
人間て一度勘違いすると永遠にそのまんまなんですよね。英語の単語も地名も誤って覚えると一生直りません。
ところで旧約の年代は冗談そのものですが、韓国の世界一を目指す意欲には脱帽です。中国で新しいノーベル賞を作ったそうですから、韓国でもぜひ朝鮮ノーベル賞を創設してほしいですね

ひとりごとの目次にもどる