信仰の話 2007.08.11

お盆である。
報道などでは月遅れの盆などというが、田舎に生まれ暮らしてきた者にとって月遅れ盆も遅れていない盆もない。8月中旬のお盆がまっとうなお盆であり、これしかない。
ちなみに七夕も8月7日が正統なのであって、7月7日はうそっこの七夕である。
うそだと思うなら仙台市民に聞きなさい。
yusuzumi.gif 私のような不信人者でも、お正月、お彼岸、お盆となると祖先を思い、わしもしっかりせにゃならんなあ〜と考えるのである。もちろん考えるだけで、なかなか実行実現が難しいことはいうまでもない。
お盆にちなんで今日は信仰とか信じることについて考える。以前も書いたがパーティーの話題に政治と宗教は禁物というが、怖れることを知らないおばQジジイはそんなことを気にかけない。

私が子供の頃、近所といっても数百メートルは離れていたが、クリスチャンのおばちゃんが住んでいた。おばちゃんといっても子供から見ての話で、当時30代だったと思う。独身だったのか、戦争未亡人だったのか、出戻りだったのか知らなかったが、一人暮らしであった。
「たみよ」とか「みよこ」とかまあそういった名前だったらしく、近所(すなわち数百メートルの範囲)ではアーメンみよちゃんと呼ばれていて、ご本人もそう呼ばれることを嫌っていなかった。
クリスチャンというのは田舎では珍しい存在であったので、子供であった私はどんな人相かどんな暮らしをしているのかと興味があった。しかし行ってみると、我々仏教徒となんら変わらない人相であり暮らし振りであって一度観察に行ってからは興味を失った。

中学・高校の頃、私は外国に興味を持ち、外国のことを書いた本を手当たり次第読んだ。なにせ渡航自由化以前の話、一般人がまして田舎者が外国に行くなんてことは不可能に近い時代である。
とにかく学校の図書館、町の図書館にある旅行記、外国事情を書いた本、当時は珍しい特権階級である駐在員が書いた本、北杜夫の船乗りなどなど読んだのである。小田実の何でも見てやろうも呼んだ。そんなことは前にも書いた。
そのなかで若槻泰雄が南米移民について書いた本の中にあった話である。
南米のジャングルの中を通る道でトラックが故障した。乗客は運転手が修理するのを固唾を呑んで見守っている。修理を終えた運転手がエンジンをかけるときに、何度も念仏を唱えるシーンがある。人事を尽くして天命を待つというが、人にはできることとできないことがある。何日も誰も通らないであろう熱帯林の中である。故障した車よ動け!と神仏におすがりし念仏を唱えるという気持ちはよく分かった。
もちろんエンジンは動き、人びとが無事に帰り着くのは言うまでもない。


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高校を出てまもなくのことであった。
会社から家に帰るときのこと、既に夜9時は回っていた。田舎のことですからところどころにある電柱以外は真っ暗の夜道、お化けが出ても不思議ではない。もちろんお化けが出たら怖い。
電灯の下に若い男性・・といっても私より上で二十代半ばというところ・・が立っていて私に声をかけてきた。
「人生を考えて見ませんか」
「はあ?」
「私は信仰と愛を説くためにあちこち歩いているのです」
とかなんとか言われて連れて行かれたのが連れ込み宿
車で行くモーテルができたのは車社会になってから。でも昔から、それこそ神代の時代から結婚していない男女が会うための施設はありました。本当の田舎なら屋外でってこともあるでしょうが、そりゃ蛇もいるし座りごごちも寝心地も悪いです。私の住んでいた田舎町にも一応連れ込み宿ってのはいくつかありました。
そういうのは路地裏にあり、出入りが目立たないようになっておりました。
連れ込み宿の裸電球の下で、青年は私を相手に、人生を語り、愛を語り、彼の信じる宗教に入るよう勧誘したのです。正直言って残業の後のこと、もう疲れていて頭が回りません。また考えますわと言ってそうそうに連れ込み宿を去りました。 幸いその後はその青年に会うことなく、私が邪教にはまることはありませんでした。 
本当を言って、彼の宗教がなんだったのか?忘れてしまった。しかし仏教ともキリスト教とも異なる新興宗教であったような記憶がある。その青年は全国を安宿に泊まって入信者を募っていると語っていました。
彼も今ならもう60半ばでありましょう。とっくの昔に宗教活動から足を洗って勤め人になり定年を過ぎてリタイア生活を楽しんでいるのでしょうか?
それとも大宗教となり取り巻きに囲まれてウハウハの生活でしょうか?
あるいはいまだに全国をボロをまとい宣教活動をしているのでしょうか?
いえ、彼が今何をしているかに興味はありません。彼がどんな人生を歩んだとしてもそれは彼の選択です。

20年いやもっと前1980年代初めでしょうか、私が仕事を頼んでいる下請けの会社に行ったら、若い従業員が「お先失礼します」なんてすれ違いに退社していくのです。さっき昼飯を食ったばかりで、時計を見るとまだ1時過ぎ・・・
そこの親方(社長)がいうのには「あいつは腕もいいんだが、宗教に凝っていて、勤務時間は食っていけるだけにしているんだ。こちらは人手不足だから、ああいったのも使うしかない」とのこと
そうか、そういう人生もあるんだなあと感心しました。
会社は現世の糧を得る場所、そして精神生活は来世のために一生懸命に努力する・・・ミュージシャンを目指して薄給のバイトをがんばるのと同じようなものです。

信仰とは信じることで、論理的な説明は困難というか不可能でしょう。
「信じるものは救われる」という命題を証明も否定もできるわけが在りません。
そもそも「救われる」という言葉の意味さえも、信じるものやその人の立場によって解釈が違います。救いがないと思われる状況が救いであると考えるのであれば、もはや議論不成立です。
省エネの話でblue moon様からアーミッシュの暮らしについてお便りを頂きましたが、アーミッシュの暮らしが良いか悪いかなんて言えるはずがありません。逆に言えば、我々の暮らしが永続性がないのだからアーミッシュが正しいのかもしれません。
もっとも、このへんになると論理的な議論が成立するかもしれません。

選挙で立候補者が「消費税を上げることは良くない」なんて語っています。
それを聞いて、「そうか良くないことなんだ」なんて思っちゃいけません。
「消費税をあげるな」というのは論理的な文章ですが、「消費税を上げることは良くない」ということは良いか悪いかなんて判断できません。
だって良いか悪いかというのは立場によって、時間的スパンによって、判断が異なるでしょう。
そんなことも前に書きました
およそ政治と言うのは最少悪の選択ですから、私の政策は正しいとか私の主張は良い選択であるというのは根本的に間違いです。
私の政策は他の方法よりも間違いが少ないとか、私の主張は他の政策よりも犠牲者を少なくできるという論法が正しいのです。

憲法改正は今回の参議院選挙の結果、大幅に遠のいてしまったようです。
民主党は憲法改正法案の審議を拒否してます。
野党3党、憲法審査会の定数・会長人選で協議に応じず
読売新聞 -2007年 08月08日
 民主、社民、国民新の野党3党は8日、国会内で国会対策委員長会談を開き、国民投票法に基づく憲法審査会について、審査会定数や会長の人選などに関する与党との協議に応じないことで一致した。
 民主党の高木義明国会対策委員長は記者会見で「国民投票法は成立したが、混乱の中で強行採決された。(審査会の定数などを定める)運営規程といえども議論する環境にない」と述べた。今後の対応については「与党にも『憲法より生活だ』という意見が出ている。十分時間をかけるべきだ」と語った。憲法審査会は国民投票法に今国会からの設置が規定されているが、委員も決まらないまま宙に浮いた状態が続いている。

第9条に限らず、憲法改正賛成・反対はひとそれぞれ
しかし護憲の人たちは憲法を改正しないことに善悪の価値観を持ち込んでいるようです。そして論理的に考えることをせずにただ信じているようです。

「信じる者は救われる」というフレーズを茶化すつもりはありません。しかしこの救われるという意味は宗教的に救われるのであって、現世を生きていくときに現実的に救われるのではありません。
そもそも憲法って人が生きるための道しるべではありません。
憲法とは国民が国家に架した制約条件に過ぎません。そして国家は単独で存在しているわけではないですから、取り巻く環境によって見直していく必要があるのは当然です。
防衛だけではありません。
最近は環境権などが声高く叫ばれていますが、マッカーサーが日本に憲法を与えたときには、そんな概念が世界にはなかったのです。
護憲といって、かび臭い憲法をそのままにしても世界中の政府や環境活動家、一般国民に笑われてしまうでしょう。

信仰は人が生きていくときの価値観として意義を認めます。
憲法は人が生きていくときの実用的なものですから、それを信じることに意義はありません。
異議を申し立てます。


本日の教訓

タイトルと中身が違うことを書くこともあるので、気をつけましょう 


本日の教訓 その2

私は書くべきことはほとんど書いてしまったのだろうか?
過去の文章を引用するだけで間に合ってしまう 



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