ケーススタディ 生物多様性 10.12.30

環境保護部長は環境保護部以外にもいくつもの担当役員を兼ねており、めったに環境保護部には顔を見せない。問題が起きたりなにか用があるときは、実質の部長である廣井を役員室に呼んで指示するのが通例である。
つい今しがたも電話がなり、廣井は部長に呼び出された。
何事か?と一同はいささか不安げに廣井が戻るのを待った。
ほどなく廣井が戻ってきた。
「廣井さん、なにごとでした?」山田が声をかけた。
「ちょっとみんな集まってくれ」
全員といっても4人だが、コーヒーカップを持って事務所の隅の打ち合わせ場に座った。
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「あまり深刻なことではないんだが、流行というのか、最近は生物多様性が大はやりなのはみんな知っているだろう。電機メーカーとか事務機メーカーは環境先進企業を自負していて、生物多様性方針を策定して社外に発表したとか、自然保護活動を一生懸命行っているとか活発に広報している。
今日のご指示は、部長が昨日業界の会合に行ったら、同業のA社とB社が生物多様性活動をしていると聞いて、当社では生物多様性対応として何をしているのかというご下問だったよ。ちょっとあせっていたようだ。」
 廣井はいささかうんざりという風情でそう言った。
「生物多様性か〜、2010年の名古屋のCOP10前後から日本ではブームというか、生物多様性一辺倒だねえ〜」
 中野はいつもオチャラケ調で話す。
「最近は生物多様性ばかりで、あれほど騒いでいた地球温暖化も最近ではめったにマスコミに出てこないね。日本人は熱しやすく冷めやすいのかねえ」
 平目がそういった。
「今のところまだ何もしていないと申し上げたら、なにもしないわけにはいかないので、手っ取り早く鷽八百社の生物多様性に関する実行計画を作ってこいというわけだ。」

確かに世の中では生物多様性はブームのようだ。
しかし製造業とはいえ、自らは自然環境に手を出さずに、資源を採掘して材料を作った会社から購入して、加工し組み立て販売している当社ではいったいどんなことをすべきなのだろうか。そもそも企業の責任とはどこまでなのだろう。いくらCSRなんていう言葉で、義務というかなすべき範囲が広がりつつある時代だといっても限界があるだろう。
山田はそんなことを思いめぐらした。

「なるほど、いきさつはわかりましたが、どういった方向でまとめますかね」中野がいう。
「どういった方向っていうと?」と廣井
「今の日本で企業がなすべき生物多様性保護活動というものは定まったものはありません。生物多様性保護活動をしている企業の活動は百社百様で、いろいろです。大きく分けてもいくつもあるようです。
山田は中野が立て板に水に話すのを聞いて驚いた。中野はそうとう勉強しているというか、アンテナを張り巡らしていつも情報を集めているのだと改めて思い知らされた。

「なるほど、いろいろあるもんだ。しかし中野君は詳しいなあ。じゃあ中野君は、環境省がどんなことを企業に求めているかも知っている?」
「結論から言えばはっきりしませんね。環境教育をしろとかいろいろありますが、漠然としすぎています。まして努力義務なのかガイドラインなのか・・」
「私の知り合いの会社では従業員を動員して里山保全をしています。その会社はリーマンショック以降配当もだせず、それどころかリストラを計画している状況なのですよ。そんな状況で、自然保護なんてしているを見ると逆効果ではないかと思いますね。CSRなんていう言葉がありますが、従業員の雇用が最優先のCSRではないでしょうか?」
平目が言った。
平目にしてはあまりにもまっとうな意見なので、驚いた山田は椅子から転げ落ちそうになった。
「また、構内にビオトープを作っているといっている会社もありましたが、見た目にはまったく手入れしていない草ぼうぼうです。構内の緑地の手入れをしないことの言い訳のようにも聞こえますね、」
 と平目は続けた。
 廣井は中野と平目の話を聞いて
「なるほどいろいろあるものだなあ〜、僕の独断だが、当社がやるとすれば会社に貢献することというのが条件だね。貢献といっても利益拡大だけじゃなくて、リスク防止、ブランド価値、環境コミュニケーション改善効果などいろいろ考えられるが、植林とか里山保全はちょっと会社に貢献するとは言えないよね」
「他社が植林とか砂漠化防止あるいはさんご礁保全をして当社がしていない場合、比較されませんかね?」
 山田は恐る恐る聞いた。
「はっきり言ってわからないね。社会がそれを評価するなら会社に貢献したと言えるだろう。ただ山田君が中国に社員を派遣して砂漠化防止のための植林をしている会社の株を、それを理由に買おうとするだろうか?
だいぶ前に漁師が魚資源を確保するために海に注ぐ川の上流に植林したという話を聞いたことがある。それによって漁獲高が増えれば評価されるだろうが、単に漁船から見る陸地が緑で美しいという理由なら誰も評価しないだろう。」
 中野がそういうのを聞いて廣井は笑った。
「ワハハ、そうか、自分の利益のために何かをすれば評価されるということだ。他人の利益とか誰の利益でもないことをしても評価されないのかもしれない。分かった、中野君、当社の生物多様性活動について、次年度と2・3年スパンの中期計画案を来週くらいで立ててくれないか。必要ならみなを招集して議論する場を設けてほしい。」

「実はもうひとつ話しておかなければならないこと重要なことがある。」
 廣井は真面目な顔に戻ってそういった。
「平目さんはこの1年間嘱託として山田君の指導をはじめいろいろと仕事をしてきていただいたが、来年1月いっぱいで退職されることになった。長い間お世話になりました。平目さん、ご挨拶をお願いします。」
山田は廣井の言葉を聞いて驚いた。廣井も平目も、今までそんなことを一言も話さなかったから。とはいえ、今の環境保護部が平目を必要しているとは思えず、当然かなといささか冷たく思った。
平目が立ち上がって
「どうも長い間、みなさんありがとうございました。この職場に来て10年になりました。まったく新しく設立された部署でしたが、廣井君は元々工場の環境課長をされていて公害防止とか環境法規制の専門家だった。また中野君は異動前から環境報告書編集や環境広報を担当されていてこれまたベテランだった。僕だけまったくの素人でした。何につけてもお二人にはいろいろな面でご指導をいただきました。それでもまだ一人前になれなかったことをわきまえております。
昨年異動されてきた山田君もISO規格の理解はもちろん、最近は環境法規制も大変詳しくなり、もう私の及ぶところではありません。山田君は何事にも積極的に向かっていくというところがすばらしいと思います。私に教えてくれたことに感謝いたします。
ところで、生物多様性とはいろいろな生物がいることで、生態系が複雑にバランスが保たれていることを言うようです。多様性があると変化や異常事態が起きても対応できるといわれる。説明はできないが、確かにそのように思えます。生物多様性と同じく、人間社会も職場も多様性が必要だと思う。標準化・規格化された同じような人だけではバラエティに富んだアイデアもでないだろうし、第一面白みがない。いろいろな性格、特技、得手・不得手がある人たちがいて社会というものは成り立つと思う。もう30年近く前、ニュータウンと呼ばれているところに私は家を買ったのですが、当時の入居者はみな30代でそれより若い人も年寄りもいなかった。私が子供の頃住んでいた下町には赤ちゃんから高齢者までいてそれなりの社会だったのだが。ニュータウンも今ではオールドタウンと呼ばれるようになってしまった。住民の平均年齢は毎年1歳ずつ上昇し、今では平均年齢が60を越えている。老人ばかりのまったく異常な街になりました。もっとも住宅地はどこもでも似たような状況らしい。
話はだいぶそれてしまいましたが、環境保護部はぜひとも多様性を維持して視野が狭くなったり、独裁になったりしないでほしい。それから山田君も、いつまでも環境保護部にいるなんて考えないで、更に新たなことにチャレンジしてほしいなと思う。話せばきりも限りもないけど、後は飲んだ時に語りましょう。」
「山田君、来月みんなの都合をみて送別会を計画してくれ。」
廣井はそういって解散を指示した。

本日の蛇足
いまどき生物多様性を議論している会社があるのかよ?
 という突っ込みは十二分に理解いたします。
COP10への挽歌でございます。



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