難しい仕事 2011.03.26

仕事をしていると同僚に声をかけられた。
「あなたはいつも難しい仕事を避けていますね」
 どうしてそんな発想が出てくるんだ?
「チョット待ってくれよ、私が今まで仕事をえり好みしたり、したくないと言ったことがあるかい?」
そういうと同僚は首をひねり「たしかにそういうことはなかった」と認めた。
会社の仕事には、やりたくない仕事、つまり難しい仕事、おもしろくない仕事、苦労の割に成果がない仕事などがある。反面、やりたい仕事、つまり楽な仕事、おもしろい仕事、成果が出るのがわかっている仕事といろいろある。
私はどんな仕事をしようと、お気楽にノーテンキに仕事をしているように見える。だから、やりたくない仕事をしていないはずだ。だから、つまり難しい仕事を避けていると考えたわけだ。
まあ、何を考えようと自由だし、定年を過ぎた私がどのように評価されようと、今後役職につくわけでもなく査定を気にする身分でもない。
でも、黙っていないのが私の性分だから
「難しい顔をして仕事をしても良い仕事ができるわけではないですよ。同じ仕事なら楽しみながらしなくちゃね」とダメ押ししておいた。

私は過去より楽な仕事を選んだことはなかった。より正確に言えば、そんなことができる身分でなかったというのが本当だ。
もっとも私は、平均の人より少しばかり早く仕事ができたことは間違いない。そうでなければ現場で一人前の顔はできないし、ちょっとでも人より上になることもできない。技能者の世界は腕がいいのがえらいのである。
個人作業だけではない。何人かでライン作業する時には、上に立つ人のとるべき道はひとつしかない。それは誰もしたくないというか、一番負担が重い仕事を真っ先に俺がやるといい、それから他の仕事をメンバーに割り当てることだ。そうすれば普通の人は文句を言わない。それで文句を言うなら辞めてもらって結構だ。
しかしそれだけなら簡単だが、もちろんそれだけでは足りない。指導者たるものは、自分の仕事を軽くこなして、更にラインの材料供給とか、誰があおられているとかみて、適切な指示や支援をすることである。
「あおられる」とは、ラインの速さについていけないことを意味し、「あおる」とはラインのスピードを上げてジャンジャンと仕事をさせることをいう。たぶん旗がパタパタと風にあおられるという言葉から来ているのではないだろうか?
一番負担のある仕事をしながら、ライン全体に目を配り、困っている人を手伝えるのか?とお思いの方、それができなくちゃ現場監督とはいえません。そういうことをして上に認められないと、更に上にはいけないというのが現場の現実です。世の中ってそんなものでしょう。

その後、私は職場も仕事も転々と変わったが、仕事ができないとか、人より遅いという経験はなかった。製造現場だけでなく、事務の仕事もこなした。もちろん、こなさないと一家4人路頭に迷ったかもしれない。
以前も書いたかもしれないが20年も前のこと、そのとき欧州統合(1992)するので、欧州に継続して輸出するためにはISO9000の認証をしなければならないということになった。そのときISO規格はまだJIS化されていない。ISO9001がJISZ9901として制定されたのが1992年である。それ以前にISO規格の翻訳本が発行されていたが、それを私は知らなかった。だから辞書をひきひきISO規格を自分で訳した。工業高校しか出ていなくて、しかも卒業して20数年もたっていた。その間、私は英語なんて使ったことはなかった。若い時一度海外旅行に行ったことがあったが、別に1週間観光旅行に行けば英語が話せるようになるわけもない。でも、仕事をしなくちゃおまんまが食えないとなれば、そりゃ一生懸命やるしかない。当時のISO9001は現行規格よりボリュームが少なかったとはいえ、全文を翻訳することは簡単ではなかった。そしてもっと心配だったのは、私が翻訳したものを基にしてみんなが仕事をしたことである。私は責任持てません。 

書類を鉛筆で書くこと時代から、パソコンやワープロのキーボードで打つようになったのはいつごろだろうか? たぶんISOと同じく1992年頃からだろう。現場にいたとき、私はNC機械のプログラムを作っていたので、QWERTキーボードならある程度ブラインドタッチができた。芸は身を助けるといいます。
周りのみんなが一本足打法ならぬ一本指入力をしていたときに、私はスイスイといやカシャカシャと8本指を使って入力することができた。
おれは10本指を使っているぞとおっしゃる方がいるかもしれない。しかし、10本の指を使って入力する人はあまりいないと思う。私の親指はスペースキーを押すだけにしか使われない。
もちろん、文字入力が速い人はたくさんいると思う。しかし私は単にキーを打つのが速いのではなく、文章を考えてキーを打つのが速かったのである。ちなみにこの駄文だって、会社から帰ってきて、計画停電の後にカタカタと打ち込んだのである。
電池駆動のミニノートを持っているが、私は小さなキーボードでは長文を打ち込む気になれない。せいぜい500字程度のブログが限度である。というのは私は背が低い割りに手が大きいので、小さなキーボードは苦手なのだ。

ともかく、私は昇進もせず高給取りでもなかったが、関わった種類の仕事の範囲では、それなりには任務を達成してきた。そして、まあ世の中、上を見てもきりがないので、与えられた仕事に最善を尽くすよう努めてきたのである。
そういう過程において、どうせ同じ仕事をするなら、内心はいやでもいやな顔をしてするよりは、楽しい顔をして仕事をしたほうが、周りも気分が良いだろうし、自分も気持ちがいいと思った。
しかし私の欠点は、いかなる仕事であっても、人に言われなくても自発的に改善を考えてそれを提言することであり、そういう行為は好まれるよりむしろ嫌われることが多いということだ。つまり人に好まれるのは、どんな仕事でも楽しそうにするだけでなく、改善など考えずに言われたとおりにすることらしい。うーん、これはちょっと耐えられそうにない。
私にとって難しい仕事とは、改善を考えないで、いわれたとおりにすることだ。
愚妻である
家内にはいつも言われている。
「上の人に言われたとおりにしているのよ。会社では、余計なことを提案したりしないで、黙って働くのよ」と、
ところで楽しそうに仕事をすることも問題なのである。なぜなら、仕事を与えた上長が楽な仕事をこなしているだけだと認識して評価しないことだ。楽な仕事を、さも困難な風にみせかけて、艱難辛苦を乗り越えて達成したと見せることが評価される秘訣である。そうでないと冒頭に書いたように、周りからも楽な仕事しかしていないと思われて損してしまう。
もっとも、それが本当の損なのか、誉れなのかは個人の考えしだいだろう。

ISO9001とかISO14001というは、仕事を標準化してそれを文書化して、そのルールをひたすら守ってパターン化、一律化、定型化した仕事をするというふうに思われている。しかしISO9001の序文で「この規格は、品質マネジメントシステムの構造の画一化又は文書化の画一化を意図していない」とあるように、決して硬直化、停滞することが目的ではないのだ。

そもそも標準化の目的はいろいろあるが、要約すると次のみっつである。
つまり標準化しなければ改善はありえないのだ。
あなたの周りを見回してみてほしい。規則やマニュアルを作ったことのない人に、改善ができる人がいるはずがない。
もっとも規則やマニュアルを作る人にも、改善が嫌いな人はいる。そういうタイプを権威主義といいます。ホントですよ、
我々は規則やマニュアルを作り、そして常にそれを見直して改定して改善に努めることにあるべきだ。

規則マニュアルを作らない規則マニュアルを作る
改善に努める見た目はかっこいいけど
改善はその場限りで残らない
歌舞伎役者みたいなもの
ISOのあるべき姿
つまり私
改善をしないそばにいてほしくない
ノーナシのだめ人間
硬直化、教条型、権威主義人間
上長だと苦労する
部下なら放り出そう

本日の反省 後悔
歳をとるとやたらと年下のものに教えたくなるのだが、年下のものは年寄りの話を聞きたくないのだ。
私も、20年前はそうだったと思う。あのとき定年間近の人の話を聞いていれば良かったと今は思う。


ひとりごとの目次にもどる