環境会計のオハナシ 11.04.16

私が環境会計と関わるようになったのは、と思い返すと実はあまり関係はなかった。
前世紀の終わり頃であるが前の勤め先にいたとき、環境会計がこれから大きな仕事になるだろうという気がした。当時はISO14001認証というお仕事も一巡してしまっていた。それ以前の私の特技というか飯の種であったISO9001のように、ISO14001も陳腐化してオマンマの食い上げになるだろうということは見えていたからである。当時、娘は大学生、息子は高校生で失業することは大変だ。
そこで田舎では大きな本屋に行って環境会計に関する本を探し、何冊か買い読んだのが始まりである。もちろん環境会計とはいかなるものなのかは知っていたつもりだし、当時の勤め先でも環境会計の走りはしていた。まあ何事も本を読んだくらいでは良くわからない。環境省の環境会計ガイドラインというのができたのもそれから後の2000年だったはずで、それ以前は各社それぞれが環境会計というものを模索していた状態である。そのときは本を読んではみたものの、本の著者によっていろいろ考えが違うものだと感じただけであった。
実を言えば、21世紀の今でも環境会計というものは、統一された会計基準に基づいているわけではない。まあ、気分と言うか、会社ごとに違い、人それぞれという状況である。
そんなわけで環境会計がいかなるものかということを理解できずに、終わってしまった。
よって当初目指したISO14001の次の道は手に入らなかった。もっともその後の10年をみれば環境会計はお仕事として成り立たなかったようだ。

その後のこと、1999年か2000年頃だろう、マテリアルフローコスト会計というものを説明会で聞いたことがある。詳細は忘れたが実はそれが目的ではなく、PRTRの話を聞きに行って、ついでに抱き合わせの講演としてマテリアルフローを聞いたという記憶がある。
当時、福島県ではPRTR対応が喫緊、最優先課題であった。PRTR法あるいは化管法と呼ばれる「特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律」ができたのは1999年で届出は2002年からであった。しかし福島県では法律に先立ってPRTR条例が作られて、実際に運用されていた。
正確にはPRTR要綱であったが、誰もがPRTR条例と呼んでいた。
法律に先立ってPRTR条例を定めたのは1都1道4県あったはずだが、いずれも制定しただけで実際に報告させて集計していたのは福島県だけだった。神奈川県のPRTR条例はその細かさ厳しさは福島県の比ではなかった。当時神奈川県の某工場で環境管理をしていた知人に「神奈川県のPRTR条例は大変ですね」と言ったら、「実際には報告なんてしていないんだ」と言われた記憶がある。
マテリアルフローコスト会計とは、なんでも廃棄物や不良品を負の製品として考えて、コスト計算するとかいう話であった。私は黙っていることができない性分なので、そのとき講演者に質問した記憶がある。
私の質問は「不良品についてそれまでの工程でかかった費用を計上するのは、当たり前のことだし、そんなことは昔からしていたじゃないか。新しくともなんともない。新しいネーミングをして売ろうというだけの羊頭狗肉だ」というものだったと記憶している。
そして、その時の回答は「むにゃむにゃ」だったように覚えている。
いずれにしてもその講演を聴いたとき、マテリアルフロー会計を新奇なアイデアとか、すばらしいと考えなかったのは間違いない。
もちろん、今でもマテリアルフロー会計がすばらしいとか新しいアイデアとも思っていない。

その後、各社の環境報告書では環境会計をとりあげるのは当然の流れとなり、その中身もどんどんと詳細になっていった。が、その考えというか方法が統一されたわけでもなく、同じ業種の同じ規模の会社で、環境会計の金額が一桁違うなんてことはめずらしくない。財務会計なら考えられないような話だ。
もっとも環境会計の左側と右側がつりあっているものは一度たりともみたことがない。これまた財務会計ではありえない話だ。

21世紀も10年が過ぎた今、環境会計は下火になっている。どこの会社の環境報告書でもその末尾に環境会計として各種環境指標のインプットアウトプットが掲載されているが、もうトップにおどりでるような華やかさはないし、環境会計というものは大きなアイテムではなく、単に環境指標のひとつに過ぎないという雰囲気である。
マテリアルフロー会計はその後どうなったかというと、広まっているという話は聞かない。というかそんなことは当たり前のことで、わざわざ舌を噛みそうなマテリアルフロー会計とかMFCAなんていわなくても、どこでもしていることだろう。
最近マテリアルフロー会計がISO規格になる、日本発、日本初のISO規格だと喜んでいる人たちがいる。まあ、喜ぶことに水を差すこともないが、規格ができたからといって、日本産業にいかほど貢献するのか理解できない。
ISO規格になっても、どのみちすぐに多くの人は見向きもせずに埃をかぶるようになるのだろうと皮肉に考えている。

企業で長年環境会計を担当している人に、環境会計についてお聞きしたことがある。
その方が語るには、公害対策基本法から環境基本法に変わった1992年頃に、企業の環境活動は公害から環境に移り変わってきたものの、環境という業務あるいはカテゴリーは企業において主流ではなかった。主流でないだけでなく、誰も環境などに注目してくれない。そこで社内というか経営層の注意を引き付けるために考えたものが環境会計だと言う。
要するに環境担当者がスターになりたかったのだ
環境にはこれだけ費用がかかっています、これだけ貢献していますと金額で表すことにより、経営層は環境に注目するだろう、そしてより投資をしてより回収を図るようになるだろうという思惑だったと言う。
じゃあ、環境の世紀と呼ばれるようになった現在、なんで環境会計がもっともっと表に出て、重要視されないのだろうか?という私の質問に彼は笑った。
元々会計に環境も財務もわけ隔てあるわけではない。もう現在では財務報告書に環境情報、例えば環境汚染状況やその対策費用を付記するようになっている。そんな時代に、わざわざ環境会計なんていう言葉を使って経営層の目を引こうとする必要がない。設備投資や土地の売却購入などにおいて、環境リスクを評価するのは当たり前、それを考慮して決定している。そしてなによりも事業活動において、製品やサービスが環境配慮あるいは環境貢献製品でなければ市場競争に負けてしまう現状で、わざわざ環境なんとかという必要がなくなったからという。

なるほど、環境に配慮していますよという宣伝があったのは過去の話だと思い至った。いまどき、環境に配慮していますという宣伝はめったに見ない。みながみな環境に配慮しているなら、それだけでは競争力にならない。より環境性能が良くなければ、そしてもちろんコストパフォーマンスが良くなければ勝利は得られない。
マテリアルフローコスト云々も、それが重要ではなく、それをツールとして使い品質を上げて無駄を省くことをしてこそ値打ちがあるというもの。そしてもちろんマテリアルフローコスト云々を使わずとも、あるいはそんな呼び方をしなくても、品質を上げて無駄を省くことを実現すればハッピーなのは間違いない。

1960年代、私が高校を出て会社に入った頃は品質管理という言葉は輝いていた。検査じゃないんです、品質管理です。不良をはねるのではなく、品質を上げるんです。
それより下のレベルから見ればすばらしく、目標足りえるだろうけど、でもそれより上のレベルから見れば当たり前のことに過ぎない。
その後、小集団活動、TQCなんてのも現れた。TQCはTQMに成長した。そういやISOなんてのもあったよね 

環境会計もマテリアルフローコストも間違いじゃないけど、単なるツールだ。大げさに語るようなものでもなく、万能のツールでもない。その時代その時代にいろいろと工夫して使いやすいものが使われ、時代に合わなくなれば使わなくなるのだろうと思う。

いずれ環境会計と言う言葉自体が消滅するだろう。それは環境会計を編み出し担当してきた人々にとっては最終目的ではないのだろうか?



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