「体験的本多勝一論―本多ルポルタージュ破産の証明」

12.06.04
著者出版社ISBN初版定価(入手時)巻数
殿岡 昭郎日新報道48174055462003/101,575円全一巻

私は終戦直後に生まれた。親父は海軍下士官でB級戦犯になり処刑はされなかったが、公職追放となり田舎に帰ってきて中小企業で働いていた。そんな状況で私は生まれた。
親父は軍隊時代の習慣なのか、なにかあるとビンタする人で、まさに恐怖政治を家の中でしていた。もっとも軍人に限らず当時は親父が奥さんや子供を殴るなんてのは、ありふれた風景であった。
親父はビンタだけでなく、軍国主義を私たち兄弟にしつけようとしたようであった。そして子供のことであるから、私はそういう考え方になじんでいた。

私は中学の終わりから高校時代、本多勝一のルポルタージュを目を輝かせて読んだ。エスキモーはどんな人なのか、ニューギニアはどんなところなのか?
当時は海外旅行なんて一般人にとっては不可能に近いことで、海外の情報に飢えていた。だから本多勝一は私の情報の飢餓に答えてくれた面白い読み物だった。
同じように小田実の「何でも見てやろう」も貴重な本だった。ただ小田実の本には「おれは東大だ」という匂いがプンプンして、私のような者とは別だという意識を強く感じた。
ファントム
本多勝一がベトナムについて書くものは、ベトナム政府やアメリカの発表することや一般の新聞記事と異なっていたが、エスキモーの延長で真実は本多の書いたものにあるのだろうと思っていた。1960年中頃のことである。
当時はベトナム戦争たけなわで、アメリカ軍の脱走兵をかくまったとか、反戦運動とか、まあサヨクの活動は活発だった。
その頃の私は、本多勝一とか小田実の本を読んで、サヨク的心情に染まりつつあったということは間違いない。
ベトナム戦争
ただ私がサヨク運動に飛び込むことはありえなかった。なぜなら生活がかかっていたからだ。大学生が学業をほおって反戦運動をする自由があるだろう。仕送りが途絶えてもご本人が一人アルバイトでもなんでもして生きていくことは可能だろう。1960年代半ばは、日本もある程度豊かになっていたし、都市には個人の自由があったから。
だが、田舎にいて高校を出たら働いて一家の生活を支えていかなくてはならないという環境下にある私は、とてもそんなアホなことはできるはずがない。サヨク運動をして親が餓死したらベトナムどころではない。
まあ、ともかく私は若かったしサヨクの心情は理解できたのである。

しかし、その後本多勝一が中国の報道をするようになると・・・これはどう考えても中共の宣伝としか思えない。私の洗脳が解けてきたのはこの頃からだろう
百人切り云々だけではないが、読めば読むほど私にとって本多勝一は単なる共産党の宣伝カーにしか思えなくなった。
なお、私はその間に発生した、大学紛争、テルアビブ空港テロ、浅間山荘、よど号事件などなどをみて、サヨクの洗脳が完全に抜けた。サヨクがいかにくだらないものか、そしてそれを支援するあるいは心情的であっても声援を送ることは大きな間違いだと気が付いた。
私は、小田実にも本多勝一にもサヨウナラした。

あれから40年が経った今でも、いろいろな大学の門前を通ると、サヨク運動は下火になっていないようだ。校門というか入口にはどこの大学にも平和を叫ぶサヨクがいてビラを配っている。なぜ反戦とか護憲とかを旗印にするサヨクが、人を集める魅力があるのか私にはわからない。浅間山荘やよど号までさかのぼらなくても、ソ連崩壊、天安門事件、北朝鮮の人さらい、核実験、中国の領土侵犯などを見れば、もう共産主義は清いものではなく、汚らしい嘘でしかなく、サヨクのしてきたことは反社会的行為以外の何物でもない。そういうことに気が付かず、ビラ配りしている輩の頭の中身を見てみたいものだ。
1000円の物を買うときだって、似たような商品と比較するだろう。そして買うと決めてもいくつもある商品で傷がないもの、包装箱が傷んでいないもの、食品なら日付の新しいものを選ぶだろう。自分の人生を選ぶなら、サヨクの誘いに乗る前に、十分見て比較して考えなければならない。

この本はもう10年近く前の本だが、今まで読んだことがなかった。百人切りの関連書籍を読んでいて、本多勝一にたどり着き、本多勝一に関わる本を手当たり次第に読んでぶつかったというのが真相だ。この本を読んで、本多勝一のすばらしい行状を改めて知ったという気がする。
もちろん著者の視座、視点によるフィルターあるいは脚色はあるだろうが、裁判の経過と公文書である裁判記録は変えようがない。実をいってこの本を読んで本多裁判の判決文をインターネットで探してしまいました。

平成6(オ)1082 裁判要旨
他人の著作物に対する論評中に、右著作物の記述が第三者の談話をそのまま紹介したものではなく著作者自身の認識判断であるかのような適切を欠く引用紹介部分があっても、他の部分を併せて読むならば、右論評は専ら著作者が第三者の談話をその真偽を確認しないでそのまま紹介したことを批判するものであって、このことは右論評を通読する一般読者にとって明白であり、右適切を欠く引用紹介部分の内容が右批判の前提となっているわけでもないという事情の下においては、右著作物の引用紹介が全体として正確性を欠くとまではいえないから、右論評に名誉毀損としての違法性があるということはできない。


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