大変な職場ではありません、変な職場ですよ
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ちなみにそのときのイギリスの顧客はMIL-105Dを基準にしていましたが、当時MIL105は既に改定がEまで進んでいました。しかし客先がD版を適用するなら、D版を使うのは当然のことだとそれにも疑問を持ちませんでした。当たり前ですよね? もっともISO9001:1987がISO9001:1994になったとき、どうして1987年版を使い続けないのか、不思議といえば不思議ですよね? |
最近、認証機関が二者監査を請け負うところが多くなってきたが、それは認証機関の新しいビジネスと言うよりも、先祖返りあるいは本来業務というのが正しいようだ。
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そして、まったくおかしいと感じることがある。それは「環境側面を把握します」と「環境法規制を把握します」ということだ。何年も化学工場を運営していて、今更そんなことを言い出す会社があれば私は怒り狂う。ISO認証する前から、環境側面を把握していました、法規制を把握していましたと言ってくれないと困る。
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中 | 中 | 發 | 發 | ◎ ◎ |
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そういうスタンスで規格を読めば、すべてははっきりする。 外部コミュニケーションとは環境報告書を出すことなんてオバカなことを説明している人がいるが、近隣住民にとって環境報告書など意味を持たない。緊急時にはどうするのかを定期的に説明して、実際事故が発生した場合にはそのとおり対応してくれることが、必要最低のコミュニケーションではないのか? |
環境パフォーマンスとは、省エネが進んでいたり、廃棄物削減が進んでいるということだけではない。業務が規則や法律に従って運用されているとか、その結果排水とか排ガスの測定値などが適正であるという、まさにアウトプットマターズである。
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ISO14001の意図は遵法と汚染の予防とツッコミがあるかもしれない。しかし寺田博さんはISO14001の意図は、地球を顧客と考えれば顧客満足だと日経エコロジーに書いている。(2009年3月号)
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私なぞは新参者ですから、ISO9001は2000年版からしか知りません。 規格票に初めて目を通したとき、その表現の珍妙さはさておき内容のアホくささに驚いた記憶があります。まっとうな会社であればやっていて当たり前のことしか書かれていなかったからです。 書かれていることも、要件だけでその程度は明記されていませんから、これで審査に落ちる会社などあるまいと思いました。そして、こんな認証がいったい何の担保になるのだろうかとも思いました。 どうやらこのときの第一印象は、間違いではなかったようです。 |
たいがぁ様 ISO2000年版とは、これはまた最悪のバージョンからタッチしたわけですね 2008年も似たようなものですが、ありゃ使い物になるはずがありません ISO-TC委員が劣化しているのでしょう |
日本と欧米のビジネス習慣の違いを研究している某大学教授が「ISO?オタクは欧州に輸出でもしてるのか?違うなら意味がねーだろ。だって日本人は結果命だし」と言ってました。逆に欧米人は「ヤツらは事の再現性(保証)ってのにこだわるからシステムを重視するんだ。だから彼らにとっては認証制度は意味があるんだけどな」とか。 実態の(必要)ないビジネスは廃れても仕方なしでしょう。 |
鶏様 私はISO人生20年目にして悟りを開きつつあります いや、そういう希ガスるだけか |
改めて、ISO認証の意義を問うて頂き有難うございます。 お話を伺って、ISOなど安全規格は、自分の会社でもきっかけは欧米に輸出ができなくなるから対応しようとのきっかけだった事を思い出しました。 現在 私の会社ではISO17000シリーズの取得を予定していますが、これも欧米企業や団体の要求によります。 ですから、欧米に輸出する企業が、それに対応するISO規格に対応するのは当然ですし、それに意義があるので言うまでもありません。 なぜ変なISO認証になってきたかと言えば、公共団体、学校はては食堂など、国内で必然がない企業が取り始めてから妙な認証や解釈が出てきたように思うのですが、如何でしょうか? 話を転じまして、私が尊敬する「山本七平」さんが、『日本経について』という本で日本は海外から様々な価値観やシステムを輸入して都合の良い部分のみを取り入れ、それが日本の現状に合わなくなると、まるきり入れ替えてケロッとしていると指摘したことがあります。 例としては、戦前の国家神道や優越民族主義が、戦後 民主主義や平和憲法に入れ替わったことを挙げています。 どちらも、海外からの思想を入れて日本に合うように改造して、それを絶対的価値観として担いでいます。 それらの思想を消化して日本に適したものにできれば、自在に変化して応用ができます。 例として、漢字から仮名が発生したのは良い事例と思います。 一方で「平和憲法」は未だに消化できない人が多いようで、そういう場合には憲法死守、改憲反対のように、変える事が悪だという思想になります。(実際 そういう政党や、そういう考えの人も多いようです) ISO認証にも、この「平和憲法」に似たものを感じます。 これを消化して自分の道具にできた人は、自身の会社の規約に照らして解釈し、既存の規約で不足しているものを追加修正して運用することができます。 一方で、ISO平和憲法な人は、文字通り運用することを重要と考え、ISO認証のための二重規約が存在してもなんら不都合を感じません。 なぜなら、この人達にとっては、自分が受け入れた規格解釈が絶対であり、会社ごとの環境や規約に合わせて適用することを悪と考えるからです。 「平和憲法」でも、作った当時は、国際紛争に対応して日本のシーレーンを守るために海外派兵が必要な事態などは考えも寄らなかったでしょう。 ならば環境に合わせて憲法を修正すればよいのですが、いまだに修正=悪、改正しないのが護憲だという人や政治家は多いようです。 本当に「平和憲法」が自身のものならば、現状に合わせて修正して行くことは何ら不都合はないはずです。 もしISO認証でも同じような人々がいるならば、会社や実状に合わせた解釈は悪だというのだと思います。 本来は、ISO認証を 日本の中で運用するならば、その場合の利益や目的が 初めに論議されるべきだと思います。 それなくして、これからは「平和憲法の時代」「ISO認証のない企業はダメだ」と、目的が明確でないままに導入をしたのが、現在の混乱(目的の喪失)を招いているように思います。 ISO認証は「平和憲法」と違い、なくても困らないので認証件数の低減になります。 とは言え、今からでも、日本国内でのISO認証の意義は、はっきりとした方が良いのだと思います。 私自身が思うのでは、ドキュメントがあるレベル以上でそろっている事と、用語が統一されている という二点が目標と思います。 確かに、中小企業や、「文書を作るより物を作れ」のような工場ならば、そのような認証や文書整備と用語統一は必要と思います。 用語の統一は、海外進出の時に、英文化を用意にして、海外企業にも規約が受け入れられる基礎になります。 それらは当然でしょうというような大企業が、継続的に認証をしているもので、そこでは本当の目的や価値を見失っているように思います。 如何でしょうか? |
外資社員様 毎度ありがとうございます。 いつも話題になるというか最後に行き当たるのは、ISO認証は手段なのか、目的なのかということです。 私にとってISOは常に手段でした。輸出するための必要条件、お客様から言われたから、某社から頼まれたから認証の手伝い、などなどでした。 だから、認証するためには簡単にしたい、それもウソをつくのは後々大変なので(ここが重要です)、会社の現状あるがままを見せて認証したい、となるのが当然です。だから私は常にそうしてきました。ISOが要求しているから何かしようかなんて発想は微塵もありませんでした。 ところが、ある人たちにとってはISO認証が目的というケースが多々あります。外資社員様がおっしゃるように、そういうケースでは「平和憲法を守れ」と同じく、認証が目的ですから社内のルールをISOに合わせるという発想になってしまうようです。ちょっと離れて考えれば絶対におかしいと思いますが、そういう空気(山本七平的表現)の中にいるとそういう発想になってしまうようです。 それともう一つの問題は、認証の目的をはっきりさせるべきだと思います。 お客さんから要求されたのか、世間並みになりたいのか、自分の会社を良くするためなのか、あるいは・・ そのときその目的にISO認証が見合っているかどうかを検討する必要があります。 お客さんに要求されたなら四の五はありませんが、世間並みになりたいというなら認証するよりほかの手段の方がよいかもしれない。自分の会社を良くするためというなら、認証したほかの会社を良く調べていかほどの効果があるかを確認してからでも遅くはない。その結果、止めたということになれば、後で後悔することもないでしょう。 そんなふうに思います。 そもそもISO認証すれば会社を良くすることができるなんて、ISO規格には書いてありません。いつしか認証機関がそういう宣伝をしただけのことで、認証が会社を良くすることは論理的にも、実際にも証明されていないと思います。 外資社員様の最後のご質問(あるいは主張かも)は難しいですが、私はそもそもの目的や価値を見失っているのではなく、そもそもISO認証を理解していなかったのだと思います。 御社で 欧米企業や団体の要求 の故に認証するということが明白であればきっと効率の良い認証ができ、かつ維持できると思います。 |
題名:まだ始まっちゃいねえよ! 「ISOってもう終わったのかな」 「バカ野郎!まだ始まってもいねえよ!」 (『キッズリターン』の真似です) おばQ様の真意だと思いますがいかがでしょうか。 批判ではなく愛ですよね。 本当の姿と現実とのギャップがあまりに大きいため、そこを指摘しておられるだけです。 ふらふらとよろけて後ずさりし、未だにスタート地点にも立っていない。 日本は様々な異文化を受容してきました。 日本は世界の雛型、元々何でもあるから受け入れ消化出来るのだと誰かが言っていました。 ISOもそうだとすると、おばQ様が繰り返しておられるお話の中にこそその道程があるのでしょう。 |
ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。 不勉強というのか世間知らずというのか『キッズリターン』を知りませんでした。ネットで調べました。 私の批判か愛かというご質問というか推察ですが・・・私はISOで食ってきた、食わせてもらってきたという思いがあります。ISOとは、社内失業者だった私の救いの神であり、リアルリストラで救ってくれた福の神であります。 だから、現状の怪しげなISOを見るにつけ悲しくなってしまうじゃありませんか。 ウソッパチの規格解釈、オママゴトの内部監査から、問題を見つけようとしない筋書き通りのISO審査などを見るにつけ、憤りを感じます。 ダストコマンダー様が深読みされるようなことではありません。単に年寄りが過去を懐かしんでいるだけなのでしょう。 とはいえ、現状は絶対に改善しなければなりません。 |
おばQ様、こんにちは。 実は先週メールをお送りしたつもりでしたが、どこかに不具合があったようです。もう一度 ・・・ でもほとんど忘れました。簡単に書いてみます。 要するに、マネジメントシステムが有効かどうかはまだ未知数であると思います。学校も審査員も組織も半信半疑で、あるいはそれを全く理解出来ず、マネジメントシステムが充分に運用されていないのですから。 もちろん有効ではないのかもしれませんが。やはりまだ始まっちゃいないのだと思います。 |
ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。 プロバイダのメールサーバーが不調でここ数日メールが届きませんでした。現在もおかしな状態です。まずはお許しを。 おっしゃることはわかります。 そもそも、おかしなJ△○○方式がはやるというか、それ以外はだめというのがISO14001認証が始まった初期数年間の状況でした。 その頃は、初めからわかりきっている著しい側面になるように、いかにエクセルの係数、算式を調整するかということに我々が頭を使いました。まさに主客転倒、そんなことではISO以前の審査員のためのものでしかありません。 最近でも有益な側面という新興宗教もあり、いまだに規格文言が環境方針に盛り込まれていないという愚かな審査員による不適合も現実に見ています。 まさしく、真のISO14001ははじまっていません。 もはやISO14001は、金儲けと、オバカな人たちに、汚され、穢されてしまいました。 でもここまでISOが貶められたなら、もう一度仕切りなおしというよりも、ISO14001をきれいさっぱり捨て去って、新しい環境マネジメントツールを考えた方がよいかもしれません。 ダストコマンダー様は、どう思います? |
ISO規格は適正かの件 おばQ様 マネジメントシステムが本当に役に立つのかどうかは未知数であると思うと前回申し上げました。 ただお話の前提として、マネジメントシステムにはたぶん幾つかのパターンがあるはずということに留意したいと思います。 現在のISOは明らかにトップダウン方式ですね。 少し飛躍するかもしれませんが、このやりかたが成功するにはまずトップが熱い事業意欲に燃えていること、そしてそれに心から同調する人々が集結して組織を形成していることが不可欠だと思うのです。 しかし現実は、サラリーマンの延長線上の社長さんだったり、学校に求人が来ていたからという以上の志望動機を持たない従業員ばかりだったりしますね。 そこではISOの形骸化云々以前に、そもそもトップダウンのマネジメントシステムがうまく機能する素地に乏しいのだと思います。 今のISOのMSのパターンの由来がどようなものか、私は良く知らないのですが少なくとも日本企業とはあまりマッチしないのではないでしょうか。 そのあたりから整理して考えてみたいと感じています。 |
ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。 仰せの通りと思います。 まず、マネジメントシステムというのは一般語であり、その中には江戸時代の商人の経営システムも含まれるでしょうし、大航海時代の1回の航海がひとつの企業というケースもあるでしょう。そしてISO9001やISO14001の描くマネジメントシステムも入ると思います。 しかし、そのISO9001やISO14001の描くところのマネジメントシステムがトップダウンの方式と言ってしまうと日本的企業には向かないということになってしまいます。 そもそもISO9001はマネジメントシステムなのか?という疑問もあります。いくらマネジメントシステム規格だとうぬぼれて自称しようと、一皮むけば品質保証の条件に過ぎないように思えます。となるとトップダウンどころかマネジメントシステムとは言えないようにも思えます。 なお、我が同志の名古屋鶏様はISOは西洋のものであって、日本には向かないというご意見です。いろいろな見解があるということです。 反面、日本企業といってもどれが正統な日本企業か分からない状態です。 私はISOとはなにか?と大上段に考えても答えなんてない、それ以前にISOそのものが確固たるものでもない単なる道具だと思います。 だから、お客様から要求されれば、ISO規格を満たしていると説明するため程度のものだと思います。あと10年もすればなくなるか、誰も見向きもしなくなるものかわからないものを真剣に考えることもないように思います。 これは言いがかりではありません。 ISO9001の1987年版なんて今は誰も知らないでしょう。今、2008年版をありがたがっている人たちは、2015年版がでたら2008年版など忘れてしまうでしょう。じゃあ、今時点だって、2008年版を真面目に考えることもなさそうです。 単に、取引で要求されたら対応する条件と言うことに過ぎないと私はとらえています。 ISO大好き人間から見たら、不真面目でしょうけど、1987年版から付き合ってきましたので、現行規格がすばらしいという感じはまったくありません。 |
おばQ様こんにちは。 ISOに対するスタンスとしてはおばQ様のご見解に同意させていただきます。 だから、お客様から要求されれば、ISO規格を満たしていると説明するため程度のものだと思います。 トップダウンが機能している度合いがどうであれ、会社の仕組みの中から要求事項に相当するものを審査員さんが発見してくださればよいことです。 それで文句ないでしょ、ですよね。 ただ、無事見つけてくださればの話ですけどね(苦笑) あと10年もすればなくなるか、誰も見向きもしなくなるものかわからないものを真剣に考えることもないように思います。 この線でいきますと・・・ ここから先は個人的夢想なのですが、経済界全体で申し合わせて、せーので一斉に認証を取り辞めればよいのだと思います。そろそろ集団催眠を解くころあいだと思うのですが。 もし必要性を感じたら、過去の認証実績を問い合わせればよいでしょう。 そうこうしているうちに10年ほど経ち、影も形もなくなる。 ある意味で、もし10年後以降も組織の運用にその何らかの痕跡が残っていたとしたら、それこそが日本民族によるISOというものの吸収摂取成果なのでしょう。 ・・・ たぶん何も無いと思いますけど。 まあ、夢から醒めた夢でしょうね。 ただ、マネジメントシステムは本当に役に立つのか?に焦点を当てて考えるとしたら、現在のISOがそもそもベストのものなのかどうか、あるいは組織側はどうなのかなどを考慮する必要があると感じた次第です。 |
ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。 おっしゃること、まさしく同意です。 そもそもISO9001:1987が現れたとき、日本の産業界は誰も相手にしませんでした。日本の小集団活動、提案制度、年功序列による徒弟制度的社内教育体系が、ISO規格よりも優れていると考えていたのです。それが正しいか否かはともかく、そういうのが現実でした。 それが覆ったのは、ISO認証した企業がすばらしい成果を出したからではありません。単に、EUが統合して、ISO認証した企業が生産したものでなければ輸入しないと宣言したからです。 そしてまた規制緩和とかいいましたが、現実的には外圧によって、日本の建設業が開放的であることを示すために、入札において国際規格であるISO認証していればということになったこともありました。 つまり、日本においてISO9001はすばらしいから要求されたのではなく、付き合い上、商売上、しょうがないから取り入れられたにすぎません。 そしてISO14001が広まったのも、ISO9001のとき出遅れて欧州市場でミスったことから、あつものに懲りてなますを吹いたに過ぎないのです。 そもそもが、ISOというものをあまり重要視すべきことではなかったのではないでしょうか。ダストコマンダー様がおっしゃるように、あるとき経済界が一斉に「ヤーメタ」といえばそれで終わりでしょう。 そのとき輸出に悪影響があるかといえば、世界でもISO認証がすばらしいということはないということが知れ渡りましたので大丈夫でしょう。 四半世紀にわたる壮大なマネジメントシステムの実験はそれで終了でしょうか? 今、2015年を目標にISO規格体系の見直しが行われていますが、それが実現するかどうか、実現しても採用する企業がどれくらいあるのか、私は疑問を持ってみています。いずれにしても、私が生きているうちに、結論は出るでしょうね。 |