ISO規格は適正か?

12.01.21
勘違いなさらないでください、普通は「ISO規格に適合か?」と言います。タイトルは普通と違って、「ISO規格は適正か?」であります。
文字通り、ISO及びISO-TC委員への挑戦状と受け取られるかもしれません。そんなたいそれたことを考えているわけではありませんが、そう受け取られても困りません。
私は思考実験といいますか、いろいろと立場を変えて考えたりしているのですよ。ISO9001認証が、いかなる意味をもっているのか? より正確にいえば、ISO9001認証は意味を持っているのか?ということを考えております。
もちろん、ISO14001認証についても、いかなる意味があるのか? それともISO14001認証は少しも意味がないのか? ということも考えております。
そして、結論として、まったく意味がないのではないかという気がするのです。
意味がない、つまり無意味であるということになりましょうか。

現在の認証の姿しか知らないと、私の疑問そのものが理解できないと思います。
商取引において、製品スペックを示して、AQLを示して、それにみあった製品を納めろというは昔からのことでございます。
しかしそれだけでは、製品品質をキープできないと思ったのでしょうか? それとも単なる流行だったのでしょうか? 1980年頃には大手企業は、部品メーカーとか下請け業者に対して、品質保証協定の締結を要求するようになりました。
それがどういうものかといいますと、発注者は、製造行程の管理や、部品や製品の保管方法、作業に従事する人たちの教育訓練などを決めたものを提示して、それを下請けや部品メーカーに守ることを要求したのです。そして、協定とおりに運用しているか確認するために品質監査という煩わしいことを始めました。
当時、私はしょっちゅう発注者による品質監査を受けた記憶があります。その頃、現場にいた私は、なぜお客さんが自分の働いている工場に立ち入る権利があるのかと思いました。いくら相手が客とはいえ、こちらが良い製品を作って納めれば、何も言われる筋合いはないと思っていたのです。まあ、現場の作業者だったので、そんな協定のことまでは知らなかったのです。
1990年頃に私は、現場から品質保証部門に変わりました。当時その職場の同僚は、品質監査をするためにほとんど出張でした。おやおや、お金にもならないことをしている変な職場だな、と思ったのを覚えています。
大変な職場ではありません、変な職場ですよ

1991年のことです。それ以前からイギリスに製品を輸出していたのですが、そのときISOというものを認証しなければならないという話になりました。聞くと、イギリスに輸出するためには、製品認証だけでなく、製造している工場がISOの認証を受けなければならないというのです。そしてISO認証の作業を、私が担当することになりました。しかし、品質保証部門に移ったばかりの私は、ISOって、ねじとか寸法公差を作っている団体か?という認識しかありませんでした。
ISO認証というがどのようなものかを調べていきますと、いままでの二者間の品質保証協定書の代わりにISO規格が適用されて、それを満たしているかをお客さんが品質監査に来るのではなくて、審査の専門会社から人が来て監査を行うのだというのです。
そんな審査ビジネスが成り立つのだろうかというのが、その話を聞いたときに感じたことでした。
まあ、そのとき我々は不特定多数のお客様を相手にしているわけではなく、イギリスの特定の企業がお客様でしたので、そのお客様が要求するなら、それに応じなければならないというのは至極当然と思います。
考え方ですが、先方がその会社独自の品質保証協定書を要求するのではなく、ISO規格を利用してそれに適合しろと言うのは、抜取検査の規格としてアメリカ軍の規格であるMIL-105などを引用するのと同じくことで違和感はありませんでした。
そして考えてみれば、アメリカのUL規格でも1960年代はアメリカからULのエンジニアが私の勤めている工場にきて検査をしていましたが、数年も経たないうちに、日本の検査機関が下請けするようになり、日本人の検査員が来るようになりました。それと同じことで、専門業者に品質監査の代理というか、下請けさせるのだというふうに理解をしました。
第三者認証なんて、私はそんなものだと理解していたのです。
そう考えても同じことなのか、あるいは同じではないのかは、いまだに分かりません。あるいは見た目には区別がつかないのかもしれません。

その後、1994年にISO9001規格は改正になりました。当時、ISO規格の改正は私にとって一大事でした。なぜなら、お客さんの要求事項が変わったのですから、製品を買ってもらうためには、こちらが規格改定に合わせることは至上命令だったわけです。それは現在のISO9001の2000年版が2008年版に改定になったのとはわけが違います。お客様の品質保証の要求事項が変わることは、製品スペックが変わるのと、同じレベルの重要事項なのです。
だから1994年改正は気にしました。しかしそのときの変更内容は、品質方針のニュアンスが変わったのと、第三者認証への適用が明記されたくらいと記憶しています。規格改定に対して、何かをしたという記憶はありません。
ともかく当時、私たちは「お客様がISO認証を要求したので、それに対応して認証した」という因果関係は明確です。決して会社を良くしようとか、他社が認証しているから当社も・・というような理由ではありませんでした。もちろん、お客様がISO認証を要求しなければ認証することはありませんでした。
そして述べましたように、お客様独自の品質保証要求事項ではなく、ISO規格を引用したということも、抜取検査のMIL規格と同じくことと疑問を持ちませんでした。
ちなみにそのときのイギリスの顧客はMIL-105Dを基準にしていましたが、当時MIL105は既に改定がEまで進んでいました。しかし客先がD版を適用するなら、D版を使うのは当然のことだとそれにも疑問を持ちませんでした。当たり前ですよね?
もっともISO9001:1987がISO9001:1994になったとき、どうして1987年版を使い続けないのか、不思議といえば不思議ですよね?
ともかくISO9001適合ということは顧客要求であり、それを満たさないと売れないという単純明快なことでした。
認証ということも、お客様の代理者による品質監査と理解して、なんら不思議はありませんでした。
当時、認証機関は顧客の代理人と自称していたこともありますが、ISO規格を使って顧客以外が監査に来るといっても、二者間の契約と考えても実質的な違いはなく、不思議を感じませんでした。今の人はそういう関係というか、状況を理解できないかもしれません。
最近、認証機関が二者監査を請け負うところが多くなってきたが、それは認証機関の新しいビジネスと言うよりも、先祖返りあるいは本来業務というのが正しいようだ。

ISO9001の認証が一般に広まったのは1995年以降だと思います。その頃になると、品質が良いとアッピールしたい会社は、特定のお客様からISO認証しろと言われなくても、認証取得するようになりました。当時私は、それを不思議なことをする人たちだと見ていました。だって誰からも要求されていないのにISO認証するなんて、お金の無駄だし手間ひまかかるのだから、わざわざそんなことをする気が知れなかったのです。でもそういう人たちは、わざわざ余計なお金をかけて、手間をかけて、認証しましたと喜んで新聞発表などをしていました。
その心理状況というか、考え方は現在のISO9001の認証の考えにつながっていると思います。要するに、誰に要求されたわけでもないのに、品質が良くなるという幻想なのか、会社が良くなるだろうという期待なのかわかりませんが、ともかく自分の意思で余分(無駄)なお金をかけて、手間ひまをかけているということです。そしてその成果は、どうなのでしょうか?

では、ISO14001について考えて見ます。
私たちの場合ISO9001のスタート時は、お客様の要求ということは明確でした。それを満たさないと買ってもらえない。それを満たせば買ってもらえるということです。
しかしISO14001は、そういう意味合いはありません。日本の電子機器、家電品が、欧州統合時にISO9000sの認証が遅れて、ビジネスに支障があったということがあったのでしょう。その反動でISO14001認証に走り出したというのも事実だと思います。今でも覚えていますが、ISO14001は1996年末に制定されたのですが、制定される前のドラフトの段階で、認証を受けたと言って発表した家電メーカーはいくつもありました。それにいかなる意味があったのか、私はわかりません。
ともかく、2000年以降は、ISO14001認証とISO9001認証は、その位置づけというか意味合いはまったく同じになったと思います。なにせ、ISO9001も品質マネジメントシステム規格なんて自称するようになったのですから。
品質保証とはなにかということは明確です。ISOの定義でいえば、「品質保証要求事項が満たされるという確信を与えることに焦点を合わせた品質マネジメントシステムの一部」であるとされています。
そして品質保証の第三者認証とは、品質保証システムが規格要求事項を満たしているかを購入者自身ではなく、第三者が確認して表明することですから、その意味は分かります。つまり、本来は購入者が供給者の会社に行って品質監査をしたいのだが、忙しいとか監査技量がないから専門家に委託したということです。

しかし品質マネジメントシステム規格、あるいは環境マネジメントシステム規格の認証とはいったいどういう意味なのでしょうか?
もちろんIAF/ISO共同コミュニケというもので「組織がISO9001の適用される要求事項に適合した品質マネジメントシステムを持っているという信頼を提供する」あるいは「組織が、その活動、製品及びサービスの性質に対して適切な環境マネジメントシステムを持っていてISO14001の要求事項に適合していることの信頼の提供」なのだそうです。しかしマネジメントシステムを持っている信頼を提供するということが、いかなる意味を持つのか私には理解できない。

ちょっと話を変える。
品質保証というのは、継続的取引関係がある場合にはじめて意味を持つ。一回限りの取引きなら、わざわざ品質保証協定を結ぶこともない。購入する現物が合格か否か、受入検査をすればいいだけのことだ。
受入検査だけではわからないということもあるだろう。しかしそのときは「品質保証協定」ではなく「品質補償協定」を結んだ方がよい。ダジャレではない、アシュランスではなく、ギャランティである。
では、マネジメントシステムの認証とはなんだろうか?
品質マネジメントシステムがありますよという説明なり証明なりを見て、買い手は何かメリットがあるのだろうか? まあ、品質マネジメントシステムなら、買い手に安心させるなにかがあるのかもしれない。
だが、環境ならどうだろうか?
今あなたは化学工場のすぐそばに住んでいるとする。この化学工場はISO14001認証していますよ、だから安心してくださいと言ったとする。
../2010/fac1.gif あなたは、それで安心できますか?
その会社が守るべきマネジメントシステムの要求事項とはなにかと考えてみましょう。環境方針を周知します、環境側面を把握します、環境法規制を把握します、ルールに基づいて教育して、運要します、不具合を監視します、不適合があれば・・
私なら、そんなことを聞いても全然信用しない。
そんなことより、当社はこのような防護策をしています、このような予防保全をしています、事故が起きたらこのように対応します、事故が起きたらこのように近隣の方に通報します・・そのときはこうしてください、とあいまいでなく具体的で即物的なことを求めたい。
はっきりいって、教育しようとしまいと、環境方針を周知しようとしまいと関係ない。事故が起きないようにどうしているのか、事故が起きたらどう対処するのか、法違反しないようにどのように監視しているのか、異常があったらどうするのかを知りたい。環境マネジメントシステムがあるのは大変けっこうなのだが、それでは安心できない。
まして基準が組織に一任という規格であるから、対応策が近隣住民から見て安心できるレベルなのか、安心できないしろものなのか分からない。
ISO審査では環境側面を特定し、著しい環境側面を決定する手順を徹底的に審査することは、私の15年の経験からよくわかっている。しかし、決定された著しい環境側面が適切か否かを判定できる審査員はめったにいないことも良く知っている。そのようなものを信頼性というのは、無理というものである。
そして、まったくおかしいと感じることがある。それは「環境側面を把握します」と「環境法規制を把握します」ということだ。何年も化学工場を運営していて、今更そんなことを言い出す会社があれば私は怒り狂う。ISO認証する前から、環境側面を把握していました、法規制を把握していましたと言ってくれないと困る。

そういうことは、継続的に運用改善を図るには、マネジメントシステム、つまり仕組みが必要なのだというISO14001の序文の意味とはちょっと違う。近隣住民としては、システムの適合性とか有効性など求めない。いや、求めないというよりそんなもの関係ない。アウトプットマターズのみが意味を持つ。

マージャンに例えれば、筋が良い悪いではなく、上がれるか否かである。
 
◎◎
◎◎
◎◎

認証がアウトプットマターズを保証するなら信用するし、保証しないなら信用しない。そういうことだ。
だってあなた、排水や大気あるいは廃棄物処理などの実態を検証して、その結果を外部に公開してもらわないと信用できるかできないかわからないではないか!
この会社は方針もすばらしい、文書管理もすばらしい、法規制の把握はバッチシですといわれても、それが事故を防ぐのかどうか分かりません。
ダメ押しをしておけば、目的目標をもって改善してほしいなんて求めません。事故を起こさず、法違反をしなければ十分ですよ。
そういうスタンスで規格を読めば、すべてははっきりする。
外部コミュニケーションとは環境報告書を出すことなんてオバカなことを説明している人がいるが、近隣住民にとって環境報告書など意味を持たない。緊急時にはどうするのかを定期的に説明して、実際事故が発生した場合にはそのとおり対応してくれることが、必要最低のコミュニケーションではないのか?

アウトプットマターズなんて第三者認証では保証できないよとおっしゃるかもしれない。そうおっしゃるのは勝手だが、近隣住民とすれば、それがなければ意味がない。
不具合があればシステムにそって是正をしていきますなんて言われても感動しないのだ。
認証とは具体的効果、アウトプットマターズがないと住民にとってありがたみがない。

../2011/usbspoon.gif そこで、以前USB機器の認証についてお聞きしたことを思い出した。
USB機器の認証は、ISO認証より信頼性が高いことはいうまでもない。なぜなら、誰もUSB認証はあてにならない、と語っていないのだから。
そしてUSB機器の認証は、ISO9001やISO14001と絶対に違うところがある。それは明白だ。片方はマネジメントシステム認証であり、片方は製品認証だということだ。
思い出してほしい、UL認定は製品の検査を受け、そして製造する工場の審査を受けて認定を受けることができる。つまり物体がある。その物体の良し悪しがまずあって、それを作る工場なりシステムの良し悪しを見ているということだ。
ISOマネジメントシステム審査の方はというと、物体がない。そりゃ工場を見たり、製造設備を見たりするだろうが、その製品品質も環境パフォーマンスを保証しない。私が言うのではない。ISO/IAF共同コミュニケにそう書いてある。
環境パフォーマンスとは、省エネが進んでいたり、廃棄物削減が進んでいるということだけではない。業務が規則や法律に従って運用されているとか、その結果排水とか排ガスの測定値などが適正であるという、まさにアウトプットマターズである。
利害関係者がもっとも重要だ、必要だとしているものを保証せずに、システムを保証されても、利害関係者はなんの意義も認めない。そのような現在の認証の意義を認めるのは、認証する制度と認証を受けた組織だけではないのだろうか?
つまり現在のMS認証とはままごとであり、当事者のマスターベーションに過ぎないのではないか?
であれば認証の信頼性を向上しようという発想そのものが、見当違いか、思い違いだろう。認証制度と組織以外の利害関係者の信頼性をあげる、つまり信じてもらえるためには、利害関係者がほしがっているものを提供しなければならない、という当たり前のことに過ぎない。
ISO規格の意図は顧客満足であると言いながら、認証が真の顧客の期待に対応していないのはおかしなことだ。
ISO14001の意図は遵法と汚染の予防とツッコミがあるかもしれない。しかし寺田博さんはISO14001の意図は、地球を顧客と考えれば顧客満足だと日経エコロジーに書いている。(2009年3月号)

とすると、ISO認証の信頼性が低いということは、認証を受ける人が審査する人にお金を払うからではなく、審査が節穴で甘いからというわけではなく、認証を受ける企業がウソを語るからではなく、認証制度の審査基準が利害関係者の求めているものではないからなのだ。
ISO9001もISO14001も適合性とか、有効性とかではなく、そもそも認証制度が提供するものが利害関係者の求めているものじゃないんだよね。

では現行の規格は企業・組織にとって役に立つのかといえば、どうだろうか?
ISO審査は指導ではない。規格に適合しているか否かを判定するだけだ。そりゃ審査の過程で潜在的な問題を指摘し、それが組織の改善につながるなんて騙る人もいる。しかし、まっとうに考えれば、会社の改善のためならISO審査より経営コンサルタントに頼んだ方が直接的で効果が明白だ。
そもそも現状のマネジメントシステム規格と称しているものは、認証規格ならともかく、ガイドラインとして使い物にならない。外部の利害関係者にとって頼りにならず、内部の利害関係者にとってはガイドラインにもならないのでは困った。

本日のまとめ
マネジメントシステムの第三者認証なんて、いったい意味があるのだろうか?
現行の規格による認証は外部の利害関係者にとって意味はないように思える。

どう考えても「ISO14001規格に適合か?」という言い方はおかしいようだ。「ISO14001規格は認証規格として適正か?」と問うべきだろう。そして適正ではないように思える。
おっと、ISO9001と言い換えても同じだ、



ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(2012/1/21)
私なぞは新参者ですから、ISO9001は2000年版からしか知りません。
規格票に初めて目を通したとき、その表現の珍妙さはさておき内容のアホくささに驚いた記憶があります。まっとうな会社であればやっていて当たり前のことしか書かれていなかったからです。
書かれていることも、要件だけでその程度は明記されていませんから、これで審査に落ちる会社などあるまいと思いました。そして、こんな認証がいったい何の担保になるのだろうかとも思いました。
どうやらこのときの第一印象は、間違いではなかったようです。

たいがぁ様 ISO2000年版とは、これはまた最悪のバージョンからタッチしたわけですね
2008年も似たようなものですが、ありゃ使い物になるはずがありません
ISO-TC委員が劣化しているのでしょう

名古屋鶏様からお便りを頂きました(2012/1/21)
日本と欧米のビジネス習慣の違いを研究している某大学教授が「ISO?オタクは欧州に輸出でもしてるのか?違うなら意味がねーだろ。だって日本人は結果命だし」と言ってました。逆に欧米人は「ヤツらは事の再現性(保証)ってのにこだわるからシステムを重視するんだ。だから彼らにとっては認証制度は意味があるんだけどな」とか。
実態の(必要)ないビジネスは廃れても仕方なしでしょう。

鶏様
私はISO人生20年目にして悟りを開きつつあります
いや、そういう希ガスるだけか


外資社員様からお便りを頂きました(2012.01.23)
改めて、ISO認証の意義を問うて頂き有難うございます。
お話を伺って、ISOなど安全規格は、自分の会社でもきっかけは欧米に輸出ができなくなるから対応しようとのきっかけだった事を思い出しました。 現在 私の会社ではISO17000シリーズの取得を予定していますが、これも欧米企業や団体の要求によります。
ですから、欧米に輸出する企業が、それに対応するISO規格に対応するのは当然ですし、それに意義があるので言うまでもありません。 なぜ変なISO認証になってきたかと言えば、公共団体、学校はては食堂など、国内で必然がない企業が取り始めてから妙な認証や解釈が出てきたように思うのですが、如何でしょうか?

話を転じまして、私が尊敬する「山本七平」さんが、『日本経について』という本で日本は海外から様々な価値観やシステムを輸入して都合の良い部分のみを取り入れ、それが日本の現状に合わなくなると、まるきり入れ替えてケロッとしていると指摘したことがあります。 例としては、戦前の国家神道や優越民族主義が、戦後 民主主義や平和憲法に入れ替わったことを挙げています。 どちらも、海外からの思想を入れて日本に合うように改造して、それを絶対的価値観として担いでいます。 それらの思想を消化して日本に適したものにできれば、自在に変化して応用ができます。
例として、漢字から仮名が発生したのは良い事例と思います。 一方で「平和憲法」は未だに消化できない人が多いようで、そういう場合には憲法死守、改憲反対のように、変える事が悪だという思想になります。(実際 そういう政党や、そういう考えの人も多いようです)
ISO認証にも、この「平和憲法」に似たものを感じます。
これを消化して自分の道具にできた人は、自身の会社の規約に照らして解釈し、既存の規約で不足しているものを追加修正して運用することができます。
一方で、ISO平和憲法な人は、文字通り運用することを重要と考え、ISO認証のための二重規約が存在してもなんら不都合を感じません。
なぜなら、この人達にとっては、自分が受け入れた規格解釈が絶対であり、会社ごとの環境や規約に合わせて適用することを悪と考えるからです。
「平和憲法」でも、作った当時は、国際紛争に対応して日本のシーレーンを守るために海外派兵が必要な事態などは考えも寄らなかったでしょう。
ならば環境に合わせて憲法を修正すればよいのですが、いまだに修正=悪、改正しないのが護憲だという人や政治家は多いようです。
本当に「平和憲法」が自身のものならば、現状に合わせて修正して行くことは何ら不都合はないはずです。
もしISO認証でも同じような人々がいるならば、会社や実状に合わせた解釈は悪だというのだと思います。
本来は、ISO認証を 日本の中で運用するならば、その場合の利益や目的が 初めに論議されるべきだと思います。
それなくして、これからは「平和憲法の時代」「ISO認証のない企業はダメだ」と、目的が明確でないままに導入をしたのが、現在の混乱(目的の喪失)を招いているように思います。
ISO認証は「平和憲法」と違い、なくても困らないので認証件数の低減になります。
とは言え、今からでも、日本国内でのISO認証の意義は、はっきりとした方が良いのだと思います。
私自身が思うのでは、ドキュメントがあるレベル以上でそろっている事と、用語が統一されている という二点が目標と思います。
確かに、中小企業や、「文書を作るより物を作れ」のような工場ならば、そのような認証や文書整備と用語統一は必要と思います。
用語の統一は、海外進出の時に、英文化を用意にして、海外企業にも規約が受け入れられる基礎になります。
それらは当然でしょうというような大企業が、継続的に認証をしているもので、そこでは本当の目的や価値を見失っているように思います。
如何でしょうか?

外資社員様 毎度ありがとうございます。
いつも話題になるというか最後に行き当たるのは、ISO認証は手段なのか、目的なのかということです。
私にとってISOは常に手段でした。輸出するための必要条件、お客様から言われたから、某社から頼まれたから認証の手伝い、などなどでした。
だから、認証するためには簡単にしたい、それもウソをつくのは後々大変なので(ここが重要です)、会社の現状あるがままを見せて認証したい、となるのが当然です。だから私は常にそうしてきました。ISOが要求しているから何かしようかなんて発想は微塵もありませんでした。
ところが、ある人たちにとってはISO認証が目的というケースが多々あります。外資社員様がおっしゃるように、そういうケースでは「平和憲法を守れ」と同じく、認証が目的ですから社内のルールをISOに合わせるという発想になってしまうようです。ちょっと離れて考えれば絶対におかしいと思いますが、そういう空気(山本七平的表現)の中にいるとそういう発想になってしまうようです。
それともう一つの問題は、認証の目的をはっきりさせるべきだと思います。
お客さんから要求されたのか、世間並みになりたいのか、自分の会社を良くするためなのか、あるいは・・
そのときその目的にISO認証が見合っているかどうかを検討する必要があります。
お客さんに要求されたなら四の五はありませんが、世間並みになりたいというなら認証するよりほかの手段の方がよいかもしれない。自分の会社を良くするためというなら、認証したほかの会社を良く調べていかほどの効果があるかを確認してからでも遅くはない。その結果、止めたということになれば、後で後悔することもないでしょう。
そんなふうに思います。
そもそもISO認証すれば会社を良くすることができるなんて、ISO規格には書いてありません。いつしか認証機関がそういう宣伝をしただけのことで、認証が会社を良くすることは論理的にも、実際にも証明されていないと思います。
外資社員様の最後のご質問(あるいは主張かも)は難しいですが、私はそもそもの目的や価値を見失っているのではなく、そもそもISO認証を理解していなかったのだと思います。
御社で 欧米企業や団体の要求 の故に認証するということが明白であればきっと効率の良い認証ができ、かつ維持できると思います。

ダストコマンダー様からお便りを頂きました(2012.01.23)
題名:まだ始まっちゃいねえよ!
「ISOってもう終わったのかな」
「バカ野郎!まだ始まってもいねえよ!」
(『キッズリターン』の真似です)

おばQ様の真意だと思いますがいかがでしょうか。
批判ではなく愛ですよね。
本当の姿と現実とのギャップがあまりに大きいため、そこを指摘しておられるだけです。
ふらふらとよろけて後ずさりし、未だにスタート地点にも立っていない。

日本は様々な異文化を受容してきました。
日本は世界の雛型、元々何でもあるから受け入れ消化出来るのだと誰かが言っていました。
ISOもそうだとすると、おばQ様が繰り返しておられるお話の中にこそその道程があるのでしょう。

ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。
不勉強というのか世間知らずというのか『キッズリターン』を知りませんでした。ネットで調べました。
私の批判か愛かというご質問というか推察ですが・・・私はISOで食ってきた、食わせてもらってきたという思いがあります。ISOとは、社内失業者だった私の救いの神であり、リアルリストラで救ってくれた福の神であります。
だから、現状の怪しげなISOを見るにつけ悲しくなってしまうじゃありませんか。
ウソッパチの規格解釈、オママゴトの内部監査から、問題を見つけようとしない筋書き通りのISO審査などを見るにつけ、憤りを感じます。
ダストコマンダー様が深読みされるようなことではありません。単に年寄りが過去を懐かしんでいるだけなのでしょう。
とはいえ、現状は絶対に改善しなければなりません。


ダストコマンダー様からお便りを頂きました(2012.02.13)
おばQ様、こんにちは。
実は先週メールをお送りしたつもりでしたが、どこかに不具合があったようです。もう一度 ・・・ でもほとんど忘れました。簡単に書いてみます。
要するに、マネジメントシステムが有効かどうかはまだ未知数であると思います。学校も審査員も組織も半信半疑で、あるいはそれを全く理解出来ず、マネジメントシステムが充分に運用されていないのですから。
もちろん有効ではないのかもしれませんが。やはりまだ始まっちゃいないのだと思います。

ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。
プロバイダのメールサーバーが不調でここ数日メールが届きませんでした。現在もおかしな状態です。まずはお許しを。
おっしゃることはわかります。
そもそも、おかしなJ△○○方式がはやるというか、それ以外はだめというのがISO14001認証が始まった初期数年間の状況でした。
その頃は、初めからわかりきっている著しい側面になるように、いかにエクセルの係数、算式を調整するかということに我々が頭を使いました。まさに主客転倒、そんなことではISO以前の審査員のためのものでしかありません。
最近でも有益な側面という新興宗教もあり、いまだに規格文言が環境方針に盛り込まれていないという愚かな審査員による不適合も現実に見ています。
まさしく、真のISO14001ははじまっていません。
もはやISO14001は、金儲けと、オバカな人たちに、汚され、穢されてしまいました。
でもここまでISOが貶められたなら、もう一度仕切りなおしというよりも、ISO14001をきれいさっぱり捨て去って、新しい環境マネジメントツールを考えた方がよいかもしれません。
ダストコマンダー様は、どう思います?


ダストコマンダー様からお便りを頂きました(2012.03.02)
ISO規格は適正かの件
おばQ様
マネジメントシステムが本当に役に立つのかどうかは未知数であると思うと前回申し上げました。
ただお話の前提として、マネジメントシステムにはたぶん幾つかのパターンがあるはずということに留意したいと思います。
現在のISOは明らかにトップダウン方式ですね。
少し飛躍するかもしれませんが、このやりかたが成功するにはまずトップが熱い事業意欲に燃えていること、そしてそれに心から同調する人々が集結して組織を形成していることが不可欠だと思うのです。
しかし現実は、サラリーマンの延長線上の社長さんだったり、学校に求人が来ていたからという以上の志望動機を持たない従業員ばかりだったりしますね。

そこではISOの形骸化云々以前に、そもそもトップダウンのマネジメントシステムがうまく機能する素地に乏しいのだと思います。
今のISOのMSのパターンの由来がどようなものか、私は良く知らないのですが少なくとも日本企業とはあまりマッチしないのではないでしょうか。
そのあたりから整理して考えてみたいと感じています。

ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。
仰せの通りと思います。
まず、マネジメントシステムというのは一般語であり、その中には江戸時代の商人の経営システムも含まれるでしょうし、大航海時代の1回の航海がひとつの企業というケースもあるでしょう。そしてISO9001やISO14001の描くマネジメントシステムも入ると思います。
しかし、そのISO9001やISO14001の描くところのマネジメントシステムがトップダウンの方式と言ってしまうと日本的企業には向かないということになってしまいます。
そもそもISO9001はマネジメントシステムなのか?という疑問もあります。いくらマネジメントシステム規格だとうぬぼれて自称しようと、一皮むけば品質保証の条件に過ぎないように思えます。となるとトップダウンどころかマネジメントシステムとは言えないようにも思えます。
なお、我が同志の名古屋鶏様はISOは西洋のものであって、日本には向かないというご意見です。いろいろな見解があるということです。
反面、日本企業といってもどれが正統な日本企業か分からない状態です。
私はISOとはなにか?と大上段に考えても答えなんてない、それ以前にISOそのものが確固たるものでもない単なる道具だと思います。
だから、お客様から要求されれば、ISO規格を満たしていると説明するため程度のものだと思います。あと10年もすればなくなるか、誰も見向きもしなくなるものかわからないものを真剣に考えることもないように思います。
これは言いがかりではありません。
ISO9001の1987年版なんて今は誰も知らないでしょう。今、2008年版をありがたがっている人たちは、2015年版がでたら2008年版など忘れてしまうでしょう。じゃあ、今時点だって、2008年版を真面目に考えることもなさそうです。
単に、取引で要求されたら対応する条件と言うことに過ぎないと私はとらえています。
ISO大好き人間から見たら、不真面目でしょうけど、1987年版から付き合ってきましたので、現行規格がすばらしいという感じはまったくありません。


ダストコマンダー様からお便りを頂きました(2012.03.02)
おばQ様こんにちは。
ISOに対するスタンスとしてはおばQ様のご見解に同意させていただきます。

だから、お客様から要求されれば、ISO規格を満たしていると説明するため程度のものだと思います。

トップダウンが機能している度合いがどうであれ、会社の仕組みの中から要求事項に相当するものを審査員さんが発見してくださればよいことです。
それで文句ないでしょ、ですよね。
ただ、無事見つけてくださればの話ですけどね(苦笑)

あと10年もすればなくなるか、誰も見向きもしなくなるものかわからないものを真剣に考えることもないように思います。

この線でいきますと・・・ ここから先は個人的夢想なのですが、経済界全体で申し合わせて、せーので一斉に認証を取り辞めればよいのだと思います。そろそろ集団催眠を解くころあいだと思うのですが。
もし必要性を感じたら、過去の認証実績を問い合わせればよいでしょう。
そうこうしているうちに10年ほど経ち、影も形もなくなる。
ある意味で、もし10年後以降も組織の運用にその何らかの痕跡が残っていたとしたら、それこそが日本民族によるISOというものの吸収摂取成果なのでしょう。
・・・ たぶん何も無いと思いますけど。
まあ、夢から醒めた夢でしょうね。
ただ、マネジメントシステムは本当に役に立つのか?に焦点を当てて考えるとしたら、現在のISOがそもそもベストのものなのかどうか、あるいは組織側はどうなのかなどを考慮する必要があると感じた次第です。

ダストコマンダー様 毎度ありがとうございます。
おっしゃること、まさしく同意です。
そもそもISO9001:1987が現れたとき、日本の産業界は誰も相手にしませんでした。日本の小集団活動、提案制度、年功序列による徒弟制度的社内教育体系が、ISO規格よりも優れていると考えていたのです。それが正しいか否かはともかく、そういうのが現実でした。
それが覆ったのは、ISO認証した企業がすばらしい成果を出したからではありません。単に、EUが統合して、ISO認証した企業が生産したものでなければ輸入しないと宣言したからです。
そしてまた規制緩和とかいいましたが、現実的には外圧によって、日本の建設業が開放的であることを示すために、入札において国際規格であるISO認証していればということになったこともありました。
つまり、日本においてISO9001はすばらしいから要求されたのではなく、付き合い上、商売上、しょうがないから取り入れられたにすぎません。
そしてISO14001が広まったのも、ISO9001のとき出遅れて欧州市場でミスったことから、あつものに懲りてなますを吹いたに過ぎないのです。
そもそもが、ISOというものをあまり重要視すべきことではなかったのではないでしょうか。ダストコマンダー様がおっしゃるように、あるとき経済界が一斉に「ヤーメタ」といえばそれで終わりでしょう。
そのとき輸出に悪影響があるかといえば、世界でもISO認証がすばらしいということはないということが知れ渡りましたので大丈夫でしょう。
四半世紀にわたる壮大なマネジメントシステムの実験はそれで終了でしょうか?
今、2015年を目標にISO規格体系の見直しが行われていますが、それが実現するかどうか、実現しても採用する企業がどれくらいあるのか、私は疑問を持ってみています。いずれにしても、私が生きているうちに、結論は出るでしょうね。


うそ800の目次にもどる