「ガラス玉遊戯」

2013.12.26
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、ぜひ読んでいただきたいというすばらしい本だけにこだわらず、いろいろな本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからこの本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本、そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

著 者出版社ISBN初版定価巻数
ヘルマン・ヘッセ臨川書店978-4-653-03985-32007/6/303,800円全16巻の15巻

私は子供の時から本が好きだった。そして好きなだけでなく、子供の時から大人になってからもずっと大量に本を読んできた。特に好きな作家については、その著作を全部読もうとしたものだ。私のお気に入り作家の具体名を挙げると、フレドリック・ブラウン、イアン・フレミング、ジョン・ルカ・レ・ヘルマン・ヘッセ、ルーシー・モンゴメリー、ハインライン、スタインベック、アイザック・アジモフ、ジェームズ・ミッチナー、デュマ、ジェフリー・アーチャー、ハル・クレメント、アガサ・クリスティ、司馬遼太郎(今は嫌いだ)、遠藤周作、北杜夫、星新一、深田祐介、藤沢周平、池波正太郎、宮城谷昌光などなどである。
上記お名前をみると、とりとめがないように見えるかもしれない。たぶん私はチャランポランな人間なのだろう。

述べたように、好きな作家の作品は全部読もうとした。しかしそうではあるがちょっと変な考えだが、これはすごそうだと思った本は若いときに読まないで、歳をとってから読もうと読まずにいた。食事で一番好きなおかずを、最後に食べるという感じでしょうか?
それは三つある。いや、三つあったというべきか。
まずヘルマン・ヘッセの「ガラス玉遊戯」(1943)と、ロバート・ハインラインの「異星の客」(1961)、そしてジェームズ・ミッチェナーの「チェサピーク物語」(1978)である。
みなさんもお読みになったことがなくても、タイトルを聞けば有名なものばかりですから歯ごたえがありそうだと思うでしょう。いずれも書かれてから何十年経っても読む価値があると思います。失礼ながら、北杜夫や深田祐介は半世紀後には読む価値はなさそうです。

還暦を過ぎて、今の私ならその三冊の本を読む資格ができたのではないかと思うに至った。それで、まず1冊目として「ガラス玉遊戯」を図書館から借りてきた。時期的にも年末年始はフィットネスクラブも図書館も休みだから、ちょうどよいと思ったのだ。ところが義母が宅配便で送ってくれた野菜の箱を持って、ぎっくり腰をやってしまった。それでここ数日、外に出かけられずに、本を読むにはちょうどいい機会になってしまった。変に都合の良いこともあるものだ。というわけで年末年始の楽しみを先取りすることになった。

「ガラス玉遊戯」は全部で500ページと少々で大した長編ではない。ぎっくり腰のために、同じ姿勢を長時間続けられないという悪条件であったが二日で読んだ。
さて40年も大事にとっておいた甲斐があったかどうかということだが、その甲斐はあったと思う。40年前ならこの本を読んでも半分も理解できなかったに違いない。いや、今だってヘッセの意図を理解できたかどうかは怪しいものだが。
あるいは40年前なら読んだ時に、分ったと早とちりしたかもしれない。歳をとると当たり前というか淡々とした物語であっても、実際にそれを生きていくことは結構大変だということが分るようになったというべきだろうか。

私がヘッセの作品で一番好きなのは「ペーター・カーメンチント」である。「郷愁」なんてタイトルになっている本もある。それを最初に読んだのは、はたち前であった。その時は、ものすごく重く暗く深刻な物語だと感じた。死とか不幸とか別れなんてのが連続するから。それから何度も読み、最近では引退してからも読み直したが、段々と深刻さを感じなくなった。今の私にとっては暗いなんて印象はなく、あっけらかんという感じである。というのは私が主人公ペーターと同程度の体験をしてきたから、そんなのを読んでも悲しいとか重いとか暗いとは感じなくなったのだろう。
酒を飲むことは悪とは言わないが、泥酔は悪だろう。だが泥酔しての行為、翌朝の後悔というものは、泥酔しなくちゃわからない。若いときにはそんなことは分らないと思う。恋愛小説は恋愛の練習であり、死とか別れを書いた小説は実体験の事前演習なのだろう。とすると恋愛を経験した人にとって、恋愛小説は過去の自分の体験の復習になるのだろうか。
つまり人間は誰でも自分だけの小説を現実に自分の行動で書き綴っているのであって、紙に書かれた人生あるいはスクリーンの人生は食堂の店先のサンプルにすぎないのだろうと思う。店頭のプラスチックの見本をいくら見ても、実際に食べなければ味はわからないし、書き物を読むシミュレーションでたとえ感動しても、実際の体験に比べれば練習問題に過ぎない。

なかなか話が「ガラス玉」にたどり着かない。まあ、それでもよいのではないだろうか。
実を言って、「ガラス玉遊戯」を読んで感動というかグットきたのは、末尾の章である「三つの履歴書」の100ページであった。その前の400数十ページは特段何の印象もない。例えれば、イチゴケーキでおいしいのは甘酸っぱいイチゴであり、スポンジもクリームも刺身のつまである。つまり前の400数十ページは、ケーキのスポンジのようなものだ。
しかしイチゴケーキはイチゴだけ食べればよいのかといえば、それじゃ単なるイチゴであって、イチゴケーキではない。ということは「ガラス玉」の前振り400ページを読まないと「三つの履歴書」で感動しないのかもしれない。
それから物語の進み方が遅い。それはまあ、100年前(ちょっと大げさか)の小説作法と21世紀の物語の進め方は、大きく変わってきただろうから今の基準では評価できないこともあるだろう。特にペンで書くとかタイプライターを叩く書き方から、ワープロという編集が自由自在の筆記具が現れて、たばこを吸いながら考えるという書き方は今はないだろうと思う。
とはいえ、デュマの激流を下るというかジェットコースターに乗ったような物語そしてストーリーテリングは、今読んでもまったく古びていない。ということは物語や文体は時代には関係ない個性なのかもしれない。ヘッセがゆったりというよりものどかなテリングなのは、時代のせいではなく彼の個性なのだろう。

ちなみに読書感想とか、そこから何を学ぶかということは人それぞれであって、この駄文で何を書こうと私以外にとっては意味もないことは間違いない。この駄文は、何十年もの間いつか読もうと取っておいた本を読んだ、老人がとうとう読んだぞということを記念に記しておくだけのことである。
読んだ甲斐があったかは、先ほども書いたが、無ではないがそれほどでもなかった。
さて、残り二つをおいおいと読むつもりだが、後悔させないでくれと思う気持ちである。
どうなりますか?



あらま様からお便りを頂きました(2013.12.28)
おばQさま  あらまです。
ヘッセ・・・というと、学生のころ『車輪の下』を読んだことがあります。
詳しい内容は思い出せません。
今となってはただ、重苦しい印象が残っているだけです。
そのころ、ロシア文学のトルストイとかドフトエフスキーの小説を読んでいたからでしょうか。
最近、『カラマーゾフの兄弟』と『罪と罰』を読み直しました。
確かに、若いころに読んだ印象とは違いますね。
おばQさまが仰るように、人生の経験が、本の理解力を増幅させるみたいです。
ただし、ボケないうちに・・・。。。。

あらま様 今年もお世話になりました。
確かに本を読んで感動するとかしないとかは、その人の状況や年齢によりますね。だから全年代の人とか、すべての人を感動させるということはそもそもありえないのでしょう。
自分が必要とする情報や思想、人生の選択なんかがピタリと一致したときその本がすばらしいと感じ、そうでない人はそうでないのでしょう。
であれば我々は常い大量に本を読んで、自分に合った本にめぐり合うことを期待するしかないのでしょうか?
それなら自分に合った本を自分で書くという手もありそうですね。
まあ、そんなアホな考えを来年も再来年も、死ぬまでするのでしょうか?
進歩がありません・・・・トホホ

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