「教育勅語の真実」

2013.02.27
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、別に推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからこの本の内容について知りたいという方には不向きだ。

著 者出版社ISBN初版定価巻数
伊藤 哲夫致知出版社4-88474-939-22011/10/181400全1巻


先日、「日本をよくする千葉県民の会」という団体主催の講演会を聞きに行った。お断りしておくが怪しい団体ではなく、森田健作千葉県知事ご推薦で、講演会には知事の代理者が祝辞を述べにくるという極めてまっとうな団体である。と私が断ることもないのだが。
さて講演終了後、そのまま帰るのもかっこ悪いので、ショバ代かわりに講演者の書いた本を買った。いや何も買わずに出ても良かったのだが、私は気が小さいのだ。もちろん正価ではなく値引き販売だったこともあるし・・
ショバ代かわりに買ったくらいだから中身などチェックせずにお金を払い、帰宅してもすぐに読むでもなく未読の本の山に積んでおいた。だから読んだのは少し経ってからになった。
講演の内容と本の中身はまったく関係なかった。講演はアベノミックスについてだったし、本は教育勅語についてであった。

教育勅語きょういくちょくごなんてご存じない方が多いだろう。私も学校で習ったことはない。私の一番上の姉は終戦前に生まれたが小学校に行ったのは戦後である。その姉が小学校の先生が教育勅語のことを言ったけど、それはなあにと母に聞いたことを覚えている。当時の先生は戦争前から先生をしていたにしろしていなかったにしろ、学校で教育勅語を習ってというか覚えさせられたから皆知っていたわけだ。
そのとき母は暗唱して見せて、昔はみんなこれを習って覚えたものだといった。私と教育勅語のゆかりはその程度である。私が小学校行った昭和30年頃になると、さすがに先生が教育勅語の話をするようなことはなかった。

それから40年以上、私は教育勅語などとは縁がなく、読むことも覚えることもなく生きてきた。
さて、私がこのウェブサイトを開設したのは2001年である。ウェブサイトを作った理由は、教育勅語とは無関係である。私は戦死した叔父が無縁仏になるのはかわいそうだ。国家は戦死した人を祀る義務があり、それは国家首脳が靖国神社に参拝することだという主張をしたかったにすぎない。非常に単純素朴な理屈である。
ウェブサイトなんて作っても誰も訪問してくれない。非常にマイナーでネットの片隅にあった私の安っちいウェブサイトに相互リンクしようと言ってきたのが、私が相方とか「たぬき」と呼んでいるSSさんだ。

相方の肖像

相方の特技は、葉っぱをお札にすることと人間に化けることができます。化けないときの姿はたぬきそのものです。もちろんしっぽもあります。

お便りをいただいて彼のウェブサイトを拝見したら、まず作りが違う。私がナツメ社のhtmの冊子を読んで3日で作ったものとは月とすっぽん、豪華絢爛、音も出れば画像もきれいときたもんだ。しかもタイトルはヤクザ並みの金箔押しである。たぬきの話によるとプロに頼んでコンテンツの整備など開設までに1年かけたとのこと。私はとてもそんな気長なことはできない。
ともかく、そこにおごそかに掲げてあったのが教育勅語である。
SSさんと私は志を同じくするが、お互いの意見が完全に一致しているわけではない。そのとき私は日本を愛するとは今の日本を愛し、より一層よくしていくことであるが、それは昔のものを尊ぶこととは違う。つまり教育勅語を尊重するのはいかがなものかと思った。本音を言えば、教育勅語を持ち出すことはサヨクに利する行為ではないかという議論をした記憶がある。
もちろんSSさんは私の意見などに動じず、教育勅語をずっとアップしてきている。
誤解のないように申し上げておくが、私の両親は古い人間であり、かつ政治的にも思想的にも保守であって、私がサヨクに育ったわけでもない。私が教育勅語が嫌いだとか内容が悪いと考えたのではなく、そのアプローチが現代日本人の琴線に触れるかどうかという、戦術的観点からどうだろうという見解であった。
なにしろアサヒをはじめマスゴミには、教育勅語なんて言葉を聞いたとたんに切れて大声で叫ぶ人々があふれているのだから。
まあそんなことがあったが彼は教育勅語を掲げ真面目に語り、私がいい加減なことを語って10年が過ぎた。その10年間にサヨクは民主党という党綱領さえない(注1)おかしな政党を使って政権をとり、崩壊した。そして読売のナベツネもサヨクの本性を現し、北朝鮮は核とミサイルを手に入れ、中国は空母を持ち日本領土である尖閣を盗もうとしている。いやあ、状況は悪化する一方だ。これじゃ日本は敗走一方ではないか。困ったことだ。

そして、日本人の精神は山口百恵(注2)ではないが、ますます貧しくなっているように思う。経済的に豊かでも心が貧しくては困る。イジメや体罰や犯罪増加が、すべて道徳の喪失によって起きているなんて安易なことは言わないけれど、道徳が失われていることは間違いない。道徳という言葉が嫌いなら、順法精神と言ってもいい。
人は宗教がなければ善悪の判断基準はないと思う。もちろんそうでないという説もある。実を言ってこの本でも東日本大震災で被災した人々がゆずりあい、また暴動や略奪がなかったのは日本人の道徳意識が高いからだという論を展開している。そして一層の道徳心を持たせるには教育勅語の意味を現代に教えるべきだという論理である。宗教には言及していない。
私はどうもそこがおかしいと思う。いや価値判断、価値観が宗教そのものだと思うのだ。
日本が明治維新になったとき、日本には確固たる宗教はなかったのではないだろうか。そりゃ仏教もあるし神道もあるし、武士道の基本の儒教も朱子学もあるし、解禁されたキリスト教もジャンジャンと入ってきた。でも日本が国民国家を作ろうとしたとき、国民に共通な宗教がなかったということは間違いない。
だから明治維新後、日本を一体にするために新しい宗教が必要となった。ここで宗教とは何かをはっきりさせておく必要がある。宗教とは、別に神様とか偶像とか礼拝形式とかが必要ではない。そもそも宗教とは、人の生死とか心の平安とは無縁といっても良い。
マックス・ウェーバーによると宗教とは「行動様式」のことであるという(注3)。神様がいなくても、礼儀作法、行動規範、考え方そういったものを定めて強制すればそれはすなわち宗教と言ってもいい。北朝鮮の制度は宗教そのものであり、中国の国家体制は宗教そのものである。だが、日本の現状を見れば宗教といえるものがないことは間違いない。無秩序が宗教だとは言えない、それは単なるアノミーである。
現在の日本と同様に国民に共通する宗教もなく、全国的に共通な言葉さえなかった明治において、国家をまとめるということはとんでもなく難しいことだったに違いない。そして外国人教師がキリスト教的思想を教え、外国の圧倒的技術的優位をみると日本人としての誇りなど持てなかったに違いない。これでは日本を国民国家にすることなど不可能だ。 だから新たに宗教を作る必要があった。ここでの宗教はマックス・ウェーバーの言うところの宗教であり、仏教やキリスト教と拮抗するとか代替え可能なものを意味するのではない。
そして明治政府が作った宗教が教育勅語である。
教育勅語といっても教育とか学校とは関係ないというか、それを包含するもっと大きなものである。日本国民のあるべき姿を示したものである。
教育勅語は聖書やお経に比べて短いとおっしゃるかもしれない。
宗教の聖典は長いことが必要ではない。南無妙法蓮華経だけ唱えていても極楽に行けるそうです。

話が変わるが、宗教改革のルターは有名であるが、彼は宗教家であると同時に義務教育の推進者だったそうだ。彼が生きていた1500年代、ドイツでは自分の名前を書ける人は1割程度だったらしい。識字率となればその数分の一に違いない(注4)。なぜ彼が義務教育を推進したかというと、いろいろ理由はあるだろうが、聖書を読まないと司祭が語ることを信じるしかない。本当に神が行ったこと、神が語った言葉を知るには、信者が自分で聖書を読むことが最重要であり、そのためには識字率を上げることが必要だと考えたそうだ。
日本ではそれどころではなく、全員に共通な宗教がなく聖書もなく、まずそれを作る必要があったということだろう。国民すべてに受け入れられるためには、その宗教は神や仏よりも広いものというかそれらを包含したものでなければならない。だから教育勅語には神とか仏とか天国という言葉はない。天皇の祖先がこの国を作ったということが冒頭にある。それをとらえて天皇制だとかいうのは筋違いだろう。それ以前の佐幕も勤王もみな天皇を尊重していたし、日本書紀も古事記も事実とは思わなかったかもしれないが、日本の国のありようとしてすべての日本人が理解していたわけでしょう。
ちなみにアメリカも国民に共通な宗教というか規範がないので、アメリカの義務教育は読み書き算数を教えるのではなく、国民を作ることだという(注5)。そのシンボルは国旗であり国家なのでしょう。

だから教育勅語は、日本教の原点、いや聖典なのです。ちなみに日本教とは山本七平のいう日本教です(注6)。仏教も神道もキリスト教も、日本教の一宗派にすぎません。
そして冒頭に戻るのですが、日本人は宗教がないのではなく、教育勅語という宗教を信じていたわけです。そして現代はその教えを忘れつつあり、だから世が乱れているということですね。
じゃあ相方が10年前から主張している教育勅語をもう一度ということは現代に通用するのだろうか?
これは非常に難しいと思う。
まずサヨクの反対があるし、今持ちだすのはいささか唐突の感もある。なによりも一般人は読めない。
白状するが、私にとって英語のアメリカ憲法を読むよりも、明治の御代の教育勅語を読む方がはるかに難しい。いや、からっきし読めないのだ。
教育勅語の現代語訳は多々あるが、軍国主義だから危ないという人は軍国主義のニュアンスを出しているし、教育勅語推進派は軍国主義ではないというニュアンスを出したものなどいろいろだ。この本では著者の現代語訳が載っているが、一読した感じでは他の現代語訳よりも原文のニュアンスをそのまま表していると感じる。
それでも冒頭の天孫降臨はなんとかしないと現代には通用しないと思う。どんなものだろうか?
この本を読んで、いろいろなことが頭に浮かび、私はいささか混乱した。

教育勅語(この本の現代語訳)

 私が思うには、わが祖、神武天皇をはじめとする歴代の天皇がこの国を建てられ、お治めになってこられたご偉業は宏大で、遼遠であり、そこでお示しになられたひたすら国民の幸せを願い祈られる徳は実に深く、厚いものでありました。それを受けて、国民は天皇に身をもって真心を尽くし、祖先と親を大切にし、国民すべてが皆、心を一つにしてこの国の比類なき美風をつくり上げてきました。これはわが国柄のすぐれて美しいところであり、教育が基づくべきところも、実にここにあると思います。
 国民の皆さん、このような教育の原点を踏まえて、両親には孝養を尽くし、兄弟姉妹は仲良くし、夫婦は心を合わせて仲睦まじくし、友人とは信じあえる関係となり、さらに自己に対しては慎ましやかな態度と謙虚な心構えを維持し、多くの人々に対しては広い愛の心を持とうではありませんか。
 また、学校では知識を学び、職場では仕事に関わる技術・技法を習得し、人格的にすぐれた人間になり、さらにそれに留まらず一歩進んで、公共の利益を増進し、社会のためになすべき務めを果たし、いつも国家秩序の根本である憲法と法律を遵守し、その上で国家危急の際には勇気を奮って公のために行動し、いつまでも永遠に継承されて行くべき日本国を守り、支えて行こうではありませんか。
 このように実践することは、皆さんのような今ここに生きる忠実で善良な国民だけのためになされることではなく、皆さんの祖先が昔から守り伝えてきた日本人の美風をはっきりと世に表すことでもあります。
 ここに示してきた事柄は、わが皇室の祖先が守り伝えてきたお訓(さと)しでもあり、われわれ皇室も国民ともどもに従い、守るべきものであります。これは昔も今も変わるものでなく、また外国においても充分に通用可能なものであります。私は皆さんと一緒になってこの大切な人生の指針を常に心に抱いて守り、そこで実現された徳が全国民にあまねく行き渡り、それが一つになることを切に願います。


  1. 民主党は党綱領を持たずに政権党になったという極めて珍しいというか無責任アノミーな政党である。党綱領を制定したのは野に下った2013年2月のことである。
  2. 愛の嵐」(1979)の歌詞より
  3. 小室直樹(2000)「日本人のための宗教原論」、徳間書店、p.25
  4. 木原武一(1994)「アインシュタインの就職願書」、PHP文庫、pp186-191
  5. 小室直樹(2002)「日本国憲法の問題点」、集英社インターナショナル
  6. 山本七平(1971)「日本人とユダヤ人」、角川書店
    著者はイザヤ・ベンダサンとなっているが山本七平も著者の一人とされている。


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