震災から2年

13.03.10
東日本大震災から2年、私にとって地震が起きたのはほんの少し前とも思えるし、もうずっと前のことのようにも思える。もちろん今も避難所生活をされている方々にとっては、まさに今の現実である。
直接被災しなかった人を含めてすべての日本人にとって、この大震災は人生において記憶に残っただろうし、それぞれの人生に大きな影響を与えたに違いない。

地震が起きたとき、私はまだ現役の会社員であった。震災前は引退したらやりたいこととかいろいろと考えていたが、大震災によって人生観といってはおおげさだが、やりたいこと、死ぬまでにしておきたいことということは大きく変わった。
まず退職後に住むところの選択に福島に帰るというものはなくなった。それと変な話だが、息子、娘と住まいが離れていた方がなにかあったとき避難先になるという考えになった。
もちろん日本中が壊滅とか移動手段がなくなったときはどうしようもないが、今回の地震のように福島が放射能が高ければ我が家に避難する、こちらが液状化で住めなくなれば地盤が丈夫なところに避難するという、ある意味保険をかけておくことは悪いことではないと思う。
中国人が世界中に散らばって住むというのは、そういう意味があると聞いた。

それとお金というものに以前ほど執着はなくなったと思う。もちろん私が財産など持っているわけではないが、田舎に小さな土地を持っている。以前はこれは不動産だから未来永劫まで残るなんて思っていたが、放射能汚染で土地そのものはなくならないが価値はゼロになってしまった。1000万あろうと1億あろうと、それよりも安全で平穏な生活の方が優先するのは当然だ。
天変地異があれば一番大事なものは何か? いや決して毀損されないものは何かと考えればそれは明らかだ。健康、教養とか見識、家族や友人というみっつだけが本当の財産とではないだろうか。
教養とか家族や友人というのは短時間で強化するのは難しいので、とりあえず健康につとめようと退職後はフィットネスクラブで汗を流している。会社勤めしていた時よりははるかに健康になったと実感する。体重が5キロ減り、胴回りも細くなった。もうメタボなんては呼ばせない。少し走っても息切れなどはしない。50歳の時よりも63歳の今の方が体力はあるように思う。
もっとも緊急事態の時に大事なのは、速く走るとか重いものを持ち上げることができることではなく、長時間歩けることとか寒さに耐える体力とかのほうが生き残ることに貢献するように思う。そういう意味では逆三角形の体型よりも、脂肪がついて太めの方が良いのかもしれない。どうなのだろうか?

またお金よりも思い出というわけでもないが、元気なうちにやりたいこととか、行きたいところに行こうと考えている。私も日本人なので、伊勢神宮、出雲大社はぜひ一度お参りしたい。最近希臘ギリシアからきたソフィア」を読んで伊勢神宮には絶対行かねばと思う。日本中を歩いている家内も伊勢は私と行くようにと残しているという。この二か所には今年中には行くつもりだ。
思い残すことはないようにして死にたいと思う。

非常時の備えだが、これも難しい。あまりいろいろ備蓄しても、それがいいのかという気もする。たとえだが地震保険の金額を高くするのが良い選択とも思えない。やはり自分の平常時の生活も考え総合的に備えておくべき品物が決定されると思う。
具体的には乾電池とかラジオ、ろうそくといったものはいくらかは備えておくべきだと思うが、ミネラルウォターを何十リットルも置いてもしょうがない。せいぜいがペットボトル何本かということになるだろう。
同様に、夜寝るとき着替えとか眼鏡をすぐに身に付けられるようにというのはわかるが、非常持ち出しのリックを置いて預金通帳も着替え何着もとなると、ちょっとやり過ぎのような気もする。

震災直後、固定電話も携帯電話もつながらず、一時アマチュア無線がもてはやされたがこれはすぐに下火になったらしい。呼び出し周波数で相手を探すという方法で、通信相手と連絡が確実につかながる保証がなければ通信手段としては心もとないだろう。
とはいえ引退して時間を持て余しているので、昔していたアマチュア無線を非常時の備えと趣味を兼ねて再開しようかという色気もある。ただ現実問題としてHF帯のCW(モールス通信)などは非常時には役に立たないだろう。またハイパワーといっても商用電源があればこそで、非常のときに発電機や燃料までは用意できないだろう。反面見通し距離しか届かない430MHzでは実用上疑問符が付くから、144MHzか50MHzのハンディ無線機がいいのかなという気がする。
しかし考えてみると、こういった無線機は離れ小島でもなければ個人で用意しなくても良いような気もする。どうなんだろうか? 考えれば考えるほど不確定要素が多い。
アマチュア無線というのはどうも趣味と実益は両立しないようだ。というかもう実用においては技術の進歩でコマーシャルベースで提供されている通信サービスが先を行っている。

「老前整理 捨てれば心も暮らしも軽くなる」なんて本がある。持ち物が少ない方が気が楽だということはあるだろう。今の時代は物を持っている人が豊かではなく、何もない方が豊かかもしれない。
ともかく物は少ない方が良いと思う。いずれ老人ホームに住むようになれば持てる物は限定されるし、どっちみち歳をとればほとんどのものはいらなくなる。いつか捨てるなら今捨てても同じという気もする。狭い部屋を狭くすることもないと、持っているものを少しづつ捨てている。


本といってもいろいろあるが、私の寄稿が載っている雑誌などは後生大事に持っていたが、捨ててもいいのかなあという気もする。
子供が生まれると親はカメラとかビデオで一生懸命我が子を撮影するが、子供が大人になるとそんな写真や映像にはまず関心がない。親だって目の前の子どもの方がいいわけで、昔の写真など眺めることはない。そんな写真はせいぜいが結婚式の時、お涙ちょうだいくらいしか使い道がないようだ。
自分が書いた文章が載っている雑誌を保管していても、自分が死んだ後、家内や子供たちが読んでも全く意味も価値もないだろうと思う。ましてISOに関する論文など無価値だろう。自分が生きているとき時々ながめてニヤニヤするだけかもしれない。
ここはひとつ決断して、そんな本は一切合切バーっと捨ててしまうべきなのかもしれない。
といいつつ、これについてはまだ決心がつかない。

衣類
会社を辞めたとき、家内は会社勤め用の衣類も靴もほとんど捨てた。スーツ、ネクタイ、通勤用の靴、スーツ用のコートも捨てた。あれから1年経ったが、ネクタイをしめたことがない。どこにいくのも夏ならTシャツ、半ズボン、スニーカー、冬ならシャツにダウンにコーデュロイのズボンである。着るものがそういうものだと気分もリラックスするし肩がこらない。
ウオークインクロゼットをみると、あれだけ捨てたのに1年間着たことがないシャツやブレザーなどがいくつもぶら下がっており、それらは順次廃棄することにしよう。

雑貨
雑貨というべきか、棚に飾ってあるテディベア、壁に掲げている七福神、インドア用ラジコン飛行機など、もらいものや旅行の土産、あるいはそのときはこれはいい!と思って買い求めたのだが、まああってもなくてもよいようだ。また以前使っていたパソコンの付属品、使わなくなったハードディスクなどがある。使えるといってもいまどき数百メガのHDなどごみ以外の何物でもない。
そういったものをバサッと捨てると狭い部屋も少しは広くなるだろう。

ともかく捨てるのはいつでもできるしそれを考える時間はたっぷりある。
とはいえ、私のアマゾンの「ほしいものリスト」は何ページもあり、お金を使うのも楽しみのようだ。

私の考えが不謹慎に見えるかもしれないが、後ろ向きに考えてもしょうがない。与えられたものを最大に楽しむことが与えてくれた神への感謝だろう。明日はわからないから今日楽しく過ごせばいいのではなく、明日はわからないから今日精一杯頑張ろうと考えれば良い。
そいえば震災直後にレジャー自粛が大勢となったが、その後そういうことをせずに個人消費を伸ばすことが被災地を応援することだと言われた。JRは今でも「「東北を旅するという支え方がある」というキャンペーンをしている。私も賛成だ。
私が能天気に楽しい生活をすることが周りを楽しくして、回りまわって被災地を明るくすると思うのは自分勝手だろうか?

とにかく日本の景気を良くして、国力をアップしないと震災復興もままならない。
デフレ脱却、経済成長、そして震災復興だ、



ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(2013/3/11)
144でも電池駆動のハンディなら2キロぐらいしか飛びませんから、使い物にならないような気がします。

たいがぁ様 毎度ありがとうございます
するってえと、アマチュア無線は緊急用としてはあまり役に立たないということでしょうか
期待薄ですな・・・・トホホ

ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(2013/3/11)
まあ、仮にハンディー機が20キロも飛ぶとすれば、そんな携帯電子レンジみたいなものを顔面に押し当てて通話する害の方がはるかに怖いわけでして。

たいがぁ様
言われてみると、そのとおりですね
ハッハッハ


震災から3年

14.03.10
数日前、娘が久しぶりに我が家にやって来た。お互いの最近の状況などを語らう。話の流れで、東日本大震災からまもなく3年になるねという話になった。娘が「あの地震のときどこにいたのか?」という。
私は会社で仕事をしていた。高層ビルが大きく揺れたので驚いた。正直立っていられないくらい揺れた。とはいえ100人くらいいるオフィスで、地震が起きてすぐに各自に支給されていたヘルメットを着用したのは私ともう一人だけで、他の人はそれどころではなかったよと少し自慢した。
娘はお店で仕事をしていたという。そして万が一建物がつぶれて怪我人が出たら大変だと、お客様を駐車場に避難誘導したという。あれほどの大揺れの中でそのようなことができたとは、わが娘はたいしたものだ。制服を着ると、制服を着ていないときに比べて、職務遂行の意思というものが強化されると聞く。だいぶ前に旅客機が空港直前で墜落したときのこと、乗客を避難誘導したスチュワーデスが「制服を着ていたからできた」と語ったのを聞いた覚えがある。警官でも自衛官でも店員であろうと、制服を身にまとえば、その職務を遂行するという義務感というか、ことを遂行する覚悟が湧き上がるのだろう、
私は単にオフィスで働いていて、自分の身だけ守ればいいという状況にあったから、ワイワイ言いながら窓から湾岸に上る煙を眺めていたのだろう。いや私は意気地なしだから、店員をしていてもお客様を避難誘導することはできなかったのかもしれない。

それから、昨年お盆で家内と私が田舎に帰ったときの話になった。もう田舎でも屋根に青いビニールを載せている家はほとんど見られなくなった。また壊れたままの家もほとんどない。墓地の石碑も今では倒れたままというのは見かけない。
壊れた家は修理したり建て替えたりしていて、そうでない家はもう解体・撤去してある。壊れたままにしておくと火災の危険や犯罪などの問題があるので撤去させているようだ。とはいえ新築する資金もなく、年寄りは建て直す意欲もないから、跡地は空き地のままだ。田舎町とはいえ、大通りの左右になにもない空き地が点在しているのはやはり異様だ。
去年、法事で田舎に帰ったとき、盆踊りなどをする街の真ん中の公園に家が立ち並んでいるので、あれは何かと聞いたら、仮設住宅だという。仮設住宅を街中の公園に作っていたとは驚いた。また昔からあった小学校がなくなっている。学校の敷地が更地になっている。いくら少子化でも街のなかの小学校がなくなることはないだろうと思い、どうしたのかと聞いた。なんと、小学校が損壊して1.5キロも離れたところに移設したそうだ。

私の親戚も、家内の親戚も、住まいはなんとか補修して、仕事もなんとかなり、みなさんそれなりに平穏な暮らしを取り戻している。幸い避難区域になった身内はいないし、仮設住宅に住んでいる人もいない。仙台の叔母夫婦は地震で家が壊れ、いっとき避難生活をしていたが、その後自宅に戻ってきて半壊した家の修理をしているうちに叔父は過労で亡くなった。80過ぎてそんな死に方も切ない。
もちろん親戚の中には畑や田が崩れてしまい、もう農業はできなくなった家もある。幸い兼業農家だったからサラリーマンだけでもなんとかなっている。また奥さんがパートに行っていた会社がなくなって仕事がないという家もある。会社は残っても以前より事業を縮小したところも多く、そういうところではパートが一番初めに減らされた。雇用という点ではしょうがないのはわかる。
話はとりとめもなく発散していく。

娘と家内と酒を飲んでそんなことを語らえることが、とんでもない僥倖だと感じる。
以前の会社に勤めていた人が、定年前に退職してボランティアをすると宮城県に移り住んだ方もいる。その後音信はないが、頑張ってほしい。
そして、いまだに自宅に帰れない方、仮設住宅にお住まいの方、復興に努めている方々、頑張ってください。
軟弱で自分の幸せだけで生きている私は申し訳ない。
日本人皆に、幸せな日々が来ることを切に願う。



震災から4年

15.03.11
月日のたつのは早いもので、あの大震災からもう4年がたつ。
私の親族、姻族はもうすでに一段落している。地震で大破した家は建て直したし、避難して先で爺さん(正確には私の叔父)が亡くなった家ももう3回忌を終えそれなりに落ち着いている。
震災の直後は義母が市からガイガーカウンタを借りてきて、数字が低いところをロープで囲んでその中で遊ばせていた姪の子供(義母から見るとひ孫)も、今では小学2年生になった。
公共の建物の補強はほぼ完了したようだ。
私が住んでいる千葉でも破損したり、ひびが入った建物も多かった。震災後は公共の建物、小学校、中学校、公民館、図書館などは一斉に点検を行い、危ないところは立て直しとか、建物の外側に鉄骨を追加したりの工事をして今はもうあらかた終わっている。
昨年墓参りで田舎に帰ったとき、以前私が勤めていた工場を外から眺めたが、鉄筋コンクリートの工場4棟がすべて大破したのを撤去して、それまでの半分くらいの規模の建屋を建てて既に操業していた。働く人は6割方に減ったようだが、主要な従業員は今でも働いていると聞いた。会社がこれからもずっと継続していってほしいと陰ながら祈っている。
私は田舎に土地も家も持っていないが、我が家の代々の墓がある。石碑とはいくつも石を重ねたものだが、上の石が地震で5〜6センチ斜めにずれてしまった。二年ほど前、義弟と私でヨイショヨイショと元の位置に戻そうとしたのだが、とても素人の手に負えるものではない。とはいえこんな些細な仕事でも石屋を頼めばそれなりに取られるのだろうとそのままにしている。納骨には関係ないところだから、私が死んで息子の代になってもたぶん放置しておくことだろう。何十年もたって「これは地震でずれたんだよ」なんて年とった息子がその息子とか甥や姪に講釈を語っているのが目に浮かぶ。なにしろ我が家は誰もが口は達者だが手は動かさないから、
じゃあ、私はもうなにもないのかと言えば、実は地震恐怖症になった。正直な話本当だ。家にいて地震があると身構えてしまう。天井から5円玉を吊るしておいて、地震かと気になるとその揺れを見るのも癖になった。そうそう地震があると必ず気象庁好感度地震観測網のウェブサイトをチェックする。あのとき気象庁の地震の地図で日本の東半分が赤くなったのを今も忘れない。
地震は怖い。津波も怖い。私の住んでいる都市、いや千葉県全体が低地だから8mの高さの津波が襲ったら、まず人の住んでいるところは壊滅だろう。私の住んでいるマンションはたまたまであるが高台にあるので8mの津波でもまあ大丈夫かなとは思う。
東日本大震災のときの津波の高さは8m、最大遡上高は40mであった。
千葉県の市街地はほとんどが海抜3m以下だから、津波到達時そういったところにいればほぼ逃げ場がない。
具体的にどのくらいの標高(海抜)なのか?
場所海抜場所海抜
市川市役所2.8mJR市川駅2.6m
船橋市役所1.2mJR船橋駅4.7m
浦安市役所3.8mJR舞浜駅2.6m
習志野市役所8.9mJR津田沼駅16.1m
千葉市役所3.3mJR千葉駅7.2m
袖ヶ浦市1.9mJR袖ヶ浦駅3.3m
館山市役所8.4mJR館山駅2.4m
銚子市役所6.04mJR銚子駅6.7m
JR錦糸町駅5.3mJR亀戸駅6.8m
JR秋葉原駅3.1m東京駅八重洲口3.6m
ディズニーランド5.0mららぽーと3.4m
コストコ4.6m幕張メッセ3.4m
これだけ標高があれば大丈夫と言ってはならない。
東日本大震災のとき、地盤沈下が70センチから1mくらいあった。それに今現在地球温暖化が言われており、年と共に海抜は低下している。まして大潮とか低気圧などであれば50センチくらいはすぐに上下してしまう。
地震で地盤沈下が起きたところがあれば隆起したところもあるだろうというツッコミがあるかもしれない。残念ながらプレートが日本の下に沈む構造だから、今回の地震では隆起したのは海底だったそうだ。
これを見ただけでも私は背中がザワザワする。というのは、私は生まれも育ちも標高260m以下のところに住んだことがない。勤め先もそうだ。
だから海抜2mとか1.5mなんて標識をみるとパニックになってしまう(少し大げさですが)東京に来て丸の内の海抜が3mと聞いて驚いた。日比谷公園の日比とはノリ養殖の竿のことだそうで、江戸時代は海だったとのこと。
以前の同僚が平井駅近くのマンションを買った。東京に通勤は近いしマンションは最高の設備だ。普通の人なら素敵ね、うらやましいわというだろう。だが私は安心しない。調べると海抜はナントマイナスのゼロメートルであった。それを知って千葉のこやしの臭いがする田舎で良かったと安心したのである。
もちろん低いところに行かなくては生活は成り立たない。だけど運を天に任せて暮らすのは大人げない。いや危険極まりないどころか、毎日ロシアンルーレットをしているようだ。
静岡県の浜松市などでは命山を作ったとか報道を見たし、千葉県では富津市が鉄骨製の避難台を作った話は聞いた。だが、その他の都市ではそういった逃げ場を作ったという話を聞いたことがない。大丈夫だろうかと心底思う。
もう行政は喉元過ぎて忘れたのだろうか?
とりあえずはマンションのあるあたりから離れずに、ディズニーランドにも「ららぽーと」にもコストコにも行かないようにしなければ・・・・なんてことができるわけがない。
どうなんでしょうかねえ?
東日本大震災から4年、私のPSTDは直らない。いや、これは正常な反応なのかな?



震災から5年

16.03.10
昨年初夏、郡山市の家内の叔父が亡くなった。夫婦でお葬式に参列した。
田舎といえど、告別式は昔のように自宅ではなくお寺で、精進あげはお寺近くの地域の会館であった。
注:辞書を見たら「精進あげ」は間違いで「精進あけ」が正しいそうだ。不肖おばQ喜寿間近にして初めて知った。
遺族がアタフタとすることはなくお金を出すだけで済むとは楽になったものだ。とはいえそれだけで終わるわけではなく、そのあと親戚一同は叔父のご自宅に行って更なる酒飲みとおしゃべりである。なにしろ田舎だから、叔父宅とお寺さんそして地域の会館とそれぞれ歩いて数分のところにある。
お線香 親しい人が亡くなることは悲しいことだが、叔父の場合80をとうに過ぎており、ご家族も親戚も涙が止まらないというほどのショックでもない。亡くなった当日も元気に近所の人と立ち話をしたりお茶を飲んだりしていたと聞くと、正直幸せな死に方だと思う。それは失礼なこととか哀悼の意がないということではないと思う。何年も寝たきりだったり、ボケていたのに比べれば、個人の尊厳は保たれたし、ご本人もご家族もお互いに心労も介護の苦労もせずに済んだのだから。

亡くなった叔父は震災直後、知り合いの見舞いか何かで市立病院に行っていて、そこでテレビのインタビューを受けたことがある。「エロエロタイヘンダゲンド、ガンバンネエドショウガアンベエ」とか応えたのが全国報道されて、親戚中からテレビスターと呼ばれていた。叔父はいつも明るく茶目っ気があり、生前みんなから好かれていた。現役時代は小さな土建屋の社長をしていて、10何年も前に子分に会社を譲って引退してからは、庭いじりと地域のご意見番として悠々自適の暮らしだった。
震災では叔父宅も周りも大きな被害を受け、地域のご意見番は対策や復興にいろいろと活躍したと聞いている。叔父の住んでいた地域は田舎だから人の付き合いが濃く、助け合うのも当然というところだから、住民同士や行政との利害関係をいろいろと交通整理をされたのだろうと思う。震災のときのご苦労が叔父にダメージを与えたとも思う。
私は結婚する前から家内に叔父を紹介され、いろいろとお世話になった。だが都会に移り住んでからは叔父の家におじゃましたことがない。10数年ぶりに行ってみると、遠目には私が結婚した40年前と変わっておらず地震の被害などなかったようだ。
しかし近づくと壁にはひび割れがいくつも入っていて、鉄骨の補強が壁にボルト締めしてある。室内も鴨居の下にツッカイ棒があるなど、震災でダメージを受けていろいろと手を加え対策していることが見えた。多分昔の子分どもを集めて仕事をさせたのだろう。どこも当面処置のようで、いずれはちゃんと直そうとしたのだろう。
叔父宅の周囲を見ると、以前あった家がなくなって更地になっているところが散見される。叔父の嫁さんに聞くと、隣の家は地震で大破して、どうせ建直すなら町はずれよりも街に近い方がいいと2キロほど離れたところに家を建てて引っ越したという。ほかも似たような状況らしい。叔父宅は他に比べればまだ破損が少なく、当面は補強して長期的にどうするかは考え中というところだったらしい。
たまたま近くに座った私の知り合いに話しかけたら、その方も家が地震で損壊し10キロほど離れた息子さんの家に老夫婦が同居したという。
そんなわけで町はずれの叔父宅近辺は空き地が増え、住民も相当減った。震災以降、何も変わらなかったという人はいないようだ。
またまた宴席で近くになった家内の遠い親戚が、兄弟が遠くに住んでいて助かったという話をしていた。震災後に放射能の心配とかライフラインが止まったとか、いろいろなことがあり、ひと月ほど小さな子供たちと奥さんを関東の弟一家に寄宿させてもらったという。もちろん震災直後は移動もままならず、ガソリンもなく逃げ出すこともできなかった。ご家族が県外に避難したのは震災から10日くらい過ぎてからだったらしい。ご本人は一人暮らしで仕事をしていたという。家族離散が短期間で良かった。
私も震災直後、義弟一家、義弟の娘(私から見ると姪)一家の合計7人が、避難してくる話があった。80平米弱の3LDKに、私と家内と合わせて9人が住めるかどうか心もとなかったが、寝具や着替えなどを用意した。幸い東京消防局の活躍で原発が一段落して来ることはなかった。ともかく万が一のとき親戚が遠くにいると避難場所として頼りになるという言葉は実感として理解できる。これが近くに住んでいると、災害時は一緒に被害を受けてしまう。昔は「遠くの親戚より近くの他人」と言ったが、今なら「近くの親戚より遠くの親戚」というのかもしれない。
全く関係ないが、我が家は小さい子供から高校生くらいまでいる親戚のディズニーランドに遊びに行くときのベースキャンプになっている。京葉線で乗り換えなしで10数分だから便利この上ないのだろう。まあこれもお互い様だ。

飲むのを早めに切り上げて、姪に私たちが以前住んでいた地域を走ってもらった。
道路とか川とか橋というようなものは場所は変わらないし、街並みも全般的には大きな変化はないように見えるが、震災後も個々の家とかお店などは相当変化し続けている。姪が言うには、個人商店の多くが廃業するのは過去からの流れであるが、震災での損壊を機会に廃業したところが多いという。そして住民は近所のお店がなくなった結果、新たに作られたショッピングモールに買い物に行くようになったという。ショッピングモールとは1ヘクタールくらいの広さで中央に1000台くらい停められる駐車場があり、周りを様々な小売店が並んでいるのだ。ひとつの市に何か所もあり、新しい地方都市の標準的な風景のようだ。
車があれば便利だろうが車のない人や老人・子供はどうするのかと聞くと、無料バスが街とショッピングモールを巡回しているという。確かにそういう店の方がさまざまなものがそろっているし、値段も安いのかもしれない。家族で出かければ一日中遊んでいられそうだ。しかし数軒隣にあるお店とか小さなスーパーであれば、客も店員もお互い顔見知りで、世間話から、子育て、悩み事、縁談など奥さん連中の井戸端会議の場であった。そういうものがなくなると、付き合いも変わるだろうし、地域社会そのものが崩壊してしまうのではないだろうか。
まあ今の私は既に地域社会が崩壊(消滅?)したところに住んでいるわけだが、それもまた一つの形態であり特段悪いことも困ったこともない。人生いたるところ青山あり、地域社会というものも基本形とか原則というものはなく多様なのだろう。

石灯籠 昨年のお盆に叔父宅に線香上げに行った。庭がきれいに作られていて大きな石灯籠があった。お葬式の時は気が付かなかった。
叔父の嫁さんが、叔父は以前から庭に石灯籠が欲しくて欲しくて、何年か前に何十キロか離れた石の産地まで行って買ってきたという。自分でトラックに積んで運び、元の子分どもを使って設置したのだが、絶対に倒れないようにといろいろとしたらしい。それで大震災でも倒れなかったのが叔父の自慢だったという。今となっては単なる自己満足だよねとか嫁さんが言うが、叔父としては墓の中でニンマリしているだろう。そんなことを思うと自分もなんだかうれしくなる。

家内の実家に行く途中、姪は運転しながらいろいろと地域の情報を説明してくれる。既に避難解除になったところの人でもお金目当てで避難を続けている人もいるし、補償金で豪邸を建てている人も多いよという。補償金で夫婦で毎日パチンコしている人がいるんだよと怒り心頭で語る。回り道をして避難者が建てた邸宅をいくつか見せてくれた。避難者が土地を買うのでこの辺も地価が上がっているとあまりうれしくない顔で言う。親(家内の弟)の土地家を相続して婿さんとここに一生住むつもりの姪は、土地家を売るつもりはないから地価が上がることは固定資産税が上がるだけで丸損なのだ。
家内の実家に着くと、姪の娘・息子が元気いっぱいに庭で遊んでいる。原発事故のときは、義母が市役所からガイガーカウンターを借りてきて庭の線量を測り、大丈夫だというところをロープで囲み、その中で遊ばせていた。あれは思い過ごしだったのだろうと思う。ともかく二人とも元気に育ち、下の子も小学生になった。

東日本大震災は非常に大きな出来事ではあったが、みんなの心の中でだんだんと風化してきたように思う。記憶が風化することは悲しむことでもないし、風化させてはいけないということでもないように思う。もちろん治にいて乱を忘れず、災害への対策はしなければならないことではあるが、過去を悲しむだけでは災害のとき頑張った人、亡くなった人が喜ぶとも思えない。
私が今一番声援を送りたい人は、原発の後始末に関わっている人たちである。マスコミや野党は原発に関わっている人たちを貶めるような発言が多いが、ちょっとおかしいぞ。

鼻血
ところで・・
雁屋哲は鼻血を出している人を大勢見ているようだが、姪も義弟も見たことがないという。家内の実家は避難地域ではないが、避難地域の境界からさほど遠くないのだが。
これは大事なことだからはっきりしておきたいものだ。



震災から8年

19.03.11
東日本大震災から8年も過ぎた。あのとき丸の内の揺れる高層ビルで、ビル管理会社が店子に配っているヘルメットをかぶり、 ヘルメット 遠く晴海の方で上がる黒煙を眺めて、日本はどうなるのだろうと思ったのを昨日のように覚えている。
その夜はオフィスの床にコートを敷いてその上に寝た。

翌日、大混乱の東西線に乗り、西船橋から5・6キロ歩いて我が家に帰り着いた。3月だというのに汗ぐっしょりになったのを覚えている。
なぜ歩いたのかは覚えていない。西船橋から東は総武線が動いていなかったのか、総武線そのものが動いていなかったのか、あるいは総武線は動いていたけれど混雑で乗車できなかったのかは記憶にない。一刻も早く我が家にたどり着きたいという思いしかなかった。

やっとのことで我が家に着くと、家内が無事であったのを見てとりあえずホッとした。マンションの中は家内が整理していたが、戸棚の中の食器はみな壊れてビニール袋に入れられてベランダにあった。
家内は地震が来たとき必死で本棚を押さえていた、あのときはどうしたんだろうねえ、構わず逃げれば良かったと笑う。
娘と息子の安全は翌日に確認できたが、彼らの家はどうなったのかその時は分からない。帰宅したのは昼頃だと思うが、子供たちが無事と聞いて、前夜の寝不足と歩いてきた疲れからすぐに横になって眠った。

それから数日は福島の親戚は大丈夫だろうか、仙台の叔父一家は大丈夫だろうかと心配するばかりだった。なによりも政府の動きが悪い。講釈を語るだけで手を動かさない民主党政権だったから、対策も救援も遅れ遅れで私は怒り狂った。
原発が危ないというとき、手をこまねいていたのは菅直人だ。彼は責任を感じていないのか? いまだに情報が入ってこなかったからだと言っているところをみると、悪いのは情報を持ってこない方なのか? まさか国民が悪いとは言わないだろうけど、いや言うのかな?
民主党政権が悪夢だったのかといえば、YES, just that streetとしか言いようがない。それされも気づけない旧民主党一党は、政治家を辞めるのはもちろん人間も止めて欲しい。
「もう一度政権を取る」なんて寝ぼけたことを言うのはやめろ。

私の親族、姻族の安否が確認できたのは1週間以上かかった。幸い親族、姻族ともに地震で直接亡くなった人はいなかったが、家が倒壊したり怪我したりという人は幾人もいる。そして伯父がひとり、避難所で亡くなった。地震で怪我をしたわけではなかったが、いろいろと持病もあって避難所生活に耐えられなかったのだろう。幸いその他は逆境に負けずに頑張っている。
その後、壊れた家を建て直した人もいるし、本格的に修理した人もいるし、もう歳だからと半壊した家を、そのまま雨漏りを防いだ程度で住み続けている人もいる。聞いた話だが家が傾いていると精神がおかしくなるという。いささか心配だ。

少し前、常磐線が開通したという報道があった。原発の後処理はいまだ途上であるが、行政も地道に活動していると感じる。
私は東北復興になんの貢献もしていない。せいぜい毎年東北旅行をするくらいである。昨年は青森県、秋田県を歩いてきた。とはいえ私の落すお金など雀の涙、申し訳ない。

私ごときが復興を心配してもなんのお役にも立てない。
今日は私がいつもする本の発行数を切り口に考えた。
books.or.jpで「震災」をキーワードにして検索して各年に発行された本をグラフにした。

戦災関連本

* 発行された本の数であり、発行部数ではない。

出版された本の数と国民の関心は比例すると考えて良いだろう。
地震が起きてそれをネタに本を書くといっても、すぐに書物にして発行するのは物理的に難しい。大地震が起きても、震災の本が多数出版されるピークは翌年である。
中越地震も大変な被害を出したが、国民の関心は低かった。このとき地震が来たら大変だということを国民みんな(菅直人や枝野幸男も含む)が認識していれば、東日本大震災はもう少し被害、特に人的被害は少なかったのではないかという気がする。
うろ覚えだが、当時マスコミも中越地震を大変なことだという認識で報道していなかったように覚えている。少なくても 中越地震で地震対応をしていた自民党政権であったなら、民主党政権よりは対応が早かったと考えているがどうだろうか?

阪神淡路大震災のときは当年と翌年で60件弱だったが、東日本大震災は当年と翌年で、なんと500件近い震災関連本が発行された。当たり前だが、それだけ国民の関心が高かった。しかし数年であっというまに減少し、2016年に熊本地震が起きて改めて関心が戻ったという感じだろうか。2013年2014年の減少カーブから推察すれば、熊本地震がなければ2016年には50冊を切っていたのは間違いないだろう。
2018年に北海道胆振東部地震が起き、2019年以降はどうなるか分からないが、新たな地震がなければ2010年以前の平年並みに戻るのではないだろうか?
人間は忘れやすいのだ。

治に居て乱を忘れずというけれど、ときが過ぎれば悲しみを癒すとともに、関心を薄れる。そして天災は忘れたころにやって来る。忘れるから大きな災害になるのかもしれない。
2019年以降、出版数の新たなピークはいらないから、常時関心があって50冊くらいで推移してほしいなんて考えた。

実を言って、出版数だけでは実感にあわない。TVニュースの時間を知りたいと思ってそうとうググった。
だけど年ごとのTVニュース放送時間あるいは類似のデータがネットでは見つからない。
やっと見つけたのがエム・データ TVニュースランキングというものなのだが、これが営業開始2004年頃からで、ネットにあったデータは下記だけだった。
ともかくそれによると

地震名放送時間年間ランキング
2016年熊本地震137時間07分09秒1位
2018年北海道胆振東部地震54時間15分52秒8位

もっと良い指標があればと残念。
もっといろいろ探してみたい。


ところで本日推薦する本
「東京防災」東京都発行、2016.03.30
書店で150円くらいで売っています。アマゾンなら338円+送料
pdfは下記から無料でダウンロードできます。
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/1002147/1006044.html
こういう本は一挙に読んでもすぐに忘れてしまいます。毎日1ページくらい読んで、家の中の確認とか家族で話し合うという使い方が良さそうです。




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