ケーススタディ 審査員になりたい

13.02.26
ISOケーススタディシリーズとは

山田が帰ろうとしてメールボックスに緊急のものがないかとチェックしていると、見覚えのない差出人からメールが来ている。@マークの後ろがyahoo.co.jpで、仕事には不似合いなメールアドレスだ。もし一般市民からの抗議などだと大変だ。山田は電車の時間を気にしながらもメールを開いた。


山田は椅子の背もたれに寄り掛かり斜め上方をみて考える。
確かに虫のいい話だ。たまたま仕事であって名刺交換した程度の人に、就職をお願いするという発想を普通の人がするものだろうか。とはいえ、この人も頼る当てがないから、ちょっと袖が触れ合っただけの山田にメールをしてきたのだろうと思う。そう思うとむげにもできない。さてどうしたものかと・・
しばらく考えたものの良いアイデアがでるわけでもない、もう時間も時間だし帰ることにしよう。この案件なら今夜中に処理しなくても問題はないだろう。



翌日の朝、人事部の三崎課長にちょっと相談に乗ってほしい旨メールを打つ。半年ほど前、人事部所管の保養所で産業廃棄物の処理が不適切だという問題があり、山田が行政への対応をしたことがあり、貸しがあるのだ。だから相談に乗ってもらえるだろう。会社で仕事をするには貸しを作っておくとなにかとやりやすい。いや、貸しというと変だ、常に人のために尽くしていれば情けは人のためならず・・・同じことか
ほどなく、午後一30分くらいならOKという返事が来る。
昼過ぎ、山田は人事部の三崎課長を訪ねた。

山田
「三崎課長さん、ちょっと相談があるのですが」
「おお、お待ちしておりました、どうぞこちらへ」
三崎は個室に案内する。人事は内緒話が多いから打ち合わせコーナーのようなオープンスペースでは話をしないのだろう。
山田は鈴木からのメールをプリントしたものを三崎に渡して説明した。
山田
「単刀直入にいきますが、昨日当社から子会社に出向していて、来年定年になる鈴木さんという方からメールをいただきました。その方とは1年ほど前に私が監査でその会社に訪問したときに名刺交換したそうですが、私は記憶がありません。いずれにしてもそれだけの関係で、特に付き合いはありません。
要件は、その方はISO審査員になりたいというのです。ご本人が認証機関に相談したところ、年齢が行き過ぎていることと、審査員の資格がないのでと断られたということです。
年齢については説明するまでもありませんが、もう一点の審査員というのはですね、審査員になるには審査員研修を受けて最終試験に合格することがまず必要です。しかしこれはお金と時間をかければ普通の人はクリアできます。ところが審査員には主任審査員、審査員、審査員補という三つのランクがあり、研修後試験に合格しただけでは審査員補にしかなれません。実際にISO審査ができるのは審査員以上であることが必要で、審査員になるには審査員補になってから実際の審査に20日以上参加した経験がなければならないのです。これは一般の会社員にとってはものすごく高いハードルです。だって審査に参加するなんてちょっとできませんからね。現実には認証機関で働いていないと困難ですね。
それで私に、認証機関に雇ってもらえるように口をきいてほしいというのです」
「山田さんとしては、そういうことは可能なのですか?」
山田
「私個人としてはできませんが、会社として交渉することは不可能ではありません。当然そういうことを一方的にお願いするというわけにはいきません。ギブアンドテイクであることは当然です。ですからそのようなことをするには、人事部として人事処遇上必要だという判断がほしいですね。
同時に、それだけでなく、いろいろなことが頭に浮かびました。
こんなことを言うのもなんですが、環境保護部では社内や関連会社の環境部門の担当者や管理者の力量をそれとなくみていて、これはと思う人には私どもが行っているさまざまなプロジェクトへの参加や、社内教育用テキスト作成などをお願いしています。この鈴木さんという方は今までそういったことに参加していませんし、そもそもノミネートされたことがありません。廣井部長やその前任者も彼を指名していないところをみると、環境担当者としてはそれほどのレベルではないのかと思うのです。とすると会社として認証機関にわざわざお願いするほどのことがあるのか、はっきり言えば恥をかくのも困りますからね。
また子会社に出向してそのまま定年を迎えるというのは、先方が転籍を受け入れなかったわけですね。ということはご本人になにか問題があったのではないのかということが気になります。通常なら定年前に転籍して定年後は嘱託とかなにか面倒を見ると思うのですよ。そういうことをしないということは何かあるのかと気になります。人事部の方でお考えがあったのだろうとも思いました。
そんなことがいろいろ頭に浮かびまして、三崎さんに相談したわけです」
「なるほど、いきさつはわかりました。確かに定年間近まで転籍せずに出向のままというのは珍しいですよね。何かあったのかなあ〜
いずれにしてもこのようなことを親しくもない環境保護部の方に依頼するのは筋違いでしょう。本来なら人事に言ってくるべきでしょうし、その前にまずは出向元に相談すべきでしょうね。当社が定年を迎える人に対して定年後のことを相談しないとか何も支援をしないと思われるのも癪ですしね。おっと、これはここだけの話というか、そんないい加減な人事行政はしていないつもりです。
山田さん、話は分かりました。ちょっと人事の方であたりますので山田さんはとりあえずは動かないでください。そうですねえ、私の方で対応を考えるので二三日、時間をください。それまで山田さんから鈴木さんへは返事を待ってもらえますか」
山田
「ありがとうございます。肩の荷が下りましたよ。よろしくお願いします」



その翌日と翌々日、山田は出張しており、溜まったメールをチェックしたのは三日後だった。
三崎課長からメールが入っているのに気が付いた。早速それを一番に開く。


山田はそれを読んで、なるほどと思った。ものごとはすべて原因があって結果が生じるわけだ。さすが人事はそつがない。
山田はすぐにメールを書く。


山田は人事の三崎課長をBCCに加えて発信した。そして鈴木のことはすっかり忘れた。
ところが1時間もしないうちにご本人から電話が来た。
山田
「はい環境保護部です」
「鈴木と申します。山田課長さんをお願いしたいのですが」
山田
「ハイ、私が山田です」
「メールありがとうございました。その件についてお話したいのですが今よろしいでしょうか?」
山田
「ハイ、どうぞ」
「山田さんはお仕事上、認証機関のお知り合いがたくさんいらっしゃると思います。そういった方に私のことをお願いすることはできないのでしょうか?」
山田はヤレヤレと思ったが、声には出さず・・・
山田
「おっしゃるとおり複数の認証機関に仕事上の関係のある方はたくさんいらっしゃいます。しかしご理解いただきたいのですが、鈴木さんの件をお願いすれば、こちらに見返りが求められるでしょう。そういうことはしたくありません」
「単に口をきいていただく程度のこともまずいのでしょうか?」
山田
「人ひとり雇ってもらうということは簡単じゃありません。鈴木さんがお取引先に知り合いを雇ってもらうことを考えればお分かりと思います。世の中頼みごとをするとき、一方的に頼むというのはありません。何か見返りをつけるギブアンドテイクになるのが普通でしょう。もちろんすばらしい能力とか実績があれば向こうから声をかけてくるでしょうけれど」
「そうですか。でも山田さんがお仕事と離れて個人的にお知り合いの方にお願いするということはできないものでしょうか?」
山田
「鈴木様のお気持ちはわかりますが、こういった依頼は個人的ということはありえません。先方から見れば当社としての要請とみなすでしょう。
それに今まで私は鈴木様とお付き合いもありません。そのようなことをしなければならない理由がわかりません。私は鈴木さんの人となりさえ知らないのですから」
「でも当社グループの環境管理をとりまとめている部門なのだから、グループ企業の環境担当者に対して就職の支援をするのは当然じゃないですか。まして私は子会社じゃなくて本体の社員なのですから」
山田はムカッときた。この人は自分中心でしか物事を考えられないのだろうか。それと親会社の社員は子会社の社員よりも価値があると思っているのだろう。還暦間近なのに一般常識もないのか!
山田
「鈴木さん、当社の仕組みをご理解いただきたいのですが、出向者の所属している部門は出向元です。そこの総務担当者とお話しいただいてご検討されるのが筋と思います。環境保護部は環境管理の指導はしても、環境担当者の査定や人事異動にタッチしておりません。あなたは環境保護部所属でもありませんし、私の部下でもないのですよ」
「そうですか、じゃあ出向元と話してみます」
ガチャンと電話が切れた。
山田はヤレヤレと思いつつ、人事の三崎課長に電話した。三崎がでたので、山田は電話のあったことと話の内容を伝えた。三崎は話は承ったと言って電話を切った。



その日の昼過ぎ、人事の三崎課長から山田に電話があった。鈴木のことで、今すぐ打ち合わせたいという。ヤレヤレまたかと思ったがしょうがない。人事部に行く。
三崎課長の他にもう一人いる。鈴木の出向元のボールねじ事業部の総務の佐伯課長といった。
「このたびは環境保護部さんにご迷惑をおかけしまして申し訳ありません」
「どうも鈴木さんという方は世間の常識に欠けているようですね。山田さんと電話した後、彼からすぐ佐伯さんに出向というか転職について支援してほしいという電話があったそうです」
「今になってといいますか、今まで定年後のことについては本人が考えると言っていたのですが、急に面倒をみろと言い出しまして・・・ともかく定年前にISO審査員になりたいというのです。それで認証機関に審査員として行けるように考えてほしいとのことでした。とりあえずその場は、検討すると回答しました」
「山田さん、まず認証機関に雇用してもらうという可能性どうでしょうか?」
山田
「認証機関といっても通常の出向と全く同じです。いろいろ考えられますが、まず当社が株主になっている認証機関があるかどうかです。子会社とは言えなくても株主であれば出向させることは十分可能でしょう」
「それは調べました。当社は認証機関2社の株主になっています。でも持分が1割もないですから取締役などは出していません。そしてそれぞれ審査員として数人出向させていますから、今以上押し込むのは難しいでしょうねえ
それと今まで審査員として出向させた方々は、職階や経験そしてご自身の希望などを考慮して先方とも十分すり合わせて決定していましたし、このような突然のものではありませんでした」
山田
「わかります。それに鈴木さんの場合まずなによりも年齢がいきすぎですね。昔はISO審査員に定年がないなんて言われたこともありましたが、それはもう過去の話です。今では60歳定年、それ以降は認証機関の子会社に転籍か、契約審査員というのが関の山でしょう。もし認証機関に出向させるなら54歳くらいで話を持っていかないといけないですよ」
「受け入れる立場からみれば当たり前ですね。審査員に限らず定年まで1年の人を出向させるというのはありえないでしょうねえ。言い方を変えると彼は定年前に出向してそれ以降も向こうで働きたいと考えているのでしょうけど・・」
山田
「とはいえ、出向を受け入れてもらえないわけでもないでしょう」
「当然裏があるのでしょう」
山田
「もちろんです。ご本人がものすごく有能であれば別ですが、こちらからお願いするなら見返りは必要です。もし当社グループのいくつかの組織のISO認証を、その認証機関に切り替えるというお土産を持たせれば出向受け入れはあるでしょうね。
ただそのとき他の事業部に迷惑をかけることはできませんから、認証機関を切り替えるのはボールねじ事業部の工場か関連会社で対応してほしいですね」
「そりゃそうですね。他の事業部には迷惑をかけられません。とはいえ、個人の希望を叶えるのに、会社がそんなにことをしなくちゃならないのはおかしいですね。私は所管している工場や関連会社にそんな話しはできません」
「それじゃ実質的に不可能ということですね」
山田
「それでも契約審査員にしてもらうという程度であるなら、可能性はあります」
「契約審査員とは?」
山田
「社員として出向受け入れしてもらうのではなく、仕事があるときだけ審査に参加するというアルバイトみたいなものですよ。当社あるいは関連会社に在職したまま当社が認証機関と話をして契約審査員として使ってもらい、1年後に退職したらご本人が認証機関と話をして契約審査員としてやっていくということになります。この場合審査員の資格がとれるまでは審査の戦力外ですから、賃金というか手間賃はゼロというのはやむを得ないでしょうし、ひょっとして審査員の資格になってもずっとそのままかもしれません。審査の仕事が減っていますからね。でもこの場合は、利益供与にはならないでしょう。世の中には審査員の資格を維持するためにお金をもらわずに審査に参加させてもらっている人もいるのです。
しかし本人が審査に参加しても認証機関からその時間分の賃金をとれずに、当社がご本人の賃金を100%負担するとなると、鈴木さんの趣味にお金を払っているようなものですね。出向の場合の賃金補てんとは意味が違います」
「客観的に見れば、彼に振り回されるだけのようですね」
山田
「基本的なことですが、当社がそこまで犠牲を払って彼のために対応しなければならないかということを判断してもらわないといけません。出向させるにしても就職を紹介するにしても、出す側も本人も受入側も三者がハッピーにならないと意味がありません。今回は単に個人の希望だけで、派遣元も受入側もなんもメリットがないように思います。それにおかしな前例を作って、第二第三の鈴木さんが現れたら収拾がつきません」
「おっしゃる通りです。結論は見えているのですよ。鈴木さんのご希望には添いかねるという回答をするつもりです。ただ対応した場合の当社の負担とか損得をはっきりさせておきたかったのです」
山田
「三崎課長のお話を聞いて安心しました。私はご本人と付き合いがありませんが、今までのメールや電話から考えて、認証機関に出向してからトラブルが起きるのではないか懸念しました。工場の課長をしているのと違い、毎日全国を歩き回り初対面の人を相手に審査を行う商売は、人付き合いが苦にならないコミュニケーションが得意な人でないと不向きでしょう」
「わかりますよ、鈴木さんの過去の行状を見ているとね・・・」
山田
「そうなのですが、だからこそ人事から拒否されるとまた大騒ぎをするような気もしますね」
「山田さん、それこそ人事の仕事ですよ。それは任せて下さい。
では佐伯さん、そういうことで当社としては鈴木さんのご期待に応えることはできないということで回答していただけますか?」
「承知しました。おとなしく了承するかどうか・・・またみなさんにご迷惑が及ぶかもしれませんがそのときはよろしくご協力をお願いします」



山田はその後2週間ほど、なにごとか起きるのではないかと身構えていたが、結局なにもなく過ぎた。
一段落ついてというか、ほとぼりが冷めてから山田は今までのいきさつを廣井に話をした。
廣井
「審査員になりたいか・・・、人の考えは様々だから何とも言いようがないが、それほど審査員がすばらしいものなのかなあ?」
山田
「それに今59歳では審査員になっても何年もできるわけじゃないです、せいぜい4・5年ですか。嘱託で残っても、大して変わりはないと思いますが」
廣井
「まあ、ISO事務局なるものを長年していると、反対の立場になって審査をしてみたいという気持ちになるのかもしれないなあ」
山田
「私もかってはISO事務局なるものをしていましたが、そんな気持ちはこれっぽっちも沸き起こりませんでした」
廣井
「まあ、人さまざまだよ」
山田
「しかしそもそも出向しても転籍したくないってのは、何か意味があるのですかねえ〜」
廣井
「名刺代なんて言葉を知らんか?」
山田
「知りませんね」
廣井
「出向すると鷽八百の社員から、子会社の社員になる。昔はそれでは肩身が狭いだろうと、月1000円とか2000円とか出向者の賃金に加算したんだ。それを名刺代といったのさ。今はそんな時代じゃないがね」
山田
「仕事と賃金の関係は理解しますが、会社名と賃金が関係するとは・・・?」
廣井
「人によって違うだろうが、小さな会社の社員じゃない、大きな会社の社員だということに価値を見出すというか安心感を持つ人もいるのだろう。
それと・・・この鈴木さんて方は、鷽八百の社員という方が子会社の社員よりも認証機関に出向しやすいと考えていたという気もするね。
野球選手は元巨人軍と名乗りたいという話を聞くがね」
山田
「そんなもんですかねえ〜
ところで廣井さんは年齢からいって、この鈴木さんて方をご存知ですか?」
廣井
「俺の記憶ではこの人は10年くらい前には岐阜工場の環境課長だったはず。工場の環境課長の会議などで会ったことがある。
確かに俺は本社に来て事業所長クラスになったけど、課長で終わっても出世しなかったとは言えないだろう。そこまでなれない人の方が多いわけだし。
もっとも彼から俺を見たらうらやましく見えて不満があったのかもしれない」
山田
「鈴木さんから廣井さんに依頼が来たらどう対応したのでしょうか?」
廣井
「お前と同じだよ。そりゃ深い付き合いではなくても昔の知り合いの力になりたい気はあるが、やれることとできないこと、やるべきこととやってはいけないことってのはあるわけだ。それにご本人の力量や性格も知らずにそんなことできるわけがない。
考えてみろ、仕事で名刺を交換しただけの人から、大金を貸してくれって言われたのと同じだぞ。そんなの社会常識で通用しないだろう」
山田
「おっしゃる通りですね」
廣井
「それからこういうケースは今回が初めてではない。最近はISO認証も下火だから審査員希望者もいなくなったが、7・8年前はそりゃたくさんいたものだ。だから当社も認証機関の株主にもなり、審査員を送り込もうとしたわけだ。最近はあまり例がないから人事も忘れてしまったのだろう」

うそ800 本日の話について
こんなことがあるのかと問われると、ちょっと言えません。
実を言って、この文章は四回くらい書き直した。その理由はどこまで書いてよいのか、書いてはまずいのか、いろいろ考えて、内容やぼかし具合を調整して書き直したからです。そこまでして書くこともないと言われると、まあそうですね。

うそ800 本日の驚き
タイトルを考えていて「○○になりたい」ってのはどうかと思い付き、アマゾンでそんなタイトルの本があるかと探したら驚くほどたくさんありました。
その中に「女の子になりたい」というのがあった。ついつい書評を読んだが、いやあ、世の中は広い、知らないことはたくさんあると知りました。
どんな本か興味がある方はぜひ「女の子になりたい」で検索してみてください。




ケーススタディの目次にもどる