車の時代

13.03.13
タイトルから、車の時代は終わったと読んでほしい。
では、はじまり、はじまり
終わったといいながら始まりとは何だ! なんて語ってはいけない

私の車との付き合いは短くはない。1960年代初め私が中学の時、オヤジが中古のスバル360を買ってきた。そして私は否応なくオヤジに運転を仕込まれて、田舎道を無免許で走っていた。
スバル360というものも度重なるモデルチェンジ、マイナーチェンジがあった。
我が家のスバルはドアは前開き、窓は引き戸というもっとも初期のタイプであった。ギアシフトもHの配置ではなく、の配置だった。

無免許運転とは法違反だあ!とか遵法精神がないなんて言わないでほしい。当時は今とは価値感というかパラダイムが相当違っていた。イノシシとキツネくらいしか歩かない非舗装の農道を無免許で走っても、誰も目くじら立てることはなかった。

その車はくたびれ果てたポンコツで、いつもどこか故障していた。しかし、それだけに私にとっては勉強になった。
いまどき、ポンコツという言葉も死語となってしまった。ポンコツとは私のようなよぼよぼになった人や物をいう。
タイヤが減って薄くなっていたからパンクはしょっちゅうしたし、スピードメーターのワイヤーは切れるわ、クラッチのワイヤーは切れるわ、キャブは良く詰まったし、デストリビューターは壊れるわと、まとものところがない。
キャブが詰まったのはキャブのせいではなく、タンクや燃料系統が汚れまくっていたからだろう。混合油だったから特にそういう可能性が高い。まあそのたびにばらしてキャブを軽油であらったので構造は自然と覚えた。
もっとも今では従来のキャブレターの付いている車などないだろうから、もう意味のない話だ。
大したことではないがランプ類はしょっちゅう切れた。当時の電球は今よりもはるかに寿命が短かった。
これも今車に乗っているでランプが切れたという経験のある人はほとんどいないだろう。更にはどんどんLEDになっているし・・・

運転も今の車のようにラクチンではない。ミッションはもちろん手動でシンクロメッシュではない、チョークは手動、バッテリーも弱く、どうしてもエンジンがかからないときは、近くの坂まで車を押していき、坂道を下った勢いでエンジンをかけた。窓は引き戸でヨイショと開けたし、エアコンはもちろんなく、ダッシュボードに小さな小窓があってそこから外気を直接入れた。もちろん風と一緒に土埃も盛大に入った。
ミッションは非力で三速だったから、エンストさせないように動かすのは難しかった。しかし一番難しいのは坂道発進だった。ダブルクラッチとかS字とか車庫入れというのは、日常運転していると否が応でもしなければならず慣れてしまうが、坂道発進は自分で避けることができたので、機会が少なくなかなか習熟しなかった。まして非力なエンジンだったからクラッチを合わせるのは難しかった。オートマしか乗ったことのない人は、オートマのありがたみはわからないだろう。
まあそんなことをしていて私は運転が結構うまくなったのである。親戚の人がかっこいいトヨタコロナで来たとき少し運転させてもらったが、1500ccのエンジンは馬力があるので、運転がうまくなったような気がした。

当時は16歳になると軽免許がとれた。中学の同級生で地元に就職した連中は、すぐに免許をとって軽トラで街中を仕事で走っていた。私も高校生になり夏休みすぐに自動車学校に行った。無免許で運転に習熟していたから直接警察が行う運転免許試験に行っても良いのだが、なぜかそういう人はおらず、みな自動車学校に行くことになっていた。当時、警察もそういう指導をしていた。
今は知らないが当時の自動車学校の校長は引退した警察署長、教官は元警官と相場が決まっていて、持ちつ持たれつ、じゃなくて天下りの仕事確保だったのかもしれない。
そうに違いないなんて言っちゃいけません。

ところが自動車学校に数回行ったとき、私は盲腸になり即入院となった。退院したときには夏休みは終わっていて、免許取得作戦はそれっきりとなる。二年生、三年生も夏休みがあるだろうって、ちょっとお待ちください。
その後、運送屋のアルバイトをしていて乗っていたトラックが人をはねた。事故というのは一瞬だから、人が出てきた、ぶつかった、人が倒れたというようなものではない。目の前に何か黒いものが現れてアット思った瞬間に、それがふっ飛んで行ったという記憶しかない。トラックは大きかったので車が衝撃を受けたという感じはなかった。被害者は小学生の女の子で、幸い命に別状はなかった。後遺症が残ったかどうかは知らない。今ではその子も50過ぎのオバサンになっていることだろう。
私は助手席に座っていて、被害者が車の左側にぶつかったので、私の心理的なショックは大きかった。もしあんなふうに人が飛び出して来たら誰だって避けることはできない。そのときはもう3年以上車を(無免許で)運転していて、へたではないと思っていたが、あんなときは自分でも轢いてしまうことは間違いなかった。
その事故で免許を取る気は失せた。もちろん運転するのもやめた。

免許を取る気が失せた理由は、もうひとつあった。私の近所に住んでいた2つ年上の人が高校を出てすぐ親に車を買ってもらった。もちろん当時のことだから軽自動車である。そして人を轢いてしまったのだ。その後のその人と被害者とのゴタゴタは近所でもうわさになり、そんなことになると大変だということをしみじみと認識した。
私はその後引越しに次ぐ引越しで、その人に会ったことはない。しかし数年前、たまたま田舎の家内の実家に行った時、地方紙を見ていてその方が田舎の中堅企業の役員になっていることを知った。あれから40年、高卒で関連企業を含めると従業員が1000名を超える会社の役員になったとはすごい努力をしたのだろう。
その方もいろいろあったのだろうなあ。私もいろいろあったけど、

田舎とはいえ1960年代末当時は、まだ車はまだ必需品にはなっていなかった。運転免許を持っている人も少なかった。当時多くの人は勤務先と自宅に近く、通勤は徒歩とか自転車で間にあっていた。田舎には昔も今も電車も地下鉄もない。だから電車通勤はありえない。
私も通勤にはバスに乗っていたし、職場の人とほとんど毎晩飲んでいたので、車で通勤という発想はなかった。当時でも飲酒運転の取り締まりや厳しかった。
私の田舎で免許を取るのがさかんになったのは1973年頃からだろう。その頃になると、街中の狭い家に住むのではなく、市街から数キロ離れたところに大規模開発して分譲地が売られ、車で市街地の会社工場まで通勤するというライフスタイルがベーシックになった。
しかし私はその頃になっても、人を轢いた車に乗っていたショックが消えず、免許を取る気にはならなかった。だから街中のアパートに住んでいた。
あるとき職場の監督が免許をとるという話をしていた。どうしてかと聞くと、結婚して子供ができた。子供はしょっちゅう病気にもなるので医者に連れて行かなくてはならない。奥さんの家にも子供を連れて行かなくてはならないし、そのためには車が必要になるんだよという。そんなものかと思ったが実感はなかった。
何度も繰り返すが、田舎には電車はなく、ちょっとどこかに行くとなると汽車と路線バスを乗り継いで一日かがりになってしまうのだ。

私は25歳で結婚して、27で子供が生まれた。車がないから病院に行くにも退院するにもタクシーを使うしかない。お金の問題ではなく、自由がきかない。そして小さな子はやはりしょっちゅう病気になった。それでやむなく免許を取ることにした。その頃は免許を取る人が非常に多く、運転実技の予約を取るのが大変だった。今自動車学校の前を通ると、どこもガラガラだ。幼稚園、学校、結婚式場、その他なんでも流行があった。団塊の世代が使う施設は常に繁盛する。そして団塊の世代が通り過ぎるとすぐに閑古鳥が鳴く。今混み合っているのは葬儀場か?

免許を取ると早速車を買った。安くて将来子供が二人になるだろうから、4人家族が乗れることを考えてシビックファイブドアというものを選んだ。それは人を乗せて走るという基本機能だけしかない。エアコンもなければ、チョークもオートではなく、パワーステアリングでもなくFFのハンドルはとんでもなく重かった。
それ以降、私が買った車は3台しかない。最初のシビック、二代目は中古のカローラ、三代目はカローラの新車を買った。それぞれ8年から9年乗った。だから27歳から52歳までの25年間に乗った車はわずか3台である。
なんで長く乗ったかと言えば、単にお金がないからだ。当時、普通の人は一台に4年とか5年程度しか乗らなかったようだ。2000年以降、不景気で車の寿命が長くなったといわれるが、我が家は1975年から不景気である。
正確には、車の寿命ではなく廃車にするまでの期間である。普通に使えば10年くらいは問題なく走るだろう。
実際に日本で廃車になったものがロシアとか東南アジアで活躍していると聞く。

田舎にいた時は、どこに行くにも車だった。子供を連れて海や山に行くには当然としても、スーパーに買い物に行くにも、子供から学校に迎えに来てと言われると、歩いて10分もかからないところまでホイホイと迎えに行った。歩いて10分の公民館に碁を打ちに行くのも車でいった。今考えるとなんで歩いて行かなかったのか不思議だ。
家内も同じで歩いて1分のスーパーにも車で行った。歩いた方が速いと思うかもしれないが、食品を買って重い荷物を持って帰るのが大変だから。
あの頃は歩くという発想がまったくなかった。10分も歩くということはまずなかった。飲み屋にも車で行く。帰りは運転代行である。
今も田舎の人はそんな暮らしをしているのではないだろうか? でもそういう暮らしは今考えるとやはり異常だ。

10年前、私が都会に出てくるとき、駐車場を借りると月何万もかかるというのを聞いて、驚いた。田舎では市街地で駐車場を借りても、月4000円とか5000円だった。桁が違う。
そんなわけで、オンボロとなったカローラは家内の友人にただでくれた。いやくれたというよりも、もらっていただいたというべきかもしれない。まだ自動車リサイクル法が施行される前でしたし・・
車を手放すとき一番心配したのは、床屋に行くことだった。田舎では自宅から歩いて行けるところに床屋がなかった。だから車で行くしかない。車がなくて床屋に行けるだろうかと心配した。これはまったく本当の話です。
だが、都会に来ると別の意味で驚いた。床屋のアメンボ(サインポール)がいたるところにある。車がなくても床屋に行くのは大丈夫だと安心した。
ついでに言えば、歯医者もいたるところにある。これにも安心した。当時私は虫歯があって治療していたから。その後聞くところによると、都会では歯医者が多すぎて競争が激しく、廃業するところも少なくないという。都会で歯医者が過当競争なら、田舎に行って開業すればいいのにと思う。誰もが都会に住みたがり、都会で激しい競争してもしょうがないのではないでしょうか?

さて今は車がないから通勤も電車、買い物も歩き、どこかに遊びに行くにも歩きです。田舎にいた時は歩くなんてことはめったになかったけど、都会はとにかく歩く。最初は疲れた。田舎者とバカにするけれど、田舎者ほど車に乗っていて、自分の足で歩くことは少ないのだ。
自慢にならないか・・・
そして都会人は歩くのが速い。忙しく暮らすのが都会流なのだろう。やがて私も速く歩くのに慣れた。

今はまだ我が夫婦は歩くのは苦にならない。家内も私も自分の遊び(趣味)で忙しいのだが、時間が合えば電車で行ける範囲の公園とか繁華街をウインドウショッピングなどに出かけて一万歩くらい歩くこともある。だが歳をとるのは必然だ。そうなると都会と言えど車がないと生活に困るように思う。実際、私のまわりにも定年退職した人で当初は車を持っていなくても、70過ぎになると車を買う人が結構いる。買い物にしてもお出かけにしても、渋滞しても車は楽だ。
だが、そういう人でも車なしに生活できるような社会の仕組みにしていかないとならないと思う。
どうするのかと言われると、具体的なアイデアはないが、歩道の整備、鉄道の整備などもあるし、年配者は集合住宅に住んでもらうとか政策もあるだろう。特に歩くのが不自由な老人は駅の近くの集合住宅に住めと法で強制しても人権無視とは思えない。
よく過疎地に老人が住んでいて、街の医者まで行くのが大変だとか、移動の診療車両の話を聞くが、これってある意味ものすごい無駄というか贅沢だと思う。生まれ育った土地に住みたいという気持ちはわかるが、そこで上下水道や廃棄物処理や医療などを含めた生活水準をキープするのは行政にとってとんでもない負担をかけているのだ。過疎地に住む人たちはそういったことを認識しなければならない。
そういう人たちは過疎地に住むことが贅沢であるという発想は持っていないだろう。
私は、贅沢とは良いものを着たり美味しいものを食べることではなく、効率が悪い生活をすることだと考える。
それは人だけでなく環境にものすごい負担をかけているのだ。
生まれた故郷に住むことは権利という発想もあるかもしれないが、それは他の国民に費用負担してもらっている、ものすごい負担をかけているのだという負い目を感じてほしい。そういう負い目を感じたくないなら過剰な行政サービスを辞退すべきだろう。エネルギーや環境などを考えて日本のあるべき姿を考えなければならないだろう。
弱者切り捨てとお叱りを受けるかもしれないが、そうではない。行政の財布の中身には限りがあり、その財源は有効に使うべきだ。老人を切り捨てるのではなく、楽に老人を扶養する仕組みにすることは、行政のみならず老人を支える若い人の権利である。若い人の負担を軽減し、それによって若い人が子供を持てれば万々歳ではないのか?

最後のお断り
ライフスタイル・・・この言葉は正調イングリッシュではなくヒッピーなどが使い始めたと聞く、オーソドックスにはウェイオブライフと言うらしい・・・それはともかく、暮らし方というのは自然条件や社会的な状況、環境によって規制されるというか決定される。
アメリカで車社会ができたというのは広さ気候などの地勢があってこそ、馬車から車に発展してきたわけ。日本の自然環境で車社会というのはそもそもそぐわなかったということを理解しなければならない。だからこの辺で日本は車社会から公共交通機関に脱皮するのはおかしくないと同時に、外国がそのようになることもない。

うそ800 本日のテーマ
私が車について書いていると思った方、ブブー 違います。
私はどんな品物も生活様式もうつろうものだということを書いているのです。
車が20世紀限定のツールであるように、私たちの身の回りのものはほとんどすべてその時代限定、その時代限りなのです。
環境保護というのは実は自分の生活様式を守ろうとするブザマな行為なのです。
真に持続可能を考えると、今環境保護と言われているものの多くはエセ環境保護なのです。
真に守るべきもの、変えてはいけないものって何かって考えてみませんか。

「車の時代」というのは羊頭狗肉で、「車があった時代」とすべきでしょうか?

うそ800 本日のどうでもいい話
この駄文はもう1年も前に書いてホルダーにありました。
ちょっと在庫切れだったのであまり出来は良くないのですがピンチヒッターに・・・




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