little things in 2013

2013.03.26
引退した今、私はISO審査に立ち会ったり、己が被告の立場に立ったりすることもない。悲しいことだ、まさに髀肉之嘆ひにくのたんである。私にとっては残念無念であるが、過去に私に関わった審査員たちは極楽極楽なんてほざいているのかもしれない。天誅と切りかかりたいが、もはや叶わぬ望み・・・
髀肉之嘆ひにくのたんとは、実力・手腕を発揮する機会に恵まれないことを嘆くこと。 古代中国の三国時代、しょく劉備りゅうびが、戦いがなく馬に乗る機会がないので、ももの内側にぜい肉がついてしまったと嘆いたという故事から。

その代りというかその埋め合わせとして有り余る時間を使い、ISO関係の講演会の案内をみれば聞きに行くとか、面識というか縁のある審査員に会って最近の状況についてお話を聞いたりしている。まあ少しでも世の中の状況を知っておかねばと、けなげな努力はしている。
何のためにと言われると返事に困るが・・・
ともあれいろいろ話を聞くと面白い。みんな悩んで大きくなったなんてコマーシャルもあったが、ISO関係者はみんな悩んでいるようだが認証制度は大きくはならないようだ。
「みんな悩んで大きくなった」とは1975年の野坂昭如のウィスキーのコマーシャル
そんなことを少しばかり・・・・こんな駄文でものちのち2013年にはISO認証はそんなふうだったのか、なんて貴重な記録になるかもしれない。


うそ800 本日の言い訳
引退してもなんでISOにこだわるのか?
そう言われると思う。
理由はある。私の生きがいだからと言ってはまずいだろうか。別に審査員あるいは認証機関や認定機関を揶揄することが私の生きがいではない。その逆である。
私はISO認証制度に企業の担当者として20年も関わってきた。その間、ISOで飯を食ってきたといっても過言ではない。
だから自分が関わったことが全く意味がなかったとか、崩壊などしてほしくないのだ。
毎日が日曜日である私はほとんど毎日、公民館、図書館、フィットネスクラブなどに行く。公民館でもフィットネスクラブでも、どこに行っても知り合いができ雑談をする。「あなたはどんなお仕事をされてましたか?」となるのは必然だ。そのとき、「私はISO担当でした」と言ったとき、相手から「ISOですか、あんなくだらないことがどうしてはやったのでしょうか」と言われたらかなりつらい気持ちになることはご理解されるだろう。
もし認証審査員や認定審査員であったなら穴があったら入りたい気持ちになるだろう。審査員でなくても程度は違っても己の人生を否定されたようなものだ。
現時点、ISO認証の評価が低いから、今からでもISO審査がまっとうになり、ISO認証の価値が社会的に少しでもアップしてほしいと思うのは本心である。
だからこそ、現状に注文を付ける権利はあるだろうと思う。

うそ800 本日の招待状
もし第三者認証制度の崩壊が、企業の責任であると語る人いるならば(いるどころかそう語る人は多いのだが)、その理屈を説明してもらおうじゃないか。

うそ800 本日のソース
ここには発言者を明示することはできません。しかしすべてのソースは間違いありません。関心(疑い)のある方はお問い合わせくだされ。

うそ800 little things じゃなくてbig things を語れって! うーん、難しそうだなあ



ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(2013/3/26)
引退してもなんでISOにこだわるのか?

引退までまだ10余年ありますが、ISOへのこだわりはもうカケラもありません。 そういえば、そろそろ定期審査の時期です。立ち会いも付き添いもしたくないんで、勝手に来て、勝手にやって、勝手に帰ってもらえませんかね?
あー、めんどくせ。

たいがぁ様
ISOへのこだわりはもうカケラもありません
そりゃたいがぁ様はISO以外の仕事をしているからですよ
あっしは能がないからほかのことをしてませんでした
それだけのことです


N様からお便りを頂きました(2013/3/27)
Little Things
私の立場で言ってはいけないのかもしれないが・・・
JQAのサイトを見ていたら、交通安全マネジメントシステムについて
「ISO 39001は交通事故による死傷者を減らすことを目的に、さまざまな企業や組織が取り組むべきマネジメントシステムの要求事項を定めた国際規格です」と記載があった。
先日、正確なタイトルは忘れたが”車載カメラが見た交通事故の瞬間”というような番組を見た。
交通事故を減らすのはマネジメントシステムではなく、おかしなやつに免許証を交付しないこと、事故が起きそうな道路などのインフラを工夫すること、自動車自身の性能を上げること(これはメーカーさん必死にやっています)、ドライバーに負荷がいかないように労働基準法を守ることなんではないの。

いくつものマネジメントシステムを乱立することもISOの認証制度をおかしなことにする要因なのではないかなと思います。これはLittelThing?もしくは的外れ?

N様 毎度ありがとうございます。
何事でも良くしようとすると、まず固有技術が必要で、それを真摯に遵守し実行する意思が必要で、それらがうまくいったならそれが時代や人が変わっても風化しないための管理が必要というのが当たり前の順序だと思います。
品質を良くするため、環境をよくするため、情報セキュリティをしっかりするには、省エネを推進するには、交通事故を減らすには・・・すべてにおいてまず固有技術が必要です。
固有技術やリソースを無視した精神論では太平洋戦争末期の日本人に戻ってしまいます。もっとも日清・日露戦争の頃は日本軍の幹部は、戦争に勝つには物量がなければ勝てないということを十二分に理解していたそうです。しかし軍備を整えることは政治家の仕事であって、軍人は与えられたわずかな武器弾薬で戦い勝たねばならないという悲壮な状況において、絶対勝つんだと部下に信じさせるために大和魂というものを吹き込んだらしいです。(いろいろな本を読んだ私の結論です)
しかし後の軍人はそういうことを知らず、意味のない精神論に堕したようです。
そんなことを思うと、合理化の粋であるISOにおいて、精神論に退化しては笑い話です。ISOとはリソースを与え、トップが従業員にモラールを教えて、それを次代につなげるときに現れる発想ではないかと思います。
では、おっしゃるようになぜにこれほどにくだらない規格が雨後の竹の子のように現れるかと言えば、ISO9001の20年前の成功を忘れられないという過去の成功体験の呪縛ではないのかと・・
あるいは我々が会社で省エネとか原価低減とか厳しく言われて実行しているほど、外国ではまじめに取り組んでいないのでエネルギーマネジメントシステムやマテリアルフローコスト会計なんて鬼子が現れるのかもしれません。
まあ誰がどんなことを考えても良いというのが普遍的な価値観ですが、同時に企業はそんなことに左右されないという自由も普遍的なことだと思います。世の起業家、従業員は自分の価値観で行動することで、ISOの無駄から避けるしかないのでしょう。



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