MSSとは その1

2013.04.24
2013年4月現在、ISO14001の改定作業は、ほぼ見通しがついたようです。しかし、今回の改定というものは、今までが連戦連勝で更なる栄光を目指しているのか、連戦連敗で乾坤一擲けんこんいってきの大勝負なのか、どうなのでしょうか?
イギリスをはじめ西欧では何年も前から登録数は減少中、日本でも減少中、途上国、特に中国で登録数が爆発的に増加しているといっても、それがどうということもありません。
登録件数が増えている中国の品質はご存じのとおり。そういや、ISOもHACCPも認証していた食品会社での毒物混入事件なんてのもありました。こうなると認証と品質の関係を考える以前としか言えません。ともかくQMS認証と品質レベルに相関はなさそうです。
またISO14001認証件数が増えても、大気汚染で視界が悪く車はノロノロ運転、呼吸器障害で死者が100万人もでるような状況では、それはかえって笑われるだけです。
そんなことばかりですから品質や環境の認証とコンプライアンスやパフォーマンスは完璧に無縁のようで、とてもISO認証はその価値を立証できそうありません。いや価値がないということを立証したようです。
想像ですがISO-TC委員も、そうとう焦っているというか追い詰められているのかもしれませんね。某ISO国内委員の「規格を改定しても使ってもらえなければ意味がない」なんて発言を見たことがあります。関係者たちの本音は、早いところ縁を切りたいなんて思っていたりして・・
QMSやEMSばかりでなく、鳴り物入りで作られたISO50001は、ウハウハじゃなくて、ダメダメ状態でしょう。
述べましたように、ISO9001と14001の改定がどうこうよりも、まずは認証する価値があることを、いやもっと根源的なことですが、マネジメントシステム規格そのものに存在意義があることを立証することが必要と思います。
私は今まではISO規格を正しく理解して使おうという主張だったのですが、宗旨を替えました。これからは、なぜISO規格は効果を出さないのかを考えていきたいと思います。
本日はその第一回ですから、軽くいきたいと思います。

MSSといっても多数存在している。ここではISO9001とISO14001に限定して論じる。理由は単に私がそれ以外に詳しくないからだ。
多くの審査員もコンサルも企業の人も、もしかするとISO-TC委員さえ、MSSといえば認証するためのものと考えているかもしれない。しかしどの認証規格の序文をみても、「この規格は第三者認証に用いる」と限定していない。

ISO9001:2008の序文では
「この規格は、製品に適用される顧客要求事項及び法令・規制要求事項並びに組織固有の要求事項を満たす組織の能力を、組織自身が内部で評価するためにも、認証機関を含む外部機関が評価するためにも使用することができる」

ISO14001:2004の序文では
「この規格は,次の事項を行おうとするどのような組織にも適用できる。
a)環境マネジメントシステムを確立し,実施し,維持し,改善する。
b)表明した環境方針との適合を自ら確信する。
c)この規格との適合を次のことによって示す。
1)自己決定し,自己宣言する。
2)適合について,組織に対して利害関係をもつ人又はグループ,例えば顧客などによる確認を求める。
3)自己宣言について組織外部の人文はグループによる確認を求める。
4)外部機関による環境マネジメントシステムの認証/登録を求める」
とある。

このようにどちらも用途としては、マネジメントシステムにおける当該分野において水準を満たすための要件を定めていると述べ、それを内部、外部に示すことができるとしている。第三者認証制度は人のふんどしを借りたビジネスモデルにすぎない。
しかし認証のためのものではないとしても、MSSは当該分野における一定水準を示すものなのだろうか? それをまず確認する必要がある。
過去、ISO9001認証企業において品質問題を起こしたところも、ISO14001認証企業において環境法違反や事故を起こしたところもある。そのとき認証機関に限らず認証制度側は「組織がMSSの水準を満たしていなかったにもかかわらず、虚偽の説明をしたからだ」という言い訳(逃げ口上?)をした。
本当に規格に不適合であったかどうか、私にはわからない。品質問題を起こした企業に、その直後、環境の認証をしていた認証機関が乗り込んで、瑕疵をみつけて認証を停止したなんてのをみると、審査であらを探そうとすればあらは見つかると思う。企業は完璧ではないから。そもそも審査員だって、認証機関だって完璧じゃないんだしね。
文句があるなら、臨時審査ではなく定期的な維持審査で見つけるべきだった。維持審査で見つけず、何事か起きたとき臨時に立ち入ってあらを探すのは卑怯な手口だ。
しかし仮に認証を受けていた企業にシステム上の欠陥があったとしても、それを見逃した審査員、認証機関、認定機関の責任は逃れられないだろうし、実際に認証の価値低下という裁きを受けているわけだが・・
お断りしておくが、ここでは審査は抜取だからとか、例外について議論を提起しているのではない。規格そのものが本来不十分ではないかということを提起しているのである。

とりあえずそれはおいておくとして、認証制度側の論理は、規格が不十分だったとは語っていない。だが、規格が十分であるとも語っていない。規格は必要十分で適正なのかどうかということについては言及していないのだ。良く考えてみれば、ISO規格適合なら問題がないのか、ということを考えたい。

事故発生
犯罪的行為があったのか
運用が悪かったのか
マネジメントシステムが規格不適合なのか
虚偽や審査の見逃し
ISO規格が不十分なのか

事故は上図のだるま落としのどこかに欠点があれば発生する。だが、今まで誰も最下層というか土台であるISO規格に問題があるという疑問を提起していないように思う。

規格要求事項を満たせば、まっとうなマネジメントシステムになるのかという保証は・・・私が知るかぎりない。それを立証したものを見たことがない。
そもそも規格の冒頭にある序文に書いてあることは正しいのだろうか?
「この規格は・・・・・することができる」という命題は真なのか偽なのか、それを考えるのが本日のテーマである。

私は旧約聖書が愛読書で、今までに何度も読んだ。今もボロボロになったものが本棚にあり、ときどき引っ張り出して読んでいる。旧約は膨大な物語で、内容的にそれに匹敵するものは古事記くらいだろう。もっとも古事記はあまりにも登場人物(登場神々)が多くて、しかも一人の神が複数の呼び名をもっているので、ストーリーよりも名前を覚えるのに惑わされてしまう。それはともかく、古事記の神々と異なり、旧約の唯一神は自分の語ることを疑うことは許さないし、命令に背くことも許さない。神は絶対であり、そして常に真理である。だから紅海は二つに分かれるし、ソドムとゴモラが気に食わなければ滅ぼす。
しかしISO規格に「これは・・・である」と書いてあったとしても、それが旧約の神のごとく絶対であるわけはなく、我々がそれに盲従する義務はない。なぜならISO規格は旧約と異なり、人が作ったものにすぎないのだ。
なにしろISO規格はいいかげんなのだ。ある時は文書と記録の違いは絶対であり、あるときはデータなるものが追加になり、そして今後は文書と記録を色分けしないというのだから、バカらしくてISO規格が語ることをまじめに聞く気になれないじゃないか。
かなえの軽重を問うという言葉があるが、ISO規格はそもそもヘリウムのように目方がないらしい。

面倒だからとりあえずISO14001について限定して話を進める。
この規格は,次の事項を行おうとするどのような組織にも適用できる。
適用できると簡単に言い切ってくれるが、どうしてそのように断定できるのだろうか?
どのような組織にも適用できる証拠を見せてほしい。証拠がなけりゃ理屈でもいいから適用できるわけを説明してほしい。
常識で考えれば、せいぜいが「適用できるように設計した」とか、「適用できると考える」くらいではなかろうか。規格作成者は傲慢なのか、無知なのか、それっともISOは論文のような厳密さは要求されないのか?

a)環境マネジメントシステムを確立し,実施し,維持し,改善する。
常々疑問に思うのだが、ISO規格の作成や改定作業に参画する人々は、そのドラフトを実在の組織、不可能なら最悪シミュレーションでもよいが、運用のテストを行い、それが有効に、効果的に、効率的に機能することを検証しているのだろうか?
もちろん「どのような組織にも」というくらいだから、グローバルの大企業からローカルな中小企業、製造業、小売業、もちろん認証機関や認定機関といったサービス業などにおいても、規格が使えるのか、有効であるかの検証を行ってくれないと困る。
そんなこともせず「確立し,実施し,維持し,改善するができる」なんて言われても信用する気にはならない。規格の文章は、証拠に裏付けられたものでなければ困る。
いまどきバグだらけのソフトを売ってるような会社は存続できないよ。

b)表明した環境方針との適合を自ら確信する。
根拠があやふやで真理かどうか判断できない規格に、自分の会社のシステムが規格に適合したことを確信したとしても、それはどういう意味があるのだろうか?
適合していればビジネスがドンドン伸びるわけでもなく、それどころか品質とか環境といった当該カテゴリーにおいても具体的パフォーマンスを保証していないのだから、適合したと喜ぶ意味が分からない。
規格の序文を読んでそういう疑問を持たない人は異常だと思う私は異常か?

c)この規格との適合を次のことによって示す。
1)自己決定し,自己宣言する。
2)適合について,組織に対して利害関係をもつ人又はグループ,例えば顧客などによる確認を求める。
3)自己宣言について組織外部の人文はグループによる確認を求める。
4)外部機関による環境マネジメントシステムの認証/登録を求める

確かに規格が真実であろうと、偽であろうと、意味が無かろうと、それに適合していることを確認することは論理的にありえるだろう。何度も言っているがそれは組織が有効で効率的であることとは無関係である。

ISO認証に意味があるのは、ISO規格に適合したシステムなら、実際の経営において有効なシステムであると証明されている場合である。そうでなければ適合だと言われてもうれしくないし、むしろ規格不適合と証明された方が好ましい。
認証しようと頑張った企業の人たちが、念願かなってISO認証されると、「これで当社も良い会社だと認められた」なんて語るのを聞くと私は涙がこぼれる。努力に感動したわけではなく、ご同慶の至りでもない、そのいじらしさにだ。
ISO規格適合に価値があるとするなら、ISO規格が役に立つものであり、かつ適合審査が厳正に行われていなければならない。ほとんどの・・・たぶん全員だろうが証拠がないのでほとんどとしておくが・・・コンサル、審査員、ISO-TC委員は、この前段を見逃しているかあるいはわざと気が付かない振りをしているのだ。

まとめる。
組織がISOマネジメントシステム規格に適合するようにしようとか、適合しているから良いと考えることは、規格が正しいものである場合のみ意味がある。正しいといって語弊があるなら、役に立つものであることだ。
誤解のないようにフルセンテンスで言おう。
「規格が語っていることが真ならば、規格に合わせる意味がある。そして、規格が語っていることが偽であるならば、規格は無意味、無価値である」
だが、規格を読んでみれば、その規定要求事項が正当であることを裏付ける論理的証明も、実験での検証もない。規格本文になくても、試験報告書が添付してあるなら良いが、いまだかって規格制定時あるいは改定時に、規格適合であれば良いシステムであることが立証されたという報告書が出されたことはない。もちろん完璧なんてことは世の中にないから、危険率5%くらいで評価して良いことにしよう。
私は無謀なことを言っているつもりはない。車の燃費だって、建築物の強度計算だって、ISO審査においての遵法や不良対策などの確認は、単なる口頭説明では通用せず、過去のデータが精査されて妥当か否かを審査されるのだ。
MSSが品質経営とか環境経営の規格ですというなら、己が組織の運用において意味のあるか否かを実証しなくてどうするね?

最低限、認証を受けていない企業グループ、改定前の規格で認証を受けた企業グループ、改定後の規格で認証を受けた企業グループのパフォーマンス、コンプライアンス、企業の存続割合、存続期間、利益率、従業員定着率、その他なんでも良いが、実績を比較して、改定後の規格が優れていることを示さないと、私は規格改定なんぞ受け入れることはできない。
ISO-TC委員は2015年改定規格発行の際には
「今まで規格要求においてこのような不足があり、それによってこのような不具合が発生していました。このたび規格をこのように修正しましたので、その不具合の発生を防止しました」
と言ってほしい。
単に「規格改定しました。今度からはこの規格を使ってください」なんて言われても、ハイわかりましたなんていうつもりはさらさらない。

更にそれだけでなく、費用対効果が十分あることをデータで証明することが必須である。単によくするだけなら誰でもできるし、それではビジネスでは使えない。
今までの規格では足りず、いろいろと追加して手間暇がかかり仕事がやりにくくなって、その結果、国際競争力が落ちるかもしれないものを、ありがたがって押し戴くことはない。もしそうならISO-TCは無駄以外の何物でもない。いやしくも世界の英知が集まったISO-TCであるなら改定規格の素晴らしさを、言葉だけでなく、数値データに基づいて説明してくれるだろうと期待する。
いや、改めてそのようなものを探さなくても、現状でISO9001認証企業やISO14001認証企業が、認証していない企業グループよりとして優れていることを示してほしい。
そうでなければ現状の序文の文言を信用するわけにはいかない。現行規格の序文は「偽」であったということになる。
序文が「偽」であった場合、本文は「偽」とはならないが、無価値となる。
ISO関係者の多くはマスター、ドクターだから、論文の書き方とか論文の作法というものはよくご存じだろう。

私の論理はハチャメチャだとか、そんなことはできないなんては言わせない。
ISO規格には是正処置という項目があって、そこでは「とった是正処置の有効性のレビュー」を求めているのだよ。(ISO9001:2008 8.5.2 f、ISO14001:2004 4.5.3 e)
規格に書いてあることを、規格作成者が自らしないで一方的に断定するなんてマスマス信用ならん。

おっと、「マネジメントシステム認証はシステムが適合していることを証明することであって、品質や環境遵法を保証しない」というかもしれない。
だが、ちょっと待ってくれ、序文では
「多くの組織は,自らの環境パフォーマンスを評価するために,環境上の"レビュー"又は"監査"を実施している。しかしながら,これらの"レビュー"及び"監査"を行っているだけでは,組織のパフォーマンスが法律上及び方針上の要求事項を満たし,かつ,将来も満たし続けることを保証するのに十分ではないかもしれない。これらを効果的なものとするためには,組織に組み込まれて体系化されたマネジメントシステムの中で実施する必要がある。」
と書いている。ISO規格に適合したEMSは効果的に、体系的に、将来も満たし続けることを保証するように読めるのだが、いかがか?
それに規格適合しても規格不適合の組織となんら変わるところがないなら、そもそもISO規格の意味がないじゃないか。 笑
私は完璧な遵法や事故ゼロを求めはしない。しかし最低限、認証グループと非認証グループの違いくらい示さなくてどうする!

そんなことを考えると、そもそも現在存在するマネジメントシステム規格なんてものは、使う以前に、存在価値があるのか、意味があるのかを検証しなければならないような気がしてきた。

うそ800 私の遍歴
私は日本におけるISO審査の黎明期から関わってきました。そして初めは審査員の態度や倫理に問題があると思いました。やがて規格を知るにつれて審査員や審査機関の規格解釈に問題があると思うようになりました。 しかし企業の不祥事などがおきて、認証制度のその対応を見ていると、だんだんと問題は認定機関を含めた審査制度にあるのではないかと考えるようになりました。そして認証した組織が向上しないので規格改定をしようとしているのをみて、これはISOマネジメントシステム規格がまったく意味がないのではないかと思うようになったのです。
もし、マネジメントシステム規格は役に立つとか真実であるとお考えの方(信じている方)がいましたら大いに議論いたしたく思います。
実を言って、現実の制度関係者は、私の疑問など既に認識していて、しょうがないんだと思いつつ規格改定や審査をしているような気がします。

うそ800 本日の提案
次回改定において、序文の文言を「この規格は・・・・することができるだろう」あるいは「できると確信する」くらいに表現を見直した方が良いだろう。
いや、最善の道はそんなことではなく、ISOマネジメントシステム規格を廃止することかもしれない。
ISO-TC委員の方々、ご検討をよろしく





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