事務局とはなんぞや?

2013.07.03
私は20年間ISOに関わってきたが、ISO事務局と名乗ったことは一度もない。常にISOのお仕事は、それ以外の業務の片手間にしていたからだ。では片手間ではない私の本来の仕事とはなんであったかといえば、時代によって勤め先によっていろいろなことをしていたが、例えば計測器管理とか、品質保証業務とか、関連会社の作業指導であったり、業務監査をしていたこともある。だから私は長年企業の側でISO認証に携わってはいたが、ISOの仕事とか認証機関の対応がメインであったことは一度もない。
ISOの窓口だって、品質保証業務の一環だろうと言われるかもしれない。確かにそう言われるとそうなのだが・・
お金を払ってくれる顧客の立ち入り検査とか品質監査は、ISO審査よりも真剣さが違い相手も目の色を変えてくるから命まではかけないが真剣勝負である。
それに対してISO審査はピクニックのようなもので、同一には論じられない。
そんなわけでISO認証機関から、「御社のISO事務局はどこですか?」と聞かれたときは、いつも「当社にはISO事務局はありません。審査の窓口は誰々(私)です」と応えていた。なぜなら私はISO審査を受けるときに窓口を務めるだけであって、ISO認証のための仕事はしていないからだ。審査が終わり費用の支払い処理が済めば、ISOなど忘れてしまうのが通例だった。
不適合なんて出されるはずがない。

現実には雑誌やインターネットで「私はISO事務局を担当しています」と語っている人は多い。反対に私のように「ISO審査の窓口をしています」と語る人はみたことがない。もちろん会社の仕組みとか事情というものはさまざまであるから、ISO事務局というものが必要か否かということは一概に言えないことは認める。
しかし不思議に思うのだが、ISO事務局とはいったい何をするのだろうか。ISO審査の日程調整や、審査員の昼飯の手配、会議室の予約などをするなら、わざわざ専門の担当を置くほどのことはない。現代のように企業が一層の効率化、無駄排除を徹底している時代に、無用な部門を置いたり、閑職を設けることは私の理解を超える。

ではISO事務局と名乗っている人たちはどんな仕事をしているのだろうか?
本などを読むと、ISO事務局であると名乗った方は、会社のシステムを作ったり、会社の活動を指揮したり、ものすごい活躍をしているようだ。中には「私が会社を動かしている」と豪語する人もいる。「事務局は規格が定める管理責任者に準じたサブの環境管理責任者である」と語っている人もいた。あるISO事務局を名乗っている人は「会社のシステムを作った」と書いていた。まさかISO事務局が会社の定款を書いたとは思えない。いや会社の組織改編でもしたのだろうか。そんなことは社長でもなければできるとは思わない。
私は、どうもそういった発想は自意識過剰としか思えない。ということで今日は事務局とはなんだろうと考えてみたい。
おっと、正直言えば、事務局がそんなことできないだろうということであるが・・

私が18歳で就職したとき、新入社員教育で安全とか会社のルールなどいろいろと教えられた。その中で人事担当者が「会社の仕事は担当者がするのではない。課長がするのだ。担当者は課長に命じられたことをするだけだ」と語ったことを覚えている。
具体例をあげると、私が報告書を書いたとする。その報告書は私が書いたのだろうか? 私の作品なのだろうか? そうではなく、それを決裁した課長が書いたというのが組織論からすれば正しい。同様に製品を作ったのは命令されて手足を動かした人ではなく、命令した課長あるいはマネージャーが作ったというのが理屈である。

大仏 奈良の大仏は誰が作ったのか?
ものの本によると聖務しょうむ天皇が作ったことになっている。もちろん実際に作業したのは多くの職人であったろう。しかし大仏を作ることを決定し実施させたということから考えると、製作者は聖務天皇であるといって間違いではない。
同様にダビデの歌というのもある。石を投げつけてゴリアテを斃したダビデに、投手としての才能があることは間違いないが、仮に音楽の才能もあったとしても、彼自ら作詞作曲したとは思えない。たぶん雇っていた楽師たちに命じて作らせたのだろう。しかしできたものに歌を作れと命じたダビデの名をつけることはおかしくない。(旧約聖書「サムエル記」参照)
ちなみにアベノミクスとは、ウィキペディアでは2006年に中川幹事長が名を付けたことになっている。しかし実際は2012年12月に朝日新聞が安倍総理の政策を揶揄してその蔑称として使い始めたというのが真相らしい。名付け親の理屈からいえばアサヒノミクスでなければならないようだ。(ソースは、2ちゃんねるや三橋貴明などによる)

いや、その話をする前に、もう少し初歩から話さなければならないだろう。ISO規格には「責任と権限」という言葉がやたらと出てくるが、「責任」と「権限」とは何だろうか?
まず「責任」であるが、日本語の「責任」には二種類の意味があり、「実施責任」と「結果責任」がある。いや責任と付くものには道義的責任や使用者責任、あるいはもっと他にあるかもしれないがここでは関係ないので省く。
「実施責任」とは、なにごとかを成し遂げなければならないという責任である。明日までにこの仕事を仕上げるとか、製品100個売ってくるというのが「実施責任」である。新入社員であろうと、社長であろうと、企業で働くすべての者はこの実施責任を負っている。
「結果責任」とは、何事かが成功あるいは失敗したときに、その結果 誉や恥辱を受けることだ。プロジェクト崩れを起こした時、それがいかなる原因であろうと、プロジェクトリーダーは責任をとって降格とかどこかに飛ばされるというのが「結果責任」である。不祥事が起きたら、そのときのトップは詰め腹を切るというのも「結果責任」である。
私が45年前に機械製図工となったとき、設計欄にサインをすることができなかった。自分がアイデアを考えたり計算したりして図面を書いていてもだ。私がサインできたのは作成欄だけであった。


その時の課長は言った。「設計欄に名前を書くということは、問題が起きたとき責任を負うということで、君たちにはそれはできない」
この責任とは結果責任だろう。その論理には何となく納得できた。だが、私が考えた特許や実用新案でも上長が必ず連名になることには大いに疑問を感じた。それは褒賞金だけでなく個人の名誉にかかわることのように思う。どうだろうか?
図面ではないが、大学の論文などでは指導教員の名前が必ず併記される。連名になることも多い。ああいったことは当たり前のことなのだろうか? ちょっと私には納得できない。
そう考えるのは私だけではないようで、ネットには教授の名を併記することに同意しなかったので研究室から追い出されたなんてこぼしている方の話が見つかる。
なお、発明に関しては最近ではどの会社でもそれに貢献した人のみであるとして、単なる上長が名を連ねることを禁じるようになっている。良いことだと思う。(これについては上長であるだけでは発明者ではないというのが通説である)
さてISO規格でいう「責任」の原語は、responsibilityである。これを日本語に訳したときに、たまたま日本語の「責任」という語を充てただけで、そもそも日本語の責任と同じではない。スペルからわかるように、なんらかの入力(命令)に対応して反応する(動く)ことであり、ほぼ日本語の実施責任という意味に近い。
つまり責任を明確にするということは、誰が何をするかをはっきりさせろということである。

では「権限」とは何かとなる。日本語の権限とは「機関(法人や自然人)が法律、契約、取り決めなどによって行える権能」とある。
だがこれもISO規格を訳すときにたまたま権限という語を使っただけで、日本語の「権限」の意味であるわけではない。原文はauthorityである。英英辞典をみると、「決定や命令を強制できる力」とある。
日本語ではオーソリティとは「何事かについての大家」という意味が一般的に使われている。英語でもその意味もあるにはあるがいくつもある意味の順番の下の方にちょっと記されているだけだ。メインではないと思われる。
オーソライズという言葉は「権能に基づき決定する、許可する」という意味で、これは日本語としてもそのまま使われている。オーソリティとはオーソライズの名詞形と理解するのが良い。
すると権限はすべての人が持つのではなく、管理者・マネージャーのみが持つということが分る。下っ端社員には権限はないのである。
なおマネージャーとはなにかとなるが、英語版ウィキペディアをみるとその意味は
a. One who directs a business or other enterprise. 事業や企業を指揮する人
b. One who controls resources and expenditures. リソースと実行を管理する人
権限を持つ人の意味であり、部下の有無は関係ないようだ。

ところでその辺で見かける品質マニュアルや環境マニュアル、あるいは手順書には、「誰々はなになにをする責任と権限を持つ」なんて文章がザクザク書いてあるが、そういう言葉の意味を理解して書いているのかは、はなはだ疑問である。責任と権限を一体の熟語と考えていると思われる文章も多い。
そんな組織論の初歩は知っているとおっしゃるかもしれない。初歩を語ってあいすまない。
本題に戻る。

今まで述べたいろいろな事例は無関係でバラバラなことに思えるかもしれないが、そういったものを踏まえて考えると、「私が会社を動かしている」とか「事務局は規格が定める管理責任者に準じたサブの環境管理責任者である」とか「会社のシステムを作る」には、相応の権限がなければできないことが明白である。
では事務局というものは権限を持っているのか?
「会社を動かす」というのはどんな意味か分からないが、会社の職務権限規程に「ISO事務局は○○を決定する」とあるのだろうか? 「サブの環境管理責任者」であるとか「会社のシステム」を作ったというなら「ISO事務局は、環境マネジメントを確立し実施し維持する権限をもつ」とあるのだろうか?
ひとつのものごとを決裁する権限者は一人しかいないのは自明である。下町奉行が南と北の二人いても、二人は交代で務めていて、同時に二人が指揮することはなかった。
サブの環境管理責任者が権限を持つならば、メインの環境管理責任者の権限とバッディングしないようにしておくことが必要になる。その会社のマニュアルではどのように記述しているのか興味がある。おおかたマニュアルには「サブの環境管理責任者」なる名称は記載されていないのではないか?
はっきりいって事務局は権限を持っていない。実施責任はあるかもしれないが、実施責任もないかもしれない。ISO事務局が審査のスケジュール調整や文書発行業務などを行っているなら、不手際ふてぎわがあればその結果責任を負うだろう。しかし会議のお茶出しくらいしかしていないなら、お茶を出すのを忘れても、文句を言われるだけで責任を追及されるようなことはないだろう。

またまた話がそれる。ちょっと長いが私の大好きな小説から引用する。
ニールセン大佐は、壁に貼ってある編成表を示した。
「これを見たまえ・・」
大佐は、かれ自身の名前に水平の線で結ばれている枠を指さした。そこには「司令官補佐、ミス・ケンドリックス」と書いてあった。

組織図
この図はおばQ作成

大佐は続けた。
「諸君、ミス・ケンドリックスがいなかったら、ここを動かしていくわしの仕事は多大の支障をきたしてしまうだろう。彼女の頭脳は、ここで起こるすべてのことを迅速に処理する能力を持っている。ミス・ケンドリックスが頭文字を記したものなら、わしはなんでもサインをする。いや、彼女がどれくらいたびたびわしのサインをしたか、わしはそれを確認したことさえない。
ミスター・バード、もしわしがいま、突然死んでしまったら、ミス・ケンドリックスは、仕事をしていけるだろうか?」
バードは応えた。
「ええと、それは・・・決まりきった仕事で、必要なことはするでしょう」
大佐の雷のような声が響いた。
「彼女は、たったひとつだって仕事はせんのだ。すなわち彼女は命令系統に入っておらず、従って何の権力もないということだ」

「宇宙の戦士」(1967)、早川書房、pp236-237 注:一部要約した。

話を戻す。ISO規格では「責任と権限を定め、文書化せよ」とある。おたくの会社では、ISO事務局の責任と権限はどのように定められているのだろうか?
「ISO事務局」というものが正式な職制、つまり課とか係になっているなら、当然職務規定あるいは職務分掌において実施責任、つまり何をする部門かは定められているだろう。例えば「ISO事務局は議事録を取りまとめ、管理責任者に決裁伺い出る」とか「ISO事務局は管理責任者の命を受けて○○委員会を招集する」なんて書いてあるかもしれない。職務を大まかにしか記述しない会社なら「ISO認証に関わる事項」となっているかもしれない。
だがISO事務局の権限を定めているだろうか? 例えば「ISO事務局は目的及び目標を決定する」とか「ISO事務局は文書を承認する」というような・・
通常権限を有するのは職制の長、あるいはなんらかの会議体であって、部門に権限が与えられることはまずない。また普通は「委員会」と称するものは権限を有さない。
「ISO事務局長が決裁する」というのはあるかもしれない。だが「ISO事務局が決裁する」ということはないだろう。

冒頭に書いたが「私が会社を動かしている」と豪語する人は、いかなる権限によって会社を動かしているのだろうか? 決裁権限が明文で定められているのだろうか? それとも非公式な人間関係によって、会社の決裁権限規則に基づかずに何かを決定し実行しているのだろうか?
根回しとは調整であり、それは決裁とか決定ではない。
「事務局は規格が定める特定の管理責任者に準じたサブの環境管理責任者である」と語る人は、権限という意味を理解しているのであろうか?

ISO事務局が管理責任者の手足であるなら、さきほどあげた「宇宙の戦士」のミス・ケンドリックスのように、あくまでも権限者の手足として職務を執行し、決裁は権限者がするのが唯一の道である。
そうでなければ組織は崩壊する。
管理責任者の手足として仕事をしているなら、サブの管理責任者とは言わないだろう。そのときは管理責任者のアシスタントと言うに違いない。

二次元バーコードを読んでほしい
多くの会社では英語の名刺に、課長をセクションマネージャーとして、係長(掛長)など課長の下の職位の人はアシスタントマネージャーと表記している。
だがそれが適切かと考えると、ちょっと違うように思う。
英英辞典を引くと assistant manager という語句はなかったが、英語版ウィキペディアでは An assistant manager is an employee of an organization that assists managers on an operational level. とある。つまり「アシスタントマネージャーは、管理職を支援する従業員」であって、一定範囲の権限を持つ係長の意味ではない。係長が職制の長であり一定の権限を有するなら、アシスタントマネージャーではなく、サブセクションマネージャーとかグループマネージャーでもよいがアシスタントではないと思う。
権限を持つ人はマネージャーでありアシスタントではない。

2013.07.04追記
思い出したのだが、2007年に学校教育法が改正されて、助教授が准教授に変わった。
助教授だと文字通りに訳すと「Assistant Professor」となり、外国の「Assistant Professor」=「助手」と解釈されるので、准教授「Associate Professor」にしたと聞く。

ISO事務局が大きな権限を持っているとすると、一つ考えられることは、ISOに関わることがその会社の中では重要と位置付けられておらず、ISOのためのシステムがバーチャルでそんなものに関わる文書やかりそめの組織を誰がどう決めようと重要ではない、いやまったく無視されているからではないだろうか?
そうであればバーチャルなプロジェクトを立案したり推進して「バーチャルな会社」を動かしても誰も気にしないだろうし、「サブの環境管理責任者」として使われることのない文書を承認しても、組織体制をでっちあげ「会社のシステム」を作ったつもりでも、リアルの会社になんら影響を与えない。
つまりISO事務局が持っている権限は、バーチャル組織上のバーチャル権限なのではないだろうか?
パソコンゲームの中で無敵のファイターであろうと大金持ちであろうと、リアル世界とは関係ないのと同じことだ。

うそ800 本日の〆
マネジメントシステムを語るには、組織論あるいは統率学(旧陸軍士官学校や旧海軍兵学校の教科)などを学ぶ必要がある。そういうことを知らずに会社を動かすとか、マネジメントシステムを構築したと語る人たちは、才能があり独力で組織論を編み出したのかもしれない。

うそ800 本日のひとこと
「私は、このうち何人かはきっとこの他愛のない教訓劇を分ってくれると信じる」
「宇宙の戦士」、p.120
うそ800 本日予想する反論
事務局とはなんぞやといいながら、事務局については何も書いていないじゃないか
申し訳ありません。私は初めから事務局なんて論じる意味がないと考えておりましたので・・


名古屋鶏様からお便りを頂きました(2013/7/4)
エミール・ガレにしても高村光雲にしても、その作品は「工房」で作られるので実際には名義人ではなくお抱えの職人や弟子が制作しているのですが。だからといって弟子が偉いワケではありません。まして、世間に通用するような実力が(以下略

名護屋鶏様 毎度ありがとうございます。
小説でもデュマの小説工場がありますね。
まあ、よいものだけが残るという自然の掟から考えれば名などどうでもよいのかもしれません。
どっちにしてもうそ800なんて明日にも風化してしまう・・泣き


外資社員様からお便りを頂きました(2013.07.08)
事務局とは によせて
本文:おばQさま
暑い日が続いておりますが、お元気でしょうか。

組織論としても興味深い問題ですね。
というのは、責任と権限がはっきりした欧米の組織では、あまりこうした例を聞かないからです。

事務局の問題がおきる事は、つまるところスタッフが本来の権限を越えてラインへの指揮権があるかの如く振舞う事でしょうか?
 もしそうならば、太平洋戦争の大本営参謀の弊害に似たようなものでしょうか? 辻政信の例では、スタッフがラインに対して、実質的な命令を出しました。 但し、陸軍も官僚機構ですから、書類上はライン指揮官の別人の承認になっています。

なぜこうした事が出来るかと言えば、ラインのトップに対して進言の形をとりながら、更に大きな権威:ISO認証や、陛下を 引っ張り出して、あたかもその意を受けて行動しているように振舞うからと思います。
任せる側にも多少問題があり、それは更なる権威による命令なのか、進言なのかを確認せず、自身の責任をあやふやにしているのだと思います。

とは言え、こうした権限を越えた暴走参謀や事務局を、のさばらせないには、進言と指揮権を明確に区別させるしかないと思います。
過去 陸軍では、暴走参謀による無責任な作戦による戦死、餓死があり、捕虜虐待という不名誉が発生しました。 もっと大きな問題は、それを引き起こした人間は、書類上は無責任なので、シランプリして参議院議員になれる点です。

ですから、ラインとスタッフの区別は、はっきりとあるべきですし、スタッフには事務局としてのサポート業務しか出来ない点は、関係者は理解すべきですね。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
暑さ厳しいおり、水分と睡眠をしっかりととってください。なにぶん、素浪人の私と違い、日本経済を背負っている第一線の経営者が倒れては困ります。

まず日本のISO認証している企業のほとんどにISO事務局があり、その一部の方が「我々わあ〜、会社のシステムを構築して、会社のあるべき姿を掲げ、会社が進むべき方向を示し、我々があ〜会社を動かしているのだあ〜」と勘違いしているということです。
ではそういうISO事務局が彼らの会社を実際に動かしているかと言えば、そんなことはないだろうと確信します。彼らは勘違い、いやおかしな考えにとらわれているのだけれど、企業の中で力を持っているとは思えません。彼らの力はバーチャルな組織でのみ有効だろうと考えています。万が一、企業の経営に影響を及ぼすほどの力があるなら、その会社はお先き真っ暗です。
じゃあ、おばQはなぜそんな無力なISO事務局を批判攻撃しているのか? となりますが、そういう人たちが雑誌や講演会あるいはインターネットで誤った考えを発信しているということ、現実に大手月刊誌がそんなコラムを毎月連載していますし、その他雑誌や書籍にISO事務局は大権があると書いてあるものがたくさんあります。
外資社員様からみれば当たり前の組織論とか企業の管理ということを、理解していない人が大勢いるというのが事実であり、そういう独りよがりの考えを広めようとしている人が多いというのが現実です。
もちろん「どうせそんな事務局担当者は企業の実際のお仕事で使えないからそんなところに配置されているんだよね」とあわれんで放っておくというお考えもあるでしょう。しかし彼らの考えに染まってしまう人が多く出るだろうと思います。
そして彼らを諌めるといいますか、それはおかしいよと発信している人は皆無に近いのです。世の中のISO関係者が、たくさん発信されているそういう考えを正しいと受け取り、そういう考え方動き方をするのを、私は恐れます。
いずれにしてもまったく無駄なお仕事をすることは、大げさに言えば企業の競争力をそぐことになるでしょう。無用なお仕事を生み出すISO事務局などは百害あるだけです。
そういうことを考えると、彼らの主張に対してカウンターを出すということも必要だろうと考えます。
正直言いまして、今、日本のISO認証制度はどんどん劣化し先細りであることは間違いないです。しかしそれはISO規格が悪かったのか、認証制度が悪かったのか、企業側の担当者が悪かったのか、審査サイドの関係者が悪かったのかと考えると、やはり人の問題、それも企業側、審査側双方にちゃんとした人がいなかったからだろうと思います。
なにが問題かと言えば、ISO規格も理解していない人も多いのは事実ですが、それ以上に会社の論理とか世の中の常識を持たない企業の担当者やISO審査員が問題だと考えます。
ISO9001が顧客満足、ISO14001が遵法と事故防止を目的とするのに、現実の審査は規格の文言の有無のチェックとか、枝葉末節のテクニックとかにこだわっていた、いや今でもそのレベルにあるということが原因でしょう。
結局、そういうおかしな審査が存在することを是認してそれに対応すること自体が、ISO認証制度を悪くしてきたということですね。だから私は、裸の王様の子供ように、「おかしいぞ!」と声を上げなければならないと考えました。
効果はあるのかと問われると、あるとは言えませんが、こんなウェブサイトにトータルアクセスで毎日1000件、ユニークアクセスで400件あるということは、いくばくかの影響はあるのではないかと期待するのですが。
真の経営者である外資社員様から見ればコップの中の嵐でしょうけど、私は日本のISO認証制度、いや日本経済に少しでも寄与しようと思っているのです。
 笑わないでくださいよ。


外資社員様からお便りを頂きました(2013.07.10)
おばQさま
海外(台湾)での事例をご紹介します。
台湾のISO審査機関は、ITRIという半官の政府系会社で非常に権威があります。
ですから、審査では、かなり細かい指摘もあるし、杓子定規と思われる指摘もあるようです。

但し、会社側のISO審査担当者や、事務局の立場は、会社の目的が認証を、出来るだけ小さな費用で取得できる事を理解しています。 ですから、社内のISO関係者は、認証機関に対して非合理な要求には納得するまで説明を求めますし、出来るだけ追加業務が無いように努力します。

その結果、どうしても必要な部分のみ、文書の追加、修正が行われます。

社内の関係者も、事務局が努力した結果 必要な事なので、当然のように受け止めて関連文書の修正を行います。
いうまでもない事ですが、既存の会社のマネジメントを、それをISOでどのように説明するかを調整するのが事務局や認証担当者の役割である事は明確であり、論じるまでもない事です。

審査会社も、当然ですが、マネジメントの問題は会社側の職掌ですから、それに対して どうしろと直接言う事は有り得ません。 ISO規格上の問題を指摘して、それが社内マネジメントで、どのように管理されるかを問いかけるだけです。 それを会社側のマネジメントと話し合い結論を出して下さいと申請するのが事務局の役割であり、結論をだすのがマネジメントの役割です。
ですから、事務局が職分を越えて、マネジメントやライン業務に関わる決定や、あたかもそれが必須であるような言い方をした場合には、大きな問題になります。 それを関係者が見過ごす事は、方向を誤る原因になると思います。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
拝読しまして感じたこと、
その1
審査側と会社側が議論するというプロセスがあるようですが、日本の審査ではまず見かけません。
まず現実の審査では、審査員と会社側が対等であるという感覚が双方にないと思います。そこからおかしいのですが・・
それに審査員が不適合を提示するとき、根拠のshallを明記すること自体めったにないでしょう。(もちろんそれはISO17021に反していますが)そしてなぜ不適合かを論理的に説明できる審査員は少ないと思います。「俺が言うんだから間違いないんだあ」というタイプが多いでしょうね。規格要求にないことを語る審査員も多いですし。
そんなことが私が見聞きしている審査と違うと思いました。
その2
企業側の担当者が対応するための費用や手間を考慮するということ
「規格にあるから」なんて語る担当者が多いですから。規格にあっても、手間ひまをかけないのを考えるのが担当者だろうと言いたいですね。
日本ではISO事務局が仕事を増やそうとしているのではないかと思います。自己の仕事を重要に見せることが目的化しているのかもしれません。日経エコロジーの「ISO14000事務局10年目の本音」という連載をみると面白いですよ。別に日経エコロジーをお買い求めにならなくても、私のブログで毎月、その棚卸をしておりますからご笑覧ください。
その3
審査員がどうしろということはないということ
日本でも「どのようにするかは企業が考えることです」と審査員はのたまわくのは同じです。しかしその1で述べたように、何が悪いのか、どの根拠で悪いのかがはっきりしていないのが多いのですから、対応しようがないのが多いです。私が引退して1年以上になりますが、現役時代不適合の是正の相談を受けた時、何が悪いのかがわからないような所見が多く、是正しようないというものが多かったです。審査員自身、何が悪いのか分らないのか、説明する力量がないのか、そもそも悪くないのかが私には分りませんでした。
その4
日本における審査や審査の考えがなぜ台湾と違うのか、それが非常に興味があります。それを明らかにすればドクター論文くらいになると思いますし、その結果は日本のISO認証制度に大きな貢献すると思います。
ただ私は台湾語も英語もできないので、それを研究するのはちょっと無理ですね。それにもう日本の第三者認証制度を甦らせることなど考えることもないのかもしれません。
いや、今だからこそ太平洋戦争(この呼び名がお嫌なら大東亜戦争と言います)の敗因を究めて今後に反映するのが大事なことと同じく、第三者認証制度がだめになった要因を究めることも大事ですね。
もっとも現在、日本の認定機関も認証機関もそんなことを考えず、当面の金稼ぎに必死のようです。そのへんも70年前の大本営と同じようです。


外資社員様からお便りを頂きました(2013.07.10)
日本では、組織の権限や、役割が柔軟で、裏返せば 不明確なのだと思います。
判り易いのは、レストランです。
米国では、担当テーブルが決まっているので、自分のテーブル担当で無い人はいくら頼んでも仕事をしてくれません。それはチップにも連動しており、役割と報酬の関係が明白なのです。

日本の場合には、担当テーブルがあろうが他の店員が補う事は当然になっています。
その一方で、とても人気がある人がいようが、時給が同じなのです。
新幹線の売り子には、一日で30万円以上売る人もいれば、1万円も売れない人もいるようです。
それでも、時給は、殆ど違わないようです。

このような組織は、良い点もあり、組織が上手く回っている場合には、下のものが上の仕事を補ったり他部門の仕事も助け合い、効率が良いのです。
ところが、中国戦線では現地が暴走して戦争を始める事が、統帥権の干犯として問題になりません。
暴走参謀が、私設命令を出しまくっても、全く問題にならなかったのです。
そして現代では、福島原発の事故で、結局 誰が責任を負っているのかは、全く不明になっています。
あのような設備で良いのだと承認した人は責任を取るべきですが、想定外の一言でごまかされています。
ならば、その前提条件で良しとした人の責任はどうなるかと、徹底的な原因究明をしないのです。

ISOが、妙な具合になったのも、スタッフであるべき事務局が、マネジメントへの干渉をしても問題にできなかった所から始まったように思います。
その結果 無駄な仕事が増えても、ISOで決まっていると、更に上の権威に責任を転嫁しています。
無駄な仕事がなぜ必要かという掘り下げは、ISO権威により停止して、それ以上は掘り下げません。
これは、旧軍の問題が、結局は天皇陛下の名の元に帰してしまうのと同じなのです。
それでも、企業は利益を追求しますから、不利益が目立つようになれば、いきなりISOを辞めるという選択になります。 その時にも、なぜ無駄な仕事をしたのかは、問題にされません。

ですから、海外のISOを調べずとも、歴史をひもとけば、そして福島原発の問題を掘り下げれば、責任が追及されない、組織の役割の不明確さは、とても良く判ると思います。

外資社員様
おばQです、ありがとうございます。
私はそう大きな問題ではないように思うのです。
実を言いまして、ISO審査での問題はISO9001よりISO14001の方がはるかに多いのです。
思うにISO9001認証が始まった91年頃は日本には審査する認証機関もなく審査員もいませんでした。それでイギリスから審査員が来て審査するというのが普通でした。
その後すぐに日本人の有資格者が生まれて審査するようになりました。しかし今までの審査と全く違う審査が行われるということはありませんでした。
昨年までイギリス人が審査していたのと、今年の日本人が行う審査がまったく違うのでは、誰でも気が付き苦情を言われることになるでしょう。ですから日本人が審査を行う場合でもイギリス人が行う方法に倣っていたということがあります。
ところがISO14001が現れた1997年頃になると、初めから日本人が審査をしました。イギリス人ならISO14001をどんな方法で審査するのかという手本(見本かな?)がなかったので、日本人が開拓した方法で始めたということですね。
もうひとつ企業側に違いがありました。品質保証というのは大手企業や大手企業に納めている会社には必ずあった機能です。お客様が要求事項を提示し、メーカーがそれに対応するというのは従来からありました。ですからISO9001が始まったとき、企業が決めた品質保証規格ではなくISOが決めた品質保証規格だという認識があり、どんなことをすればよいのかというのが担当者に分かったのです。
ところが、環境においてはそんな仕組みは以前はありません。どこの会社も環境担当、その頃はまだ公害防止といった部門ですが、そこの担当者や管理者は要求事項をみてそれにどのように対応するかという予備知識というものがなかったのです。
ですからISO14001の審査で、審査員も審査とはどんなものか、規格の解釈とはどうあるべきかというのを全く知らないで始まったという恐るべきというか、面白い現象が起きたのです。何もわからない人が何もわからない人を審査する。その結果は、言いがかりと思えるような不適合をドンドンとだし、それをありがたき幸せと受け取って、その後右往左往することになったのです。
その頃、認証機関は雨後の竹の子のように設立されましたが、当時から品質の審査と環境の審査においては規格の理解が異なり、片や文字解釈、片やいい加減な拡大解釈というのが当たり前のことでした。
私の想像ですが、業界団体が作った認証機関は傘下企業の環境部門の管理者をかき集めて教育したと思います。(一部証拠あり)だけどそんな人たちは品質保証の意味を理解せず、審査をしたという重大な欠陥を持っていたのだろうと思います。
企業サイドの弁護になりますが、企業は金を出して審査を受けるのですから、レベルが低いことを責められることはありませんが、批判する、評価するというフィードバックがないために審査側を増長させたということはありますね。だいたい批判しているのは日本広しと言えど、私くらいですから。
ISO14001は経営の規格ですなんていうのは許すとしても、そんなことを語っている審査員が実際の審査で規格要求事項をみずに、社長がかっこいいことをいえば結構けっこうなんて言うのを見ていると、審査じゃないなあと嘆くばかりです。
しかしそんな現実を是正するという働きが認証機関にも認定機関にもなかったということは、ある意味おもしろいことです。
つまり自分の飯のタネをしっかりと維持しないで、今が良ければ明日はどうでもいいという発想としか思えません。
まあそんな状況を是としていたという意味では企業にも責任はあるのですが、どうせそんなのは税金だと企業側の経営者は見通していたのでしょうか?
そうであれば認証制度は一巡して終末を迎えたというだけのことですね。
深刻に考えることはないのかもしれません。

私が書いた本文よりも、外資社員様とのやりとりのほうが、価値があると思います。


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