審査員は神である

13.07.28
本日の駄文は同志名古屋鶏様の一文を読んで頭に浮かんだ妄想であります。いや妄想ではなく、引退したサラリーマンの霞がかかった思い出でしょうか?

審査員とはなにか? といえば、それへの回答はISO17021:2011の定義3.6が該当すると思われる。そこでは審査員とは「審査を行う人」と定義されている。当たり前というか、そのまんまじゃないかという気もするが、それは本当だろうか、正しいのだろうかというのが本日のテーマである。
しかし正しくないとするとISO規格の定義が間違っていることになる 
おっと、タイトルで審査員は神であると言ってしまっているので、この続きはもうバレバレである。では審査員はどのような神であったのかということを語ろう。

神とはなんぞやということになるが、神という言葉は多様な意味というか概念あるいはニュアンスをもつ。 モーゼさんで神さんではない 誰でも知っていることだが、西欧の神の概念と日本人の神の概念は全然異なる。
キリスト教、イスラム教などにおいては神と言えば、唯一の絶対神であり、当然それは人間とは別格の存在である。人は神と契約しそれを守れば何かが約束され、破れば裁きを受ける。約束される何かは・・・実はわからない。なにもないのかもしれない。
ところで神が人との契約を破った場合は、神はどんな裁きを受けるのだろうか?
え!ないのですか?

日本の神は、八百万やおよろずの神というくらい大勢いて、そして何にでも宿るから、どこにでも、いやいや探すまでもなく、あなたも神、私も神なのである。あなたが神様だというと変かもしれない。神または精霊がさまざまなものに宿るというのが日本的アニミズムであるから、あなたが神ではなく、神があなたに宿っているというのが正しいのかもしれない。もちろんあまりにも大勢の神があるから、神にも序列があり、えらい神も、えらくない神もあり、そればかりではなく良い神、悪い神、乱暴な神といろいろある。
ということを踏まえて本日は審査員は神であるということを論じる。
だれだ! 論じなくてもいいと言ったのは!

ISO9000sが制定されたのは1987年でしたが、日本でISO認証が盛んになったのは1991年以降でしょう。私も1991年から関わってきました。当時はISO審査となると、はるばるイギリスから審査員が日本までやって来たものです。天孫降臨というやつでしょうか?
天孫てんそんとはえらい人とか天に住む神様というニュアンスを持たれるかもしれない。
ちょっと待ってください。
日本の天皇や中国の皇帝は天子てんしという。つまり天にいる神の子である。
それに比べて天孫とは天にいる神の孫という意味であるから、天子より当然地位が低い、つまり皇帝の嫡男以外の傍系の者とか、将軍など天子の部下を意味すると何かの本で読んだ。中国の皇帝のお妾さんか序列が低い夫人の子供が日本に流れてきて天孫を名乗ったのかもしれない。
審査風景です
審査では通訳を介して質問を受け、それに我々が応えると通訳が審査員に英語で話す、そして審査結果もまた通訳が申し渡すというわけです。いやあ、巫女が神の御言葉を伝えるような感じでしたね。おっともちろん神、違った審査員と直接我々下々が話をしても良かったのですが、残念ながら私は英検2級、とても話になりません。審査の前には英語が得意だと言っていた人もいましたが、審査当日になると突然言語障害を起こしてしまいました。ですから巫女が神の言葉を聞いて、日本人の下々にわかるように伝える必要があったのです。
ところで何度か目の審査のとき、私が会議室のすみで隣の人と審査員の風貌をあげつらっていましたら、その審査員は終了後に一人一人握手して日本語で挨拶して帰って行きました。いやあさすがの私も冷汗がドットでましたね。神様の言葉が一般人はわからなくても、神様は民の声を掌握しているので油断はできません。
幸い、私の悪口は不適合になりませんでした。
当時は審査が半年に一度でしたから、あっという間に次回の審査になりました。

ほどなくして審査員は日本人になりました。認証機関もわざわざイギリスから審査員に来てもらうと費用がかかるので、企業側の負担も大変だと思ったのでしょう。もちろん審査は英語ではなく日本語になりました。
もっともそれで通訳がいらなくなったわけではありません。英語と日本語の通訳は不要となりましたが、別な通訳が必要になりました。というのは当時の審査員は(今でもか?)、日本語ではなく、ISO語で質問するので、現場の人は理解できません。それでISO語と日本語の通訳が必要になったのです。
なぜ審査員が日本語を話せなかったのかとなりますが、渡来人である弥生人の審査員と日本古来の我々縄文人とでは言葉が違ったためかもしれない。
実際には、弥生人や縄文人はどんな言語を話していたのだろうか?
日枝阿礼ひえだのあれの縄文語」(ISBN 978-4-8265-0535-2)によると、弥生人も縄文人も縄文語を話していたとある。おっと一学説ですから、本当かどうかはわかりません。
なお「ひえだのあれ」の漢字表記は稗田阿礼が一般的ですが、この書籍では違います。

審査員が日本人に変わって何か変わったことがあるかと言いますと、言葉だけじゃありませんでした。
私は当時の何人もの審査員に応対しましたが、みなさんスサノオノミコトのような方でした。
スサノオノミコトを知らないですか? 日本人なら古事記とか日本書紀くらいは読んでおきましょう。スサノオさんは天照大神アマテラスオオミカミの弟で、狼藉者、乱暴者、なのですよ。どんな悪いことをしたかというと、神聖なる神殿でウンチをしたり、馬の皮をはいで女性たちが機織りをしているところに放り込んだり、田んぼのあぜを壊したりと、実際にした悪事を並べると悪人というよりも単なるヤンチャ小僧のようですね。
おお、スサノオ審査員は、審査の場でウンチをしたり馬の皮をはいだりはしませんでした。審査で書類が出てくるのが遅いと、机の脚を蹴飛ばしたり、会社の人の声が小さかったりすると大声で怒鳴ったりした、それはそれは恐ろしい神様でした。
スサノオをとるかヤマタノオロチに殺されるかとなりますと究極の選択
スサノオとヤマタノオロチはどんな関係か?
なんて寝ぼけている人は、古事記を読もう。
ところでスサノオは悪行をしたので高天原を追放になりましたが、スサノオ審査員は特段追放にはならなかったようです。
思い返すと、イギリス人のときはそんな狼藉はしませんでしたね。
どうしてかなあと考えると一つだけ思い当たることがあります。当時の日本人の審査員は、石油プラントの監査をしていたとか船級検査とかしていた方がほとんどでした。そういう品質保証をしていた人がISO9000s審査をするのは流れとして当然だったのかもしれません。そんな人たちが夜酒を飲んでする話を伺うと、何もない砂漠に長期滞在してプラントの審査をしたとかいうお話が多く、かなり土建屋的生活をしてきたのでそんな態度になったのかなあと推察します。 中には長期不在のために奥さんに離婚されたなんて語っていた審査員もいました。
当時は審査の夜は宴席を用意するのが当たり前でした。それも土建屋的風習だったのでしょうか? ともかく審査が三日であれば三晩続くのです。ヤレヤレ

疫病神やくびょうがみ審査員というのもいましたねえ。食い物がまずい、お土産がほしい、酒を飲ませろなどなど・・・貧乏な会社ではそんな贅沢な貢物を供えることはできません。疫病神ではなく貧乏神だったのかもしれません。
幸い審査員の無理難題で会社がつぶされたという話は聞きませんでしたが、無理難題で担当者は苦しんだものです。
え、神様じゃなくてただのゴロツキですって? そうかもしれませんねえ〜
スサノオ審査員は私利私欲よりも「おれは偉いんだ」という単なるジコチューだったかもしれませんが、疫病神になりますと実質的な損害を与える神様でしたね・・・

審査員は神であるだけでなく紙でもありました。
記録や文書という書き物がないとイケナイというお考えの方が多かった。それは20世紀だけでなく21世紀になってもあまり変わりませんでしたね。
ひょっとすると審査員は製紙会社の回し者だったのかもしれません。いや、違った、製紙会社の守護神だったのかもしれません。そうなると紙の神でしょうか?

そういえばハンコの神様でもあったようです。この書類はハンコが押してないからダメなんてよく言われました。
マニフェストにもハンコがないといけないそうです。どうしていけないかというと、ハンコの売れ行きを心配していたのかもしれません。
マニフェストにはサインがあればよく、ハンコはいりませんよ。

人間宣言というのをご存じでしょうか?
ご存じない、そういう方はウィキペディアでお調べくださいと放っといて話を進めましょう。
1995年頃でしょうか? ISO9001の審査に来た審査員のたまわく
「ISO規格についてはみなさんの方が詳しいでしょう。私は規格の細かいことではなく、御社のシステム改善の手助けに来ました」
ほう、この頃になると審査員よりも企業の担当者の方がISO規格に詳しいと思う審査員がいた、あるいは出現したというわけです。まさに人間宣言ですね。審査員は神ではなく、神の使いでもなく、一般下々と等しい立場で、ISOについて議論するようになったのでしょうか?
古事記も神武天皇以降は神様の物語ではなく人間の物語になります。
だが、それは単にその審査員個人の勘違いか手違いだったようです。すぐに審査員は神の座に座りなおしました。
いや、ちょっと待ってください。システム改善の手伝いって、適合性審査より難しそうです。そんなことができる力量があったのでしょうか?
名古屋鶏さん
名古屋鶏様は伊勢神宮
の御使いなり

ところでどんな神様にも、お使いというか子分がいますよね。例えばお稲荷様ですとキツネ、キリスト教ですと天使、春日大社なら鹿、住吉大社ならウサギ、日吉大社は猿、伊勢神宮ならニワトリ、出雲はウミヘビ・・・
じゃあISO審査員のお使いはとなると・・・企業のISO担当者、俗にISO事務局と呼ばれている人たちじゃないでしょうか?
なにせISO事務局と名乗る人たちは、企業の立場よりも審査員のお気持ちをくみ取って、金儲けにならないような、企業を良くすると思えないような手間ひまがかかる無駄ばかりさせようと頑張っているようです。
ひょっとして、神様のお使いではなく神様を牛耳っているのかもしれません。審査の前に、審査員に対してああせいこうせいと指示している人は、神様より偉い本当の神様かもしれません。
ドラゴンボールの界王神でしょうか?

神の力の源泉はなにか?
となるとこれは信心されていることとなるでしょうね。
まずキリスト教をとりあげると、神と人との契約ですから神と契約していない人は神の罰を受けるはずがない。そりゃ神が己の信者に「わしを信じないものを打ち殺せ」と命じて神を信じる人と神を信じない人との戦いになっても、神と神を信じない人との戦いじゃありません。信じる人がいなければ神の力は無力です。
エリコの戦いで城壁が崩れたのは神の力ではないのかというツッコミを期待する。
いろいろな解釈があるが、石工、つまり今でいう工兵隊が城壁を崩したという説もあり、放火による火災で全滅したという説もあり、その他の説もある。ともかく神様が奇跡を起こしたわけではないだろう。
なお、エリコ(ジェリコ)の町は南北350m・東西150mで大きなものではない。とはいえエリコの戦いがあった紀元前13世紀としては大きな都市だったのだろう。
おっと、ソドムとゴモラですか・・・最近の研究では隕石の落下による災害らしいです。まあ、それに神の怒りをこじつけたのでしょう。しかし旧約聖書とはまったくのうそとか物語ではなく、歴史の真実を書いているのですね!
日本人の場合、さわらぬ神にたたりなし、関わり合いになりたくなければその神を避けていれば良い。
となりますと、神を信じる人のみが神のたたりを受け、神を信じない人には神の力が及ばないという、なんだかおかしな話になります。
藤子・F・不二雄のマンガに「ボクは神様」というのがあります。ぐうたら少年が全能の神になるのですが、神様の権威を維持するのも大仕事、神様になった少年がまじめに神の務めを果たさないので信心する人が減り、神の力が失われて自分が消滅してしまうというお話です。

では最近はどうなのでしょうか?
審査員の存在感が希薄となり、企業側はお賽銭を上げて礼拝はするものの、ごりやくなんてあるわけはなく、お札(審査登録証)を飾ってもなんの効果もなく、信心なんてしていません。
前世では、いや前世紀は審査員は力のある神様でしたが、今はお参りする人もほとんどない祠に住む忘れられた神様のようです。
神棚
昔、「お客様は神様です」と三波春夫は言った。ISO認証制度が始まって20数年経つが、今まではお客様ではなく審査員が神様だった。ISO審査においては21世紀になってやっとお金を払う企業が神様になったのかもしれない。
もっとも企業が神様になったとしても、誰がそれを信じるのかとなると・・最終顧客が信じるわけがない。おっと、これは私が言うのではなく、第三者認証制度関係者がそう言っている。
つまり、元々、これは信じるに値しなかったのだろうか?

うそ800 本日のオマケ
すいか昨日はすることがなく近くの・・・といっても片道3キロくらいある・・・農協まで歩いて行って、野菜や果物をみてきました。農協脇の直売店には桃やソルダムは千葉産の旬のものがならんでいましたし、その他青森のリンゴなどいろいろありました。どれもこれも食べたくなりまして、スイカなどいろいろ買ってしまいました。
その道々、考えたのですが・・・
最近私は、古事記、日本書紀、魏志倭人伝(正しくは三国志魏書東夷伝倭人の条という)、卑弥呼などの本を読んでいる。もう100冊近く読んだと思う。そんな話を読んでいるとこれってISOの歴史そっくりじゃないかって気になってきました。いや、どんなものの歴史もその移り変わりは似たようなものかもしれません。
ということで・・・家に帰ってから思いついたことを2時間ばかりキーボードを叩きました。もちろんhtmにしたり、アップロードするのに1時間や2時間かかりましたから都合4時間くらいでしょうか。

おっと変なことを考えました。
私のうそ800のコンテンツはアップロードした初日は300アクセス、翌日、翌々日は150くらい、三日以降は数十アクセスしかありません。アクセスした方の2割が読んでいただくとして読むのに5分とすると、120人かける5分で10時間読んでいただいているということになります。
つまり4時間の投資に対して10時間の回収というわけです。投資効率が2.5倍なら悪くはないと考えてよろしいでしょうか?



N様からお便りを頂きました(2013.07.28)
機嫌を損なうと面倒なことを引き起こすのを「神」と定義したら、審査員は神でしょう。
ただし、この場合の神は、尊敬の対象ではなく厄介者という意味合いでしかありませんけれどね。

そういえば、機嫌を損なうと面倒という意味合いでは我が家にも「山の神」がいます。こちらは、日々の家事のことを考えると尊敬に値しますし、機嫌を取っておくとご利益があります。ありがたい存在です。

さて、審査員はどうなのでしょう?

N様 毎度ありがとうございます。
神様にもいろいろありますね。浅田次郎の「憑神」には疫病神、貧乏神、死神がでてきます。どれもこれもご免こうむりたいです。とはいえ、そういう神様って人間になつくのですよね
大黒様、福の神、幸運の女神、弁天様、愛の女神、そんな神様こそぜひともとお誘いしたいのですが・・
宝くじには死ぬまでに当たるものでしょうか・・・

我が家にも山の神がおりまして、常に私をいじめています。
でも、それは私を鍛えようとする愛情なのかも・・・と考えるのは甘いでしょうか?
今日も洗濯物の干し方が悪い、お掃除が隅までしていないと・・


名古屋鶏様からお便りを頂きました(2013.07.28)
某認証機関で接待が問題になって以降、日本人審査員を接待する必要はなくなったようでずか、それでもイギリス人は飲みに連れくていく必要があったと知人が言ってました。ただ、審査には関係なくドライだったそうですが。

ジェリコの壁、と聞くとプロレス技のボストンクラブを思い出してしまいます。昔、WWEにそういう技を使う選手がいましたから。

それと、名古屋はお伊勢さんではなく熱田神宮か、尾張の「一宮」である真清田神社かと・・・

名古屋鶏様 イギリス人の接待というのはしたことがありませんでした。もう20年も前ですがそういった記憶はありません。あるいはこちらが外人は接待が不要だろうと思い込んでいただけで、ご本人は不満だったのでしょうか?
プロレスは分からないのでパス
東北人から見ると、伊勢も名古屋も同じですよ、名古屋鶏様から見れば磐城も会津も同じでしょう アハハハハ

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