リソースからの妄想

13.08.04
ISO9001:2008の「5 経営者の責任」において、「トップマネジメントは、品質マネジメントシステムの構築及び実施、並びにその有効性を継続的に改善することに対するコミットメントの証拠を、次の事項によって示さなければならない」として、そのひとつに「5.1e) 資源(原語でリソース)が使用できることを確実にする」とある。
同様にISO14001:2004でも「4.4.1 資源、役割、責任及び権限」「経営層は、環境マネジメントシステムを確立し、維持し、実施するために不可欠な資源を確実に利用できるようにすること」とある。
ここで語っていっていることはいかなる意味なのか、そして語っていることはもっともなことなのか、あるいはお門違いなのか、間違いなのかを考えたい。

まず品質マネジメントシステムとか環境マネジメントシステムとはなんだろうか?
ISO9000:2006の定義では「方針及び目標を定め、その目標を達成するためのシステム」とある。
ISO14001:2004では環境マネジメントシステムを「組織のマネジメントシステムの一部で、環境方針を策定し、実施し、環境側面を管理するために用いられるもの」だそうだ。
すると資源とは、品質の場合なら、品質方針や品質目標を達成するためのリソースということになるのだろうか? 同様に、環境では環境方針や環境目的を達成し、また環境側面を管理するためのリソースということになる。
品質目標と環境目的は、原語では同じobjectiveだから同等の位置づけになる。環境目標(target)は目的より下位の目標となる。環境目標を部門ごとあるいは下位目標と解する人と、時間的な達成目標と解する人がいる。某認証機関は目標は1年、目的は3年と語っているが、ありゃ完璧な間違いです。
とはいえ、企業において、品質のためのリソースとか、情報セキュリティのためのリソースとか、輸出管理遵守のためのリソースというふうな色分け、区別ができるとは思えない。いや、実務において品質も環境も民法や各種法規制、金銭を含めた事故防止というものは、渾然一体として業務は行われ、そういった区別が可能なはずはない。それとも、あなたは品質だけをしっかり見ていればいいとか、談合防止だけをしっかりやりなさいと言っている会社があるのだろうか?
では、リソースとは用途ごとに色分けできないということで、次に進もう。

会社で事業を行うとき、リソースが必要十分そろってから始めるということがあるかと考えるとどうだろうか?
事業は時期を失すれば意味がないから、やらざるを得ないとき、スタートしなければならないとき、リソースが満点でなくても決断するだろうと思う。もちろん見積もったリソースの10%しかないのでは見込みは薄いが、70%もあれば開始するのではないだろうか。
それに、私が経営者ならリソースが満ち足りているならば、目標をより上方修正するだろうと思う。余裕をもってなんていう発想は、事業においてはありえない。事業だけではない、野球で1点リードしていればよいというものではなく、少しでも点差を大きくしよう逆転されないようにしようとはしないだろうか?
高校入試を考えても、ここなら絶対安全というところを受ける人はいないのではないでしょう。ほとんどは少しでも上の学校を目指すと思います。
そもそも計画があって、それに必要なリソースが算出でき、それを必要十分確保してゴーサインを出すという発想があるとは思えない。

私が尊敬する人はあまりいないが、土光敏夫は嫌いではない。もっともいまどき土光さんを知る人は少なくないかもしれない。私が青年の頃のヒーローだった人である。おっと誤解のないように、実在の人物であり、島耕作などとは比較するのもおこがましい。明治生まれで、IHIや東芝を立て直した社長であり、経団連会長になり勲一等という勲章までもらった方だ。とにかくかっこいい人だ。何がかっこいいかというと、背が高いとかイケメンというわけじゃない。贅沢をせずに、くたびれた背広を着て、古い靴を履き、イワシと家庭菜園の野菜を食べていたというのは有名な話である。
「家庭菜園ができるほど広い屋敷を持っているなんて金持ちじゃないか」というツッコミはご遠慮願いたい。50年も前は東京だってサザエさんやのび太のように庭のある庶民は多かったのだ。
ちなみにサザエさんは1946年からドラえもんは1970年からである。
その土光さんは名言も多く、「仕事の報酬は仕事」も土光さんの言葉である。私の現役時代、上長はいつも「仕事の報酬は仕事」と言っていたが、それは月給をアップしない口実だったのかもしれない。いや冗談です、○田さん、お読みになっても苦情を言わないでください。
土光さんの言葉に次のようなものがある。
「計画とは将来への意思である。将来への意思は、現在から飛躍し、無理があり、実現不可能にみえるものでなくてはならない。現在の延長線上にあり、合理的であり、実現可能な計画は、むしろ予定と呼ぶべきだろう」

経営や事業においては最善、最高を目指すのだけど、マネジメントシステムにおいては必要十分のリソースを確保するのだという意見があるかもしれない。
その場合、経営とマネジメントシステムの関わりがどうなのか? 私にはよく分らない。

いや現実を見れば逆ではないだろうか。つまり世の中の企業でリソースを確保して事業をしているところなどめったにないだろう。ということを考えると、リソースを確保せよという文言を実際にどう解釈するのでしょうか?
ある命令あるいは事業計画を与えられたとき、同時にそれを達成するためのリソースを十分与えられるなんてことがあるとは、一度でも会社勤めした人は思わないでしょうねえ。
敵艦隊は戦艦5隻だ、お前に戦艦2隻を与えるから絶対撃破してこいとか、現有勢力で新しい事業に進出し今年度の売上3億を達成しろなんてのが普通というか当たり前だ。あるいはせいぜいが「人が足りないのか? よし明日パートを募集してやる」そんなものでしょう。

   

「トップになれば・・・」なんて考えてはいけません。トップが楽だなんてあなた勘違いですよ。 会社でも軍隊でも階層が上になるほど、自分が計画をたて、そのリソースを自分が確保しなければならないのです。階層が低いあなたは上官、上長の恨みつらみを語っていれば良いですが、トップになれば愚痴をこぼすにもこぼせないのです。

そのへんの関係はどうなっているかというと、軍隊でも企業でも指揮命令の階層がある。階層が高ければ与えられた目標を実現するための方法についての裁量範囲は広い。あるいは目標そのものの決定権も持つ場合もある。しかし当然ながら権利を裏付けるのは責任であり、方法を実行するリソースは自らが確保しなければならない。
他方、階層が低くなるほどに裁量範囲は狭くなり、最下級の担当者では裁量範囲はゼロに等しく、定められた手順によって行動することのみが求められる。
それをおかしいとか言うのはそれこそおかしい。組織とはそういうものなのである。

職階とリソースについての概念図
社長 社長
自分が確保しなければならない
リソース
役員役員
会社法などを読むとわかるが、役員と
従業員では責任・権限が別次元なのだ
廣井部長
山田課長
 矢印
規格の言っているのはこのへんのことだろう
 矢印
横山担当者
与えられるリソース

しかしそれらから考えると、ISO9001もISO14001もその守備範囲は管理者が担当者をどう扱うかを記述しているものだと考えられる。間違っても経営層に対してどうあれと言っているものではない。
ISO規格とは現場担当者(生産現場もあるだろうしオフィスもある)をどのように使うかを書いているということになるのだろうか? とするとISOマネジメントシステム規格あるいはマネジメントシステムとは、経営レベルのものではなく、現場管理のものであるということになる。多くの人が、ISOマネジメントシステム規格は経営の規格ですと語っているが、そうとは思えない。そう考えることは間違いではないだろうか。
トップ経営者や起業家がなにごとかしようとするとき、こうあるべしと語っているのではなく、マネージャークラスが何かをするときにどうすべきかを書いている(規定している)ものにすぎないのではと思ったのです。
20年も前、私が下級管理者だったとき、お前がするのは人件費管理だと言われました。部下の過多に関わらず、定められた手順があり、それを指示して守らせて生産作業を行う場合、その管理者の仕事は人件費管理しかありません。
人件費管理とは簡単に言えば、人をあそばせないことです。
もちろん、それがたやすいということではありません。
しかし階層が高くなれば、手順が決まっていないこと、いやそれどころか未知のことが多くなります。経営者に求められることは、安いものを調達したり、早く作ったり、多く売ることではありません。企画すること、創造性です。ジョブスやゲイツが現場レベルの生産性を揚げようとは考えなかったでしょう。
ということでMSSで考えるリソースとは下級管理者のレベルのことではないかというのが私の意見です。

本日の結論は、ISOマネジメントシステム規格が語っているのは、企業における下層レベルの管理についてではないのかというものです。
あなたが事業部長レベルだと仮定しましょう。あなたが担当している事業部の製品は既に成熟期とすると、山を過ぎる前に、なんとか新しい製品を世に出さなければならないということが課題です。そのときあなたはリソースがないからできないなあと寝ぼけているはずはありません。リソースがなくてもなんとかしなければ事業部に明日はありません。
少数精鋭という言葉がありますが、この言葉には二つの意味があるそうです。すぐれた者だけをそろえるという意味と、少数で頑張ると皆が精鋭になるという意味だそうです。少数で頑張れば精鋭になるかどうかわかりませんが、やらねばならぬ成さぬは人がなさぬなりけりということもあるのは事実です。
そんなときリソースが不足していたのだから失敗するのは当たりまえと、腕をこまねいてなにもしないなら、人として失格だと思います。

うそ800 本日の妄想
ISO規格は現場レベルの手法だろう。間違ってもトップマネジメントが、これに則って経営しようなんて考えてはいけない。
あれ、冒頭に書いた本日のテーマと大きく変わってしまったぞ


ぶらっくたいがぁ様からお便りを頂きました(2013/8/6)
ISO9001を経営改善の規格だと考える人は、方針を紙に書き出せばたちまちそれがかない、目標を定めればたちまちそれが達成できると、そう盲信しているように思います。
自転車を買い与えた直後に、スイスイ乗りこなせる人はいませんがねえ。

たいがぁ様 そうです。考えたのではなく信じているのだと思います。そして信じる者は救われると信じているのでしょう。信じるとはそういう心理状況ですから信じることをやめはしないでしょう。
つまりもっともISO的な考え方からは遠いということですね


外資社員様からお便りを頂きました(2013.08.07)
おばQさま
いつも興味深いお話有難うございます。

なるほどISOの記述は、会社の中のどの階層に向けて書かれているのかというのは重要な観点ですね。
また、それが階層によっては、意味が異なるのは、正に仰る通りです。
こういう解釈についての議論は、知らなかったので大変参考になりました。

時候ですから、リソースを昭和19年3Qの帝国陸軍の「捷一号作戦」にあてはめてみます。
大本営は、フィリピンにて決戦し有利な講和への道を開くべしと方針を立てた。(昭和19年7月)
これに基づき南方軍、隷下の14方面軍(山下将軍)は、ルソン島にて強固な陣地をつくり持久線を行い、米軍に損害を与えようと作戦した。
大本営方針に基づき、陸軍はフィリピンに向け、必要な兵員、兵器、糧秣を輸送したが、すでに船腹は不足し、一畳辺りの面積に20名と満員電車以上の過密状態で兵員は7日でおくられた。
馬匹は最悪の環境で衰弱し、現地での輸送力は微弱で、人力輸送が主体となる。
輸送の途中では、米軍潜水艦が跋扈し、20%近くが到着前に被害を受け、救助された兵員は兵器・糧秣無し。
10月の台湾沖航空戦 「大勝利」の誤判断で、大本営はレイテ島決戦に方針変更、現地の南方軍は再三の方針変更に振り回される。 現地では輸送力が殆ど無い状態で、人力で大砲やら陣地の再構築が命令され、米軍との戦闘開始前に兵員は疲弊、食糧弾薬は必要な所になく、無理無駄の連続。
結局 まともな戦闘は山岳部など一部で、20年4月にはほぼ組織的抵抗は壊滅、あとは食糧を求めたサバイバルが始まり約40万人の死者の6割以上が餓死者と言われている。(病死の原因は食糧、薬品不足による衰弱が主因)

長い前置きになりましたが、リソースの配分は大元帥陛下の役割でも、小磯内閣の職掌でもなく、大本営及びその作戦課の責任なのです。 その下には輸送関連の部門もあり、輸送能力は把握されていたはずです。
現場の立場で見れば、満員電車並みの1週間で兵隊は衰弱、馬匹は死亡。
現地での度々の方針変更により、陣地のあるべき所に食糧も弾薬も無く、人力搬送で何も出来ない内に米軍の攻撃により壊滅。
ISOに言い替えれば「大本営の作戦立案は、補給マネジメントシステムを確立し、維持し、実施するために不可欠な資源を確実に利用できるようにすること」となるように思えます。
つまり、作戦実施に必要な人員、武器、弾薬、糧秣、 輸送に必要な船舶と輸送能力、その船舶の運航を保証できる制海権、作成変更に伴う現地の移動を保証できる輸送能力を管理し、継続的に実施できる必要があります。
実際には、陸軍官僚の員数主義により、必要な師団は送ったと書面上は完璧。
途中で沈もうが、現地で衰弱していようが、馬もトラックも使えなくても書面上は「戦闘部隊」と見る。
しかし、現場では、武器も糧秣も無い役立たずの部隊やら、輸送能力皆無による移動不可。
事前の空爆と艦砲射撃に右往左往して、山岳部など一部以外はまともな戦いもできずに、40万人以上の死者を出したのが悲しい結果で、戦史上でもまれな大敗北でした。 関係者の記録から はっきり言えるのは、大敗北は戦闘能力の問題ではなくて、戦う事自体が出来ない状態で戦いなったという事です。

私はISOは専門家ではないので間違っているかもしれません。
しかし、やるべき立場の人間が、やるべき事をやらない、チェックが出来ないという、マネジメントの大きな問題が、この歴史的大敗北をした組織に存在していると思います。
なぜ歴史的大敗北をしたのか、大本営作戦課は 何故 そのような作戦を決行したのか、その作戦を裁可した上位者は、なぜ問題に気付けなかったのか。 事後に問題の原因分析と改善は、どのように行われたのか、非常に興味深いです。
如何でしょう、おばQさまより、どこかの作戦をネタにISO的な解析をして頂けませんでしょうか?

外資社員様 毎度ありがとうございます。
現役の経営者からコメントを頂くと緊張します。本当です。
真面目に行きます。とはいえ、最後まで真面目が続くかどうかは定かではありません。

戦争とはリソースがあるときにするのかとなれば、どうでしょうか?
もちろん以前のアメリカのようにリソースが余っていて戦争がしたくてたまらない時もあったでしょう。しかしそういう状況ばかりではないと思います。
そもそも第二次大戦、もとい大東亜戦争を誰が始めたのかとなると分りませんが、平和大好きの朝日新聞朝日新聞 だって開戦前からジャンジャン煽っていたわけで、全体的にそういう空気があったのだと思います。
その結果戦争することになれば、山本五十六ではありませんが、現有のリソースを最大に活用して暴れるしかないというのが軍部の考えというか任務となるわけです。
そしてリソースがなければ、あるいは消耗したらゲームを止めるという選択があるわけでもありません。そこからドロドロというか闇の中になるのですが、大本営としては始まったからには止めようという発言ができなかったと思えば、勝ち負けにこだわらず、リソースがなくても戦争を継続するしかないことになります。東条英機を批判してもしょうがありません。ISOの世界ではなく、そういう怨念の世界であったということでしょう。
外資社員様は陸軍官僚の員数主義により、必要な師団は送ったと書面上は完璧とおっしゃいますが、まったくないことが分っていて書面上もゼロであっても、戦争を止めることができなかったのではないでしょうか?
硫黄島の栗林は決してリソースがあるからとか、勝つために戦ったのではないと思います。日本の人たちが一日でも長生きできるようにと念じていたのだと
それが真実か否かはわかりませんが、戦争とは特に日本においては、勝つことにもちろん価値はあるのですが、勝てなくても次善、三善の目標を目指して戦わざるを得なかったし、それを目指したことを評価し感謝しなければならないと考えます。
そりゃ野放図の拡大をしなければよかったとか、外交をもっとうまくとか、欲を言えばきりもないですが、対中国だって成り行きもありますし、すべてを中央で管理していたわけでもなく、そういう条件であればISOが与える状況とは大きく違います。

話しは変わります。
私も長いこと会社員をしてきました。私にとっては戦争に例えるよりも会社のことのほうが現実感があります。
自慢にはなりませんが、負け戦なんて片手では足りません。本業が先細りだ。それで新規事業に進出しようなんてのは良くある話です。細かいことは言えませんが、現有の技術、設備でできるもので、なんとか30億の事業を立ち上げようなんて誰でも考えるわけですよ。でもそのリソースはとなると、それは現有のものからねん出するというのもありがちです。だけど現状の事業は継続しているわけで・・・一体どうするのとなるわけです。
当時、私は現場の下級管理者である係長クラスと思ってください。どうすれば上の人が考えた妄想が実現可能になるのか考えても答えがあるわけではありません。残業に次ぐ残業、出張に出れば帰ってくるななんて特攻隊のようなことを言われるわけです。会議などで部課長クラスに、「これは見込みがないから考え直してください」と言っても、「意気地なし」と怒鳴られるだけ。私は昔から言いたい放題でそういうことを口外していましたので上長から良く思われませんでした。処世のうまいやつはダメと思っても「がんばりましょう」といって可愛がられるわけです。だいたいそういう奴は寝食を忘れて頑張りません。
部長クラスはさらに上に対して、頑張ったけどだめだったという姿勢を示せばよいわけで、己自身は苦労しません。良く考えれば、頑張ってもダメなんですけど、そういうことなのですね。
もちろん企業風土によって違いはあるでしょうけど、ISOの考えから、ことを始めるには十分なリソースを確保して、投入するということばかりが正統なものでもないようです。
一歩下がって考えると、事業が先細りでリソースもない。種々検討したけれど事業を終息させ事業体を解散するという発想が最善だとして、社内的にその決定が許されるのか否かということになるのでしょうか?
日本人の発想としては、考えて考えてなにもしないという最善の道を選ぶというよりも、刀折れ矢尽きて徹底的に敗れるというのが美学なんでしょうか?
とすると日本におけるビジネスあるいは戦争は、勝利することではなく、自分に酔いしれるということを最高の価値におかないと良い点がもらえません。会社では命はとられませんから、どっちみちダメなら、日本的価値観で自分にもまわりにも最高得点を出すように行動するのかと思います。
おお、とすると私は日本の価値感を理解していなかったから昇進しなかったのでしょう。
だんだんと話がそれてきましたが、そんなアホみたいなことをしてきた私は、リソースを確保して云々というのは建前であり、本音とは違うように思います。
リソースがあってもなくても、かっこいい見得を切れ、そしてかっこよく死ねというのが日本版ISOの要求事項かもしれません。


外資社員様からお便りを頂きました(2013.08.08)
おばQさま
かなり個人的な嗜好の入った内容にも関わらず、お相手頂き有難うございます。
なるほど、仰るように万全の態勢で事に望めないのは戦争だけでなく、事業でも同じですね。
お話を伺って、自分の言いたい事が整理できた気がします。
比島決戦の例で言いたかったのは、品質管理体制の有無なのだと思います。
つまり、何をもって良品または、正常な状態、または戦力や製品と考えるかです。

戦場ですから、1個師団で、2個師団と戦う事も当然と思いますので、そうした十分なリソースがある事が当然とは、私も考えません。
しかし、同じ一個師団の戦力でも、アメリカは十分に休養をとり、食糧・弾薬が満ちているものが、基準でした。
日本の場合は、出発時の員数があっていれば、途中で海没し武器・装備を失おうが、移動能力の基本である馬匹やトラックが無かろうが、食糧不足で疲弊していようが、員数が満ちていれば大本営の考えでは、戦闘に用いられる1個師団なのです。無敵皇軍と言っても腹が減って疲労していれば戦力にならなかったのです。
当然、戦場に必要なリソースが満ちている事はないのですが、アメリカ軍の作戦では疲弊した師団は1個師団としては扱わないという品質管理基準があって、戦いには投入せず交代させるか、作戦上必要ならば1個連隊とみなすなどの合理性があったように思います。 つまり品質管理体制が日本側では不明瞭で、不良品だろうが出荷してしまったようなものです。 これは昭和19年以降の国内生産体制にも明白で、熟練工を徴兵し、動員された素人学徒がハチマキしめてつくった不良品が出荷されていました。そこを補完したのが掛け声と気合で、疑問を提示すれば非国民か敗北主義者扱いで、合理性とは反対側のように思えます。その結果が、戦わずして、病没 飢餓による死で、不良品の兵器の山です。
戦後 日本が品質管理に厳しくなって発展したのは、悲惨な体験の反動だった部分もあるように思います。
それは、過去にあった大きな過誤を克服した点では大慶ですが、問題の根本とそれが起こした災禍を忘れない事は重要と思います。

さて、ISOの話しに戻れば、第三者認証にも合理的な品質基準は必要と思います。
その一つは、Test Coverage(認証ならばInspection Coverage)という考え方で、審査や認証は、何を対象にして評価をする事を明確にする事です。同時に、審査の対象で無いものも明確になるはずなのです。
今回の元ネタに戻ると、会社のマネジメントシステムの審査において、TOP方針などについては、審査対象なのか、そうでないかを、まず明確にするべきと思います。それも対象ならば、そのような審査なのでしょう。ならばTOPも含めて審査が必要なはずです。対象でないならば、その会社のTOPが不祥事を起そうが、審査には無関係なので問題にもならないはずです。審査そのものにも品質管理が必要なのは当然で、それが変な審査員や審査基準を許容しているならば、どこかに審査の品質管理上のリスクが潜んでいるはずです。
私は、それを管理基準である、Test Coverage が不明確、または統一基準がなく審査員により基準が変わる余地をもっているのではと思っています。如何でしょうか?

外資社員様 毎度ありがとうございます。
戦争の現実は実体験としては知りませんし、親父や近所のおやじさんたちもみな兵や下士官でしたから、彼らから聞いた話は戦争の話ではなく戦闘の話でした。その局面においてどう戦ったのかとか三八式歩兵銃の使い方の話は小さい時から聞かされましたが、しかし戦局や作戦という範囲については聞いたことがありません。一兵士はそんなことを考えることさえ思いつかないのではないでしょうか?
山本七平の本を読んだ感想ですが、彼は士官であるからまた大卒ですからインテリで視野が広く、兵であれば気にしないあるいは入手できない情報を得ることができ、それでおかしいことを知り矛盾を感じたということはあるのではないでしょうか。一兵士として戦闘に参加した人は矛盾を感じることさえなかったのではないかと思います。近所のおじさんは、食事でたくあんが一人あたり4個になってしまい、古参兵から4個は縁起が悪いから3個にしろと言われ、別の古参兵からは気にしないで4個ずつ配膳しろと言われて難儀したというような話をいろいろと聞かされました。一兵士としては師団の状況よりもそういうことのほうが重大なことかもしれません。
兵士が考えることはちゃんと命令してくれればすることはするし、死ぬのはしょうがないと考えていると思います。それは企業でも同じでしょう。
外資社員様の問いかけをうっちゃるつもりではありませんが、仕事を始めるにはリソースを確保すべきであるということは理想でありましょうけど、リソースは常に確保できないというのは現実です。
もちろんリソースなくして戦えというのは間違いですが、指揮官層においてもまたリソースがないからできないと言うことはできないわけで、それを解決するというか調整するのはさらに上位の仕事です。そしてその解がないときでもなんとかしなければならないというのも仕事でしょう。戦争を止めるということは軍人の決めることではなく、政治家の仕事です。
大本営にいて大声を出していただけの高級士官、将官は論外です。しかし前線にいて負けると知っていても、最善を尽くして戦った多くの指揮官はリソースがないことを恨んだりはしなかったと思います。私は太田実や栗林忠道はリソースがなくかつ実行不可能に近い命令ではあるけれど、その命令の目的を理解して努力したのだろうと思います。
現在でいえば、小沢一郎は選挙で負けそうになると姿を消し、海江田も負けるとテレビに顔を出しませんでしたが、麻生さんは大敗したときも逃げませんでした。そのへんが人間の大きさだろうと思います。
 お断り:このへんは個人の主観が大きいので議論の対象外とします。

Test CoverageとかInspection Coverageという言葉は知りません。ただ現在の認証の問題というのは、そのようなこととはちょっと違うのではないかと思います。単純にISO審査をする力量のない審査員が多い、あるいはほとんどがそうであったということにすぎないのではないのかと思います。
ISO審査員はISO9001やISO14001だけ知っているのでは仕事ができません。ISO17021やJAB基準を十二分に読みこなし、審査の仕事中、そういった基準を頭の中で比較参照し判断しなければならないわけです。
おっと、審査員はISO14001なら知っているということでもないのですよ。私は多くの審査員はISO9001もISO14001も知らずに審査をしているとしか思えません。
でも現実はそうではありません。いや以前アイソス誌で某認証機関の社長が「審査員はISO17021を良く理解することが必要だ」と書いていました。「ISO19011を知っている審査員は神様だよ」と語った認証機関の社長もいました。ということは、現実の審査員はISO17021を良く理解していないわけです。
現在ISO19011は内部監査員の規定ですが、ISO17021が制定されるまでは内部監査だけでなく第三者審査にも適用されました。
そういった審査員が審査をするのですから、企業側と解釈が異なった場合、どう対応するかさえ分からないわけです。その行きつく先は、多くの場合は強圧的に押し通すか、あまりないでしょうけど安易な妥協しかないわけです。
ましてや現実の環境管理をしたこともなく、環境法規制も知らない審査員が断定するのですから、恐ろしいの一言です。
そんな基本的なことをしっかりすれば少しは(おおいにという意味です)良くなったかと思います。
でも、もう手遅れでしょうね。
この文を読んでいるISO制度側の人は多いと思います。そんな人たちは、私の論に異議を付ける人よりも、残念であろうとは思いますが同意する人の方が多いのではないでしょうか。

ISOの目次にもどる

Finale Pink Nipple Cream