旗幟鮮明きしせんめい

14.04.14
先週は検査入院したし、帰宅しても数日なにもせずごろごろ寝ていた。そんなとき頭に浮かんだことである。このウェブサイトにISO認証制度について私がおびただしく書いているのを見て、私を粘着質な奴とか、神経がおかしな奴とか、ストーカーとか、なんでそんなにこだわるのか、どうでもいいことに熱くなるなと思われる方が多いだろうという気がした。
ということで、なぜ私がそのように考えるのか、なぜこんなことを書きつづっているのかの理由を書く。ある意味言い訳であるが、疑問をもたれることに対する予防処置でもある。

危険物屋内貯蔵所 もう40年も前になる。当時20代半ばの私が勤めていた工場には、けっこう大きな危険物貯蔵所群があった。周囲を広い空地くうちで囲まれていて、大きな第4類の危険物屋内貯蔵所と屋外貯蔵所、また第2類や第5類の貯蔵所の小さな小屋がいくつかあった。何本も避雷針が林立していたのを思い出す。
そこの保安監督者をしていた人が退職したとき、工場で甲種を持っていたのが私だけだったので、自動的に私が保安監督者になった。といっても私の名前を届けたというだけで、私がそこの利用者たちに号令をかける立場になったわけではなく、私もその貯蔵所の全部を管理している認識もなかった。











































それからほどなくしてエライさんが代わった。あるときその人が私を呼んだ。そんな偉い人が現場の若造を呼び出すなんてだいたいお叱りと相場が決まっている。
「お前があそこの責任者か?」と分りきったことを聞く。「そうです」と答えると、案の定管理が悪いとお叱りである。整理整頓が悪い、業者が搬入しているとき立ち合っていない、鍵がかかっていなかったぞ、小屋の中に枯葉が入っている、空地に雑草が生えている、空地に遊休機械が置いてある、ちゃんと見ているのか、まあその他罵詈雑言で責められた。
そうそうに逃げ出したが、どうすりゃいいのよという不満を持った。だいたい保安監督者なんて名前だけで、それぞれの部門で何を置いているのか、誰がどのように日常管理しているのか分らないのだ。監督者をしているからと手当がついたわけでもない。いや危険物管理の仕事をする時間をもらってさえいない。
俺のせいじゃないよ、知らないよとも思ったが、看板に私の名前が書いてあり消防署にも届けているわけで、社内的にも社外的にも私が責任者であることは間違いない。事故が起きたら私の責任である。

数日考えて私はその貯蔵所群を使っている部門の責任者を集めた。私は当時現場で仕事しており特段エライわけでもなく、集まってきたみんなが私より偉かった。ともかくこれからしっかり管理していくので協力をお願いするといった。ところがみんなも以前からの延長で考えていて責任感がないから、そんなこと言われても困るという。

掃除も知らん、置き方も、出し入れも、搬入の立ち会いも、在庫管理なども面倒なことを言うなよという雰囲気である。そもそもお前に何の権限があるのかとはっきり言われた。
それには困ったが、責任者は私である。とにかく法に基づいてしっかり管理してくれないと困る、そのためにはルールを守ってもらうと大声でいうだけであった。
私もヒマであったわけでもないが、何もせずにはおれない。ルールを守っているか、ちゃんと運用しているかを日常的に監視し、問題があれば関係者を呼んで直すようにお願いした。必死だった。
たまに巡回するとフロンの1斗缶が何十個も置いてある。フロンは危険物ではないから置いてはいけない、移動してくれと頼む。フロン規制などなかった当時は、基板や精密機械をまるごとフロンでジャブジャブ洗浄していたのだ。
当時は製造業だけがフロンを使っていたわけではない。女性のヘアスプレーだって殺虫剤のスプレーだってフロンを使っていたし、子供たちはエアガンでBB弾を撃ち合って遊んでいた時代である。
ところでフロンの代替えはないとか、フロンをプロパンに替えると火災が増えるなんて意見もあったがそうはならなかったようだ。
そう言うと「フロンを置くところがない、どこに置くのか」と反論された。それは危険物保管監督者の仕事ではないと思ったが、条件整備をしてやらないと最終的に困るのは私だ。ヤードプランをしている部署に行って頭を下げて保管場所を確保して、そこに移動してもらった。
貯蔵所の周りに雑草が生えていると、関係部門に呼びかけて人を出してもらい、みんなで草むしりをした。もっとも8割方は自分がしたような気がする。
遊休機械は期末ではなかったけれど、廃棄処理をしてもらった。廃棄物業者が来たときは積むのを手伝った。「なんで私が東大に」という予備校の宣伝があるが、「なんで私が」という思いだった。
ガラス瓶に入った試薬などを危険物貯蔵所に保管している部門には、地震に備えて転倒防止の仕切を作るように指示したものの、対応してくれなければ自分が手配したり、それはけっこう骨であった。
敷地境界に植えてある桜など落葉樹から貯蔵所に吹き込んでくる枯葉は、毎週自分がひとりで掃除をした。これというのも自分が甲種を持っていたせいだと思うと、腹が立つと同時に涙が出た。
くだらないことを長々書いたが、仕事には実施する「責任」があり、責任があるからには命令する「権限」がなければならないということを、身をもって学んだということだ。そして結果責任と実施責任は違うことも学んだ。更に言えば私の言うことを聞いてくれないとき、つまり「権限」を認められていないなら、自らが行わなければならないのだ。なぜなら自分が責任者なら、問題が起きれば自分が刑事罰を受けるかもしれないということであり、それを避けるためには関係者にルールを守らせるという権限が必要だ。だがまわりがその権限を認めないということも多い。しかし高圧的であろうと、ひたすらお願いするにしても、最終的に自分がしなければならなくても、やることはやらねばならないのである。
私の「責任」を追及したエライサンを好きにはなれなかったが、彼の言うことはもっともだと思った。しかし感謝はしない。なぜなら経営者であったその人は、私に「責任」だけを負わせて「権限」も「リソース(資源)」も与えないのだから、「経営者の責任」を果たしていないではないか。

私が去って10年もたってから東日本大震災があった。幸い危険物貯蔵所は崩壊せず火災にもならなかった。震災後2年ほどたったとき田舎に帰った機会に敷地の外から工場をながめたが、危険物貯蔵所も屋外タンクも撤去され、更地になっていた。

会社いや組織で働く人は、法規制や倫理に反しない限り、その組織のルールを守り組織の利益に貢献しなければならないと私は考える。だって日本には職業選択の自由があるから、組織の目的やルールに納得できないならそこを去る自由がある。
あなたがISO認証を担当しているなら、認証においても組織の利益、効率、その他組織をよくするために最大限の努力をしなければならない。そしてISO認証のためとか審査で言われたからなどという理由で、組織の利益や効率を悪くしてはならない。それがあなたの「責任」である。
ISO9001でもISO14001でもその他のMSでも、審査で組織に無駄、無理を生じるようなおかしな指摘をされたり指導を受けたりしたとき、唯々諾々として従うのであれば、それは職務怠慢どころか責任放棄の背任行為であると私は考える。
一般的に就業規則では「故意又は重大な過失により会社に重大な損害を与えたとき懲戒に処す」と定めているはずです。
審査員が誤ったことを言ったとき、それを否定せずに従うことはこの規則に該当すると思われる。まして審査員の指示が法違反であったときは、
「会社内において刑法その他刑罰法規の各規定に違反する行為を行い、その犯罪事実が明らかとなったとき」にズバリあたる。

参考
刑法第247条 他人のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたときは、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
審査員の言に従って会社に無駄・損出を与えることが「損害を加える目的」にあたるかどうかは微妙だが、損害が生じると認識できるときはまっとうではないだろう。

50を過ぎて私は大手グループ企業で環境管理を指導監督する本社で働くようになった。そこでの私の仕事は、環境監査であった。環境監査といっても、ISOのバーチャルなオママゴト監査とは違う。私の仕事は、工場や関連会社が環境法規制を守っているか、リスク管理はしっかりしているかを見ることである。そして遵法上の問題やリスク把握や対応に問題があると、それを改善させる。万が一、違反や事故が起きれば、監査した者の責任を問われるのは当然だ。 真面目というよりも気が小さい私は問題を見逃してはならないと、目を皿のようにして法の順守状況を見たし、事故が起きないか、不具合が起きる心配がないかを神経質になるほど点検した。届出の書類はこれまた目を皿のようにして点検した。
当時、製造業の事業所はその大小に関わらず、ほとんどISO14001を認証していた。
私が不具合を見つけて問題だと提起すると、ISO審査では問題にされてないとか、著しい環境側面ではないと言われたことは一度や二度ではない、いやたびたびあった。遵法に問題があると私が判断したものを、「ISO審査員がOKしたのだから問題だと認めません、是正しません」と言われたこともたびたびあった。
はっきりいって工場や関連会社では、本社から環境監査に来た私よりも、ISO審査員の方を信頼していて、私の言うことよりも尊重したのだ。
そんなとき、あなたならどうする?
昔そんな歌があった。誰が歌った歌か知っているなら50歳以上だ。

私は黙っていなかった。当該の事業所には強権発動しても即是正を求めた。とはいえ、工場や関連会社を説得しようとはしなかった。その工場や関連会社を認証しているISO認証機関に文句を言いに行ったのだ。
「お宅ではこのような問題を見逃している。もし事故が起きたら御社も責任を問われますよ。ISO17021(以前はガイド66)に基づきすぐに臨時審査をしてください」
私は正論を語っていると思ったが、不思議なことに認証機関はそう考えなかったようだ。
「お前はどのような権利でそう言うのか」と問われたこともある。「ISO審査は認証機関と組織との契約であって、本社であろうと親会社であろうとそこに立ち入る隙はない」という。
冗談言うなと、本社あるいは親会社は最大の利害関係者ではないのか。正直言って、苦情を申し立てるとか公にするとか脅したことはない。私も企業人だから、穏やかに対応をお願いした。ただ相手が受け入れてくれるまで必死だった。
とはいえ、認証機関がすぐに臨時審査をしますなんていうはずがない。せいぜいが次回審査でしっかり見ますなんてのが関の山であった。そして次回審査でしっかり見てくれたと私が認めたのは、半分もない。

逆に遵法上問題がないのに、違法になるような指導をしたISO審査員も多い。当然であるが、私はそんな認証機関に文句を言いに行った。ところが面白いことに、というか全く面白くないのだが、そんな認証機関を指導しても、「ご指導ありがとうございました」とか、「報告書を改めます」とか、「すぐに法の解釈を審査員に徹底します」なんて言うところはない。どこでも、ああだこうだと言い逃れをして非を認めない。
某外資系認証機関の審査員が法の理解を間違っていたのを認めないので、そこの取締役に文句を言ったが「ああそうですか」と言っただけで具体的アクションをとるとは約束しなかった。自社は正しいと信じているのか、責任を取りたくないのか、言いがかりと思っていたのか?
認証機関には是正処置という言葉はないようだ
なお、問題があった認証機関はひとつふたつではない。
まあ反省と謝罪まではともかく、間違った判断、間違った指導、そして間違った思い込みは改めてもらわなければならない。私には認証機関を指導するという「権限」はないが、認証機関が間違った審査をしないようにさせる「責任」はあるだろう。
10年もそんなことをしてきたから、自分が体験した認証機関とのトラブルはものすごい数になる。だから日本のISO14001の審査はいかにろくでもないのかということを、私は身をもって知っている。認証機関の幹部がにこやかに「経営に寄与する審査をします」と語っている裏で、麾下れいかの審査員は経営に寄与するどころか、企業の遵法やリスク管理の足を引っ張る審査をしているのが実態だ。
ちょっと待てよ、ISO14001の意図は、遵法と汚染の予防ではなかったか?
疑問に思うのだが、審査員は法規制の知識や、リスクを判断できる経験がないのだろうか? それとも知識も経験もあるのだが、レベルが低い会社に厳しいことを言っても無理だと思って言わないのだろうか?
でもそれならば間違った判断はしないだろうけれど・・

「法規制の把握は毎年1回行わなければなりません」なんて審査員の話を聞いて感心して聞いているようでは、法違反を起こすとは言わないが、頭がおかしいことは間違いない。
法律の改正は国会開催期間しかないが、施行令や省規則、あるいは通知は常に改定がある。だから環境に限らず自分の仕事に関わる法規制について、常にアンテナを張りめぐらして情報収集に努めていなければならない。それだけではない、行政の出すガイドラインもあるし業界の自主規制もある。それらへの対応が年に一度とか定期的に調べれば間にあうわけではない。
工場や関連会社のISO対応の内部監査で不具合を見逃していても、私は内部監査を指摘した審査報告書を見たことがない。別にISOの内部監査ですべてを見なければならないというつもりはないが、仕組みに欠陥があるかどうかは見なければならない。そして審査で結果としての問題を見つければ、それが発生に至った仕組みの瑕疵を不適合にするのは当たり前であり、内部監査で見逃した仕組みの瑕疵を不適合にしなければ論理的におかしくないか?
ところで内部監査の見逃しを見つけるには、法規制やリスクについて知識やセンスがなければならない。というのは審査員が知っている法改正、事故のリスクというものを物差しにして現実を測り、もしその企業の認識と審査員の理解に齟齬があるならば、その齟齬、つまり法改正の見逃しとかリスクの認識漏れをそのまま問題にするのではなく、そういったことを見逃している仕組みを問題にするのがISO審査であるわけだ。つまり法規制も知らない、現場の管理も知らない、世の中の事故や法違反を知らなければISO審査員は務まらないのだ。その意味で規格項番から該当する事実を見る審査は明白な間違いである。事実を良く見て、規格を満たしているかどうかバックキャストする審査(プロセスアプローチ)でなければ審査も内部監査も意味がないのだ。ISO規格の内部監査の項目の文章をいくら読んでも暗記しても、内部監査の審査はできないのよ。もちろんISO審査もできるはずがない。

×

規格

→

現実

規格

←

現実


順守評価をしていなくても、審査で不適合にしていないのは珍しくない。思うのだが、審査員が順守評価というものを理解していないのではないかという気もする。
注:順守評価をしていないというのは、違法というのとは違う。
私が順守評価をしていない工場を見つけて、そこを認証している認証機関に行って「順守評価をしているかどうかしっかり見てくれないと困る」とお願いしたことがある。その工場も私に言われて翌年から順守評価を点検するようになったが、翌年のISO審査報告書には、ナント「今回から順守評価をしっかりするようになったのは良いことです」と書いてあった。その審査員の頭はどうなっているのだろうか?
私へのお礼の言葉がなかったから怒っているのではない。

ともかくそんなことをしていると、著しい環境側面を点数で決めるなんてのが、まったくの間違い、勘違い、うそ800のデタラメであることを体で理解する。あなただってそう思うでしょう?
「電力何kWhと廃棄物何トンが等しい点数です」
そんなことなんてありえない。私がいくら考えても、電力と廃棄物の換算係数は思いつかない。
電力について行政は排出係数というのを出しているが、原発や風力の違いだけでなく、石炭だって産地によって成分が異なる。最近は石炭に含まれる放射性物質が問題になっている。単にCO2発生量だけで実際の環境影響を比較できるわけがない。行政の出している排出係数は、温暖化への影響という特定の目的のための目安でしかない。
ましてや電力と廃棄物をどうやって比較するのだ?
いや点数で著しい環境側面を決めてはいけないとは言うまい。だが、いやしくも点数で評価するというなら、環境影響を調査して死亡率あるいは寿命が短くなる影響などをしっかりとデータをとったという裏付けがあるのだろうね? 例えば2点に配点したものは1点の倍だけ人間の寿命を短くする影響があることを、証拠でもって示さなければならない。
「環境側面は点数で評価しなければなりません」と得々とご高説を語った審査員は、そういうことについて研究でもされたのだろうか? まずそんなことはないだろう。少なくてもそういった点数の根拠を研究した論文を、私は見たことがない。
著しい環境側面とは、「管理しなければ手が後ろに回ったり、事故が起きて大騒ぎになるもの」と理解しなければ環境管理に携わってはいけないのだ。おっと、これはISO14001の定義そのものだね。
決して「何点以上は著しい環境側面です」なんてものではないのだ。
言っておく、点数法を考えた人や点数を付けて環境側面を決めている人は、環境管理をしたことがないのだ。あるいは環境管理を何年もしていますと語るなら、今まで事故が起きなかったことを神に感謝しなければならない。
そしてあなたが審査員で、点数で決めたものを見て「大変結構です」と語っているなら、即刻 審査員を止めてほしい。それが日本の環境遵法を良くすることであり、事故を無くすことであり、そしてあなたの自尊心のためだろう。

いろいろと考えると、ISO14001審査というものは、なかなか難しいということである。
著しい環境側面を決める方法が正しいか否かを判断するには、その組織が有する環境側面を十分に把握すること、そして著しいとした環境側面が確かにそうであると判断できなければ審査はできない。組織が出した環境側面一覧表と環境法規制一覧表を見て、適否を考えているようじゃ、オママゴトと言われても反論できまい。もっとも、適正な審査をする時間的余裕も知識も審査員が保有しているとは思えない。
環境側面は難しいけど、文書なら簡単というわけでもない。その組織の人のレベル、管理状態、業種業態、仕事の複雑さなどを考慮して、現在の文書化されている程度、文書の内容などが、その組織にとって適切なのか否かを判断しなければならない。
これはISO9001やISO14001に書いてあることそのままである。
すべてをマニュアルに書き切って下位文書を作らないのが良いとか、文書の階層は3つが良くて4つでは複雑すぎるなんて書いている書籍やウェブサイトを見かけるが、そんなことは簡単に言えるものではない。また手順書の守備範囲がどうとか、記載が概要だけだとか、反対に細かすぎるなんてことは、その会社の歴史、文化、従業員の質、従業員の定着状況、請負の状況、経営者の考えなどをよく理解して総合的に判断しなければならないことであり、事前資料を見たり数時間の現地審査で判断できるものではない。

内部監査の仕組みだって企業によって異なるはずだ。そもそもISO規格で語っているのは内部監査をしろと言うのではなく、実情を把握してそれを経営者に報告するシステムが必要だということである。ISO規格のタイトルが内部監査となっているけれど、そんな名前でなくても良いのは当然だ。会社によっては以前から別の名前とか方法でしているかもしれない。日常的に経営者自らが歩き回っていて、わざわざそんな行事を行うまでもないかもしれない。そういうことを審査員は理解しているのだろうか。正直言って理解していないように思う。

そして時間も力量も足らない審査パワーにおいて、組織の上っ面だけみることにいかほどの価値があるのか、意味があるのか? 認証した組織に問題があれば、審査のとき隠したのではないか、ウソをついたのではないかという発想することもおかしなことだ。だいたい認証した組織に不祥事があっても認証機関は何ら「責任」を負わないのだから、そんなことをいう「権利」はない。
責任と権利は裏表なのだから
本来なら、認証した組織に不具合があったなら、その組織は認証機関に対して、しっかりした審査をしていないことをもって損害賠償を請求すべきではないのだろうか? もし不祥事を起こした組織は恥ずかしくてそれができないなら、株主でも消費者でも一般社会でもよいが、認証した認証機関の責任を追及すべきだ。一般社会にしても認証機関にしても、組織に対して認証の責任を追及するのはおかしい。もちろん一般社会が不祥事を起こした組織に対して、管理や倫理上の責任を追及するのは当然ではあるが、ISO認証していたことを問題にするのは筋違いだ。認証したのは認証機関の責任だから。
そして認証機関が組織に対して責任を追及するのはありえない。それは認証機関の力量がないということに過ぎない。
人の絵
考えてごらんなさい
投資格付けが間違っていて投資家が損をしたとき、その会社の責任だと言いますか?
格付けを誤ったのは格付け会社の責任でしょう!
格付けの際に情報不足とか企業が嘘をついても、それは格付け会社の力量がなかっただけのことです。
ISO認証するのは認証機関の責任です。例え審査時に会社がうそをつこうと、それを見抜けなかった認証機関が未熟なだけです。
そういう観点から考えると、認証制度の設計そのものに欠陥があるのかも知れない。
それとも、そもそもそんな制度が成り立たないのかもしれない。だってなにも保証しないという免状を出すだけで、お金だけもらうというビジネスが社会に容認されるはずがないだろう?

繰り返して述べる。
ISO認証制度の人たちは、企業不祥事が起きているのは企業が悪い、認証制度は悪くないと語る。
確かに不祥事を起こしたのは企業であって、認証制度関係者ではない。
しかし、それを認証したのは認証制度であって、企業が認証したわけではない。騙されたのだと認証制度関係者は語るが、それは自分が馬鹿だったということにすぎない。
私は過去40年以上企業で働き、品質保証も環境管理もしてきた。認証制度の関係者がうれしそうに企業不祥事を語り、企業が悪いと批判するのを聞くと黙ってはいられない。
ところで企業不祥事って多いのか? 増えているのか?
そんなことさえ統計データで示したものを見たことがない。
要するに認証制度関係者の語ることは、全く信用できないのである。
マスコミによる内閣支持率とか政党支持率の世論調査とかアンケートというものが良く行われている。しかし、マスコミも不偏不党ではない。それで「マスコミ支持率」あるいは「マスコミ信頼率」の調査をしろと発言する人もいる。
同様に認証制度が企業不祥事を叩くなら、企業が認証制度の信頼性を問うのも当然だろう。

うそ800 本日の熱情
さあ、ここまで読んでいただければ、私がなぜISO審査の問題を糾弾し、まともな審査をしろと叫んでいるかを理解してくれただろうか?
私は企業の担当者を代表して、その名誉のために戦っているのである。

うそ800 本日の繰り言
ISO規格に基づいた審査をして遵法と汚染の予防に貢献しているなら、経営に寄与する審査というものをぜひとも頼みたいね、
でもさ、遵法も汚染の予防も分らない審査員に「経営に寄与する審査」と言われても、悪い冗談としか・・・



あらま様からお便りを頂きました(2014.04.14)
おぱQさま あらまです
おばQ様の苗字を漢字で書くと「小場」さまとは、初めて知りました。
長生きはするものですね ! ?
さて、文中の「責任と権利は裏表なのだから」。
確かにそれを感じます。
小生も「防火責任者」「車両管理者」という「名ばかり責任者」であり、それに相応した「権利」は戴いておりません。
さらに家庭では「主」ということになっていますが、実際には「従」であります。
ここでも名ばかりですが、家内に従っていれば問題ないことも事実。勿論、何の権限もございません。
ところで、ちょいと引っかかるのが「責任」と「権利」の関係。
「権利」の反語は「義務」と、学校では教えて戴いた記憶があります。
つまり「義務先行説」ですね。義務を果たすことによって権利を獲得する。
そこで、「責任」の反語を調べてみましたが、分かりませんでした。
そこで愚考した末、「奔放」だと思い至りました。
これはあくまでも、小生の「説」です。

そうしてもう一度、おばQさまの文章を読み直したところ、「なるほど」と思いました。
よく国会では、「任命責任」とか「任命権者」とかいう議題になり、それをもって大臣など辞任を迫る場面がありますが、確かに通常の会社ではあまり聞きませんね。
そうした自由奔放なところに「規律」を徹底させる。
これは、大変な仕事ですね。

あらま様 毎度ありがとうございます。
義務と権利とはどういう意味あるいは関係かというと、まず責任から行きます。
責任の意味は、刑事、民事、一般語として使われる場合によって異なるようです。
ここで一般的な用法で考えると、
義務は「しなければならないこと(作為義務)、してはならないこと(不作為義務)」と考えられ、実施責任と同義かと思われます。
結果責任は、義務違反あるいは義務ではない行為の結果によって生じたことへの制裁、ペナルティという意味になるかと思います。
企業といいますか組織においてはルールを守るとかタスクを果たすことに、responsibilityが使われ責任と訳されます。dutyは見たことがりません。
権利になりますが、上記で権利という語を使ったのは不適切であると思いました。権限が妥当と思いますが、これもちょっと違います。
権利はrightですからそのまま主張あるいは実行できる力ですが、権限は決定し実施する権能です。ただ普通組織論においては、権限がなくても実施責任があることになっており、この場合は「実施責任=実施権=responsibility」と解されます。
組織論など習ったのは35年も前のことで8割は忘れました。
あらま様は奔放を責任の反対語とおっしゃいましたが、奔放は上記の結果責任でないのはもちろん、実施責任でもなく、意味としての反対語は、自制とか束縛といった言葉ではないでしょうか?


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