ISOとはそもそも何なのか?

14.08.25
本日は過去に私のブログに書いたいくつかの文を再構成したものである。いやネタがなくなったから廃棄物の再生活用をしようというのではない。2015年改定が近づき、関係者の規格談義がさかんになってきた。露骨に言えばISO業界は久しぶりのモデルチェンジで売り上げが伸びるぞとはしゃいでいるようだ。
だがそういったこととは離れて、規格の意味、認証の意味、その存在意義はなにかということを改めて考えよと思う。
 以下、バイオレット色の文字は規格からの引用である。

ISO14001:2015DISの冒頭、序文の中に「環境マネジメントシステムの狙い」とあり、そこで「この国際規格の目的は、社会経済的ニーズとバランスをとりながら、環境を保護し、変化する環境状況に対応するために、体系的な枠組みを組織に提供することである。このため、この国際規格は、組織が次の事項を行うことによって環境パフォーマンスを向上することを可能にするような、環境マネジメントシステムの要求事項を規定している」とある。
一読すると書いてあることがもっともらしい気もするが、本当だろうか?
最大の疑問は、この規格要求事項を満たせば、環境パフォーマンスは向上するのだろうか、それは保証されるのか? 何らかの裏付けがあるのだろうか?
「俺は神だ、俺を信じろ」といっても私は信じることはできない。信じる者は救われるかもしれないが、私は考え悩んで地獄に堕ちた方が人間らしいと思う。

いったい「救われる」とはどんな意味なのか。イエスが言ったのは魂の救済であるならば、魂よりも胃袋、魂よりも精神の救済を望む人には救いではない。

人間は信じるだけの存在ではなく、考える葦なのだから。規格に書いてあることが、実証されているのか、あるいは理屈からそうなることが説明されているのだろうか? 私が読むかぎり、ISO規格にはそのような裏付けはないようだ。
確かに要求事項をながめると立派なことが書いてあるが、それが十分条件であるという保証もないし、必要条件であるという説明もない。規格を満たしても成果が保証されていないなら規格を満たす必要はなさそうだ。
となると、規格要求事項を満たすこと、規格適合であるということはどのような意味があり、価値があるのだろうか?
これはあまのじゃくな反論のための反論ではない。規格を満たしても成果が保証されていないなら余計な無駄はしないほうが良いと思わないだろうか? 最近は目につかないが、以前のISOは有効であること、更には効率的なものを追及していたはずだ。
まず、そこんところから検証が必要じゃないか!

ちょっと古い話だが、ACミランの本田圭佑が考えた「夢ノート」なるものがベストセラーだったことがある。「夢ノート」とはどんなものかというと、まず冒頭に目標(願い事)を書くページがあり、そこに自分が実現したいことを記入する。そして次から見開きが8等分になっていて、七つのマスに毎日何をしたか、何ができなかったかを1週間分記入する。最後のマス目には1週間の反省を書く。それを1年間続けると夢がかなうらしい。
かなりストイックな考え方であるが、ISO的アプローチであると思う。つまり PDCA

・自分の目標・・・ポリシー(方針)・オブジェクティブ(環境目的)
・週ごとの目標・・・ターゲット(時系列的目標値)
・日々の実施事項・・マネジメントプログラム(具体的実施事項)
・反省・・・・監視測定アンド是正処置

だが、それでものごとが実現できるわけではない。そこまでもISOと同じだというのは笑ってしまう。なぜなら、夢を達成するためには、そのような方法は必要条件でもなく十分条件でもない。サッカー選手になろうとしたなら、まず考えなければならないことは、自分の肉体、運動神経、サッカーのセンス、両親や先生、友人などの協力が得られるかどうかが出発点だ。虚弱体質とかド近眼とか親が医者にしようと考えていれば、プロになるのは難しいだろう。
つまりというか当たり前のことだが、夢を持ったら、リソース、つまり才能、肉体、向き不向き、財政、法的、まわりの協力・支援を得られるかなどを十分吟味しなければそもそも出発してはいけない。
私は何人ものスポーツ選手をみているわけではないが、アイススケートの本田武史と同じ街に住んでいたのでいろいろと彼の噂を聞いていた。お母上が本田少年を仙台や東京に連れていってレッスンを受けていたそうだ。郡山なんて田舎町ではコーチがいない。いやそれどころか、まともなスケートリンクもない。私の若いときは二つほどあったが、スケート人口が少ないのだからいつのまにかなくなった。ともかくまわりの支援がなければ、いくら本田少年が夢ノートをつけてもオリンピックには出られなかっただろう。

夢を持てば叶うのかと書いていて、思い出したことがある。垣根涼介の「人生教習所」という小説がある。その中で『努力しても報われるとは限らない。しかし努力すればするほど報われる可能性は高くなる』とある。
 「人生教習所」(2011)、中央公論新社、ISBN: 978-4120042775
そのとおりだと思う。勉強でも仕事でもスポーツでも、いくら努力しても成功するとは限らない。しかし努力しなければ成功する確率は低い。努力すれば成功する可能性を少しかも知れないが高めることができるだろう。だからこそ目標に向かって努力するのが人間だと思う。

ISO規格では経営者はリソースを確保しろという。そのリソースは成功を確実にするものなのだろうか? 頑張っても成功しないほどわずかなリソースではどうしようもないだろうが、いくらあっても絶対に成功するとは限らない。石にかじりついてもという言い回しがあるが、石にかじりつけば達成できるわけではない。
部下あるいは担当者は、与えられたリソースで計画を立てて頑張っても、そもそも目標を達成することは確率の問題だろう。成功しなかった場合、誰の責任なのか? 誰の責任でもないのだろうか? 確率の神様の責任なのだろうか?
ISO規格はそのへんがあいまいというか、逃げているのだ。そこから考えなければならない。

ISO規格に書いてあることを満たせば成功するのか?
いったいISOとはなんなのだ? そんなことはありえない。じゃあ、ISO規格を満たせば、規格を満たさないときよりも成功する可能性・確率は高くなるのか?
実を言って、それさえも誰も確かめていない。規格を作った人は検証していないだろう。常識的に考えて、そうだろうと思っただけではないのだろうか? 環境目的をもって改善に努めよとあるが、改善を進めることは、絶対の善なのか? 組織の置かれた立場においては何もしないほうが善ということもあるかもしれない。リソースを確保せよとあっても確保できないかもしれない。とするとISO規格は豊かな組織における活動事例(お遊び)なのか?
PDCAという考えはISOオリジナルではないが、その管理をすれば成功するというわけではない。
前出の「人生教習所」でも、スポーツでスランプになったとき、ひたすら練習するのではなく、問題が起きたいきさつや練習法をいろいろ考えるべきだということを書いているが、そうすればスランプを脱することができるわけではない。その本では、そういうアプローチをとれば、スランプを脱する可能性が高まるのだと書いている。何事も絶対はない。絶対はないけれど人は努力しなければならないということだ。それはもはや管理法ではなく、人生観といえるだろう。

じゃあ、ISO規格を満たせという要求はいかなる意味があるのか?
どうも根本的にその辺を議論すべきではないかという気がする。そしてその結論がはっきりしなければ、認証は棚上げ、いや規格要求を満たすことも棚上げすべきではないのか。
そしてぜひとも、企業不祥事がISO規格を活用していないからだとか、企業が嘘をついたからだというような寝言を語っている輩に、その主張の根拠、論理をお聞きしたいものである。ISO規格を満たせば企業不祥事が起きないことを説明してもらおう。
JABの語った論理、飯塚教授の語ったこと、そういうことに私は大いに異議があるのだ。
同時に、企業不祥事がいかほど増えているかということをデータで示してもらおうじゃないか。

いや、ISOとは成功することが保証されているときに、それを実現する方法なのだろうか?
誰がやっても成功する場合において、手間ひまをかけないアプローチであるというなら、そんな気もする。
そもそもISO9001とは品質マネジメントシステムではなく、品質保証の規格であった。品質保証とは、「こうすればうまくいく」ということが分っているときに、そのうまくいくという条件を確実に維持することを、客に約束することである。だから元々のISOに開発はない。開発は規格の埒外、開発とか創造というカテゴリーは標準化できない。しかし企業は枯れた製品を作り続ければ良いわけではない。常に新しいことにチャレンジしていかなければ明日はない。そういうものまでISOの標準化ができるのかというのは疑問である。だってノーベル賞級発明発見マネジメントシステムとかブレークスルーマネジメントシステムなんてものが標準化できると思うか? 個人的にはできないだろうと思う。

ISO9001もISO14001でも、関係者はできもしないことを宣伝するのを止めたらどうか?
ISO9001で会社を良くしようと騙るのではなく、ISO9001で一定品質のものを作れるようにしようとか、ISO14001で環境を改善しようと騙るのではなく、ISO14001で遵法をしっかりしようとか、過去に起きた事故は二度と起こさない体制を作ろうというべきだと思う。それが元々の規格の狙いであり、価値があることなのだから。
そしてできもしないことをできると嘘をつくことは意味がないどころか犯罪だ。ISOで会社を良くすると騙ることは詐欺かもしれない。

結局、ISOを信じるか否かは宗教と類似なのである。つまり信じる科学的根拠はなく、単に信じるから信頼するのであり、そのその効果を信じるだけなのだ。ISOとはアヘンであったのか?
確実を望むなら、いや多少なりとも論理的な人なら、ISOを信じることなく、常識を基に考えて対策するということになるのではないだろうか?
「そもそも」なんて言っちゃいけないらしいが、そもそもISO9001は品質保証の規格として生まれた。品質保証とはお客様とどのような生産管理をするかの約束である。30年前、世の中に品質保証協定はあまたあり、それによって商取引が面倒なことになっていたという状況がある。だから品質保証協定の国際標準化を図り商取引を円滑にしようという発想は間違っていないと思う。そこには会社を良くしようとか、品質保証協定以上のものにしようという発想もなかった。しかし、いつしかISO9001は会社を良くするとか、経営の規格なんて呼ぶ人が現れた。
なにを主張しようと憲法21条で保証するところであり勝手なのだが、その裏付けとして証拠の提示を求めたい。ねえ、飯塚先生!

うそ800 とりあえずの結論
ISO14001に適合した「仕組み」あるいは「仕組みが規格適合しているという認証」は、商取引において「品質保証」としての意味はあるだろう。ここで「品質保証」とは、「製品サービスを提供するものがそのプロセスを確実に実行するという狭義の品質保証」ではなく、ISO14001でも情報セキュリティその他のシステムなどでもよいが「顧客(利害関係者)に対して約束を守るという広義の品質保証」である。そのとき要求事項を満たしたことによってパフォーマンスが向上しようとしまいと、契約条項であるから守る意味はある。それだけだ。
企業において仕事をするにはすべて目的がある。
規格適合すればどのようなご利益があるのか? なにもないのではないか?
規格序文には1996年版から変わらない「二つの組織が、同様の活動を行っていながら、それぞれの順守義務、環境方針のコミットメント、用いる環境技術及び環境パフォーマンスの目標点が異なっている場合であっても、共にこの国際規格の要求事項に適合することがあり得る」というエクスキューズがある。私はそれを否定しないが、それはとりもなおさず、この規格は完璧ではないという意味であり、この要求事項全部を満たすか否かは組織の勝手、順法と汚染の予防は組織の責任であるということだろう。
結局、ISO認証の効用とは、認証ビジネス(金儲け)以外にはなにもなさそうだ。
とすると、2015年規格改定はいかなる意味があるのか? 元々が何ら保証をしていないものの文言を変えたところで何も変わるはずがない。車のモデルチェンジどころか、カンフル剤を打って売り上げを上げようとマイナーチェンジをしようかという程度ではないのか?



いつもとおりすがり様からお便りを頂きました(2014.09.29)
いつもお世話になっています。
こちらの画期的な取り組みを、ご存知でしょうか。
JABが「ISOマネジメントシステム有効活用表彰」制度を開始
http://www.jab.or.jp/news/2014/092500.html


いつもとおりすがり様、お便りありがとうございます。
えええええ!
なんと、なんと、評価項目がすごすぎます〜
 A 販路・取引の拡大
 B 取引先管理の効率化
 C 製品品質の向上
 D 環境パフォーマンスの向上
 E 社員のモチベーション向上
 F 外部評価
もはやこれは・・・・
と絶句していてはいけません。
ISO9001もISO14001も、マネジメントシステム規格ではなく、マネジメントパフォーマンス向上規格となったようです。
それにしても、JABがこんなことをいうからにはパフォーマンス向上に絶対の自信があるのでしょうね!
あるいは、なくても、こう言いださないとだめなほど追いつめられてしまったのでしょうか?
応募してきた会社があるなら、私はそれがISO規格とかISO認証によるものか、それ以外の要因によるものか、十分吟味したいと思います。
おっと、私が評価員を頼まれるってことはありませんよね、キッパリ


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