背景の背景

14.10.27
一部修正 16.02.14
これは初めにISO14001:2015のDISを基に2014/10/27に書いたものである。
2016/2/14(バレンタインデーだ)読み返したらDISとホンチャンでは言い回しが変わったのに気が付いた。内容は概ね正規版でも通用すると考えたが、規格引用文はDISから正規の文言に替えた。
ISO9001:2015とISO14001:2015のDIS入手してから、ヒマがあると読んでいる。小説とは違った面白さがある。矛盾を見つけるというか、おかしなところがないかと思って読むというか、チェックしているという感じだ。そんなふうに気をつけて読んでいると、おかしいなあ〜とかちょっと待てよというところがたくさんある。これからそういったことについて書いていきたい。
私の意見にいろいろな反論、コメント、あるいはご教示をいただけると幸いです。

では本日はISO14001のはじめのはじめ、序文の「背景」について・・・・

将来の世代の人々が自らのニーズを満たす能力を損なうことなく、現在の世代のニーズを満たすために、環境、社会及び経済のバランスを実現することが不可欠であると考えられている。到達点としての持続可能な開発は、持続可能性のこの”三本柱”のバランスをとることによって達成される。
厳格化が進む法律、汚染による環境への負荷の増大、資源の非効率な使用、不適切な廃棄物管理、気候変動、生態系の劣化及び生物多様性の喪失に伴い、持続可能な開発、透明性及び説明責任に対する社会の期待は高まっている。
こうしたことから、組織は、持続可能性の”環境の柱”に寄与することを目指して、環境マネジメントシステムを実施することによって環境マネジメントのための体系的なアプローチを採用するようになってきている。
(ISO14001:2015より)

初期の時点ではDISの下記文言を引用していた。
0.1背景
将来の世代の人々が自らのニーズを満たす能力を損なうことなく、現在の世代のニーズを満たすために地球規模のシステムの中で環境的、社会的及び経済的なサブシステム間のバランスを達成することが不可欠であると考えられている。この持続可能性の"三本柱"の概念は、持続可能な発展の目標である。
 (中略)
こうしたことから、組織は、持続可能性の"環境的な柱"に寄与することを目指して、環境マネジメントシステムを実施することによって、環境マネジメントシステムのための体系的なアプローチを採用するようになってきている。
(ISO14001:2015DISより)

疑問が多々あるが、発散するのを防ぐために本日は一つに絞る。ひとつといってもその疑問は大きく深い。
そもそも持続可能性とはなんなのだろう?
ブルントラントが親玉になった委員会の報告では「将来世代のニーズを満たす可能性を損なうことなく、現在の世代のニーズを満足させるような開発」なんだそうだ。とりあえずそれを採用する。ちなみに日本の法律では持続可能性という言葉は使われておらず、当然定義もされていない。

では最初に確認しておかなければならないことは、「将来の世代のためにリソースを残し、現在の世代も満足させる開発」が存在可能であるかということだ。
この命題が論理学でいう「真」なのか?
 「真」であるというなら、どのように証明されたのか?
そして次にそれは「実現可能」なのか?
 「実現可能」ならその証明を知りたい。
「不可欠であると考えられている」なんてサラッと言っているが、誰がそう考えているのだろう? 日本文では主語がない。
英語原文でも主語ははっきりしない。
Achieving a balance between environmental, social and economic sub-systems within the global system is considered essential in order to meet the needs of the present without vompromising the ability of future generations to meet their needs.
一般社会あるいはすべての人類がそう考えているとでもいうのだろうか?
 少なくても私はそうは考えていないよ。

まずこれをはっきりさせないと次に進めないし、ISO14001規格を読む気にもならない。いや読む必要もない。読む価値がないということになるだろう。だって「真」であることを積み上げた論理でなければ考えるまでないじゃないか。

ちなみに2004年版の序文においては持続可能という語は一度だけでてくるが、
組織のこのような対応は,厳しさを増す法規制,環境保全を促進する経済的政策及びその他の対策の開発,並びに環境問題及び持続可能な開発に対する利害関係者の関心の高まりを背景としている。
(ISO14001:2004より)
とあり、規格ができた背景において持続可能についての関心が高まっていると述べているだけだ。まあ逃げというか無責任とも思えるが、ISO14001そのものがリオ会議で要請されたといういきさつからして、事実であることは事実だ。
これに対して2015年版DISでは、ISO14001は持続可能性を目指すためのツールであると語っている。ここは大きな違いではないですか?

いや、いちゃもんをつけているのではない。もし「持続可能性」というものが存在できないものであるなら(その可能性はかなり大きいと思っている)、現代の人が将来の子孫を考慮せずに現在の生活水準を最高の状態にしようとすることを否定できない。サポーズ、第三世界や中国の人たちが、西欧や日本の生活をみて、自分たちもその生活水準になりたいと考えることは結果として、将来の子孫を考慮せずに現在の生活水準を最高の状態にしようとすることである。そういう発想を否定できないし、現実にそう考えて行動している。

ISO規格を作った人たち(まだDISだが実質的にはもうこれで決まりだろう)は、「将来世代のニーズを満たす可能性を損なうことなく、現在の世代のニーズを満足させるような開発」が存在可能であると考えてISO14001:2015を書いたのは間違いない。間違いだというなら序文の冒頭にそんなことを書くはずがない。

今現在は持続可能性というものが存在していないというか、そういう状態でないことは事実のようだが、ではそれを実現することが可能かどうかってことも当然議論の対象である。
ナチュラル・ステップが語るフレームワークもご立派ですが、それを実行したとき実現可能かどうか証明されていない。いや、彼らの語る方法が実行可能かどうかさえ不明なのである。
いや、待ってくれ、彼らの語る方法で持続可能になるという証明を見ていないのだが?
あいまいを敵にしては神々の戦いもむなしく、ましてや人間がなにかをなしえるはずがない。

この「背景」があってもなくても、ISO規格の存在意義とは関係ないとおっしゃることなかれ、
中国の大気汚染は中国国内だけでなく韓国や日本にとって重大な問題であるが、それをどうするのかということは持続可能性と関わってくる。持続可能性というものが存在可能でありその実現に努力しなければならないというなら、中国の大気汚染対策は重要課題である。しかし持続可能性はありえない。そして今更自然を復旧させることは不可能であるという結論なら、環境や安全・安心を無視した中国の爆走を止めることは必要ないようにも思える。少なくても西欧や日本の生活を目指す中国人に、環境配慮や自然保護に努めろという論理は通用しないように思う。
ISO14001の意図するところは遵法と汚染の予防である。そらなら極論すると、ケンシロウの住む世界では遵法も汚染の予防も無縁であり、ISO14001は無関係と言えないか。

いや、それでもISO14001は存在する意義があるかもしれない。確かに普通の状況下にあれば、遵法は社会生活の最低基準であり、お互いの摩擦を防止する。また汚染の予防は将来の安全の最低条件であろう。だから人間が社会活動を行う上でISO14001の要求事項は価値があるのだという考えもあるかもしれない。
しかしそのときは「shall」でなくて「should」となるような気がするのだが・・・

つまらないことに拘るなと言われるかもしれない。
しかしここに拘らなければISO14001は無意味である。
まあ、時間はたっぷりある。時が経てばまた新しい考えが沸いてくるかもしれない。

うそ800 本日の教訓
規格は4章から読むのではなく、序文からよく読みましょう。
そして、序文がおかしかったら、それ以降の本文も眉に唾をつけて読まなくてはなりません。



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