マネジメントシステム物語26 タイに調査に行く

14.01.15
マネジメントシステム物語とは
川田と伊東は、成田空港でタイ行きユナイテッド航空に乗り込んだ。関連会社部の増田さんは同じ飛行機に乗っているはずだが、乗る前に会うことができなかった。まあ心配はないだろう。
飛行機は成田を夕方に飛び立ち、夕日を追いかけるように飛ぶ。右手前方に夕焼けが長い間ずっと続く。地上では夕焼けは数分で終わってしまうが、南西に向かって高速で移動しているので夕焼けを追いかける形になる。ちなみにアメリカの高速偵察機SR71は夕焼けを追い越したという。ということは西から日が昇るということだ。
真夜中にタイのドンムアン空港に着く。飛行機を降りるとムッと香辛料の香りがした。その香りに耐えられずに、そのまま飛行機に戻って帰国したという逸話さえあると後で聞いた。とにかく強烈な香りというか臭いである。
出入国管理と税関を通り、大勢の迎えの人がいるところで二人は立ち止まり、顔を知らない増田さんを待つ。どんどんと人が通り過ぎ、それぞれ迎えの人が寄ってきて談笑しながら歩み去っていく。川田と伊東は少し心配そうな顔をして立ち続けた。
伊東
「川田取締役は、海外は慣れているんでしょう」
川田取締役
「いやいや、実を言って海外旅行は一度しか行ったことがありません。2年前に高校に入った娘が、ご褒美にオーストラリアに行きたいっていうんで、二人で行ったことがあるだけですよ」
伊東
「ほう、高校合格で海外旅行のご褒美ですか。豪勢ですね」
川田取締役
「とんでもない、娘はちゃっかりしていましてね、私立に入ったら3年間で公立より数十万余分にかかる。だから、公立に合格して節約したお金で連れて行けというのですよ、参りましたね」
伊東は川田の話を聞いて、ほほえましく感じた。
注:1990年頃、福島県ではレベルの高いのは公立の進学校で、私立は公立の進学校を落ちた人が行くところだった。

二人がそんなことを話していると、とうとう通り過ぎる人がいなくなってしまった。二人が心細くなったときに最後の二人連れがやって来た。その一人が話しかけてきた。
増田
「オロチの川田さんですか?」
川田取締役
「ハイ、川田です。増田様ですか?」
増田
「そうです。ジャンボですから何百人も降りますので、間違えなく会えると思って最後に出て来ました。お二人お揃いですか?」
川田取締役
「はい、こちらが伊東です。慣れないもので増田様のお姿が見えず心配していました」
増田
「こちらはサルタヒコ成型の及川部長です。ここではなんですから、とりあえずホテルに行ってからとしましょう。普通ですと訪問先の車が迎えに来てくれるのですが、今日は工場でトラブルがあったとかで、迎えがありません。リムジンで行きましょう」
増田はタイに何度も来ているようだ。
建物を出るとタクシーが並んでいる。
増田
「ここではメーターのあるタクシーとないタクシーがありましてね、乗るときはメーターのあるタクシーに乗りなさい。ぼられるからね。こういうところからはタクシーでなくリムジンで行った方が安心です。リムジンといっても日本とはレベルが違いますが」
タクシー乗り場を超えてベンツが並んでいるところに行く。ベンツといってもかなり古いもので、ボディにはサビが浮いている。増田は一番前の車のドアを開けて運転手にトランクを開けさせた。4人は荷物をトランクに入れる。そして乗り込む。
増田が地図を見せて、英語なのかタイ語なのか日本語なのか、ホテルの名前と何か言う。車は走りだした。
増田
マーチだってベンツだ
当時はどんな車にもベンツの
エンブレムがついていた。
今はどうなんだろう?
「この車はボディはベンツですが、エンジンはたぶんトヨタで、その他の部品はその他もろもろでしょう。
ところで、タイではどんな車でもフロントグリルにベンツのエンブレムを付けるんですよ。アハハハハ」

車は高速道路に入りかなり飛ばす。
増田
「バンコクの街まで25キロくらいですから、30分もあればホテルに着きます。実は明日訪問する予定の工場で、先ほど言ったように生産上のトラブルがあって、みなさんのお相手ができないというのです。
私も明日は現地事務所で会議がありましてね、申し訳ないのですがお三方でバンコクの休日を楽しんでいただけないですか」
川田取締役
「あのう、正直言いまして、我々二人は、こちらは初めてなんですよ。右も左もわかりません。なにをしたら良いか、アドバイスありませんか?」
及川
「私もタイが初めてどころか、海外が初めてでして、まさかホテルに一日いるわけにもいかないですね」
増田
「タイはスリ、泥棒は多いですが、殺人や傷害事件はまずありません。大通りを歩いている分には大丈夫ですよ。これから行くホテルはスクンビットという地域にありまして、日本人街のようなところですからご安心ください」

やがてホテルに着き、チェックインした後にロビーで話をする。
増田
「今晩は遅いのであまりご説明できませんが、明後日の朝6時にここ集合でお願いします」
及川
「6時とはまた早いですね」
増田
「工場まで順調に行って1時間はかかります。実際には、途中事故や渋滞にあうことも珍しくないので、8時始業に間に合うにはそれくらいになります。
なお会社のワゴンで行くのですが、この近くに住んでいる出向者たちと乗合でいきます」
及川
「集合時間までに朝食をとっておくのですね」
増田
「そうです。朝はホテルのレストランしかありません。近くのレストランはその時刻には開いていません。ホテルのレストランの値段は、日本やアメリカと同じです。日本円にして1000円以上かかります。
そうそう、明日はこの近くを歩けば時間つぶしになります。近隣の地図はですね、出向者が書いたものをコピーしておきましたから」
そう言って、みなにA4サイズの手書きの地図を渡す。ホテルを中心に主要な店や公園などが書いてある。
増田
「歩いて5分以内でもけっこういろいろあって時間つぶしになりますよ。それから道路を横切るときは注意してくださいね。信号がありません」
三人は顔を見合わせた。
ともかく三人は明日の朝、8時過ぎにロビーで会おうという約束をしてそれぞれの部屋に入った。


川田は8時少し前に目が覚めた。これはいかんとすぐに起きて、顔を洗いヒゲをそってドアを開けた。川田が部屋を出ると、ちょうど及川も部屋から現れたところだった。
二人が15分ほど遅刻してロビーに着くと、伊東がソファに座って日本の新聞を読んでいた。後で知ったのだが、タイでは日本の朝刊がその日の朝に読めるのだ。
川田取締役
「伊東さん、遅くなってすまなかった」
伊東
「いえいえ、お気づかいなく。昨夜、いやもう日にちが変わってましたから今日でしたね、遅かったから寝不足じゃないですか。私はちょっとホテルの周りを歩いてきました」
及川
「どんな様子ですか。私は外国に来たのは初めてで緊張してます」
伊東
「私も初めてですよ。朝とはいえ、ホテルを出た瞬間、暑さでムッとしますよ。歩きたくなくなります。それとすえたようなというか、ちょっと我慢できない臭いが充満してますね。これに慣れないとここでは生きていけないようです。
おっと、この地図は結構役に立ちますよ」
川田取締役
「さて、どうしょうか?」
伊東
「まず朝飯を食べながら今日のことを考えませんか」
及川
「賛成です。レストランに行きましょう」
三人はもう人影のなくなったレストランに行く。
朝飯はどこでも同じだ。フルーツジュース、ベーコン、たまご、クロワッサン、サラダそんなものを取ってきて食べる。
食べながら話す。
伊東
「道路を渡って4・5分のところに、フジスーパーという小さなスーパーマーケットがある。そのまわりに日本料理やラーメン屋、薬屋、本屋などが並んでいるところが日本人の生活の中心地らしい。
道路のこちら側の路地を1・2分歩いたところにラーメン屋が二つある。もっとも今の時間はまだ開いてませんでした。それから道路に沿って歩いて数分のところに大きな公園もある。先ほどそこを見てきました。まあ、その辺を歩けば、暇つぶしにはなるでしょう」
及川
「デパートとかはありますか?」
伊東
「地図をみるとこの辺にはないようです。バンコクの中心に行くと伊勢丹や大丸などがあると案内に書いてありました。でもタクシーで行くしかないでしょうね。2キロ以上あるでしょうから」
川田取締役
「まったくバンコクで観光するなんて考えていなかったから、どうしたものか」
伊東
「いや、やることはたくさんありますよ。まず及川さんと明日の相談をしなければ。お互いの状況説明、何を調査するかなどの意見交換、会社の方針も聞きたいですね」
川田は伊東の言葉を聞いて、顔を赤くした。本当の休日ではないのだ。
川田取締役
「いや、まさしくその通りだ」
及川
「まあ、時間はありますから、朝食を食べたらその公園を散歩でもしませんか」
川田取締役
「そうしましょう」
朝食を食べると三人はそのまま外に出た。伊東が言ったように暑い。日陰を探しながら歩く。
伊東
「歩道を歩けば車の危険はないと思うでしょうけど、路面に敷き詰めた敷石が落ち込んでいたり、なくなっているところが多いでしょう。足元に気を付けてくださいよ」
及川
「なるほど日本のように前を向いて歩いていては危ないですね。なぜこんなふうに崩れてしまうのだろう」
伊東
「ここは海抜が低くて地下水位が高く、水が下の土をえぐってしまうからでしょう。マンホールがあったらその上を歩かないようにした方が良いですよ」
及川
「伊東さんは詳しいけど、来たことがあるのですか?」
伊東
「いや、実を言って朝散歩していて敷石のないところで躓いて数回、転んだのです。周りを歩いている人に笑われました」
ホテルを出て数分歩くと大きな公園がある。
及川
「クィーンズパークと書いてある。女王公園?」
川田取締役
「ここに由来が書いてあります。王妃が還暦のときに記念に作ったと書いてあります」
及川
「なるほど、誰でも入ってよいのだろうか?」
伊東
「いいようですよ。入場料も取らないようです。私は今朝入りました」
三人は中に入り日陰にあったベンチを見つけて座る。
伊東
「早速ですが、及川さんのところでは、いつ頃どのくらいの規模でこちらに工場を作るつもりなのでしょうか?」
及川
「正直言ってまだ計画まで至っていません。ウチの仕事の8割は素戔嗚向けで、その半分がタイ生産になると、ウチは従業員が100人程度ですから、40人かそれ以上仕事が減る。おおごとです。こちらに進出して会社として仕事量を確保しても従業員は解雇するようになってしまいます。まだ社内には何も言っていませんがどうなることか。
それにこちらで単独で工場を建てるというのは難しそうですね。法規制のこともありますし、インフラが不十分なので自前で揃えるとなると、とてもハードルが高いです」
伊東
素戔嗚すさのおの工場の中で仕事するということは考えていないのでしょうか?」
及川
「会社が違いますので、こちらでは従業員の管理上難しいようです。日本のようにいろいろな会社が混在して仕事するのは問題になりそうですね。組合ももちろんそれぞれにあるわけで、労働慣行も日本と違うようです」
伊東
「そういう形態の運用がないかと期待しているのですが」
及川
「ウチもそうなのです。せめて建物、そして水や電気などインフラだけでも親会社が支援してくれないかと期待しているのですが」
川田は二人の話を聞いていた。明日から見学する工場の状況が、どのようなものか見当もつかない。

太陽が動いてベンチに直射日光に当たるようになった。
伊東
「日が当たるようになりましたね。もう動き出せということでしょう。それじゃちょっと近くを歩きましょう」
伊東は先になって歩く。
川田取締役
「伊東さんはもうこの辺はだいぶ歩いたのですか?」
伊東
「それほどではありませんよ。道路を渡るのが怖いですね。こちらの人が道路を渡るのを見ていましたが、なるべく大勢で渡ったほうが運転手がこちらに気を付けてくれます。それから一度に渡りきるのではなく、1車線ずつ渡るようにするのです」
川田取締役
「おいおい、そうすると白線の上で立ち止まるのかい? 前後を車が走っていくんじゃ怖いな」
伊東
「まったくです。なにしろこの道路、スクンビット通りといいましたっけ、信号機がありません。歩道橋もないし」
三人はおっかなびっくり道路を渡った。

私が最初に行ったとき、クィーンズパーク付近には、歩道橋もなく信号機もなかった。私は怖くて一人では横断できず、地元の人が横断するときに一緒に付いて行った。
その後何度も行くうちにクィーンズパークの前に歩道橋ができた。そのときは本当にホッとした。もっとも地元の人は歩道橋を歩かずに、車道を横切っていた。彼らは階段を登るような汗をかくことは大嫌いだ。
更に何年か経って家内と観光旅行に行ったときには、道路の上をモノレールが走り、道路の両方の歩道からモノレール駅までの階段ができて、歩道橋は撤去されていた。


三人は大通りから細い横道に入る。すえた臭いがきつくなった。フジスーパーを見つけた。三人は店に入る。
伊東
「多くの日本人はここで買い物をするらしいです」
及川
「なるほど日用品はここでそろうようだ。出向したらこういうところで日本のものを買うわけか」
川田が見回すと客の相当数が日本人らしい。今日は平日だから小さな子供を連れた女性が多い。もっとも家族で赴任している多くは、アヤさんと呼ぶお手伝いさんを雇って、家事一切をしてもらっているらしい。だから奥様が買い物をするのは、食料品や日用品ではなく個人的なものなのだろう。
川田取締役
「伊東さんはここで単身で暮らしていく自信がありますか?」
伊東
「川田さんがもう2年近く単身で頑張っているのですから、できないとは言えないでしょう」
川田取締役
「そういや、佐田君も最近単身赴任が大変なようだな」
伊東
「ほう、知りませんでした」
川田取締役
「この前の朝、星山専務が佐田君に先行きどうなるのかと問い詰められていた」
伊東
「彼は出向から戻りたいのでしょうか?」
川田取締役
「そういうことではなく、子供さんとの時間がほしいというこのようだ。奥さんが参っているらしい。だから今後も出向が続くなら、家族を呼びたいと言っていた」
伊東
「なるほどなあ、川田取締役もこちらに出向となると毎週帰るわけにはいきませんから、考えないといけませんね」
及川
「私の方も同じような問題がありましてね。誰もこちらに来たくないのですよ」
川田取締役
「海外赴任というと、傍から見ればかっこよいかもしれないけど、実際に自分の身になると大変ですよね」
伊東
「おい、ジャパニーズレストランがあるぞ、昼飯を食べませんか」
三人はフジスーパーの向かいの店に入る。レストランとは書いてあるが、入ってみるとグレードは大衆食堂だ。三人はメニューを見て議論したが、最終的にタイのビールと飯を頼んだ。川田はメニューを見てニンニクライスというのを頼んだ。
及川
「昼飯でビールを飲むなんて申し訳ないですね」
川田取締役
「そんなに気を使うことありませんよ。悩みごとが多いですから少し息抜きしないと。明日から大変です」
伊東は川田がだんだんと変わってきたなと思う。自意識過剰で上昇志向の塊だった川田が、周りに合わせて楽しくやっていこうと気を使うようになったと感心する。
飯を食うとまたクィーンパークに戻り、何を調べるべきか、何をヒアリングするか議論する。まわりには大勢の欧米人も日本人もタイ人もいて、散歩したり子供を遊ばせたりしていている。真面目な顔で議論している三人組を変な目で見ていた。


翌朝、川田は寝坊しないよう目覚ましをセットした。しかし目覚ましがなる前、5時くらいに目が覚めた。まだ日本の時間感覚なので時差の分早く目が覚めるのだ。着替えてレストランで朝飯を食う。ロビーに行くと既に伊東と及川と増田氏がいた。
川田取締役
「おはようございます。今日も遅刻してしまいましたか」
増田
「いや、そんなことありません。このホテルに泊まっている出張者が他に2名、それからこの近くのマンションというか長期滞在ホテルというのでしょうか、そういうところに住んでいる出向者4名、合わせて10名が1台のワゴンで工場まで行きます。 あ、来たようですよ」
増田氏は他の出張者の顔を知っていたようだ。みなが揃うとホテルの車寄せに行って、ホテルの係に何か言った。すると地下の駐車場からワゴンが一台現れた。みなぞろぞろ乗り込む。
ワゴンは走りだし、数分してまた停まる。そこは古びてはいるがけっこう立派な建物である。ここが長期滞在者用のホテルという。ベッドメーキングがついて、早朝も夜間も営業しているレストランがある。出向者はここに部屋を借りて住むらしい。着替え程度を持って来れば、他に何もいらずに暮らしていけるという。後で聞くとフィットネスクラブやプールもあるという。単身赴任した場合は、こんなところに住むのが普通らしい。もちろんもっと立派なマンションを借りてもいいだろうし、安いアパートもあるだろうが、ある程度セキュリティがしっかりしていることと、レストランがあること、そしてお値段を考えるとこのあたりが相場なのだろう。
会社の制服と思しきものを着た4人が乗り込むとワゴンは走り出す。出勤時間なので道路の混雑はハンパではない。出向者はすぐに居眠りを始めた。出張者は興味津々で窓から外を眺めている。

バンコクの街を出るまでが一苦労だ。なんとか雑踏を抜けて高速に乗ると、車は東に向かって飛ばす。道路は広くまっすぐだが、路面はかなり波打っておりこまかい凸凹もあり、揺れはひどい。そこを時速100キロくらいで車間距離も取らずに走る。川田と伊東は事故が起きるんじゃないかと顔を見合わせた。それを気にせずに居眠りできるのは慣れなのだろう。
道路脇には幅20メートルくらい、高さ10メートルくらいのとてつもない大きさの看板がたくさんある。タイの文字は読めないが、看板の絵を見ればなんの広告か分る。銀行、クレジットカード、車、不動産、洗剤、その他もろもろ、どこでも同じだ。看板の鉄骨は細くきゃしゃな作りだから台風が来れば全部倒壊してしまうだろう。ここは台風などないのだろうかと、伊東は考える。
増田が左方向を指さしていう。
増田
「昨日来た空港はバンコクから遠く不便なので、こちらに大きな空港を作る計画があるのです。まあ、タイのことですからできるのが何年先か分りませんがね」
及川が同じ方向を指さして聞く。
及川
「建物の脇にあるあの大きなキノコのようなものはなんですか?」
増田
「水タンクです。井戸から揚げた水を溜めておくのです。こちらは水道も電気もインフラがイマイチですからねえ」
川田取締役
「道路の反対側に行きたいときはどうするのでしょう?」
増田
「中央分離帯がありますから、右折できません。ところどころに、数キロごとでしょうか、Uターンできるところがあります。目的地を通り過ぎて次のUターンできるところで方向を変えてとなるわけです」
川田取締役
「ほう、大変ですね」
及川
「バスが多いですが、これは通勤者ですか?」
増田
「そうです。ほとんどが各会社で契約しているものです」
突然、ゴトンといって車がはずみ、みな座席から飛び上がった」
増田
「ハハハハ、驚いたでしょう。こちらは地盤沈下が激しくてね。ここはデルタで小川がいくつもあるのです。橋は沈下しないように作ってあるのですが、道路は地面と一緒に沈下しますので、年月が経つと橋が段々高くなって通過するたびにあんなふうになるのです」
道路脇にコンクリートで作られた3方と屋根がコンクリートで作られた小屋もどきがある。
川田は指をさして増田に聞く。
増田
「バス停です。そばに屋台が見えるでしょう。こちらの人は家で炊事をしませんから、朝はあんなところでバスを待つ間にご飯を食べるのです」
伊東が右側の中央分離帯を見ていると、分離帯の中に水たまりというか池があって、そこで投網で魚を獲っている。道路の真ん中の中央分離帯の中にある池で、魚を取るとはすごいと感心した。しかしこんな排気ガスと油の浮かぶ池で育った魚を食べるのだろうか。
左右には大きな立て看板と工場の建物がポツン、ポツンという風景が続く。そんなところを1時間少々走ってワゴンは目的地に着いた。
工場前に車寄せにワゴンは停まり、みなぞろぞろと降りる。降りた瞬間、ムッとする暑さだ。朝始業前というのに30℃以上はあるだろう。入口のドアまで10歩くらいだが、エアコンの効いた建物に入ったときはホットした。

出向者はそれぞれ自分の職場に行ってしまい、また別口の二人の出張者も立ち去ってしまった。増田が、川田と伊東、及川を玄関のそばの応接室に案内する。
始業のベルが鳴ってまもなく年配の日本人とタイ人が入ってきた。
増田は二人に挨拶すると
増田
「えー、こちらはダイレクターの吉川さんとマネージャーのピアさんです。私は別の会議が目的なので、本日皆さんはこちらのお二人からご説明を受けてください。なお、帰りですが、私は別ルートになります。みなさんの帰りの車ですが、終業が17時で発車は17時40分です。それを逃すと残業者を送る20時発になりますのでご注意ください。ワゴンは朝と同じく、みなさんのホテルと出向者のところに行きます」
そう言って増田氏は去ってしまった。
残された工場側二人と見学者3名が名刺交換して座りなおす。
吉川
「遠いところまでおいでいただきお疲れ様です。私は生産管理を担当しております。ダイレクターというと取締役ですね。こちらのピアは生産管理で設備などを担当しています。ピアは早稲田のマスターで、日本語も英語も、もちろんタイ語もペラペラです。
ちょっと昨日から機械が故障してしまい、現場も出荷も混乱しております。それで私はときどき席を外しますが、その辺ご容赦願います。ピアは一日お付き合いしましてご質問などの対応をいたします」
ピア
「おはようございます。みなさんはこちらに工場を建てるための調査にきたと聞いております。私は工場の設備とその維持管理については分ります。その関係ならどんなご質問にも答えられると思います。ですが、会社設立とか建築などの法律の手続きはわかりません」
吉川
「ピア、今日の予定はどうするの?」
ピア
「今8時過ぎですね。9時くらいまで工場の概要説明、9時からお昼まで工場見学、お昼は食堂で食べてもらいます。午後は3時まで質疑応答、3時から5時まで不明点について再度現場で確認するように考えてます」
川田取締役
「吉川さん、ピアさん、見学者を代表しまして挨拶いたします。本日はお忙しい中、私たちのために見学の機会を作っていただき感謝申し上げます。我々は全員海外の工場を見るのは初めてです。設備だけでなく、敷地とか植栽なども含めて維持管理についてお話しいただければと思います」
そんなわけで、ピアは工場の全体図と建屋の配置図を配って簡単な説明をしてすぐに外に連れ出した。
3人は吉川氏とピア氏のあとをついていく。敷地は2万平米でほぼ正方形だ。一辺が道路に面していて3方向とも空き地だ。空き地というのは林でもなく畑でもなく単に草が生えているという、日本では考えられない状態だ。なぜ空き地があるのだろうか、放っておかないでなぜ農業をしないのか農家をしている伊東は不思議に思った。自然環境条件か法規制かの制限があるのだろうか?
ピア
「植栽の手入れは専門業者に頼んでいます。常時3人から5人くらいで草刈りとか剪定や施肥などをしています」
伊東が突然、ワーという声を出した。
皆がぎょっとして伊東の指さす方をみると、芝生の上に体長50センチ以上あるオオトカゲが寝そべってる。胴が太くて猫くらいの体をしている。大きいのに体がグリーンの保護色なので、ちょっと目をはなすと見失ってしまう。
ピア
「アハハハ、大丈夫、おとなしい動物です。人を襲いません。建物の天井などに入ってきて虫を食べてくれます」
伊東
「あんなのが俺の庭にいたら腰を抜かすよ」
建物の基礎がどこでも地面から浮いている。
及川
「ピアさん、建物が浮いているけど、中の機械などは大丈夫なのですか?」
ピア
「建物の基礎がしっかりしているから大丈夫です。というか基礎がしっかりしているから、地盤沈下すると建物が浮いてくるように見えるのです。でも数年ごとに出入り口の階段を直さなければならないのが問題です。それはこの工場に限らずどこでも同じです」
及川
「水道や下水配管などは地盤沈下するとどうなりますか?」
ピア
「ほっとくと配管が破断してしまいますね。現実にここでも漏水が起きています。建物に配管をしっかり固定するか、定期的にメンテするしかないですね。ほら御覧なさい」
ピアが指さす方をみると、地面が縦10m横数mほどが正確な四角形に30センチほど盛り上がっている。まるで大きなお墓のようだ。
及川
「なんですか、これは?」
ピア
「トイレの浄化槽です。これも基礎を打っているので地盤沈下した分浄化槽が浮いてきて、その上の土が盛り上がってきたのです」
川田取締役
「うーん、日本では考えられないな。常にこういうことに対して対策していかなければならないのか」
ピア
「その代わりタイには地震はありません。日本のように地震があったらどうなりますかね」
その後建物の中に入り前工程から順に見学する。プレス機も成形機も動いている。
川田取締役
「吉川さん、お宅にはプレスも成形機もあるのに子会社にタイに出てこいというのはどうしてなのでしょうか?」
吉川
「私が御社にこちらに来てくれと要請したわけじゃありませんから、わかりません。
この工場の場合、成形品もプレスも一貫生産したほうが良いと考えたものを内作しています。それ以外は外注です」
伊東
「運送を考えたらすべてを集約した方が良いですよね。もし我々がここに来るとしたら、この敷地内とか隣接して工場を建ててコンベアでつないでしまうとかの方が効率的じゃないですか」
吉川
「そういうことについては、私はなんとも言えませんね。しかし水道、下水、電気、従業員の通勤とか食堂とかいろいろ大変ですから、規模が小さいとやっていけないでしょうねえ」
昼休みになった。ピアは一旦戻った。吉川氏が3人を食堂に案内する。食堂は屋根だけで周囲はオープンである。まず最初に洗面器くらいの大きさの、アルマイトでできた丸くて6つくらい丸いへこみがある食器を取る。そしてカフェテリアで好きなお惣菜を三つ頼む。それにご飯だ。どこに座っても良いらしいが、隅の一角に日本人が集まって座っている。そこに吉川は3人を案内する。
吉川
「食器には驚いたでしょう。食欲がなくなるって人もいます。おかずの味は好き好きですが、種類がたくさんありますから、最初はいろいろ試してみて自分にあったものを頼めば大丈夫ですよ」
川田は出向すれば毎日これを食べなくちゃならないのかと思うと、出向者は大変だなと思う。
吉川
「食堂は外部の専門業者なんです。業者によって美味い、まずいがありまして、従業員が業者を変えろと騒ぐときもあります。業者を変えてもサバサバしていて後腐れないようですよ。今の業者に変えて半年くらいかなあ」
伊東
「業者が変わっても食器は同じですか?」
吉川
「いや食器は業者のものですから、業者が変われば食器も変わります。といっても大した違いはありませんがね」
食堂はエアコンはないが、風が吹き抜けるのでそれほど暑くは感じない。でも嵐とか雨風があるときはどうなるのだろうか。一度来ただけではわからないなと伊東は思う。
食堂を出るとジュースを売っている。伊東は何でもトライしようと小銭を出した。値段が分らないときは向こうに取らせるに限る。ここでは生ジュースが20円くらいで飲める。とはいえ現地の人の感覚ではその10倍200円くらいになるのだろう。

会議室に戻って、吉川、及川、川田、伊東が座って話をする。
及川 吉川 川田取締役 伊東
及川氏 吉川ダイレクター 川田 伊東
川田取締役
「私のところでこちらに来るとしても20名か30名の規模でしょう。それで工場を建ててとなると現実的には不可能でしょう。関連会社を集めて設立するとか、親会社の中で仕事をするとか、あるいは親会社の中にフィーダー部門を作りそこに我々が出向するとか方法はありませんかねえ」
及川
「同感です。私のところもせいぜい30名規模でしょう。小さな工場をたくさん作っても先行きの見通しがどうなんでしょうかねえ」
吉川
「私がどうこう言える立場ではありませんが、ある程度の規模がないと大変なことは間違いありません。やはり300名くらいの規模がないと水、電気などのインフラも大変ですよね」
時間になり、ピア氏が現れて代わりに吉川氏は失礼と言って去ってしまった。
それからピア氏に電気や水道の状況などの状況を聞いたりしていると、あっという間に4時過ぎになった。停電はけっこうな頻度であるらしい。通勤事情も大変だ。この工場は2交代で動いているそうで、送り迎えのバスは定時と2時間残業の4回走っているという。

4時半頃お開きにしてピア氏が去った後に、増田氏がやってきた。
増田
「どうですか、ためになりましたか?」
川田取締役
「参考になりました。しかし結論的に規模が小さくては進出する意味がないという感じですね」
増田
「うーん、まあそういうところはあるでしょうねえ」
及川
「我々がこちらに来るとき単独ではなく関連会社が合同で来るとか、親会社の素戔嗚さんと一緒にやるということはできないものでしょうか?」
増田
「やはり一社単独では難しいということですか?」
及川
「規模次第でしょうねえ。日本でも成型屋を20人の規模でやれといわれたら、成り立たないんじゃないですか。ましてこちらはインフラが自前ですから」
川田取締役
「プレス屋だって同じですよ。仕事量から20人分ということなのかもしれませんが、それじゃ家内工業レベルになってしまいます」
伊東
「ただ合同でするにしても、プレスも成型もその他もそれぞれ20人の規模ではどうなのだろう。それぞれの規模が小さくちゃ、やはり効率が上がらないんじゃないかなあ」
増田
「ええと、明日はもっとパタヤの方に行くのですが、だいぶ前に設立された関連会社があります。そこを見学する予定です。明日は通勤用でなく、現地事務所のクルマを出してもらいます。それで朝7時出発、2時間半くらいで工場着、工場見学、昼食、打ち合わせ、ホテル着18時の予定です。
ところでどうですか、実は私の方の予定がなくなりまして、それでみなさん今晩はタニヤあたりでどうかと思いますが」
川田取締役
「有名なあれですか」
増田
「いやいや、飲むだけですよ」
伊東
「何事も経験ですからぜひ行きましょう」
伊東がそういうのを聞いて、川田はいささか驚いた。


翌日の朝である。レストランで及川、川田、伊東が朝飯を食べている。
川田取締役
「いやはや、昨夜は参ったねえ〜、コンパニオンだかホステスだか何だかわからないが、だいぶ言い寄られたよ。驚いたが、けっこう上手な日本語を話すんだ」
伊東
「彼女たちはあれで食っているんだから大変だねえ」
及川
「出向するといろいろとトラブルが起きそうですね」
伊東
「そう思います。一度どんなところか見ておきたかったのですよ。店に入る階段の下にストリップがあったでしょう。入口のカーテンというかノレンがゆれている向こうで裸のねーちゃんが踊ってました」
及川
「へえ、そんなのありましたか? 気付かなかったなあ」
伊東
「会社の金を使い込むなんてことはないにしても、自分の金をつぎ込んで家庭争議は起きそうだなあ」
川田取締役
「まったくだ。昨日、伊東さんが行こうって言ったときは驚いたが、行ってみて勉強になったよ」


その後、川田と伊東は出向者の住んでいる長期滞在型ホテルをいくつかと、素戔嗚のタイ事務所も訪問した。
帰ってくると早速社長と星山専務と4人で報告会兼会議である。
川田取締役
「どうも一番感じたことは、我々単独で工場を建てるなんてことは、無理というかありえないように思いました。やるならそうとう大きな規模でないと成り立ちません」
池村社長
「だが話にあった関連会社はもう何年も前から操業してうまくいっているのだろう」
川田取締役
「関連会社といってもウチとは規模が違います。創業時の従業員が300名で、今は1200名もいます。我々の場合、最初はせいぜい20名規模、将来ここの規模になったとしても200名そこそこです」
伊東
「サルタヒコも現在の会社が100名規模で、タイに工場を作るならせいぜい30名規模だっていってましたね。向こうはインフラから通勤バスの手配などもしなければならず、細々というかスモールスタートというのがあり得ないようです」
川田取締役
「インフラがなく自前で揃えなければならないだけでなく、法律上も日本資本だけではだめとか、いろいろ規制があって我々単独は無理です。将来を考えて行かざるをえないというならば、素戔嗚の支援が相当必要です。具体的にはまずタイの出資者の紹介や会社設立の際の法的手続きの支援、創業に際しては初期だけでも素戔嗚の工場内でやらせてもらうとか、関連会社に工場を用意してくれるとかですが」
池村社長
「最初は小規模でスタートというわけにはいかないか」
川田取締役
「土地、建物、水、発電、とにかくハードルが高いですね。ウチがそれだけの資金があるかということになります」
結局、川田と伊東が行って結果は、非常に難しいということを確認してきたというだけだったようだ。

うそ800 本日の反省
今日は昔の体験ばかりを書いてしまいました。歳をとったせいでしょう。アハハハハ
正直言ってあまり真に迫るとまずいので細かいところは書いてません。登場人物の名前はだいぶ前に家内とタイに旅行に行ったときのガイドの名前です。




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