「人間の終焉」

2014.04.02
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、ぜひ読んでいただきたいというすばらしい本だけにこだわらず、いろいろな本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからこの本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

著 者 出版社 ISBN 初版 定価 巻数
ビル・マッキベン 河出書房新社 4309251943 2011/1/15 2200円 1巻

私たちが結婚した当初は私の親と同居していた。しかし1980年に親父が死んで、それを機会に母は嫁に行った姉と暮らすことになり、私たちは公営団地に住んだ。
最初はふたり その団地の建物はひとつの階段に各階左右に2戸あり3階建てだったから、我が家につながっている階段には6家族が住んでいた。
どの家庭もみな核家族で同じような年代で、同じくらいの年の子供がいて、収入も生活水準も似たような人ばかりだった。我が家はそのうちの3軒と仲良くなり、子供たちが寝てから4軒の夫婦は交代にお互いの家に集まって酒を飲んだり怪しいビデオを見たりしていた。
そこに6年ほど住んでいた。息子が小学校に入るのを機会に、我が家は中古の1戸建てを買ってそこを出た。小学校に入るのを機会にと書くと変だと思うかもしれないが、当時我々の住んでいた地域は急激な人口の増加をしていて、そのため学区の見直しがあり息子は娘と違う遠い学校に通うようになってしまったからだ。
あれから20数年になる。仲の良かった3軒はその後どうなったかというと、風の便りでは1軒は郊外に家を買って引越し、とうに会社を定年になり娘二人は嫁に行き孫が何人もいるという。昔ならもっともありふれた人生なのかもしれない。しかし今では貴重なライフスタイルといえるだろう。
他の1軒は離婚して一家はみな団地を去っていき、今ではどうなったかわからない。
最後の1軒は離婚して母親が子供二人を引き取り、30代後半となった子供はまだ母親と今もその公営団地に住んでいるという。
そして我々の家族は子供二人が都会に進学し、その後自分がリストラになって都会に出てきた。その後田舎町の一戸建てを売り、こちらにマンションを買い、子供たちは独立した。25年は十分に長い。いろいろな人生がある。

今我々が住んでいる近く、といっても歩いて10分くらいのところに公営住宅がたくさん建ち並んでいる。ときどき家内と散歩してその公営団地の中を通る。新しい棟は10階くらいありエレベーターもついているが、古い棟は4階とか5階でエレベーターはない。30年前に我がファミリーが住んでいたところと同じ印象である。
その団地の中を歩くと当時を思い出し、家内といろいろ話す。
「もしあの頃に戻れたらどんな人生を送りたいか?」と私が聞くと、家内は「子育てはもうこりごり、二度とあの頃に戻りたくない」という。そんなものなのか?

笑わないでほしいのだが、私がもう一度人生をやり直せるなら、やり直したいと思っている。どんな人生かと言えば、たいそうなことではない。正直言って子供たちと当時よりももっと一緒に過ごし、一緒にいろいろなこと遊んだり勉強を教えたりしたいと思う。良い父親役を演じたいと心底思っているのだ。
言い訳がましいが、1980年代はオイルショックのあととはいえ、まだまだ高度成長期の熱気も価値観も残っており、だれもが猛烈サラリーマンが普通だった。私は毎週土曜日は出勤していたし、日曜日もときどき会社に行った。もちろん毎日早出・残業は当たり前だった。たまに定時で終わると、職場の仲間と飲んだ。いずれにしても家に帰りつく時間は夜遅かった。子供と家内に申し訳なかったと今でも思う。
そんな暮らしは私ばかりではなく、私の上司のひとりは1年間に休んだのは7日とか8日とか言っていた。勘違いなさらぬように、休暇を取った日数ではなく、会社に行かなかった日数である。もう一人の上司は、2時前に帰ったことがないと言ってた。午前2時ですよ! 毎日、定時まで8時間仕事をして、それから残業を8時間していたのだ。田舎では車通勤で通勤時間が20分もかからないのが普通だから、そういったことができたのだ。そういうのが当たり前だったのだ。
決してそんな時代がよかったとは言わない。
家族第一、家族優先のファミリーマンは、当時の会社では肩身の狭い思いをしたことでしょう。

不思議なことであるが、先ほど述べたように同じような境遇の家庭であっても、片や平穏に歳月を重ねる家庭もあり、あるいは崩壊する家庭もある。それも倒産や災害など外部の影響によることもあり、浮気とか性格が合わないなどの内部の問題のこともある。もちろん離婚することが不幸ではないし、勤め先の倒産が即悲劇とはいえない。ともかく人生は一寸先は闇、いや未来はわからないというのは真実だ。
子供が二人 人生とはなんなのだろうかと考えたことはありませんか?
もう老境にさしかかった私としては、人生の価値というか成果というのはなんだろうかと思いめぐらすことが多い。結婚して、子供を再生産して、そしてなんとか育てて一人前の社会人にして自分の役目は終わるのか?
そうであれば人に限らず生きものは、単なる遺伝子の乗り物のように思える。人は遺伝子をつなぐのが役目なのか?
駅伝で一番大事なのは「たすき」なのか、「ランナー」なのか?
結婚した我が娘は子供を作らないし、我が息子はいまだ独身で、我がファミリーに孫は期待できない。もし「たすき」に価値があるならば、私は人間としての役割を果たしていないわけだ。いや私は役目を果たしたが息子や娘が役目を果たしていないのだろうけど・・
生物が死ぬことから逃れられない宿命ならば、子孫に自分の命をつないでほしいというのが人の願いあるいは希望なのかもしれない。しかし言い換えればどんな金持ちでも老化と死から逃れられないというのが貧乏人にとっての救いであることは間違いないだろう。そんな、ととりとめのないことが頭に浮かぶ。
会社勤めのとき、出世競争で負けたとか、ボーナスで差をつけられたなんてことでカッカしたり、しょげたりしたことは多かった。
私の人生で、出世競争で人に勝ったとか、人よりボーナスが多かったことはない
私は人以上に仕事をしてきたという自負があったから、なおのこと人との競争に負けて出世できなかったことは非常に悔しかった。だけど今、会社勤めのとき競った連中に会うと、みな等しく歳をとり老人になっているのは同じだし暮らしぶりだって大した違いはない。
私が40くらいのとき私をいじめてばかりいた上司が、私がその会社を去ってからのこと、歩いているときに転び、それが元で歩行困難になってしまった。ずっと後のことだが遠くからその姿を見て溜飲を下げた。そんな私は軽蔑されるべきかもしれないが、そう思ったことは事実だ。
いずれにしてもあと20年少々で私と一緒に働いた人々は、みんな鬼籍に入るだろう。お互い恨みっこなしだ。出世した奴とか金持ちになった奴はいても、死なない奴はいない。死んで土に変えれば偉いも金持ちもない。

人はみな欲があり、現状に満足してはいないだろう。
私の場合、裕福な家庭に生まれたら大学に行けて大いに違った人生があったかもしれない。運動神経が良かったら、女性にもてたかもしれず、もっと明るい性格になっていたかもしれない。身長が5センチ高かったら違った人と結婚していたかもしれない。そういう思いはやはり払拭することはできない。

IF?

もっと幅を広げれば、都会に生まれていればどんな人生があったのか? アメリカ人として生まれていたらどんな人生があったのか? インドの下層カーストに生まれていたら・・と想像は果てしない。
だが、そのような仮定は現実にならないということでみんな諦めというか、満足していることも間違いないだろう。
人間はいつかは死ぬ運命であるから、人々はそれと折り合いをつけるというか、その事実を認め諦めて生きている、そして誰もが死の前に平等であるから安心するというのはやはり真実ではないだろうか?

だが人は死の前に平等であるという鉄則が過去のものとなったらどうなのか?
あるいは、自分の能力、子供の能力が自分で選べたり、お金で買えたりするなら、この世の中は完璧に平等ではなくなる。
車を買うとき、お金に余裕があれば、3ナンバーを買うとか、良いタイヤを付けるとか、アルミホィールをつけるとかいう選択(オプション)をする。それと同じに子供を産むとき、成人になったとき身長180センチ、体重75キロ、知能指数(IQ)は125で遺伝性の病気がなく、花粉症にならず、二重まぶたで近視ではなく、糖尿病にならないとか、選べるようになったらどういう社会になるのだろうか?

韓国の若い女性は6割が美容整形しているという(2014年)。人よりも美しく、いや人並みに美しくありたいという心情は否定できない。それを悪とかタブーということはできないだろう。もちろん経済的に可能かどうかという制約はあるにしても。
子供が将来を生きていくために、良い大学に、良い高校に、良い小学校に、良い幼稚園に入れるという発想が許されるならば、生まれてくる子供のIQをあげるのが許されるのも当たり前だ。200万円でIQが5アップするなら、小金持ちはISOを10アップで我慢しなければならないかもしれないが、大金持ちなら50くらいアップさせることは間違いない。億万長者ならどうするのか? IQをアップさせるお金がない人は、単純労働者として一生を送り、その子供もその子孫も下層階級に留まるのもしょうがない・・・のか?
めがね、補聴器、義足、歯列矯正が生活の質向上させるものとして社会的に認知されているのなら、糖尿病にならない処置、肥満にならない処置も生活の質向上させるものであって、なんら社会的に批判されるものではないだろう。お金のない人は糖尿病になり肥満になり、社会的弱者として人生を終わるのもやむを得ない・・・のか?
そして遺伝子治療で不死を手に入れることができるなら、不死になることは倫理上批判されることはないのか? もちろんお金のない人は、80前後で死ぬ運命を甘受しなければならない。あるいは医療費さえ十分稼げなければ、低開発国の人のように50前に死ななければならないかもしれない。

この本は、遺伝子治療とかナノテクノロジーなどの最先端を書いているのではなく、そういったものが普及した社会がどうなるのか、どうあるべきなのかを問題提起している。著者のスタンスとしてはそういったことに制約を設けるべきだという考えではあるが、その主張を一方的に語るだけでなく、そうなった場合のいろいろな問題を取り上げて論じている。そして、それを社会的に受け入れることができるのだろうかということを丁寧に(くどいほど)繰り返していろいろなケースを説明している。
この本についてはネットでは、後ろ向き、悲観的だという批判的なコメントが多い。だが私は問題提起として素晴らしい本だと思う。批判した人も、そういった方法が普及したときどんな問題があるかについて改めて考えただろうし、その検討項目のチェックリストになったと思う。

私が結婚して家内が妊娠したとき、健康な子が生まれますようにと祈ったことは確かだ。しかしどのような人間でも決めることができたなら果たしてどんなことをオプションしたのか? 遺伝病、心臓欠陥の有無、身長は、IQについて、はたしてどんな子供を希望しただろうか?
赤ちゃん 正直言って、美人とか背が高いとか賢いとか心が優しいとかをそれほど希望したとは思えない。この本にも書いてあるが、皆が皆、そういったことを選べば、みなが美人で背が高く、賢くなったとすれば、社会的競争が単に高いレベルに移っただけだ。そしてそのとき、社会の幸福の総和は今と変わらないように思う。
というのは建前だけではないのだ。前に述べたように、もし神がもう一度チャンスを与えてくれるなら、私は子供たちともっと一緒に過ごし、一緒に遊び、一緒に成長したいと心から願っている。
子供が大人になるということは、親が子供に育てられることであり、親が人間として成長することだと私は信じる。だから親も子も、不完全であってよく、お互いがケンカして憎みあい愛し合いそして歳をとって死ぬということがまったくの自然なように思う。人の幸福とは、豊かな暮らしをすることではなく、幸福と感じる暮らしを送ることではないのだろうか?
つまるところ、人間の価値とは死ぬとき何かを残すことではなく、生きている間にどのような体験をしたのか、人に何を与えたのか、人から何をもらったのか、そして本人がどんな感情をもって生きたかということにすぎないように思う。
とすると人生の価値は「たすき」ではなく、コンペティターを追い越したこと、追い抜かれたこと、ランナーが考えたこと、感じたこと、そういう出来事、体験の総和ではないのだろうか。人生とはボトムラインではなくプロセスだと信じたい。貧乏人の私としてはそう思うしか立つ瀬がない。

ともかく人間が不死になったとき、確実に歴史は終わる。それは人間であることが終わるときだと思う。「人間の終焉」というタイトルは間違いない。
この本を読むと、アーサーCクラークの「未来のプロフィル」を思い浮かべる。ただ「未来のプロフィル」は進歩が善というのが暗黙にあったが、こちらは進歩が悪というベースに見受ける。私には進歩の善悪はまったく予想がつかない。

濡れ落ち葉 本日の懸念
思い出話から、遺伝子操作、人間の将来まで話は無理なくつながったのでしょうか?

濡れ落ち葉 本日のエクスキューズ
私が読んだ本のどれくらいの割で感想文を書いているかというと、1割はないだろうと思う。今年になってから読んだ本を数えると・・・何を読んだかはメモっておかないが読んだ数は、「正正・・」とカレンダーにつけている・・・3月末までで64冊であった。書いた感想文は今年になって5件であるから、8%というところか、



あらま様からお便りを頂きました(2014.04.06)
おばQさま あらまです。
「人間の終焉」
まさにその話題にフィットした内容のテレビ番組が、今晩 9時からのNHK総合で放送される「NHKスペシャル」だと思います。
「NHKスペシャル」というと、過去にも「JAPAN」という偏向番組がありましたが、今回のカテゴリーは「歴史」ではなくて「生命科学」ですから、観るに耐えられるものだと思います。

ところで、人体とか生命とかいうものは「神の領域」というわけで、それに踏み込むことには躊躇したようでしたが、今の人類は、知識欲の赴くままに、神の領域に踏み込んでいると思います。
そうして実現したのが長寿社会。そして高齢社会。
これは、神様からの恵みでしょうか、それとも罰なんでしょうか ?

あらま様 毎度ありがとうございます。
実を言いまして、私がテレビを観るなんて天気予報を除けば東日本大震災以来、3年ぶりです。
実を言いましてテレビを観るという行為がとても苦痛と感じました。本を読むときは、自分のペースで読めます。重要じゃないと判断すれば飛ばしますし、理解を確実にしようとすると読み直します。テレビはそうはいきません。私も何十年もテレビを観てきたわけですが、今ではテレビを観るという能力が失われてしまったのかもしれません。
えっと、話を戻しますと、ご推薦の番組を拝見しました。
うーん、番組の内容はともかく、人間は寿命という時限爆弾をもっていることが素晴らしいことじゃないかなと思いました。
機械だって同じものを修理に修理を重ねて使い続けるのと、5年とか10年とかせいぜい耐用年数を20年と決めて、維持管理する方が常に良い性能のものを使うことができます。私たちが同じ命を永遠に使い続けるというのは自然の摂理として不効率、不健全な行為なんじゃないかなと思います。
まあ、確信はありません。

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