文書と実行の間

16.07.14
本日は実にばかばかしいことを・・・いつもばかばかしいことを書いているじゃないか、なんて突っ込みがありそうですが・・・まあ、それはおいといて

2015年改定で品質マニュアルがなくなりました。とはいえ私のウェブサイトにご訪問される方の検索キーワードのトップは品質マニュアルとか環境マニュアルですから、いまだにマニュアルは必要なのでしょうか?
でもそもそも環境マニュアルは初めから要求されていませんでした。しかしなぜか認証機関は要求していました。訂正します、認証機関といっても全部じゃありません。要求していたところもありましたが、要求していなかったところもありました。ついでに言えば品質マニュアルだって提出を求めていなかった認証機関もありました。組織が品質マニュアルを作るのは規格要求であっても、認証機関が要求するのは義務ではなかったようです。旧版のISO17021やガイド62などを眺めたのですが、認証機関(当時は審査登録機関)は組織から品質マニュアルの提出を受けなければならないとは書いてありませんでした。力量のある認証機関は審査するのにマニュアルなどいらなかったようです。ということは力量のない認証機関はこれからも品質マニュアルも環境マニュアルも要求するような気がいたします。さあて、どうなりますか?

ご存知とは思いますが: 多くの会社は2015年以前でも環境マニュアルを作成していた。でもどんな理由で作成していたのだろうか?
私は過去ISO14001を自ら中心になって認証したのが3回、指導したのは数知れずだが、どこでも環境マニュアルを作成した。(実を言ってどこでも私が書いたんだけどね)
作成した理由は、契約した認証機関が「審査契約書」あるいは「審査の手引き」といった書面で、「環境マニュアルまたはイクイバレントを作成し提出すること」を要求していたからである。だって要求されなくちゃ余計な仕事をしませんよ。
もし契約書類に環境マニュアルの作成提出が明記してなく環境マニュアルを出せという認証機関があれば、契約違反であり民事訴訟になるだろう。とはいえ企業側に実質的な被害がなくわざわざ原告になって裁判する必要もないから、認証機関を変えたほうが良い。認証機関の契約違反で契約解除するなら、企業が違約金を請求することはあっても、認証機関から請求されることはないだろう。

ともあれ今後とも規格要求と会社の手順書の関連を示す文書提出を求める認証機関は多いようですから、実際問題としてマニュアル(or イクイバレント)は必要となるようです。
おっと、ISO9001では1994年版から品質マニュアルなるものを要求はしていましたが、実はその要求事項はそんな小難しい文書だったわけじゃありません。
要求されていたのは

「この規格の要求事項をカバーする品質マニュアルを作成すること。品質マニュアルには品質システムの手順を含めるか、またはその手順を引用し、品質システムで使用する文書の体系の概要を記述すること。」
(ISO9001:1994 4.2.1)

とあるだけです。
『規格に「○○すること」とありますが、マニュアルには「○○する」と書いてありませんね』なんて不適合がISO9001の文書審査、実地審査でジャンジャンと出されましたが、規格にはそんなことを書けという要求はありません。マニュアルが引用している文書に「○○する」とあればよかったのです。それは2000年版も2008年版も同じです。でも1994年から2015年までに出された『規格に「○○すること」とありますが、マニュアルには「○○する」とは書いてありません』という不適合はその20年間で2万件はあったと推定します。ひどい話ですね。無実の人を冤罪に陥れ是正処置を取らせる、そんな悪事を働いた人たち(審査員)は今は引退して悠々と年金をいただいているのでしょう。許せん!
それにもましておかしいのはISO14001の審査で『規格に「○○すること」とありますが、マニュアルには「○○する」と書いてありませんね』なんて不適合は一体いかなる根拠なのでしょうか? 多くの場合、「ISO14001○○項では○○しなければならないとあるが、マニュアルには○○すると書いてない」なんて審査報告書に書いてありました。でもね、「ISO14001○○項では○○しなければならない」とあっても、マニュアルに「○○すると書く」義務はそもそもないんですが?
じゃあ不適合になる根拠がないでしょうが
きっと審査員が未熟だったのでしょう。それとも不要だと知ってはいても不適合を出すのが楽しみだったのでしょうか? あるいは不適合の数に賃金が比例していたのでしょうか?
それは人道に背く悪逆非道ですが、本日はまた別のひどい話をしてみたいと思います。

具体例を挙げます。
私の古い思い出でありますが、1993年頃ISO審査で審査員から、「品質マニュアルに書いてあれば従業員はそれを守るのですか」と聞かれたことがあります。
また1998年のことISO14001の審査で認証機関は違いますが、「なになにすると規定に書いてあるけど、なぜ従業員はそれをしなければならないのか」と聞かれました。
ハテ?なぜなんでありましょうかというのが本日の暇つぶしであります。

子供の頃、親父に言われました。「勉強しろ、通信簿で4を取れ」
ゲンコツ まあどの家庭でも、ネグレクトあるいは息子娘の出来が良くて何も言う必要がない場合以外は、そのくらい言うのは普通でしょう。そのとき子供は親の言うことを聞いて勉強するものでしょうか?
私はしました。素直な良い子だったからではありません。親の言う通り勉強しないとゲンコツで殴られたからです。痛い目にあいたくなければ親父の言うことを聞いて勉強するしかありません。
ところが問題があります。勉強するのは自分が努力すればいい。しかし成績が良くなるかどうかは努力だけでは実現しません。まして通信簿で4とか5をとるのは己の努力だけでなく、同級生の努力も関わる相対的なものであり・・これは困りました。エネルギー管理者が冬の寒さ、夏の暑さを恨めしく思う気持ちがよくわかります。

話は飛びます。犯罪を犯す人はどれくらいいのでしょうか?
10万人あたり殺人(2015年)
1位ホンジュラス84人
56位ロシア9.00人
112位アメリカ3.82人
167位カナダ1.43人
176位フランス1.20人
178位オーストラリア1.07人
183位イギリス0.95人
190位韓国0.84人
191位中国0.82人
192位イタリア0.81人
199位ドイツ0.70人
211位日本0.28人
日本は犯罪が少ないと言われています。もちろん犯罪というのは基準(閾値)の違いによってカウントが変わります。私が若いときはセクハラなんて犯罪じゃありませんでした。ヌードカレンダーを会社の壁に貼っていたりしていましたが誰も気にしませんでした。今なら通報されますね。
ところで殺人なら時代が変わってもあまり基準は変わらないでしょう。右表を見ると、確かに日本は諸外国に比べて、先進8か国(G8)だけとりあげても殺人は少ない。
しかし10万人当たり84人も殺人事件が起きる国は大変だろうなあ。政令指定都市なら毎年1000人、毎日3件くらい起きていることになる。
殺人事件で殺される確率を考えると、ホンジュラスの平均寿命は73歳だから
84×73÷100,000=0.06
生まれてきた100人中6人が殺人事件で命を失うことになる。一クラス50人とするとクラスメート3人が殺されることになる。ひょっとすると自分かもしれない。
ちなみに日本では
0.28×83÷100,000=0.0002
1万人に2人である。一生の間に殺される心配はなさそうだ。

*G8(グループオブエイト)とはフランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、ロシアである。

人が犯罪を犯すか犯さないかはなんで決まるのでしょうか?
素直に考えると、犯罪を犯したときの利益と発覚する確率とそのときの刑罰を比較して、メリットがあるほうを取るでしょう。
犯罪を犯したメリット ← 比較 → 発覚する確率 × 刑罰
窃盗で10万円盗んだとき1割の確率で発覚し見つかると懲役10年だとすると、メリットは10万、デメリットは懲役1年となり金額換算は不明ですが1年も刑務所にいたらたぶん10万円よりは高くつくでしょう。となると盗まないほう良くなります。実際は初犯なら執行猶予がつくでしょうし、再犯でも懲役2年か3年でしょう。でも罰則は懲役だけでなく、自分の人生におけるマイナス評価、世間から家族や親せきまでどうみられるかという社会的制裁があります。だから総合的判断(廃棄物処理法のようですが)に基づき、窃盗を行うかとどまるか考えることになるでしょう。

会社で上長命令、あるいは先輩などから仕事を指示されたことを、言われたことをするかしないかということはどうでしょうか?
した場合の評価と、しなかった場合どんな処罰を受けるのかということを比較するのでしょうか?
命令に反した場合のメリット ← 比較 → 命令に反した場合のデメリット
命令に従った場合のメリット ← 比較 → 命令に反した場合のメリット

もっとも命令を受けたとき、それが実行可能かどうかというのは常に問題になります。この仕事をいつまでに仕上げろとか、商品を100個売ってこいと言われても努力だけでは達成できないことはあります。通信簿で4を取れと言われても勉強してもできないこともあるのと一緒です。
では実行可能なら常に実行してくれるのかとなりますと、現実問題としてそういう模範的な社員ばかりではなさそうです。Aの仕事を先に、Aが終わってからBに取り掛かかれなんていう指示はよくあります。ところが言われた者がBの仕事が好きとか慣れているからとBを先にしてAを後にするというのもありがちです。それでもAの納期が間に合えばよいですが、間に合わなければ懲戒を受けてもやむをえません。
懲戒と言っても懲戒解雇ばかりではなく、戒告、けん責、減給、出勤停止、懲戒解雇など問題の重大性によっていろいろあります。場合によっては社内の処分だけでなく告発され刑法犯になることもあるでしょう。

さて冒頭に戻りますと、
審査で「品質マニュアルに書いてあれば従業員はそれを守るのですか」と聞かれたら、「当然です」と答えてよろしいのでしょうか?
審査で「なになにすると規定に書いてあるけど、なぜ従業員はそれをしなければならないのか」と聞かれたら「従わなければ懲戒処分に処されます」というべきなのでしょうか?

となるとまた疑問が湧き出てきます。
マニュアルあるいは規則で「○○する」というのと懲戒がどう結び付いているのか?
懲戒があるからルールを守るのか、懲戒がなければルールは無視されるのか?
などなど

1番目の疑問の回答は簡単です。
まず上長の命令に反したり会社のルールを守らない時の懲戒の根拠です。
法律で従業員10名以上の会社は就業規則を作り、従業員代表の同意を得て、周知しなければならない。懲戒はその中に定めることになっています。そして最高裁の判例で「就業規則に定めてない事由による懲戒はできない」とされています。
なおここでいう規則とは就業規則を守るだけでなく、就業規則に会社規則を守れとあるから社内のすべてのルールを守らなければならないということ。
以上を考え合わせると会社で懲戒(解雇その他の処罰)を受けないためには、社内のルールを守るのは必然となります。

では2番目の疑問である懲戒がなければルールを守らないのかはどうか?
通常社内では査定で少しでも良く評価されたいという気持ちで人より頑張ろうとするでしょうし、長期的には出世競争もあり、あるいは異性からよく見られたい結婚相手に認められたいとかいう理由で、罰則がなくても頑張るのが普通でしょう。もちろん他人との勝敗が決してしまったらファイトをなくしてしまうということもあるでしょう。しかし罰則がないならがんばらないということもないでしょう。それは殴られなくても親にほめてもらいたくて勉強することもあるのと同じです。
それと基本的にルールというのは、そのおこりは仮の取り決め、お互いの約束、組織内の暗黙の了解、明文化されたルールというふうに順を追って形成されてきたものがほとんどでしょう。当日欠勤するときは連絡するというのはルールでもありますが、連絡しなければお互いに仕事に困るしどうしたのかと同僚は心配するでしょう。そういうルールを破っても特段メリットはないでしょう。巷には義務論とか目的論なんて高尚な理屈もありますが、私の頭には難しいから略

つまりルールは守ったほうが得なのです。
昔、何かの講習会に行ったとき、一緒に受講した中に銀行員がいました。グループ討論のとき彼は「ルールを守ることが身を守る」と言いました。講習会の打ち上げで飲んだとき、どういうことなのかと聞きましたら、銀行員は身の潔白を常に見せておかないとならない。ルールを守るにしても単にルールに従って行動・判断するだけでなく、ルールに従って行っていますよということを周りにアッピールしなくてはいけないんだと。今でもその言葉を覚えています。まあ特殊な仕事と言えばそうなのでしょうけど、

となると、先ほどの質問
「なになにすると規定に書いてあるけど、なぜ従業員はそれをしなければならないのか」と聞かれたら「従わなければ懲戒処分に処されます」ではなく、「ルールに従って行動することが従業員にとってメリットが最大化するからです」となるのでしょうか?
懲戒はデメリットですからメリットを最大化といえば懲戒されることも包含します。
しかしそのためには従業員にルールに従って行動することがメリットであるということを教える必要があります。それは就業規則の懲戒だけでなく、積極的に会社や社会に貢献しよう、貢献を増大しようという情報を伝え、理解させることかと思います。
と思いついたのですが、それこそが認識(awareness)ではないかと思います。

7.3 認識
組織は、組織の管理下で働く人々が次の事項に関して認識をもつことを確実にしなければならない。
  1. 環境方針
  2. 自分の業務に関係する著しい環境側面及びそれに伴う顕在する又は潜在的な環境影響
  3. 環境パフォーマンスの向上によって得られる便益を含む、環境マネジメントシステムの有効性に対する自らの貢献
  4. 組織の順守義務を満たさないことを含む、環境マネジメントシステム要求事項に適合しないことの意味
(ISO14001:2015)

まさにこれこそが「なになにすると規定に書いてあるけど、なぜ従業員はそれをしなければならないのか」の回答ではないのだろうか?
だがそれは「しなければならない」ではなく「自ら進んでする」だから、それはあまりにも性善説ではないかという考えもあるかもしれない。
いや待ってくれ「○○をすること」と文書にあり、「自らの貢献」の有効性を理解すればルールを順守し遂行してもらえるものだろうか?
結局それは仕事に対する誇り及び責任感、並びに職場の人間関係ということになるだろう。自分の仕事が社会に貢献していると認識し、お互いに尊敬しあい助け合う職場なら業務は誠実に遂行されるだろうと私は考える。
ということは規格要求にある
 ・規格で定める事項について「○○すること」という文言があり
 ・認識を持つことを確実に
すれば執行されるのではなく、仕事の意義を周知すること、および良好な人間関係の構築維持が必要となる。
コミュニケーションの項番にある

「7.4.2bコミュニケーションプロセスが、組織の管理下で働く人々の継続的改善への寄与を可能にする」
(ISO14001:2015)

そのものは間違いないが、規格のコミュニケーションの内容は誇りや人間関係までは踏み込んでいないように思える。

ひょっとすると次回ISO規格改定ではホーソン工場のメイヨーさんの実験を反映して、人間関係を良好に保てという要求事項が追加されるのだろうか? マサカネ?

いやその前に、
従業員が就業規則に従うことはマニュアルに明記しなくてもよいのかという疑問がある。
審査で絶対にイチャモンが付かないようにと考えるなら、マニュアルの冒頭に
「当社の従業員は就業規則に基づき定款を実現するために・・・」と書くべきなのかもしれません。
あるいは日本の企業は国内法に従って事業を行わなければならないのだからそんなことは不要なのか、まあ相手次第かなと思います。

私がISOに関わった20年間に「なぜ会社のルールは守られるのか?」と聞かれたのは前記2回だけでしたから、この問題を突いてくる審査員は多くはないのでしょう。
ちなみに私は最初のときは就業規則、義務論、などで口頭で説明し納得してもらいました。正直言って、その経験からそれ以降はマニュアルの本文外の冒頭に「従業員は、このマニュアルで引用した社内規則を含めた当社のルールに従い業務を執行する」という文章を入れておきました。
でもISO9001(2015年以前)では「この規格が要求する文書化された手順」をマニュアルに書けとありまして、なぜ規則に従うのかということはISO9001では求めておらず記載不要ですよね。まして2015年ではマニュアルそのものがありません。
だから本文中に就業規則や定款を盛り込まなくても規格適合のはずです。本文を読んで、「従業員はこの規程を守ってくれるのですか?」と不安を持たないようにという善意というか予防処置でしょう。
とはいえ、審査側はマニュアルに「従業員はこのマニュアルを含めて社内のルールに従い業務を執行する」なんて書いてあったら後々困るだろうと思う。なんとなれば、一般的に「○○すること」という仕組み・ルールだけを書いてあった場合、審査員はシステムが規格適合であったと報告すればよく、仮に法違反やルール無視の業務があっても、審査対象外なのでワカランと言えば理屈上は免責になる。
しかし「従業員はこのマニュアルを含めて社内のルールに従い業務を執行する」と本文にありそれを是として審査完了していたら、システムだけでなくパフォーマンスを確認したことになる。まさか本文に「従業員はこのマニュアルを含めて社内のルールに従い業務を執行する」とあれば「従業員はこのマニュアルを含めて社内のルールに従い業務を執行していた」とは判断できまい。そう結論するには抜き取りであろうと、従業員がどのように仕事をしているのか実態を確認しなければならない。
よって、「品質マニュアルに書いてあれば従業員はそれを守るのですか」なんて質問をしてはいけないのだ。

うそ800 本日の回顧
ひょっとして、20年前ISO審査で私に「品質マニュアルに書いてあれば従業員はそれを守るのですか」と質問した審査員は、そのような高邁()なことを考えていたのではないかもしれない。ただ単に、認証機関のルールを守らない審査員に手こずっていたのかもしれず、それで私に従業員にルールを守らせる方法を聞こうとしただけなのかもしれない。



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