3.3.1 力量

16.11.21

過去から「力量」あるいは同等の言葉は審査で多用されてきた。
ISOが現われる前のこと、当時の勤め先に顧客が品質監査に来た。私の先輩格に当たるベテラン品質保証担当者が対応し、品質保証部門に来たばかりの私はその後ろに控えておりました。
客先の監査員が「○○の仕事をしている人はどのように認定しているのか」と質問しました。先輩は少しも騒がず、「しっかりと仕事ができる人がやっています」との仰せ。相手が何度も聞き返しても、それを繰り返すだけ。私はそんな禅問答では相手が納得しないだろうと思っていましたが、先輩の気迫に押されてか相手は質問を変えました。
その後に先輩にああいった回答で良いのかと聞きましたが、他にどう言えばいいんだと問い返されました。確かに「○○の仕事をしている人はどのように認定しているのか」と聞かれて、当社の○○作業認定基準を満たしていますとか、そのリストを見せたところであまり意味はなさそうです。まさに「しっかりと仕事ができる人」であることが必要でしょう。

1992年頃、ISO9001が現れました。それからは「資格認定」なんてことが当たり前になりました。資格認定となるといろいろな作業ごとに資格を定め、その資格要件を定め、それを満たしたかどうか試験(または同等のなにか)をして、合格者を台帳に記帳しなければならないようです。だんだんと書類、手順が複雑になってきましたね。繁文縟礼はんぶんじょくれいこれに極まる。
ISO14001:1996になると「適切な教育、訓練及び/又は経験に基づく能力」となりました。能力は必要だけど資格認定はいらないようです。そしてその能力の根拠は、教育であろうと訓練であろうと経験であろうとなんでもありということです。
ISO14001の2004年になると「適切な教育、訓練又は経験に基づく力量」となりました。
ちょっと待てよ、能力も力量も原文はどちらもcompetentで同じじゃないですか。

審査で「力量」は多用されました。力量は親のかたきならぬ審査員の仇だったのでしょうか?
例えば「この仕事で必要とされる力量はなにか?」
例えば「力量の詳細はどの規定で定めているのか?」
例えば「今仕事をしている者はどのようにして力量があると確認されたのか?」
例えば「力量を持つことを確認した記録を見せろ」
例えば「力量のある人が仕事をした記録を見せろ」
なんて質問は定番だった。
正直言って審査を受ける我々だって「高い金を出して依頼した審査員の力量はどのように確認されているのか? その記録を見せろ」と言いたかったが、紳士である私はそのような憎まれ口をたたいたことはない。
しかし「力量」という語を使った要求事項はあったが、「力量」の定義はあったのだろうか?
ISO14001では1996年版でも2004年版でも、定義されていなかった。
やっとこのたび2015年版で定義された。もっとも附属書SLで定義されたものを、品質、環境のMS規格にそのまま転載しただけである。

2015年版の定義では力量とは

意図した結果を達成するために、知識及び技能を適用する能力
(ISO14001:2015より)
とある。

しかし考えてみると、この定義の能力があることの説明、立証は極めて困難だ。私は力量があることを示すには実証する以外ないと考えている。つまりその仕事をやらせて実際にできることを見せるしかない。つまり20数年前、先輩が「しっかりと仕事ができる人がやっています」と言ったことと同じなのである。
しかし実証は簡単ではない。「意図した結果を達成する」には、平常時もあるし異常時もあるしバリエーションは多々ある。だからいかなる状況においても適切に対応し意図した結果を達成することを立証することは、さまざまな状況でやって見せなければならないし、それは実際上困難である。

そもそも「意図した結果を達成する」とは何だろう? それをはっきりさせるには、力量の定義の前に、対象とする職務(作業)における入力と出力そして「意図した結果」を定義しなければならない。だが力量を、具体的、定量的に表すのは困難を極める。いや不可能だろう。

施設内であってもフォークリフトで(練習でなく)仕事するには、フォークリフト免許(正しくはフォークリフト運転技能講習修了証)を所持していなければならない。
フォークリフト でも免許があればいいのかとなると、そうでもない。積み下ろしする荷物の性質を理解しなくてはならない。
塗料や溶剤が入った一斗缶の積み下ろしには、危険物取扱者の資格というか知識・技能が必要だろう。危険物取扱者の立ち会いがあるとしても、取り扱っているものの性質、危険性を知らなければ、落下や漏洩の際にすみやかな対応は難しい。だから丸太の積み下ろししかしたことのない人が、すぐに特殊引火物の積み下ろしはできない。
昔のこと、30年くらい前だ。当時私の勤め先では毎年この人にフォークリフトの免許を取らせようと決めて講習会に送り込んだ。そして講習会を主催するナントカ協会からいつも苦情を言われた。どんな苦情かというと「もっと上手にフォークリフトを運転できる人を受講させてください」という。本来なら運転できない人をできるようにするのが講習会じゃないのか。我々だって事前にフォークリフトでパレットの積み下ろしを練習させ、まあなんとか一通りフォークリフトを操れるようにして受講させていたのだ。
その協会の話では、講習会に来る人はみなフォークリフトで仕事をしている人たちだそうだ。フォークリフトの運転を習うために来る人はいなかったというオチである。
フォークリフト講習会の受講は、私の勤め先では運転能力を得るためだったが、他社では免許なしでフォークリフトを運転していた違法状態を解消するためだった。
ともかくフォークリフトを運転する力量は免許を持っていることではない。免許は法的には必要だろうが能力と同じではない。そして運転する力量はその会社その会社によって違うようなのである。

もう一つ例を挙げる。
私はいろいろなことをした。スクリーン印刷というものもした。シルク印刷ともいう。私は実際に印刷もしたし、版下からスクリーンを作ったり、
スクリーン印刷
久しぶりにGIF絵を描いてみました。
30分ほどかかりました。
実際は2枚目からはスクリーンにインクが残ります。
インクや溶剤を手配したり、印刷冶具を作ったり、指導したりした。
機械刷もあったが、一品ものや大物は手刷りになる。量産品をきれいに速く刷るのが腕がいいかと言えばそうではない。例えば社内運動会で1.5メートルもある大きなうちわにメタリックの文字を印刷したいというとき、スクリーンさえ与えればインクに金属粉を練りこみ色あいを調整し、印刷の当たりを考えて、スキージ(ゴムへら)の硬さを選び、サッサと擦れる人と、いつもしている仕事と違うと上手にできない人がいた。実際にはそういったものは私が刷ることが多かった。私は何をしてもうまいのだ。
このとき力量とはなんだろう。スクリーン印刷といっても、仕事によってさまざまなレベルがあるのだろうか? 実際はそうなのだが、そうすると「この仕事をしている人の力量を確認した記録」など仕事によって異なるわけだ。実際には監督はこいつは小さいものなら刷れるなとか、50センチでも大丈夫だろうとか相手の顔を見て仕事を命じているのだ。

ずっと昔、1970年代のこと、地域の団体が企画した大手工場見学ツアーに参加した。いくつかの工場を訪問したのだが、ある工場で発電機だかモーターだか忘れたが、直径何十センチ、長さが10メートルもあるような巨大なシャフトの旋盤加工を見たことがある。一つ仕上げるのに10日以上かかると言っていた。仕上げは先輩の工員がするのだが粗削りは弟子がしていた。もちろんオシャカにしたらとんでもない損害だから、いつも先輩が監視している。弟子の育成は、油さしから始めて、やがて少しずつ切削をさせて、だんだんと任せるところを増やしていって最後には仕上げまでさせるのだという。力量があるかどうかではなく、付きっ切りで力量を付けさせているという感じだ。
営業や設計になるとますます力量の評価が難しくなる。いや力量があるから仕事をさせるのではなく、力量が付くように仕事をさせるのではないかという気がする。そのとき「この仕事をしている人の力量を確認した記録」はなんだろう?

いろいろ考えると力量とはイメージはわかるような気もするが、具体的な指標で表せないように思う。正直なことを言えば審査員に「今仕事をしている者はどのようにして力量があると確認したのか?」なんて問われても答えようがない。やはり最終的には、実証するしか力量があることを立証できないように思う。
実証とは「事実によって証明すること」、つまりその仕事をさせてみて実際にできることを示すことだ。だが実際にすべてのケースを実施して見せることができないのは前述したとおり。

話は変わる。
ISO14001では「力量」は定義されていなかったが、実は周辺の規格では過去から定義していたものもある。
例えばISO19011では

3.14 力量
実証された個人的特質、並びに知識及び技能を適用するための実証された能力
(ISO19011:2002より)
あるいはISO9000でも

3.9.14 力量
実証された個人的特質、並びに知識及び技能を適用するための実証された能力
(ISO9000:2006より)
であった。
そしてそれら(あるいは後継規格)は当然は現在改定されて、皆、附属書SLと同じく

3.10.4 力量
意図した結果を達成するために、知識及び技能を適用する能力。
注記1
実証された力量は、適格性ともいう。
注記2
この用語及び定義は、ISO/IEC専門業務用指針-第1部:統合版補足指針の附属書SLに示されたISOマネジメントシステム規格の専門用語及び中核となる定義の一つを成す。元の定義にない注記1を追加した。
(ISO9000:2015より)
となっている。

注記1はどういうことなのか?
力量は実証されなくても良くなったのだ。力量を実証することは困難極まるから定義だけはチョチョと直してごまかしたということなのだろうか?
いや待てよ、「達成する能力」ではなく「達成するために、知識及び技能を適用する能力」ということは、達成できなくても良いのか、適用できると思わせれば良いのか。原文を読まないとこの辺は何とも言えない。
注:金のない私は何千円も使って英語版を買う気はない。

しかし「実証された力量が適格性」とあるが、ISO14001:2015では適格性という語は使われていない。とすると「力量は間違いなくありますか?」とか、「力量を実証した証拠はありますか?」なんて聞かれたら、規格では力量を要求していますが、適格性は求められていませんと答えれば無問題モーマンタイじゃないか、まさに禅問答のようである。
同様に審査員も力量が問われたら認証機関で定めた基準を満たしていますと答えれば良い。実際に達成する能力があるかどうかはやってみなければわからないし、できなくても力量がないことではないのだ。
言葉の遊びだって
日本は言霊の国、口から出ればそれは現実化する。いやいや元々ISOそのものが言葉の遊びではなかったのか?

しかし・・・・また新たな疑問が
いかなる仕事も力量のある人がしているのであるならば、その仕事においてミスはなく、すべからく達成されるのだろうか? 理屈はそうだ、だって力量とはその仕事を達成できる能力なのだから。
ではどの会社でも力量のある人がそれぞれ担当しているわけであるが、開発が滞り、部品調達に遅れが出、生産過程で不良品ができ、輸送では遅延が起き、販売の段階でトラブルが起きるのはなぜだろうか?
力量のない人が担当しているからだろうか?
しかし計画した技術開発ができるとは限らない。現状の技術レベルでは実現できないことは多い。
部品調達でも担当者の能力だけで達成できるわけではない。災害が起きて下請けが止まるかもしれない。高速道路で事故が起きることもある。中国が戦略物資の輸出を止めることもある。
製造工程は基本、工程能力で示されるが、それは確率的なものであり100%達成する能力ではない。
猫 まあいろいろと考えると、そもそも「達成する能力」とは概念であり、確率的というか開けてみなくちゃわからないというシュレーディンガーの猫のようなものではないか。
つまり力量そのものが概念であり仮想的なものなのではないのだろうか?
いやこれは今回定義から「実証」が消えたからというわけではなく、実証された能力といっても100%履行できることはありえない。

イージス弾道弾ミサイル防衛システムの要撃確率が80%から90%という。北朝鮮なり中国から音速の何倍もの速さで飛んでくるミサイルを打ち落とすのだから9割も防げば大したものだと思うけれど、じゃあ残りの1割はどうするんだ? 最高の技術レベル、最高の品質を要求し、信頼性の限界を要求する軍事においてそんなものだ。そしてそれに文句を言う人もいない。

「意図した結果」というのは「意図した目標を100%達成すること」ではなく「意図した目標を〇%達成すること」なのだろうか。とすれば「達成する確率〇%」とか「エラーレイト〇%」と記載した方が良いのではなかろうか。当然ISO審査員についても審査の判定のエラーレイト5%以下とかを期待する。私が過去にあいまみえた審査員閣下のエラーレイトは50%くらいだったけど

それからもう一つ疑問がある。
どんな会社でも常にチャレンジする。そして個人も常に向上しようとしている。
だから常に一つ上の仕事をしよう、より良い仕上げ、より早く、より安く作ろうとしている。とすると常に失敗のリスクがあり、リスクのない仕事は進歩がない方法ということになる。
力量という観点で見ても、自分の力量を超えるものを目指し、部下にはより難しいものに挑戦させるだろう。フォークリフトの免許のない者に取らせようとし、スクリーン印刷のできない者に教える。
さて、ISO規格で「力量を備えていることを確実にせよ」とはどういうことを言っているのだろう?
神ならぬ身、せいぜい「相手の能力を見て仕事を与えること」程度でよろしいのではなかろうか?
それ以上のことが人間にできるとは思えない。

うそ800 本日のお願い
過去に書いた駄文も参照願います。きっとお役に立つでしょう。


外資社員様からお便りを頂きました(2016.11.28)
おばQさま 毎度、参考になるお話を有難うございます。

「力量を備えていることを確実にせよ」とはせいぜい「相手の能力を見て仕事を与えること」程度でよろしいのではなかろうか?

まさに、仰るとおりだと思います。
某米国系ファーストスード店では、誰でも作れるように、設備とマニュアルを整備するそうですから、これですと普通の身体能力があれば十分ですよね。
身障者の雇用も法律で義務付けられるならば、それも考慮されるでしょうし、英語が話せなくても働けることを考えれば、言語能力さえも不要かもしれません。
となると、審査員は、マニュアルや設備が十分かを判断するのでしょうか、興味があります。

さて、台湾で、ISO審査の内部監査に立ち会ったことがあります。
ここで感じたのは、「日本語はあいまいな言語だと」という点です。
中国語ですと、「出来る」ということを、少なくとも三つの表現があります。
  • 「会」:個人、または対象にその能力がある場合:
     例(日本語が喋れる、プールで1km泳げる など)
  • 「能」:時間、空間的な制限で出来る
     例: 明日は運動会が出来るかなど
  • 「可以」:許可が必要な事項
     例:ここで写真撮影が出来る、タバコが吸えるなど
当然ながら、ISOの審査での監査では、以上の「可以」「能」「会」を使い分けて聞いているのですね。
ですから、質問をきけば、その法的な可否を聞いているか、時間などの制限について聞いているか、担当者の能力について聞いているのか、自然と判ります。
これが、日本語の場合には、「出来ますか」とか、「力量がありますか」の質問となり、挙句に主語が省かれていたら、質問者と回答者の考えや前提条件が異なっている状況は、多々あるのではと懸念しております。
ましてや、審査員自体が、明確に「可能」の背景の区分をしていなければ、聞いている側自体が矛盾した質問を発するかもしれません。
いつもご指摘があるように、頓珍漢な審査員がいるかもしれませんが、それ以上に日本語を用いた審査というのは、主語、述語、目的語などを明確にして行うべきだと、つくづく感じました。
ちなみに、台湾での内部監査のときに、通訳をした人は、中国語から日本語に翻訳するのは簡単で、「可能」といえば間違わないけれど、日本語から中国語にするときには、上記のように広い意味を持つ言葉を、個別の用例に当てはめて言い換える必要があるので大変だといっておりました。 そりゃそうでしょうね。

外資社員様 毎度ありがとうございます。
うーん、日本語の「できる」は確かにいろいろな意味合いがありますね。普通はお互いにどの意味合いなのかということを感じ取って意思疎通を図っているわけでしょうけど、ずれが起きたら問題ですね。
ただそれを日本語があいまいだというのではなく、翻訳時点でその意味を語句上に表して読む人が意味を取り違えないようにすべきでしょうね。それが規格翻訳というものでしょう。
とはいえ一般に審査で議論が白熱してくれば通常は対訳本を取り出して「英語では」という話になるのが普通です。
あっ、でもISO担当者以外はそんなことをしませんにんよね。
それと思い出しましたが、某認証機関の社長で有名な人が「legible」とは「わかりにくい文章のこと」なんて騙っていましたから、審査員のレベルがダメダメなのは明白です(トホホ)
話を変えます。
外資社員様も私ももう引退した身、ISOのトラブルを肴に酒を飲んでてよろしいのですよ。たかがISOでカッカすることもなさそうです。冷やかし程度でよろしいかと

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