呉に行ってきました

2017.06.26
呉市にある戦艦大和の博物館である「大和ミュージアム」(正式名:呉市海事歴史科学館)ができたのは2005年。そしてその隣にある「てつのクジラ館」(正式名:海上自衛隊呉資料館)ができたのは2007年だった。当時私はまだ現役会社員で、1年中日本各地を出張で歩き回っていた。当時は映画「男たちの大和(2005)」を撮影したときのセットもあったと思う。仲間が大和ミュージアムを見てきたよというのを聞いて、行ってみたいなあと思っていた。
今考えると、広島出張のとき多少ズルして前日にでも足を延ばしてもよかった気がするが、当時はまじめというか小心であったし、仕事が山積でそんなことをすることなど思いもよらなかった。

さて、引退してからは毎年2回ほど家内と安いバスツアーに参加して、あちこち見て歩いている。伊勢神宮、金毘羅山、出雲大社、厳島神社、箱根、札幌雪祭りなどなど。これから行ってみたいところは、リノベーション後のお伊勢参りと熱田神宮だ。
ちなみに死ぬまでに善光寺、伊勢神宮、金毘羅山には参拝しなければならないことになっているそうだ。そうであれば私は既に義務は果たした。
神社仏閣だけでなく博物館などにも一緒に行く家内であるが、大和ミュージアムとなるとあまり興味がないようで、一緒に行こうと声をかけにくい。もちろん家内も私が大和ミュージアムに行きたいのを知っていた。
とはいえ千葉から呉までの運賃と宿泊を考えると8万や9万はかかる。簡単ではない。安いツアーがあればいいのだが・・

2か月くらい前だろうか、家内が出張パックというのがあるよと声をかけてきた。出張パックとは懐かしい。私が現役時代、出張旅費を少しでも安くしようといつも利用していた。なにせ行かなければならないところに行かなくちゃならないし、出張旅費が予算オーバーしないようにするのも私の仕事だった。
出張パックとは宿と行き帰りの交通機関がセットになった安売り旅行である。予約したら変更がきかないとか、必ず宿泊がセットで日帰りはないとか、多少制約はあるが、ホテル付なのに往復運賃よりも安いのだからありがたい。
旅行
単純な使い方でなく、いろいろテクニックも使った。例えば福岡と沖縄の両方に仕事があるとき、普通に考えると東京を発って福岡で仕事して那覇に飛んで泊り、翌日那覇で仕事して夕方東京帰りであるが、そういう出張パックはない。
出張パックを使うなら、福岡と那覇と二度出かけなければならない。そこで頭をひねり東京から福岡に飛んで仕事して福岡に一泊し、翌朝、那覇に飛んで仕事して那覇泊り、翌日那覇から福岡に飛んで空港で乗り換え東京に帰るのである。これだとまっとうにチケットを買いホテルをとるのに比べると4割以下の費用で済んだ。
ついでに言えば、福岡乗り換えで夜遅く帰宅して翌朝普通通り出社するより、福岡に泊まって11時に出社の方が楽だし仕事開始が2時間遅くなるだけだ。それでも数千円アップである。これは使わずにいられない。

家内からもらった出張パックのパンフレットをみると、出張パックとは別に出張でなくて観光でもよく、会社員でなくて定年退職者でもよいのである。
ヨシ、では行ってみようと思い立った。
「大和ミュージアム」と「てつのクジラ館」は呉市にあるが、パンフレットをみると「東京⇔呉」というパックはないから、「東京⇔広島」というものをみる。一泊では見学時間が足りないだろう。二泊だと2万6千円である。それが底値で、使う飛行機の時刻によって多少値段が上がる、泊まるホテルをグレードアップすることもできる。行き帰りの時刻を考えて多少高くなったが、それでも3万円以下だ。

予約するとそれからもう遠足前の小学生のようで眠れない。私も子供である。前日は荷物をまとめる。といっても下着とカメラくらいしか持っていくものはない。当日昼すぎ、喜び勇んで羽田に行く。うれしいねえ〜、楽しみだよ
天気予報では広島が雨というが、私の熱意があれば雨雲など散らしてしまうぞ!

初日はホテルに着いてもまだ5時である。まして西日本は日暮れが遅い。夕飯を食べる前に駅周辺をさすらう。するとお好み焼きという看板が多い。広島風お好み焼き発祥の地である。全国チェーンの居酒屋では芸がない。ガード下のチェーンでないお好み焼き屋に入る。
不肖、おばQ広島風お好み焼きなるものは初めてでござる。お店のおばさんに、お好み焼きを食べたい。オススメはなにか、と尋ねると親切丁寧に教えてくれる。豚玉が基本でソバかうどんの有無、トッピングの種類などを選ぶらしい。何も知らないのでお勧めを頼み、更に牡蠣のバター炒めを進められたのでそれを頼む。そのときにはすでに一杯目の生ビールが終わる頃で、お好み焼きがきたときには二杯目である。オバサン曰く、マヨネーズはダメ、うちにはおいてないからねという。広島ではマヨネーズは邪道らしい。
いや、旨い。特に牡蠣バターは最高だ。あれよあれよという間に生4杯飲んでしまった。5杯目を頼もうかと思ったが明日を思って我慢。
そのあとホテルに帰ってバタンキュー

翌朝目が覚めると寝違えたようで肩こりがひどい。ホテルの枕はどうしてあんなに高いのか、私は自宅では形ばかりの低い枕なのでひどい目にあった。
ホテルを出ると小雨が降っていた。私の熱い思いよりも低気圧が強かったようだ。
ともかく広島駅から呉線に乗り、私はやって来ました日本海軍のメッカ、呉軍港!
ちなみにここではスイカが使えました。文明の進歩はすばらしい。


大和ミュージアム ↑


大和ミュージアム ↑


大和ミュージアム ↑


大和ミュージアム ↑


呉駅を降りて、さてどう行けばいいのかと思いましたが、心配無用。改札口からたくさんの案内板が通路天井からブラ上がっています。「大和ミュージアムはこちら」と5mおきくらいに掲示板があるのです。しかも改札と同じ高さの屋根付きの通路がまっすぐに伸びております。大和ミュージアムまで、これでは道に迷いようがありません。とはいえ歩いて7・8分はかかります。

正直言いまして、私は大和ミュージアムに来る人など少ないと思っていました。ましてや平日の真昼間、閑散としているのではないだろうかと、
ところがそうじゃありません。駅から大和ミュージアムまでの通路はアリさんの行列のごとくゾロゾロと人が連なっているのです。ますます道に迷いようがありません。

建物の前に着きましたが、心を落ち着かせるために前の広場を歩きます。広場には戦艦陸奥(むつ)の砲身とかスクリュー、舵などが置いてあります。陸奥は停泊中に原因不明の爆発事故で沈んでしまいました。戦争が終わってから引き揚げられたそうですが、そのおかげで主砲などが残ったそうです。
博物館の中に入って順路を歩きます。戦艦大和だけでなく、呉軍港とか海軍工廠(海軍の造船所)、呉海軍航空隊などなどたくさんの資料が展示してあります。
展示物の目玉は戦艦大和の10分の1模型。模型といっても長さ26mですから大きい。そのほかにゼロ戦とか当時の魚雷の現物など多数あります。
戦艦大和

でも私は元々は機械製図工です。そういうものよりも当時の図面、製図道具、マイクロメーター、ノギスなどに興味がありました。展示してあった図面はみな青写真。紙に書いて墨入れした昔は大変だったと思います。墨入れした紙の下に感光紙を置いてお日様が照っているときに何時間かおいて感光させていたんだろうなあ、風が吹いたり日が陰ったり雨のときは担当者は泣いたんじゃないだろうか、なんて思うのです。
私の時代はジアゾコピーの時代でしたので曇りでも雨でもコピーはできましたからね。科学技術の進歩というものは一点だけ進歩するとか、なにかひとつ発明されたら発展するということはないと思います。戦艦大和の設計にそろばんの名人を何百人も集めたと聞きますが、じゃあ計算機があれば簡単だったのかといえばそうではなく、図面のコピーもあるでしょうし、設計室の照明改善とか製図のドラフターとかもなければ当時よりも仕事が早く進んだとは思えません。

博物館の外にでるともう雨は上がり完全に晴れ上がっています。私の思いが天に通じ低気圧に勝ったようです。スマホがブルブルしたのでみると友人からメールが来ていました。彼は私が呉に行くのを知っていて雨で残念だったね♪ というからかいメールでありました。いやいや快晴だよと返信すると、そりゃ残念とのメールが。

入場する前に見た陸奥の主砲が飾ってあるのはミュージアムの陸側ですが、海側には岸壁に実物大の戦艦大和の平面図が描いてあり、そこに主砲とか機関銃が書き込んでありました。大きいなあと感動。単なる図でなく立体であればより大きく感じると思います。
これグーグルマップの航空写真にすると見えます。
しばしその辺を見た後、ビーコンなんてカレー屋で海軍カレーを食べました。

お腹も気持ちも落ち着いたところで再度博物館に入り土産物の調達です。我が家は旅行に行ったとき、他人に土産を買わないルールで、買うのは自分へのお土産です。私は資料となる本をいくつか買いました。大和の本はあっても大和ミュージアムそのものの解説書がないのがちょっと残念。
その他にピンバッジを買いました。私は旅に出たり山に登ったり博物館などに入ると必ずピンバッジを買います。まあ趣味というか記念というか

あまりここだけで時間を使うと「てつのクジラ館」の時間が足りなくなります。
「てつのクジラ館」は道路を挟んだ向かい側にあります。まあとんでもなく大きな本物の潜水艦が飾ってありますから迷うことはありません。
こちらは海上自衛隊の施設で入場無料です。ところが大和ミュージアムが大勢の人がいたのに対して、こちらは入場料がただなのに閑散としていました。潜水艦には興味がないのか存在に気が付かないのか、残念です。

「てつのくじら」というので文字通り潜水艦の博物館と思っておりましたが、実は半分は掃海に関する展示でした。掃海とは機雷を取り除くことです。機雷といっても今の人は知らないかもしれません。私が子供であった昭和30年頃は新聞などに、どこそこで機雷が見つかり処理されたなんて記事が載っていました。機雷処理する人たちの映画をみた記憶もあります。それは太平洋戦争のときの機雷ばかりでなく、まさに冷戦時のそのときにソ連や北朝鮮が設置したものだったのです。ですから機雷とか掃海というのは私にとってはなじみ深いものです。そんなことから掃海についての展示は非常に興味がありました。

機雷
昔の機雷は、丸い本体に多数のトゲトゲがついた爆弾を海面下に錨で止めておいたり、海上に浮かべて船が接触すると爆発する単純なものだったそうです。しかし今は海底に設置していて船が近くを通ると海底から浮上して船に近づいて爆発するとかアブナイ方向に進化しているとかいろいろ説明がありました。
驚いたのは機雷処理は私の子供時代に終わったのではなく、今現在も毎年多数の機雷が発見され処理されているということです。ビル工事などで不発弾が見つかって住民が避難して自衛隊が処理するなんて報道をされることがありますが、海でも機雷が見つかりそれを処理しているのです。それも太平洋戦争のときの残滓ではなく、今現在、某国が放流したり設置したりしているのです。平和だ平和だと浮かれていられません。機雷の処理は命がけです。担当される方々に感謝し、また無事をお祈りいたします。
なぜかそういうことはマスコミが報じません。不思議なこともあるものです。
それにつけてもひどい国があるものですね。サヨクのみなさんどう思います?

博物館の展示物の後半が潜水艦関係です。潜水艦はどこの国でも秘密。公表されている潜れる深さとか速力などは半分が嘘らしい。この博物館でもそういったところはボカしてあります。
しかし日本海軍時代の潜水艦についてがほとんどない。戦後のアメリカ軍の援助と教育で今の自衛隊の潜水艦があるような説明だったのがいささかショック、非常に残念です。
それはともかく今まで護衛艦とか掃海艇などは基地見学でいくつも見ていましたが、潜水艦は見たことがなかったので面白い。潜水艦の中はとにかく狭い。寝るところは昔の寝台列車のようなものですが、その隙間というか高さが非常に狭い。寝返りも打てないほど。私はあんなところではとても暮らせない。

さて広島に帰ろうと呉駅に戻るとちょうど電車が発車するところ、なにせ1時間に3本とか4本しかない。1本遅れると大変です。急いで飛び乗ったらなんと広島と反対方向に走り出しました。同じホームから両方向に発車するなんて反則だよ。
この日も別のお好み焼き屋で食べる。やはり牡蠣がサイコー
夜うるさくて目が覚めると、ホテルの廊下で中国人同士が怒鳴りあっている。怒鳴りあうといってもけんかではなく、ようするに声が大きいのだ。彼らには夜は周りに気を使うという常識はなさそうだ。まったく中国人や韓国人はどこにいっても迷惑ばかり

入場券など

入場券やパンフレット
最終日、すぐ広島空港に行くには時間があるので、広島城、縮景園、美術館などを歩く。
お城は安普請だし、美術館もたいしたことはない。しかし縮景園はいい。高松の栗林公園よりはるかに規模は小さいけどこちらのほうが気に入った。
たまたま観光ボランティアがいて歩いて行ける名所オススメを聞いたら、世界平和記念聖堂をぜひ見ておけと言われた。行ってみたら工事中だった。ボランティアならちゃんと調べておけよ。
原爆ドームや平和記念公園などは何度も行ったからもう行かなくていい。

3日間の旅行で使ったお金が1万少々。出張パックと合わせて旅行の総費用4万円也
呉に行けと言ってくれた家内に感謝しております。帰宅して家内にありがとうと言ったら笑い飛ばされた。

大和 本日 反感を持たれた方へ
戦艦大和など軍国主義のシンボルだ、大和ミュージアムに行くなんて右翼だ!軍国主義者だという方もいるかと?
大和で戦死した臼淵少佐はこう語ったそうです。
「進歩のない者は決して勝たない 負けて目覚める事が最上の道だ 日本は進歩という事を軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺達はその先導になるのだ。 日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃあないか」
まあ人により思うことはいろいろでしょう。
私が思うことはそれとは大きく違うんですよ。戦艦大和を作ったというのはいろいろな意味があるでしょう。超弩級戦艦を必要と考えた人、企画した人、設計した人、手足を動かして作った人々、
企画した人は進歩のない時代遅れかもしれないけれど、設計した人、作った人たちは最高の仕事をしたと思います。
私は工業高校を出てから機械製図工、現場作業者、現場監督、管理者、品質保証といったことをしてきました。いずれのときも、自分が夢見た製品を創る立場ではありません。与えられた仕様を具体化すること、与えられた図面通りに作ることが使命でした。そして私は義務をまっとうしてきたつもりです。
戦艦大和を作れと言われ、設計し作り上げたことは偉大なことであり、私はそれに関わったあまたの技術者、技能者を尊敬します。そして己がその末裔であることを誇りに思います。
私が工業高校機械科に入ったのは、そこしかいけなかったからではなく、金勘定したり、物を売る、畑を耕すことよりも、図面を引いたり、金属を削り形あるものを作ることが天命と思ったからです。そして40年間そういう仕事に従事してきたことを誇りとします。
私が戦艦大和に思うことはそれ以上でもなく以下でもありません。
おっと、大和を作った人たちだけでなく、大和で戦った人たちも時代遅れでもなく居眠りしていたわけでもない。将来のつまり今の日本のために最善を尽くしたのです。それは国会前で反日を叫ぶ人たちとは比較にならない崇高なことです。



外資社員様からお便りを頂きました(2017.06.27)
おばQさま
広島への旅行のお話し有難うございます。
私も、昔 仕事で出張したことがありますが、ほとんど観光したことはありません。
宮島、大和、くじらは、行きたい場所リストにありますので、参考になりました。
巨大な船を工業力の指標として考えれば、幕末の横須賀造船所に始まり、官営の造船所が技術をリードして来た集大成でありピ−クが「大和」なのでしょうね。
そのドックは、戦後も使われ、復興にも貢献しました。
私もエンジニアの端くれなので、おばQさまの感想に通じるものがあります。

>くじらの博物館での掃海の展示
朝鮮戦争の時に、旧海軍の関係者を特別掃海隊を組織して、朝鮮半島で掃海作業を行い、被雷による行方不明(死亡)1名、重軽傷18名、戦後の掃海作業を通じて、70名以上の殉職者を出しています。
その辺りのお話しは、書いてありましたか?

それにつけても、旦那さんに旅行情報を見つけてきて、送り出す。
よい奥様ですね。これからも、旅行のお話し、楽しみにしております。

外資社員様 毎度お世話になっております。
実を言いまして、私が結婚してから今年で43年になりますが、出張を除いて私一人で旅行に行ったということは今まで一度たりともないことに気づきました。観光であれ冠婚葬祭であれ常に家内と一緒、家内の監視下でしか旅に出たことはありません。よほど信用がなかったのか、あるいは仲が良かったのか、後者はあり得ないような気がいたしますが・・

朝鮮戦争の殉職者のことはちゃんと書いてありました。しかし殉職なんですね、戦死じゃありません。それと運輸省職員は靖国に祀られないのでしょうか? そのあたりよくわかりません。


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