倉山 満とISO

18.10.18

このところ倉山 満に凝っている。倉山 満とはご存じのように最近売れっ子の保守系歴史家である。特に憲法について改憲派も護憲派も
倉山満
本当はお笑い芸人みたいな
顔ですが真面目顔に修正済
両方まとめて論破して、ちぎっては投げちぎっては投げという活躍。
ウチは惚れてしもうたわ・・なんてことはないけれど、いろいろと感じるところがある。
もっとも「理解するとは相手の中に自分を見つけること」という言い方もあり、私が感動したというのは、単に倉山 満が私の考えに似ているというだけかもしれない。
ともかく彼の著書を読んで、あっ、ISOの理解はこうでなければならなかったのかと気づかされたことがあったので、それを書く。

倉山 満は「憲法とは憲法典だけではない」と語る。憲法とは元々は英語のConstitutionの訳、ではConstitutionとはなにかとなると
1. a set of basic laws and principles that a country or organization is governed by
2. the document embodying these principles.

1番目は国や組織を統べる基本となる(複数の)法や原則、2番目はそれらを書き留めたひとつの文書である。
1番目は2番目を含めた法律や不文の慣習などを含めたものをいう。2番目は憲法を書いた文書のことで憲法典という。世界には憲法典のないイギリスのような国もある。

ご参考まで: Constitutionとは元はラテン語で、勅令のような規則とか命令の意味であった。つまり元々は最上位の法の意味ではなく、法令一般のことだった。そのニュアンスからは1番目が元々の語義なのだろう。
 参考:https://en.wikipedia.org/wiki/Constitution

普通我々は上記2番目の意味で憲法を理解している。そして改憲という言葉は、憲法改正ではなく憲法典改正の意味と理解されている。国会でも憲法学者もいろいろなことを語っているが、その議論の対象は憲法典に限られている。
倉山 満は改憲だ、護憲だと騒いでいるのは憲法典についてだけじゃないかという。しかし憲法とは前記の1番目の意味であり、日本国憲法という文書に書かれた103条だけでない。憲法全体を考えてみよ、違う面が見えるだろうと語る。

しかし憲法典でなく憲法となれば改正ができるのかできないのかさえ判然としない。だって憲法はその国の形である。日本の姿形は、縄文時代に始まり弥生時代、古墳時代からの連綿とした歴史の上にある、その歴史によって作られてきた文化、風俗、ものの考え方が積み重なったものだ。過去2000年の歴史を経て作られてきた、価値観、風習、道徳というものが現実にあるわけだ。
それを明日からこうしますねといったところで、変えることができなものは多々あるだろう。二院制を一院制にする憲法改正は可能だろう。でも勤労が義務かどうかはともかく、国民に勤労するなという改正はできそうにない。世の中の憲法論議は憲法典論議としなければ意味が通じないはずだ。
もっともそれ以前のことだが、勤労の義務など憲法で決めるものではないだろう。現憲法が元々病的というか異常なのだ。価値観、道徳まで憲法で決めつけるなら、それは独裁以上の洗脳国家だ。
なお、教育勅語は法令ではなく天皇のお言葉(勅語)である。
だから憲法典の文章表現でなく、包括的な憲法について議論しなければならんという。そして憲法解釈は憲法典だけでなく、広い意味の憲法解釈であるべきと語る。

おっと、法律の解釈には大きく言って文字解釈と論理解釈があるが、彼の言う解釈はその段階でなくその前の基本的なこと、つまり一つの条文を解釈するとき文字解釈であろうと論理解釈であろうと、憲法典だけでなく包括的な憲法を踏まえて行えということ。

次の話である。
昔から日本の憲法典や法律には序文も前文もない。日本国憲法(案)といういいかげんなものをGHQから押し付けられた人たちは、それまでの憲法典になかった前文を見て「前文とはなんぞや?」と思ったそうだ。前文とは以下に続く文章がどのような意図で作ったのかを示し、解釈の指針となるものであった。いってみれば憲法典の条文を読むときのスタンス・心構えである。
となると前提が間違っていた時は、憲法は間違っていることになるが、どうだろう?

前提が間違っているとは: マッカーサー憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とあるが、「平和を愛する諸国民」が実在したことは過去70年間なかった。竹島では韓国軍に漁師が殺され、日本海の海岸からは北朝鮮に大勢がさらわれ、尖閣列島では中国人によって海上保安官が負傷している。そして日常的に領空も領海も侵入されている。
前提が間違っているなら、本文にある憲法9条も間違っていることになる。

昔の法律には前文がなかったが、現在では憲法以外にも前文のある法律が結構ある。その多くは基本法であるが基本法以外の前文のある法律も、細かいことを定めたものでなく一般方向を定めたものであり、細かいことは下位法令に振っているものが多い。だから前文が必要なのだろう。
つまり条文を読むときは前文を踏まえて読めということ。もちろん基本法など上位の法律がある法律は、それを法律を読まないとその意図を解釈できないだろう。公害防止なんて担当していれば、言われるまでもないことではある。

前文がなくても、法律の中に基本的な考え方を示す条文があるのもある。例えば「民法」だ。
ご参考まで: 民法 
(基本原則)
第一条
  私権は、公共の福祉に適合しなければならない。
2 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
3 権利の濫用は、これを許さない。
(解釈の基準)
第二条 この法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等を旨として、解釈しなければならない。

法律の第1項には「1」を付けない。なぜ第1項と書かないのかというと、元々法律は項番を振ってなかった。1条の内容が長くなって小分けしないと分かりにくくなったので、昭和22年から記述内容が変わったところに第2項以下項番を振るようになった。つまり第1項と書かないのでなく、第2項以下を書くようになったということだ。

民法を読むときは、まずこの第1条と第2条を理解したうえで、民法の条文を読み解かなければならない。
これは以下の条文を読むときの前提だから以降の条文には二度と書かない。例えば男女平等という言葉は第2条にあるだけで以降は出てこない。
契約書も労働協約も約束も、取り決めは信義則に基づき結び、信義則に基づき解釈する。それは文字解釈でも論理解釈でも同じことだ。

では本題である。
とりとめのない文章が続いたが、憲法典と憲法の話とISOがどうつながるのか?
そもそもISO14001規格の意図は「遵法と汚染の予防」である。ちなみにISO9001の意図は「顧客満足」だよ。だからISO規格の要求事項を読むとき、「遵法と汚染の予防」と「顧客満足」という意図を忘れてはいけない。

そしてISO規格には前文はないけど序文がある。ISO規格を理解するときは、4章以下の要求事項だけでなく、序文を踏まえて行うということだ。
規格の要求事項を写経したり暗記している人は多いけど、序文をすり切れるほど読んだ人はいないだろう。私もだけど、

ISO14001の序文に書いてあることはなにか?
人間活動によって環境に与える影響が大きくなった。だから組織(企業など)はその影響を抑えるよう期待されている。そのためにしっかりと環境影響を管理する体制を作り運用しなさい。そして常にその体制を改善していきなさいということである。
すべての要求事項はこの序文を踏まえて読めということだ。要求事項は文字解釈するわけだが、その解釈は序文を踏まえなかればならない。

個々の要求事項
序文
規格の意図
アネックスは要求事項ではないが、広義の憲法には含まれるだろう。

っと、「序文を考慮して本文を読むことを行間を読むという」なんて寝ぼけたことを言ってはいけません。序文だけでなくアネックスもISO14004も、遡ってISO14001作成のトリガーとなったリオ宣言も考慮すべきですが、書いてない文字を読んじゃだめなんです。

「ISO規格は行間を読め」なんてアホを騙るエセISO専門家もいるけど、それはまったくの間違い勘違いである。ISO規格は日本的社会の産物ではない。契約社会の作りだしたものであり、書面に記載されていないことは無縁である。
1992年のこと、当時ISO9001の講習会で講師が語ったのは、発祥の地イギリスでもISO規格やその基となったBS5750を正しく理解できるのは弁護士であると語った。要するに法律とか契約書と同じ感覚、同じ論理で書かれた文書であるということだ。行間を読むなんていう非論理なことがあるわけがない。
ということでISO規格の解釈は文字解釈しかないのは自明である。

ではどのようにISO規格を読むのか?
具体例として、私が常々文句を言っている「有益な環境側面」をとり上げて考えよう。
ISO14001要求事項には2004年版にも2015年版にも「有益な環境側面」なんてものはない。しかし過去より「有益な環境側面がないから不適合」という言いがかりをつけてきた審査員は数多いる。それどころか「有益な環境側面」があると唱えるISO業界の有名人は多く、それをタイトルにしたISO本も多数ある。
環境側面の条項を読んでも、「有益な環境側面」なんてものはない。
しかしそればかりでは破壊力が不足かもしれない。倉山 満流に序文を基に考えれば、また違った観点からの見方もあるかもしれない。

序文には己を知り、良く管理せよ、改善せよとあるだけだ。
ところで原文の「significant」は「重要」という日本語が充てられているけれど、英語の意味は単なる「重要」でなく「重要な影響がある」あるいは「重要な効果がある」という意味です。

Reading books is important.読書は重要です。
Reading the book is significant.その本を読むのは有意義(重要な効果)です。

参考・ENGLISH LANGUAGE & USAGE
differencebetween.com

では「有益な環境側面」というニュアンスは規格条項のどこから受け取れるのか?
文章にあるのは「環境側面」を把握するときは、「環境影響」は有害だけでなく有益も考慮しろといっていること。「環境側面」は有害だけでなく有益も把握しろではない。

ひとつ誤解したのかと思えることがある。汚染の予防である。
「汚染の予防(prevention of pollution)」の定義は汚染の低減だけでなく、効率化、代替え、再生などを含むというのは1996年版から変わっていない。 この汚染の低減以外の効率化などを座標の原点(ゼロ)にあると解して「有益」と誤解したのかもしれない。だが素直に読めばそれが同じでディメンションであり、なんら異なることではない。
同じ軸上にあるわけで、法規制や社会通念が変われば原点そのものが変化する。白熱電球がデファクトだった2000年代、白熱電球を蛍光灯電球に更新するのは有益な側面ですとドヤ顔していた審査員がいた。LED電球が当たり前になった2010年代では、蛍光灯電球は有害な側面で、LED電球に更新するのは有益な側面なの? そしてもっと効率の良いものが現れれば?
バカバカしくて議論にもならない。
白熱電球
矢印電球型蛍光灯矢印LED電球
俺は最初から、
最後まで悪者か
以前は褒められたけど
今は悪者、悲しい
俺もすぐに悪者さ
「蛍光灯電球は有益な側面」と語った審査員(s)、反省しなさい !

そもそも要求事項に「有益な環境側面」がないのは間違いない事実だから、「有益な環境側面」があると唱えた人は、序文を読んでそう解釈したのか? となると序文のどこにそう読めるあるいはそう読むべきところがあるのか? それが謎だ。
文字に書かれてなくて行間に書いてあるとなれば、もはや論理ではない。
行間でなく文字に書いてることは必須だ。文字にないことを不適合と主張するには法解釈としては正しくない。そんなことは信義則にもとる。

ともかく、該当条項に「有益な環境側面」はないし、序文の趣旨を踏まえても「有益な環境側面」は読み取れない。そして定義から言って元々「有益な環境側面」は論理的に存在しない。「有益な環境側面」の要求がないのではなく、論理的に「有益な環境側面」は存在しない。

過去からISO審査において「有益な環境側面がない」という不適合を出した審査員は数多いた。これからもそうだろう。 残念ながら彼らを説得することは難しい。非論理的な人を説得することは理屈から言って不可能だ。できることは洗脳しかありません。せいぜいがそのようなことを語る審査員には異議申し立てをし、審査員更新を妨げるしかないように思う。
ところがである。審査員登録の判定委員の中にも有益な環境側面を叫んでいるISO業界の有名人もいるのだ。お先真っ暗だ。有益な側面を語るアホが有名人でいられるということは、ISO業界のレベルが低いことなのだ。
ヤレヤレ
もっともそれがISO認証の価値を落とし、登録件数減少を推進しているのかと思うと、自然の摂理、フィードバックは捨てたもんじゃないという気もする。

「有益な環境側面」がいかにISO14001の意図に反したことかの説明が長くなったが、それはすべての要求事項について同じことが言える。

「規格の要求事項○○が環境マニュアルに書かれていない」というタイプは、ティピカルな不適合である。2012年頃、私が手に入る限りの審査報告書の不適合を集計しとき、不適合の2・3割を占めたように覚えている。
私が一番驚いた不適合は「環境方針に「枠組み」という語がありません」というものだった。方針の中に「枠組み」という語がなければならないという。呆れて声も出なかった。即座に認証機関に抗議したのはもちろんだ。
2015年改定で「環境マネジメントシステムの文書にこの規格の箇条の構造又は用語を適用することは要求していない(附属書A A.2)」と明記された今は、そんなアホを騙る審査員はいないことを願う。
私はとうに引退したし、同業の仲間たちもドンドン引退している今では数多くの審査報告書を見る機会がなく知るすべがない。ご存じの方教えてください。

「環境側面は点数で決めなければならない」という統一見解(!)を持っていた認証機関もある(注1)。彼らがそれをゴリ押ししなくなったのは2007年頃からだと思う。それまで私は困った会社から頼まれると、リテラシーのない審査員を相手に熾烈な戦いをしたものだ。いや無毛な戦いであった。そういう認証機関は「遵法と汚染の予防」という規格の意図をわかっていなかったのだろう。彼らの意図は「バカでもわかる規格解釈」「誰でもできる幼稚な審査」だったのだろうか?

そう言えば: ISO14001:1996のアネックスA.3.1環境側面に
このプロセスは、活動、製品又はサービスに伴う著しい環境側面を特定することを意図しているが、詳細なライフサイクルアセスメントを要求するものではない。
という文言があった。2015年版では本分でなくアネックスA.6.1.2に移ったが考慮しなければならない重要性は変わらないだろう。
ライフサイクルアセスメントについて詳細なことを要求しないというのだから、点数で評価せよという趣旨とは思えない。前述の某認証機関が環境側面の決定には、点数を付けなくちゃいかんと読んだ根拠は何だろうか?

25年前からISO審査に関わる人たちがその規格の目的を理解して素直な審査をしていたら、今頃はQMS認証件数が20万、EMSが10万件とか隆盛していたのかといえば、何とも言えない。だけど「ISO9000で良くなったのは文書管理だけ、ISO14000で良くなったのは紙ごみ電気」なんて揶揄されることはなかっただろう。

一行だけとらえるのではなく文全体を読む、それだけでなく文書全体を読む、いやその文書が作られた背景を考慮して読むというのは当たり前のことだ。
当たり前のことが行われていれば、ISO審査で不毛な議論はなかったと思うのだが?
トンチンカンでアホらしい規格解釈は、不毛というだけでなくISO認証制度を貶める行為だ。
まあ、反省している人はいないだろうけど・・・

うそ800 本日の跋文ばつぶん
憲法改正とISO規格を正しく解釈すること、どちらが困難か悩むほどにISO規格解釈は難しいようです。

跋文:書物や文書の、本文の後に書く文章。序文の対義語


注1
ISO17021において、認証機関は独自の要求事項を定めることを認めている。しかしその場合、その要求事項を公開することが求められている。
社内で決めただけで運用しているルールを、闇テンで統一見解ですなどというのは、認定機関にいえばお叱りを受けます。
もっとも電話で苦情を言ったらそこの取締役は謝ってその後取り消したから、認証機関が決めたものではなく、ドヤ顔で言い放った審査員の脳内で決めたものだったのかもしれない。
でもそう騙った審査員は、何人もいたから個人的に間違えたとは思えないのだが・・



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