「そもそも島に進化あり」

2019.06.17
お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたいという方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。

書名著者出版社ISBN初版価格
そもそも島に進化あり川上和人技術評論社97847741825062016.08.101880円

私は会社員時代、環境のお仕事をしていた。とはいえ環境といっても廃棄物とか公害だったので、生物や生態系に明るいとか詳しいわけではない、興味があるというだけだ。
ところで生態系というとアプリオリ、つまり初めからあるとか、所与なんて思いがちだ。そうなんだろうか? そして生態系とは守らなければならないものなのだろうか?
いまある生態系はいつからあるのか? それはいつまで続くのか? それは価値があるのか? という疑問を持つのは当然だろう。生態系はアプリオリではない。アポステリオリである(注1)
スズメスズメ

ここ何年もスズメを見かけない。この前、家内と散歩していて近くの畑で数羽のスズメが地面をつついているのを見つけて、二人して「懐かしいわぁ〜」と声を上げてしまった。
スズメも生態系の一部だが、田畑が少なくなったり、農薬で昆虫が減ったり、稲刈りした稲束を干さずにコンバインで稲刈りと同時に脱穀するようになれば、環境が変わりスズメが生きているニッチがなくなることもある。生態系は固定されたものではなく、流動的というか常に変化しているものと思う。

生態系のない世界はあるのだろうか? もちろんある。生態系とは生き物の絡み合ったものだから、生き物がいないところに生態系はない。
海底火山 おっと、それを探しに宇宙まで行くことはない。数年に一度くらい小笠原諸島付近で海底火山が海面から顔を出したという報道を聞くだろう。生き物がいない物質だけの島ならば、そこには生態系が存在しないのは間違いない。もっとも海底火山が海面上に顔を出しても、その多くは風や波で侵食され、数年で消えてしまう。
波や風に負けずにしたたかに海面上の陸地が残ったところに、やがて生物が住み着き生態系が築かれていく。
この状況を描いたものに、専門書でなく小説だが「ハワイ(注1.5)」という偉大な本がある。ぜひ読んでほしいといいたいが1962年発行のこの本はアマゾンでも手に入らないようだ。

とまあ、そんなことは誰だって知っている。じゃあどんな方法でどんな生物がやって来て、どんな生態系を構築していくのかとなると私は知らない。
図書館でこの本を手に取り、そんなことを教えてくれそうだなと思い借りてきた。

この本を数ページ読んで感じることは、人によって相当違うことは間違いない。
  1. 素敵!、著者の発想がすごい……そう思う人は3割くらい?
  2. ちょっとお遊びが過ぎてるな……そう思う人は4割くらい?
  3. 付いていけないよ、ヤーメタ……そう思う人も3割くらい?

正直言って、この本にあふれる冗談、ダジャレ、言葉遊び、妄想、比喩の波に乗れないと、読み続けることは苦痛だ。
ちなみにアマゾンの書評をみると、2019/06/15時点で5人の書き込みがあるが、なんと5人とも、読んでいて楽しい、すてきだ、立派だと、★5つを付けている。たぶん、いやきっと、上記の1番の人だけがレビューを書いたのではないかな。
好きな本なら積極的に薦めるだろうけど、嫌いな人は積極的にけなすことはせずレビューしないという消極的な選択をすると思う。

私はダジャレ人間ではあるが、この本はダジャレが行き過ぎているように思う。だから私は上記分類の2番だろうか。
ゴジラ 川上先生のダジャレは、アイザック・アジモフのように上品で知的ではない。アジモフは話がそれても(計算しているのだろうけど)旧約聖書の勉強になり、中世の暮らしの描写があり、発明発見物語がある(注2)
しかし川上先生は、ガンダム、ET、ゴジラ、ウルトラマン、うる星やつらのラムちゃん、往年の歌謡曲、AKBと、とりとめがなく、単なる雑多な情報の羅列だ。雑学までいかない、せいぜいテレビのひな壇クイズレベルの知識だ。

ともかくこの本を読むということは、濃密なダジャレの弾幕をくぐっていくことである。匍匐前進中にダジャレに心を撃たれた人は途中でリタイアするしかない。
いや、個人的見解ではリタイアしても惜しくない程度の本だと思う。
実を言ってまったくなにもない大地に生物が侵入して来て生態系を作っていくことを説明している書籍、科学小説あるいは実験の記録などは多々ある。ダジャレなしに楽しみたい・知りたいならば、そういう本を選んだ方が良い。きっとストレスなく読める。

なお、この本は「島の進化」を書いているのではない。川上先生は鳥類学者として「島の生態系の進化」、つまり生き物が渡って来て生態系ができ、そしてそこに新たに侵入してくる外来生物との生存競争を海鳥という切り口で語る。まあその語るのがダジャレまみれなので(以下略



以上でこの本の解説を終わり、以下はこの本を読んで私が考えたこと、浮かんだ妄想を語る。



多くの人は結婚してそして子供をつくる。もっとも最近は子供を持つことを望まず結婚する気のない人が4割、更に結婚しても子供を作らないカップルが2割くらいいるらしい(注3)終戦直後生まれの私の小中高の同級生で未婚なのはきわめて少数だから、まさにパラダイムシフトだ。

どの民族も家族・子孫の末広がりを望むようだが、それは生き物の性だと思う。個体は寿命が尽きても種は続いてほしいというのは、不死でない者の儚い望みだろう。
とはいえ多くの人は子孫繁栄を望むが、実際は意外に多くの家系は断絶する。断絶しない家系がそれを埋めているのが現実だ。
徳川将軍家をみても15代将軍の実に6人が養子である。当時の将軍は大奥に大勢の側室がいて、子供が10人とか50人とかいう状況においてである。いかに血統とは途切れやすいかという証左だ。
私の兄弟4人のうち3人が結婚して子世代は6人いるが、そのうち4人は独身決定、2人は結婚したけど小梨だ。だから孫世代はゼロ、我が家系の断絶は決定也。
家内は兄弟3人全員が結婚し、6人の子世代があり、4人が結婚・2人が独身。孫世代が4人いる。しかしこれ以上孫世代が生まれる見込みはなく、子世代より孫世代は頭数が減少している。
我が家にとって、200年先の地球温暖化を心配したり、1000年先の氷河期を憂いたり、1万年後の隕石落下に気をもむのはまさに杞憂だ。我が家の子孫はその時存在しない。
いやいや、あなたの血統だってその前に断絶する可能性は大きい。
いや、自分の子孫でなくても、人類が生き残っていくことになんらかの意味はあるのかもしれない。

ところで人や生き物に寿命があるように、すべての島は寿命がある。
ハイビスカス ハワイ諸島というのは太平洋の真ん中で火山島として生まれて、北西に進み、最後にカムチャッカ半島の手前で海の中に沈む。だからハワイ諸島は生まれたばかりの右下(ハワイ島)は大きく、マウイ・モロカイ・オアフ更にミッドウェーと左上にいくにつれて小さくなり、ついには海上に顔を出す島から海面下の海山となりやがて消滅する。グーグルマップで地図でなく航空写真にするとその変遷が一目瞭然だ。

常夏の島
常夏の島なんて言っても、夏を何万回か過ごすと島は消えてしてしまう。

島は沈むばかりではない。伊豆諸島は北進していて本州にぶつかって島としては消えてしまう。千葉県は安房の国と下総の国からなるが、安房の国は大昔南方から来た島が本州にぶつかったものだ。だから房総半島には鋸山を始め山地が多い。伊豆半島も同じ(川上先生なら「同じく井坂十蔵」と書くだろう)。
今でも伊豆諸島は北西に年4センチのスピードで動いている。私の息子が死ぬ頃は、伊豆の大島は初島を押しつぶし熱海市の半島になっているかもしれない。
大きな島だったインド亜大陸だってインド洋を北上しユーラシア大陸にぶつかって島でなくなりヒマラヤ山脈を作った。いつまでも島でありつづけるものはない。
当然、島の生態系もそのときに寿命を迎える。もちろん多くの個体も種も存続するだろうけど、生態系は大陸の生態系と合わさり島独自の生態系は終わる。
そう考えると、固有種を守ろうとか外来種を退治しようとか意味はなさそうだ。いくら島の生態系を守ろうとしても、プレートテクトニクスの神に逆らうことは不可能だ。

島嶼に限らず、生態系保全とか環境保護なんて堅苦しく考えず、もっと人間中心に打算的に考えていいんじゃないか。
原始人 外来種はあってはならないとか、貴重な固有種だといったところで、その発想は矛盾だらけだ。
一つ質問したいが、南米にいたティラコスミルスがサーベルタイガーに敗れたのをどう考えるのか、更にサーベルタイガーが死に絶えたことをどう考えるのか?

日本列島について考えてみよう。
弥生人が縄文人を追い払ったのか、縄文人が弥生人になったのかわからない。アイヌや沖縄人が古い日本人で、大陸から遅く移って来た弥生人の列島の北端、南端に追われていったといったところで、それがどうした?としか言いようがない。
そしてそんな弥生人が持ち込んだ動物、植物、寄生虫、ばい菌が合わさったのが現在の日本列島の生態系なのだから、今更外来種を排除しろといっても、それこそ今更で説得力はゼロだ。
ブラックバスを駆除するなら食べたい魚が食えなくなるからと言えばいいし、印旛沼のカミツキガメは危険だから駆除すると言うべきだ。生態系なんて言葉を持ち出すことはない。
レッドブックを崇めシロクマを救えジュゴンを救えといい、天然痘撲滅万歳、マラリアももう一歩だという発想が理解できない。

キウイフルーツ そして今も日本の植生や生息する動植物は変化し続けている。レタスは江戸時代に入って来たというが、私が食べるようになったのは結婚してから、キウイはオヤジの葬儀で初めて見た、チンゲン菜が市場にでるようになったのは1980年代。だけど誰もレタスは畑から抜き取れとか、キウイを焼き払え、あるいはチンゲン菜を駆除しろなんて言わない。どうしてなの?
韓国が日本からおいしいイチゴを盗み出したのは有名な話。ところで韓国人は桜を切り払い、イブキの木を切り捨てているが、なぜか日本から盗んだイチゴを畑から抜いて捨てろとは言わない。 イチゴ いやいや、その逆で韓国のイチゴは素晴らしいと、いつの間にか韓国で品種改良したようなことを騙っている。

結局、外来種問題とは従来からの生態系を守れということではなく、俺たちに気分のいい生態系なら善で気に入らないのは悪というだけだ。それなら外来種・固有種という区分ではなく、明確に人畜に有害、これは有用という区分で対処した方が単純明快で矛盾なく気が利いている。
ヤギは外から持ち込んだから排除しようというのはおかしい。ヤギが草木を食べ尽くすのは農地の保全、海洋汚染防止のために良くない、よってヤギを駆除するという論理なら私は異議を唱えない。
川上先生にしても意識高い人たちも、そのへんで既に矛盾を抱えているからいけません。

私の考えを推し進めると人間も他の生き物と同列で、子孫繁栄あるべき姿、絶対の価値観なのかということも俎上に上がる。
子供の存在理由はなにか?
児童手当が入るからと考えている人も実際には多いらしい。まあ、それもあるだろう。
年老いてから養ってもらうためという人は、今は少なくなったのかな? 私の若いときは普通の感覚、常識だった。私はオヤジを養って子供に養ってもらえない世代だと職場で嘆いたら、戦争に行った先輩から仕方ないのだから諦めるしかないと言われた。諦められなくてもしかたないというのが正しいのかも?
子供を育てることによって人は大人になるのだと語った同僚がいた。それは真理かもしれないが、子供を作らなければ辛い体験をしなくて済むならそれに越したことはないのではないか? 私は山中鹿之介と違いマゾじゃない。
子供がいると楽しみが増えると語った同僚もいた。なるほど、それは実感として分かる。でも楽しみと苦しみの比較はせねばならない。

ところで自分の生きた証を後世に伝えるには血統だけではない。ソクラテスに子供がいたかどうか知らないが、彼の弟子たちは彼の意図を継いでくれたのは間違いない。技術技能を後輩に伝えることも、自分の存在を後世に伝えることになるだろう。私は後輩に懇切丁寧にジグ設計とかNCプログラムを教えたが、人徳がなく誰も習おうとしなかった。トホホ
世代を通した血のつながりでなく金のつながりである年金を考えると、経済計算すると未納者のほうが分が悪いが、それを承知で未納ならそれでも良いのではなかろうか? 若いとき年金を払えば老いてからもらえる。若いとき子を残せば思いを託せる。
お金や技術における世代のつながりにおいても、子孫を残さなければならないということもなさそうだ。
いろいろ考えると人類が継続して生きていくことになにか理由があるのだろうか?
前に述べたが地球温暖化、氷河期、あるいは隕石で人類滅亡を心配するのは、人類は生き続けなければならないという価値観(強迫観念)だからだろう。生き続けなければならないという根拠はなんだろうか?

ちょっと一歩引いて視野を広くしてみようか
今まで滅んでしまわなかった動物や植物があったのか?
シーラカンスは生きた化石とか言われているし、ゴキブリは3億年も姿形が変わっていないという。しかし適者生存という鉄則はすべてに共通だ。たまたま環境が変わっても適者だったのか、それとも我々が気付かないところは進化しているという可能性が大きそうだ。
おっと、言いたいことはそもそも永遠に姿かたちが変わらなかった生物はいないということ。環境変化に適応するには進化せざるを得ないことである。
地球温暖化したら現生人類が滅びると考えるのもアリだが、高温になった地球に適応した人類が生きているという想定もある。もちろんタンパクが変質するほどの高温は無理だけど、そのときは生物を構成するタンパクそのものも進化しているかもしれない。
そう考えると、種の保護とか温暖化反対というのもナンダカナー

アホウドリ 島の生態系を保全しなければならないという理屈は何だ?
今ある島嶼の生態系が過去何千年何万年の生存競争の結果なら、今外の世界からの侵入者との生存競争を目のあたりにしたところで、それがあってはならないことと判断する理屈は何だ?
風に乗って孤島に来たのと、人が孤島に持ち込んだことの違いはなんだ? 意志をもって持ち込んだのと荷物に紛れて持ち込んだの違いはあるのか?
いや外来種の問題は島嶼だけでない。アメリカで猛威を振るうクズは悪なのか正義なのか?
我々の身近でもたくさんある。食料にしようと持ち込んだウシガエル、毛皮を取ろうと持ちこんだヌートリア、テレビアニメの影響で輸入されたアライグマ、彼らはどうなのよ?
生態系を守れと語る人は、生態系の箱庭あるいは盆栽を作りたいだけなのか?
そういう人は箱入り娘とか纏足てんそくとか引きこもりが好きなのか?

環境保護なんて意識高い人たちのアクセサリーか、ええかっこしいとしか思えない。
最近、ヴィーガンなるものが流行しているそうだ。あれは栄養学的にはまったくの間違いらしい。アメリカで複数のヴィーガンが健康を悪くして入院・治療を受け、食事の指導を受けて回復して「もうヴィーガンは止めた」というニュースを見た。
単細胞生物が現れたとき、太陽エネルギーを利用する生き方と、そういう生きものから原形質やエネルギーを掠めとって生きていく生物に分かれたのだ。泥棒の生き方を選んだ中で一番上位になった人間は、その誕生と進化の過程から、他の動物・植物を食べなければ生命を維持できない。それが本当の意味での原罪だろう。
生物的に栄養を自分が化学合成でつくれないなら、他の生き物の命をいただいて生きていくしかない。せめて食前に「いただきます」と私たちに命を与えてくれる生き物に感謝したい。
サポーズ、人間が太陽光と水と窒素・リン酸・カリからエネルギーを作りだし生きていこうとしたら、文学とか科学を学ぶ時間もなく恋愛をする暇もなく、足を台地に植え付けて動かずに太陽の光と雨水を待つ生活になる。それがまさに植物だ。
「私はヴィーガンなのよ」と言うことは、他の生物を足蹴にして生きていて、なおかつそれを心から抹消してずうずうしく生きているということだ。

じゃあクジラ、犬、サルを食べたるのは良いのか? と問われるかもしれない。それしか食べる物がないとか、それが文化なら私は是とする。まあ食人には賛成はできないけど……もっともニューギニアの食人だって栄養を取るためだけで誰でも良いのではなく、勇敢な敵の戦士の魂や偉大な酋長などの意志を継ぐという儀式であったそうだ(注4)日本でもそういう発想と無縁ではない。今も見かける火葬場で骨をかじるという行為は、死者を愛おしく惜しむ行為だという。

もろもろ考えると世間の価値観をアプリオリとせずに、肩の力を抜いてあるがままに生きて良いのではなかろうか? 島嶼の保全、生態系の保全、固有種の保全も同じく、ムキにならず、肩の力を抜いて良いではないか。
環境問題に善悪とか価値観を持ちこむとおかしくなる。
ちょっと思ったのだが、この本のタイトルは「そもそも島に進化あり」ではなく「そもそも島に寿命あり」という方が適切かと……ちなみに、そんなことは2600年も前にお釈迦様が言ってたぞ、諸行無常って。分かりやすく「形あるもの必ず壊れる」でもよい。

濡れ落ち葉 本日のまとめ
環境問題を論じる人は、人間の欲望、個人の趣味趣向を隠して、上品にきれいごとを言うからよくわからない。欲望そのままに俺が嫌いだから駆除する、好きだから増やそうと言った方が分かりやすい。
そして子々孫々のことまで考えても、未来は分からない。そのへんはどうなんだろうね?
冒頭にも書いたが私は会社員時代、環境担当だった。ときどき他社の担当者との懇談会があった。 マングローブ 大手企業の環境担当というと、トンボの保護、マングローブ植林、里山保全なんてのを仕事とする浮世離れした人がたくさんいた。まさにドンビキ、理解不能である。
一私企業がマングローブ植林とか里山保全など、誇大妄想としか思えない(注5)トンボを保護するお仕事をしていた環境担当者が勤めていた某大手電機会社はその後左前になり、トンボ保護をしていた方は会社を辞めて(リストラされて)今はまったく無関係なお仕事をしている。その会社の経営者は環境部門であっても、トンボ保護の代わりに省エネ、省資源、リサイクルなどを研究させていれば少しは損益が良かったのではないか。担当者だけでなく経営者も問題だね、
私も転職したけれど、法律を守る、環境負荷を下げるという仕事も意志も変わらなかった(注6)人間でも社会でも、無駄をどんどん取り除いていけば真に必要なものだけ残るだろう。トンボやマングローブは企業に必要でなくアクセサリー程度であり、遵法と汚染の予防は企業の必須要件ではないのか(反語です、違いないという意味だよ)



注1
アポステリオリとはアプリオリの反対語で、「経験を通じて得る」という意味だそうだ。

注1.5
「ハワイ(上・中・下)」ジェイムズ・ミッチナー、時事通信社、1962

注2
アイザック・アジモフの科学エッセイ(文庫で数十冊になる)は最高にためになる雑学の本だ。

注3
注4
「アンデスの聖餐」をお読みになることを勧める。私が若いときの実話である。

注5
果たして里山が真にあるべき生態系なのかという議論はとりあえず置いておこう。里山は明治以前には存在しなかったという書物もある。

注6
ISO14001に関わった人はご存じだろうけど、ISO14001の意図は「遵法と汚染の予防」である。
まさに私はそれをISO発祥以前から体現していたわけだ。エッヘン



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