物を持つこと

2019.12.12
だいぶ前に「家財道具」なんて話を書いたことがある。
あれから6年、私も少しは進歩したか・してないか、また同じテーマで書く。

遠くに住む娘からLINEがきた。
娘
10年前にお父さんからもらった目覚まし時計が止まった。壊れたかと思ったら電池切れだった。 午後*:**

既読
午後*:**
10年前の目覚まし時計をまだ使っているなんですごいね、俺が10年前買ったもので今も使っているなんてあるんだろうか?
目覚まし時計もパソコンもプリンタもスマホもみんな2・3回買い替えたよ。
娘
お父さんはなんでもすぐに捨てるんだから。もっと大事に使いなさい。 午後*:**

私が娘にプレゼントした目覚まし時計が電池交換もせずに10年も動いていたのに驚いたが、それよりも娘が10年も使っていたのに驚いた。家内に似たのか、物持ちがいい女だ。
目覚まし時計 おっと目覚まし時計をプレゼントなんていうとおこがましい。シャネルのウォッチとかプラダのバッグでないとプレゼントなんて言っちゃいけません。
たまたま娘が我が家に来て一緒に街を歩いていたとき、目覚まし時計が壊れたと言ったので、買ってやったにすぎない。

そこから私の妄想が始まる。
私の部屋にもデジタルの目覚まし時計があるが、昨年買ったものだ。それまで使っていた目覚まし時計も中国製であったが、電池がなくなる前に壊れた。おっと、いまどきは中国製以外ない。娘にプレゼントしたのも中国製だったはず。壊れる・壊れないは原産国によるのではなく、製品のバラツキだろう。バラツキも品質問題ではあるが…
我々が使っている道具とか機械の寿命はいかほどなのだろう?
一般の人は目覚まし時計を何年くらい使うものなのだろうか?

ところで私が持っているものは目覚まし時計だけではない。部屋を見渡せば私の部屋だけでもとんでもない数の家財道具がある。
目の前にパソコンがあり、それには32インチモニター、キャノンのプリンターそれに外付けHDDがつながっている。そしてその上には、地球儀が乗っかっている。モニターの下には、電卓、定規、計算尺、英和辞典、国語辞典がある。机の右サイドにはローボーイの引き出しがありその上にボックステッシュ、クリスマスツリー、事務用品の入ったトレー、振り向けば本棚がある。もっとも最近は本をドンドン捨てていて、本棚の半分は、けん玉、フィギュア、エアコンのリモコン、シーリングライトのリモコン、趣味で集めたピンバッジ、エアゾールスプレー(殺虫剤、防臭剤)、写真(家族、卒業式)、碁笥(碁石の容器)、街頭でもらったポケットティッシュ(ひと箱ある)などが鎮座している。
床にはベッド、ヨガマットそしてサーキュレーターが置いてあり、壁には七福神と海上自衛隊カレンダーが揺れている。
七福神

ベッドの下は緊急事態用のトイレットペーパーひとパック、水の2リットルペットボトルひと箱、非常食などである。もっともこちらの管理者は私ではなく家内だ。

とにかくものすごい数のモノがある。
まず大事というか触る頻度が高いのはパソコンだ。私の買った第一号パソコンは1980年代初めでエプソンのHC20だった。こいつはキーの接触不良が多くて難儀した。ともかくそれ以降40年間、3年ないし5年間隔で買い替えている。今はBTOで2年めだ。
初期のパソコンはBASIC組み込みでOSなんてないから、性能をアップしようとするとハードを買い替えるしかない。Windows3.1以降でもOSが変わると要求するハードの条件も高くなりパソコンごと使えなくなったが、2010年以降はWindowsがバージョンアップされても使えなくなったという記憶はない。もっともまともに使えたOSはXPだけだった。
ともかく私は朝起きてから寝る時まで常時SWオンという使い方なので、パソコンの寿命はHDDやファンが異音を出していつ壊れるか心配になると買い替えている。だいたい4年である。もう耐久消費財というより消耗品的な感覚だ。

メリークリスマス! 辞典類は完全な消耗品だ。書き込みで汚れてくると買い替える。とはいえ最近は電子辞書に押されて紙の辞書を入手するのが困難になり、捨てるのを躊躇する。
フィギュアや部屋の飾り的なものは季節が替わったらおしまい。まあシメナワは縁起物だから、クリスマスツリーも縁起ものだろう。
私が持っている腕時計は7000円のサラリーマンが使うような金属バンドのものと、バンドも本体もプラスティックのランニング用のやはり7000円のものである。長く使おうなんて気はさらさらない。電池がなくなるまで故障せず使えれば御の字だ。

そんなことを思うと一生もの、息子に遺すようなものはひとつもない。二度と入手できないからとっておこうと思うのは、古い本くらいだ。もっともその価値は私にとってだけのこと。家内は私が死んだら全部捨てるから、私が生きている間は捨てなくても良いと言ってくれている。
グレタ・トゥーンベリあたりから大量消費の悪魔と呼ばわれそうだ。

だけどそういう考えは私だけではないだろう。大局的に見ればすべてのものが、コモディティ化し消耗品化している時代だ。過去には多くのものが一生ものとか代々使えるなんて言われるものがあった。
私が子供の頃、自動車というものは大事に乗り壊れたら修理するというのが普通だった。1960年代はじめにトヨタが古い自動車は買い替えようというふうなことを宣伝して、オヤジは許しがたいと怒っていた。
でも新車が出るたびに燃費が良くなり、ミッションもブレーキも良くなり、最近は部分的に自動運転も導入されている。古い車を使い続ける理由はないように思う。

着物 昔は着物は財産だった。高価な着物は代々伝えられ使われた。でも今は日常生活で着物が着られることはなく、洋服なら相続される以前に何年も使われることもない。
家具はもう必需品でもない。新しい住まいではウォークインクローゼットが主流になり、箪笥がない家が多い。いや押し入れもない。テーブルも椅子も長く使うより一定期間使えば気分一新と入れ替えるのが普通だ。
私が子供の頃、勉強机は親戚の大きな子から小さな子と何度も使われたものだが、今は小学校入学で買ってもらい高校生くらいになるとそれを捨てて新しいものを又買ってもらう。
高校の時の私のカバンは、3人の従兄弟が使い私が4人目で既にボロボロだった。今は豊かになり少子化もあり、おさがりのランドセルやカバンを使う子供なんていないんじゃないかな?

いやいや生涯最大の買い物である家も、不動産どころか耐久消費財でもなく消耗品になったようだ。私が子供のとき住んでいた長屋はコンセントがなかった。だって照明の電球以外に、電気製品がなかったから。1950年代末にラジオを買ったとき、電気屋がコンセントを取り付けるのを見ていたのを覚えている。
ラジオ 次に住んだ家でも、ヒューズは玄関に裸でとりつかっていた。当時は配電盤もブレーカーもない。
結婚して住んだ県営住宅は鉄筋コンクリート5階建てだったが、エレベーターもなく、建物にテレビアンテナはなく、ベランダの手すりににアンテナを付けてガラス戸の敷居のすき間にフィーダー線を通してテレビにつないでいた。もちろん電話の回線も備え付けでなく、後付けで玄関ドアから引き込んでいた。1970年代はまだ1戸に1台まで普及していなかった。
今のマンションでは各部屋のコンセントに100Vだけでなくテレビもインターネットも付いていて、素晴らしいと思った。わずか10年前のことだ。

おっと電気配線とかテレビのケーブルだけではない。私の子供時代の家は、冷房も暖房も効かないすき間だらけ。もっとも今はあまりにも密閉が良すぎて強制換気が法で定められるほどになった。とはいえ住み心地という観点では、古い家をいくら補修しても現代人が満足できるものにはならない。
これからも家、住宅というものはどんどん進歩するだろう。そのとき過去のものに手を加えてバージョンアップするよりも、新しく建てた方が効率、費用的に良いような気がする。
グレタ・トゥーンベリなら資源の浪費なんて非難するだろうが、総合的判断をすれば古いものを捨て新規にした方が良いと思う。

話がそれた。
すべてのものがコモディティ化し、物を所有することではなく利用することが価値なら、保有とか財産という考えはなくなっていくのだろう。
パソコンソフトも最近はオフィス365のようにサブスクリプションソフトといって、ソフトを買うのではなく使用料を払う形に移りつつある。サブスクリプションでなくても、今はCDを買うのでなくダウンロードしてインストールする権利を買うわけで、大差なくその延長と言えばそれまでだが……
ただ音楽を購入してダウンロードすればいつまでも聞けるのと違い、サブスクリプションの場合、1年経ったら使用終了である。そこは大きな違いがある。
困ったわ それと大きな違いがもう一つある。形あるもの必ず壊れる、すべての企業はいつかは倒産あるいは廃業する。マイクロソフトは大会社だといってもいつかは事業を終えるだろう。
自分が買ったソフトが、メーカーが倒産したから使えないでは大いに困る。ウイルス対策ソフトと違い、オフィスソフトで作られた資産は使えなくなっては困る。そのときはセカンドサプライヤーが現れるさとのんびりと構えてはいられない。

それだけではない。最近はパソコン本体に外付け記憶装置もなく光学ディスクもない、ソフトも作成したファイルもオンラインというかクラウドなるものがメインとなりつつある。
パソコンに物理的につないであるHDDやOSやソフトのDVDは完全に自分の占有物である。紙の本とか紙の辞書は物理的に破損するまで、あるいは破損しても一部だけでも使える読めるというレガシーメディアの強みがある。
しかしオンラインストレージやオンラインソフトは自分が管理しているわけではない。それにインターネットが使えないときはこれまたお手上げだ。ネットワークに依存するしくみは危険極まりないと考える私は時代遅れなのか?
でもいままで無料のブログやウェブサイトとかオンラインソフトを使っていて、ある日突然事前通知もなく終了なんて憂き目にあった私は、サブスクリプションもオンラインソフトもそして無料のブログもウェブサイトも信頼できない。
このへんはもう少し信頼性というか仕組みを考えて欲しいと思う。
ちなみにこのウェブサイトを開設しているDTIは無料ではなく、毎月2000円也を払っている。終了する前に過去のデータをダウンロードするくらいの事前通告はあるだろう。

いろいろ考えると、家財に限らず"もの"は持つことが目的でなく使うことが目的だ。
ならば所有する家財はどんどん減らし、いつでも使える状態にすることがあるべき姿ではないかと思う。もちろん今持っているものすべてが対象ではなく、必要なものだけでよい。そして使用できなくなるリスクへの保険をどうかけるかを考えないとならない。

ところで真に必要なものってどれだけなのか?
確かに洗濯機も冷蔵庫も必要だけど、なければならないってものでもない。冷蔵庫なんて歩いて数分のところにコンビニがあればなくても暮らしていけると思う。
缶ビール缶ビール
だって我が家の冷蔵庫の中には、ビールとアイスクリームとミルクしかない。肉とか野菜とか買いだめしていれば必要だろうけど、家内と私が毎日散歩がてら買い物をしているわけで、ほんとのことを言えば冷蔵庫がなくても暮らしてはいける。台風が来れば買い物に行けないと言われるかもしれないが、2019年の台風で停電になった家内の友人宅では冷蔵庫は使えないどころか中身が腐り大変だったという。

洗濯機はコインランドリーが近くにあれば間に合う時代だ。そういえば誰かが「ユニクロを洗濯して着る奴がいるのか」と言った。今は汚れたら洗濯するのではなく、捨てて買う時代なのかもしれない。いやこれは暴言ではない。ヒートテックなんてワンシーズン物で翌年は温かくない。
部屋の壁から冷蔵庫のドアまで飾り立てている旅の土産のマグネットとか置きものは消耗品だろう。一定期間が過ぎたら捨てるしかない。実を言って我が家ではみな納戸の箱に詰め込んでおいて、プレゼントした人が訪問するとなると、その方からもらったものを引っ張り出して飾りつけするのが忙しい。

コレクションというのも集めることが目的でもないだろう。
ピンバッチ 実は数年前からピンバッチを集める趣味? 習慣? ができた。旅行に行ったりオープンベースに行くと、記念に必ずピンバッチを買う。最初の頃は仕切りの付いたプラスティックの箱に入れて、それぞれ番号を打ち、エクセルで台帳を作って、購入日、場所、ピンバッチの目的つまりイベントとか地域のキャラクターとか、購入時価格などのデータを記載していた。
でもさ、ピンバッチって気に入ったものカッコいいものを襟とか帽子とかバッグに付けて楽しめればいいだけでしょう。
希少な限定品といっても、カッコ悪ければつける気はしない。何年か後に値打がでようと、投資が目的じゃないよね。

環境省から始まったらしいが、企業の人でもSDGsバッジという丸い輪にパレットのように SDGsバッジ 色を染めたバッジをつけているのを見かけることが多い。
2年ほど前に出たときは1個4000円とか聞いて驚いた。最近では値段がこなれて新品で1000円を切ったらしい。あれって大きすぎてダサいよ。私はお金を出して、いやもらっても付ける気はしない。
今じゃこのバッチを付けないものは平家にあらず人にあらずと言われているようで、ビジネスマンにとって着用が義務かもしれないけど(笑)。

家庭内のことではないが、各国の軍備なんてのをみると、艦船とか飛行機の数の比較が載っている。しかし軍艦でも飛行機でも製造後数年なら第一線級だが、20年後にもなるとどうなんだろう。船体も機体もガタガタだろうし、搭載している兵器も最新のものに更新しているはずはない。
北朝鮮の保有する軍用機は1000機(航空自衛隊は400機)だそうだが、近代的と呼べるのは100機くらいという。北朝鮮には減価償却とか耐用年数という発想がないようだ。
なお海上自衛隊の潜水艦は以前は16隻だった。設備や技術の維持ができないからと毎年1隻建造し、かつ保有数は16隻という縛りのために耐用年数が16年となっていたそうだ。2010年に保有数を22隻に増やしたので、これからは耐用年数を22年にしたそうだ。なんか変ですね?


 本日のまとめ
生活がどんどん変わり、必要性も入手の困難さも変る。我々は博物館でもなく古物商でもないから、今の生活で使うものをいつでも使えるなら他になにも持たないことがベストではなかろうか?
ただ俗にミニマリスト(最小限綱領派)と言われる思想は違うつもりだ。欲しいものは貪欲に手に入れ楽しむ。そして飽きたら手放すというだけだ。欲しいものを我慢するのは精神衛生上よくありません。
ともかく余計なものを持たない暮らしは悩みを減らしてくれる。断捨離などする必要さえない。



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