ぼくの知らないことを知ってるかい

19.08.12
本日のタイトル「ぼくの知らないことを知ってるかい」とは、ロバート・A・ハインラインの小説「メトセラの子ら」の主人公ラザルスが終章の末尾に言うセリフである。
私がこの小説を読んだのは半世紀以上前の中学か高校のときだが、そのときタイトルは「地球脱出」だった。その後 英語の原題「Methuselah's children」の直訳に変えたようだ(注1)この駄文を書くために読み直そうと図書館から借りるとき、タイトルが初版と再版で違うのに気が付いた。今でも売れていて読まれているようだ。

メトセラ(メトシェラ)とは旧約聖書に出てくる人物で、969歳まで生きた長寿者のお名前(注2)宇宙船 「メトセラの子ら」のストーリーは、突然変異で長命な人類が現れ、普通の短命人類に恨まれ迫害されて恒星間宇宙船で脱出するオハナシである。
私は記憶力がいい。半世紀以上前に読んだ本のストーリーだけでなく気になったセリフを今も覚えている。もちろん、このフレーズだけでなく、いろいろな本の中に出てきた気に入ったフレーズは今でもたくさん覚えている。
記憶力がいいからってわけではないが、私は執念深い。執念深いとは以前受けた恨みつらみを忘れず、いつかお返ししようとする気持であり行動である。
では本日は恨みつらみを語る。

まずつまらないというか、取るに足らない話からいってみよう。
昭和30年頃、小学生のときだ。当時は金のある奴はズック靴で、貧乏人は下駄で通学した。高度成長期前は皆貧乏で、下駄で通学する子は珍しくなかった。ところがところが我が家はどこよりも貧乏で、普通に下駄を履くと下駄の歯が減るからと、オヤジは下駄の歯に釘を打ち付けた。そんなことをするのは我が家だけだ。あげくに釘が長すぎて表まで突き抜けて、足が痛いことこの上ない。それを今でも覚えている。
冬、下駄に素足で雪道を歩くのは辛かった。雪が溶けてなければまだいいが、溶けてグジャグジャの道を歩くのは本当につらい。今なら児相が喜んで飛んで来るだろう。でも児童虐待といっても、親に悪気はないし金がないのだからどうしようもない。
下駄
天狗の下駄は歯が1枚だが、ふつうの下駄は歯が2枚ある。木製だから下駄の歯は靴底より速く減り下駄の寿命となる。
それで下駄の歯に釘を打てば減らないというのは誰も考える。舗装道路だと釘の頭で下駄が滑って危ないが、昭和30年の田舎には舗装道路はなかった。
小学3年のとき、なにかで金が入ったオヤジが、お前も運動靴が欲しいと言っていたなとズック靴を買ってくれた。天にも昇るほどうれしかったね。それまで通学は下駄、体育と運動会は裸足だった。「はだしのゲン」は昭和20年頃の話だが、昭和30年頃の小学校時代、クラスの3割が体育の時間は裸足だった。裸足で歩くと、魚の目がしょっちゅうできた。貧乏自慢なら負けない。

ところが新しいズック靴を履いて学校に行き、下駄箱に置いたら、即日盗まれた。悔しくて悲しくて泣きました。それを見た戦争帰りの担任がビンタですよ、ビンタ。悪いことをしたからビンタではなく、泣いてうるさいからビンタです。
そして言われました「お前のようなバカは靴なんて履くんじゃねえ」と

後年その先生が定年退職したので皆で集まろうと声がかかりましたが、もちろん私は参加しませんでした。
いつかその先生に「バカ、バカと言われたが、ぼくの知らないことで知ってることがあるかい」と言い返してやろうと思っていました。ところが私が50歳の頃リストラになり、何度か引っ越しているうちにその先生の消息がつかめなくなってしまいました。生きていれば90代半ば、多分生きていないでしょう。


高校は工業高校の機械科だった。当時の工業高校は、学力はあっても大学に行くお金がない人が行くところで、中学の成績が並以下では入れなかった。私は中学では学年250人中、上から三番以内にいた。トップ争いをしていた友人二人は普通高校に行き東北大に行った。残念ながら我が家には金がない。オヤジは高校に行くのさえ良しとせず、中卒で働けと言う。幸い担任がせめて高校にいかせろと説得してくれた。入学試験の結果は1番だった。
そこで鋳造つまり鋳物を作る科目があり、先生が教科書に載っている鋳物砂の通気度の公式が間違っていると言う。しかし私は間違っていないと思った。

T定規
当時はT定規で図面を描いた
空気を読まない私は手を挙げて「先生、それはおかしくありません。これこれこういう理屈でそうなります」と発言した。私の性格は子供の時から70になった今も変わらない。おかしいと思えばだれの発言にでも躊躇なく突っ込む。
帝国海軍技術士官だったその先生は、己の間違いを理解しなかったが、私に否定されたのは理解した。そして大いに気を悪くしたのだろう。「お前のことは覚えておく」と語り、卒業までその先生の科目では良い点数をもらったことはなかった。ペーパー試験も実技も悪くなかったんだけどね。きっとその先生も執念深かったんだ
いつかそのセンコーに「ぼくの知らないことを知ってるかい」と言ってやりたいと思っていたが、先生はとうに鬼籍に入っている。残念だ。


社会人になっても同じような経験は何度もあった。
ISO14001の最初の審査を受けたとき、審査員のご芳名はMといった。
ISO14001の審査は初めてでしたが、既に私はISO9001やISO9002ではいくつもの工場の認証をした経験があり、シロウトではありません。
さて当時のISO14001には次のような要求事項がありました。

ISO14001:1996 4.3.4 環境マネジメントプログラム
組織は、その目的及び目標を達成するためのプログラムを策定し、維持しなければならない。
The organization shall establish and maintain (a) program(s) for achieving objectives and targets.
*(a)と(s)は原文のママ

M審査員がいうには「環境目的の実施計画と環境目標の実施計画が必要」なのだそうだ。だが上記のISO規格をどう読んでも、私にはそうは思えない。目的と目標を達成する計画があれば良いのではないか?
ところがそのときの上司が意気地なしで、審査員の顔を立てなさいと言う。呆れたが私はサラリーマンだ。おバカな上司のおかげで、勤め先の会社の足を引っ張るくだらない指摘を受けいれたのである。

必要のない計画表を作り、コピー配布し、定期的に進捗を書き加えるのに、年間20時間くらいはかかるだろう。1時間1万円として20万円を誰が負担するのか? 紙代だってかかるし、無駄に紙を使うのも環境に悪いぞ。こんなことだからISO認証はくだらないと言われるのだ。

当然私の怒りは収まらない。審査が終わってから当時購読していたアイソス誌に寄稿していたISO-TC委員のメールアドレスを調べて、環境実施計画には目的用と目標用が必要なのかと問合せた。
まさか返事が来るとは思っていなかったが、数日後メールが来た。そして「そのようなことはありません。実施計画はひとつあればよいです」とある。
UKASにもメールした。こちらも返事を期待していなかったが、返事が来た。趣旨は「規格解釈はUKASの仕事ではない。それはともかく規格には計画が二つ必要とは書いてない」であった。

* UKASを知らない人はいないだろうが、イギリスの認定機関である。ISO第三者認証が始まったときは、イギリスではDTI(貿易産業省)が認証機関を認定していたが、1995年にUKASが設立された。
認定がDTIからUKASに変わったとき、値打が下がった気がしてちょっと残念だった。

時の経つのは速いもの、あっというまに翌年のサーベーランスになりました。私は再びあいまみえたM審査員に、目的の実施計画と目標の実施計画はいらない、ISO-TC委員にもUKASにも問い合わせたと説明した。eメールのプリントアウトも見せた。
やれやれ するとM審査員は「私が言うのですからふたつ必要です」という。このM審査員はISO-TC委員よりもUKASよりもISO規格に詳しいのか
おっと、気が付いた人もいるだろうが、実は上記の英文を見れば、明確に単数でも複数でも良いと書いてあるのだから、わざわざ調べるまでもなかったのだ。英語は単数・複数が明確だから日本語よりわかりやすい。
理解できない人を審査員と呼ぶことにしようか?


それから10年近く後の2005年のこと、審査員登録センター(CEAR)の季刊誌「CEAR」に「環境実施計画は環境目的を実現するためのもの、環境目標を実現するためのもののふたつが必要」と規格解説を書いたTという審査員がいた。CEAR誌に寄稿するくらいだから、Tはエライ人なのだろう。
私はすぐさまJABにCEARに間違いを指摘し指導すべきだと電話した。そしてCEARには間違いを正せと要求した。当然以前のISO-TC委員やUKASのメールだけでなく、そのときは別のISOTC委員にも問合せ、同じ回答を得たのでそれも添えた。私は口だけ男ではない。更に縁があって指導を受けていた某外資系認証機関の取締役に電話して、CEARに抗議してほしいと頼んだ。その方は既に問題を認識していた。

その後、私がお願いした外資系認証機関の取締役から複数の外資系認証機関がCEARに抗議したこと、JABがCEARに指導したと返事をもらった。少し後にCEARから、ああだこうだと言い訳の回答メールが来た。そして次号のCEAR誌に「あの記事は寄稿した審査員の見解であって、CEARの見解ではない」とコメントを載せた。Tは次号で計画が二つ必要な理由をグジャグジャと書いていたが、間違いだとは言わなかった。間違いを認めると死んじゃう病気なのだろう。
ところでそのTが属する認証機関は、その後もずっと「環境実施計画は環境目的を実現するためのもの、環境目標を実現するためのもののふたつが必要」という基準で審査をしていた。私が引退した2012年までは間違いなくそうだった。それ以降はどうだろう?
いずれにしても2015年改定で2016年以降はそんな嘘っぱちは言えなくなった。しかし明確な間違いを反省も是正もできないことに、驚くというか呆れる。

ところでISO14001は2015年版で大きく変わったから、この議論は今は関係ないと思った方、そんなことはない。実はこの部分は規格要求はまったく変わっていない。いや2015年版はそのような誤解が起きないように記述が変わったにすぎない。内容は過去の1996年版や2004年版の要求そのものである。
理解できなければISO14004:2016を読め。ISO14004はISO14001の解説書ではないが、14004は別の角度から書いてあって気付かされることが多い。それから14004の付属書A・Bは必見だ。


田舎の工場にいたとき、博士号を持っているSという審査員が来たことがある。博士なら頭脳明晰で、おかしなことは語らない……なんて期待はしなかった。
Sは工場立地法に詳しいのかどうか知らないが、構内通路脇の花壇を動かしたのを見て、届け出がどうとか、届け出非該当であるとか講釈をたれる。
相手するのもめんどくせーと思いつつ、丁寧に説明した。それでも理解も納得もしなかった。結局、適合も不適合も判定せず時間切れになった。あの審査員は何のために来たんだ?
お断りしとくが、工場で仕事している身となれば、法律を読んで解釈するなんてことはしません。そんなこと時間の無駄です。自分で考えてもわからないのではなく、考える意味がないのです。弁護士に相談するのも無駄です。
じゃあ、何もしないのかと問われるとその逆です。
法の解釈は行政が一番です。県の環境課に行って、グランド整備のために花壇の大きさと位置をこれこれこう替えたい。それで問題ないか、手続きが必要なら何をするのかと聞いた方が早いし間違いない(注3)
おっともちろん県の事務なら県の環境課、市の事務なら市役所、消防法関係なら消防署、薬事法なら保健所と決まっています。
お前は何を言っているんだ 例を挙げると、危険物貯蔵所を改造したいのだが、法的にどうかなんて消防法を読んでも悩むだけ無駄。消防署にいけば30分で済む。
だからISO審査員が来て、トドケデガーなんて言われても、お前は何を言っているんだという思いしかありません。どこでもそうでしょう?
そういう現実を知らないで、ホウリツデハーなんて言うの恥ずかしいから止めてよね、
電話
あなたの審査に1時間あたり1万8千円払っているのです。1秒5円、2秒毎に10円玉が落ちるのです。国際電話でもこんなに通話料が高い国はありません(注4)
私たちは審査費用に見合ったお仕事を要求します。未熟な審査員なら、お金を返してください。

思うのだが…… ISO14001ではいずれの版でも、「組織に関わる環境法規制を調べなければならない」と書いてある。それで多くの企業は、環境法の本を買ってくるとか、コンサルに調べてもらうとか、認証機関の有料サービスを契約しているとか説明している。
だけで、本当にそんな方法でしているの?
実際には工場建設とか新設備導入とか新しい工法を取り入れるとき、関係する行政機関に行ってどう対処するか相談するはずだ。それが法規制を把握するまっとうな方法ではないのか?
もちろん法改正があれば、県や市の所管部署から地域内の企業に、説明会をするから参加しろと案内がくる。参加すれば、説明会の後に担当者が机を並べて各企業の相談に対応してくれる。それで法対応は99%は間に合う。
1%はどうなんだ? というかもしれないが、引き継ぎ漏れとかがあるのも現実だよ。


別の審査だったが、Kという審査員が規格解釈を間違えていた。私はそれを指摘し不適合ではないと主張した。するとK審査員少しも騒がず、「語るに落ちたね、君が間違っている」と言う。
大事なことだからもう一度言う。
私は記憶力がいい、10年前のことくらい忘れていない。

オイオイ、このセリフにはあまりにも多くの問題がある。
「語るに落ちる」とは「質問されると警戒して語らないことでも、自分からうっかり話してしまうこと」であり、審査員の間違いを指摘したこのシチュエーションでは意味が通じない。
それから下請けであろうと年下であろうと社外の人に「君(きみ)」とか「○○君」と呼ぶのはありえない。俺たちは100万円も出して審査を頼んでいるお客様だよ。マナーを知らない審査員は、ビジネスマン失格だ(注5)
もちろん最大の問題は、規格解釈を誤ったことであり、それを指摘されても理解できないことだ。
このようなレベルが低い審査員に対しては、どのような対応すれば良いのか、20年もISO審査の場にいた私も良い方法は思い浮かばない。嗚呼、我未熟なり、


ISO審査員には、審査を受ける人たちを猿以下とか、みっつ以上数えられない原始人だと思っている人が多い。 おサルさん 審査を受ける側にも、審査員より知識も経験もある人もいると思っている方と会ったことがない。私もラザルスに倣って、いつの日かTさんやMさん、Sさん、Kさんに「ぼくの知らないことを知ってるかい」と聞いてみたい。
こちらの意図が理解できないかもしれないから、露骨に「君はISO規格を知ってるか」と言った方が良いかもしれない。このときは「君」呼ばわりしてもよかろう。
心せよ、一寸の虫にも五分の魂、審査を受ける側にも感情はあり、審査員より知識や人格が劣るわけではない。

ところでこの「ぼくの知らないことを知ってるかい」と語ったラザルスは、ジャイアンみたいな傍若無人な人ではない。
宇宙船 冒頭に述べたように、突然変異の長命種族が太陽系を脱出したのち、安住の地を求めて宇宙を放浪する。そして様々な生物と出会う。だが人間を対等と認め、人間の姿のままで住むことを認める生物はなく、肉体をなくして思念だけの存在になれとか、彼らと同じ姿に改造するとか、あるいは奴隷どころかペットや家畜にしようとした生物もいた(注6)長命種族はそれに同意できないから宇宙をさすらうわけだが……
この「ぼくの知らないことを知ってるかい」という文句は、長命種族のリーダーであるラザルスが、人類がもっと科学技術を進めたいつの日か自分たちを家畜扱いした高等生物に言い返してやりたいと、さすらいの果てに口にした言葉なのである。


うそ800 本日の執念
執念深いとは「諦めが悪くしつこい、いつまでも恨んで忘れない」ことだそうだ。悪いイメージがあるかもしれないが、改善活動は執念深くなければならない。
そして「ぼくの知らないことを知ってるかい」と言わずとも、過去そして現在のISO審査の問題を指摘することは社会貢献であろう。
私は日本のISO認証をダメにした悪人どもを執念深く糾弾することを誓う。
あっ、私を責めるのは筋違いです。過去より審査員の力量は第三者認証の問題点の上位にありました(注7)
是正処置をしろと口酸っぱく語る審査員は大勢いるのに、自分たちは是正できないのはISO七不思議のひとつです。
えっ、他の六つは何だって なんでしょうかねえ〜(適当)


うそ800 本日のジャンボ宝くじ
審査員のM、T、S、Kは審査員の頭文字です。4名のお名前を全部当てたら7億USOドルを進呈!

USOドル紙幣

* USAドルではありません。USOドルはジンバブエドルより値打ちがない鴨




注1
「地球脱出」ロバート・A・ハインライン、早川書房、1963.01.01
「メトセラの子ら」ロバート・A・ハインライン、早川文庫、1976.01.15
タイトルだけの違いで中身も翻訳者も同じだ。

注2
・旧約聖書 創世記第5章21〜27節
古事記や日本書紀に出てくる人物が長命なことを理由に、妄想だと語る人は多いが、旧約の登場人物が長命であることを理由に旧約聖書を妄想だと語る人はいない。どうしてかな?
ところで古事記の登場人物も旧約の登場人物も、ほろんどは通常の寿命の倍を越えない。メトセラだけが例外である。それで古事記も旧約も1年を2年に数える「二倍年歴」ではないかという説もある。魏志倭人伝に倭の国は二倍年歴であると書いてあるという論もあるし、旧約についてはアジモフが同じことを書いている。真偽はわからない。まあ、参考まで

注3
正直なことを言うと、担当官によって多少解釈がばらつく。だからこそ行政に相談した方が良い。相談記録があれば担当官が代わっても問題になることはない。
おっと、ISO審査員のバラツキを数メートルとすると、担当官のバラツキはせいぜい数センチくらいしかないから、安心して良い。

注4
携帯電話なら1秒1円以下だし、NTTの固定電話なら国内で100km以上、昼間(8AM〜7PM)で1秒3.8円が最高である。
国際電話は、アメリカが1秒2.2円、中国3.1円、フランスが3.9円、なぜ距離と関係ないのかわからない。
それにしても国内の方が高いって、どうなっているんだ!
注5
新選組 元をたどると幕末に道場や新選組など仲間同士の呼ぶときに「君」呼びが広まった証拠がいくつもあるそうだ。当時は「君」に相手を敬う意味があったらしい。
しかし歴史的なことはともかく、21世紀初頭の現在では、社内において同格に対しては「君」はダメ、目下であっても使うべきでないとするのが一般的だ。ましてや社外の人に対しては、「君」は不適切だ。取引先の担当者に君呼びされたら、あとで先方の上司に「指導した方が良いよ」と苦情(嫌味)をいうのは当然だ。相手企業のためでもある。
もっとすごいのは審査員が対応した若手担当者を「坊主」とか「小僧」と呼んだ現場を見たことがある。このとき呼ばれた方は自分のことと思わなかったというコントのような事態となった。
逆に「先生」と呼ばれないと返事をしない審査員もいた。アイソス誌にたびたび寄稿していた有名審査員がまさにそれ。私が引退してから、2015年頃にその方の審査を受けた方が、わざわざ私に会いにきてそれをこぼした。私に批判してほしいということだったのだろうか?

注6
ここはひどいことを言われたというだけで、具体的には書いてない。前後から想像するに、家畜か食料になれというようなことと思われる。
注7
「ISOマネジメントシステムの運用に関する研究」後藤大太郎、長崎大学博士論文、2010

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