親父の命日

20.09.10

今まで親父の命日に親父のことを書いたなんてことは一度もない。
9月10日、本日は親父が死んでちょうど40年、それを記念して書く。
すべて私の独り言であるから読んでいただくまでもない。


私の親父は明治45年、福島の片田舎の貧乏百姓の次男に生まれた。明治45年というと大昔と思うけど、大正元年と同じ年である。今から108年前になる。
農家といってもわずか7反(70a)しかなかった。そこは親父の親父、私の祖父が生まれた村から1キロほど離れた傾斜地の雑木林を切り開いて、わずかばかりの畑を耕していた。新しく開墾した土地だから開墾と呼ばれていた。電気も水道もない。道といえば踏み分け道程度。自転車さえ通れなかった。
井戸はあったが生活用水だけで、田んぼを作るほど水はない。それに元々が傾斜地だから田んぼは作れない。しかも北下がりで日当たり不良、そんな農業に適さない土地だからこそ、それまで誰も開墾しなかったわけだ。

雑木林のあちこちに、そういった開墾がいくつもあった。いずれも村の次男や三男が行くとこがなく、しかたなく開墾したのだ。
親父の兄弟
続柄職業備考
長男(伯父)丁稚
長女(伯母)看護師
次男(親父)丁稚
次女(叔母)看護師
三男(叔父)丁稚戦死
四男(叔父)丁稚戦死
五男(叔父)会社員
今なら丁稚は店員かな
とはいえ元々が農地にならないような場所だから、農家として成り立つはずがない。作れるものはイモとか麦だし、そもそも猫の額である、家族が食う分もできない。
それで開墾の人たちは村の農作業の手伝いで食っていたようなものだ。小作人でさえない。農業アルバイターである。
親父の兄弟は7人いたが、一番上の伯父は尋常小学校を出ると東京へ丁稚奉公に行き、親父もそれに続き、伯母も叔母も看護婦になり……という塩梅だった。
それでも祖父の代と違い、東京に働きに行くという選択肢ができたのが、世の中の進歩である。祖父の生まれは明治15年頃で、その当時は他所に働きに行くということもなかったのだろう。


戦争になり兄弟4人は出征し、伯母と叔母は軍の病院で働いた。叔父二人は戦死し、戦争が終わって伯父一家と親父一家は田舎に戻ってきた。既に伯母と叔母は嫁ぎ、下の叔父はまだ子供で祖母と二人で開墾で暮らしていた。既に祖父は亡くなっていた。
戻ってはきたものの開墾で食っていけるわけがない。伯父は奥さんに開墾の農作業と子供たち、そして祖母と下の叔父の世話を任せて、東京に出稼ぎに行った。

叔父と伯父の子供の年齢が近くて変と思うかもしれないが、昔は子だくさんだから兄弟の上と下の年齢差が大きく、兄弟の末と兄弟の上の子供の年齢がほとんど同じとか、逆転することも普通にあった。

親父は開墾に住むわけにもいかず、法務兵(海軍の憲兵)だったので公職追放となっていて官公庁には勤められない。それで田舎町で半端仕事をして、その日暮らしをする羽目になった。そのとき親父は35歳、妻と私の姉二人がいた。
もちろん私はまだ生まれておらず、上記は周りの人から聞いたことだ。

その後、親父も中堅まではいかないが大きめの中小企業に、トラックの運転手として就職した。親父は陸軍にいたとき自動車部隊だったので、運転免許を持っていた。当時、運転手は希少で、戦後自動車が普及するにつれて運転手の需要がでてきた。
それからはなんとか安定した暮らしができるようになった。私が生まれたのはその頃である。


昭和20年代末(1955頃)、我が家の暮らしも落ち着いた頃には、東京の伯父の暮らしも見通しが付き、田舎の家族を東京に呼び寄せた。そのときには既に伯父の長男(私から見て従弟)は、集団就職で東京に出て働いていたし、下の叔父も新制高校を出て就職していた。だからそれは自然な流れだった。
伯母と下の従弟は東京に行くのに賛成したが、祖母は都会に行きたくないという。私は親父からそう聞いたが、実際は伯母と祖母が仲が悪く伯母が祖母を連れて行くのを嫌ったのが真実のようだ。いろいろもめたが、結局田舎に住んでいた親父が祖母を引き取った。

はっちゃけという言葉があるが、親父は親を引き取ることで、自分が偉くなったように思えたのだろう。
母は祖母を引き取るのは大反対だったようだが、当時の慣習というか価値観で押し切られたらしい。小学校に入ったばかりの私も、いきさつは耳に入ってきて周りの人間模様は理解できた。親父がトラブルを引き込んだのは間違いない。

当時我が家は6畳と4畳半、風呂なしという引揚者用の長屋暮らし。長屋だから縁側も廊下もない。そこに両親と4人兄弟が住んでいたのだから、祖母を引き取るなんて物理的に不可能に近い。今なら想像もできない。当時はテレビもラジオもなく、ろくな家具もなく、ちゃぶ台は使用時以外は足を折り曲げて壁に立てかけ、布団を押し入れにしまうという生活だったからなんとかなったのだろうか。それでも4畳半は雑多な物があり、6畳間に7人の布団をジグソーパズルのように敷き詰めて寝た。夜トイレに行くときなどほかの人を踏まないように注意しなければならない。

我々の暮らしていた引揚者用の長屋は40戸くらいあり、どこも同じ間取りであったが、1軒に7人暮らしていたのは我が家だけだった。
祖母が増えても収入が増えるわけでもない。まさに赤貧洗うがごとし、貧乏を絵に描くと当時の我が家になるだろう。片道4キロを歩いて小学校に通う私にとっては、家の外も家の中もあまり楽しい暮らしではなかった。

開墾がどうなったか気になる人がいるかもしれないので……
1960年頃には田舎にも高度成長期がやってきた。それで働く場がどんどんと増えた。今まで荒れ地を耕していた人たちは、 林 そんな開墾をほっぽりだし工場やお店で働くようになった。
開墾はあっという間に、それこそ数年で雑木林に戻った。自然保護なんて人がいなければ自動的に達成されるのだ。
その後、誰もそんな雑木林なんて誰も見向きもしなかったが、1980年頃に工業団地とか市営墓地あるいは住宅団地などに造成された。
だが、1990年以降の景気衰退や製造業の海外展開に伴い工業団地の工場が撤退したり、住宅地は更地になったり、再び雑木林に戻りそうなところも多い。
「世は去り、世はきたる。しかし大地は永遠とわに」なんて聖書の言葉を思い出す。(旧約聖書 伝道の書1-4)


今までは前提説明だ。
そんな親父と私はどんな関係だったのか、私は親父をどう見ていたのかというのが本題である。

人を見る観点は多様である。性格といっても、穏やかか暴力的か、刹那的か考え深いか、客観的か主観的か、公平か差別的か、知的かそうでないか、努力家かそうでないか、などなど

まず親父は暴力で物事を解決するほうだった。
親父は支那事変では陸軍、太平洋戦争では海軍と軍隊暮らしが長くて、なにかというと口より先にビンタが飛んできた。幸いなのは親父が外の人に暴力事件を起こさなかったことだろう。
私たち兄弟の子供時代、成績が悪い時でも何か悪さしたときでも、説教された記憶はない。常にビンタである。
だから子供たちはいつも親父の前では息を殺して喧嘩もしなかった……わけではない。上の姉も私も気が強く、おかしいと思えば親父に反論した。そしていつもビンタされた。それにも懲りずに反抗した。
母と下の姉は親父の言うことに反抗せずなんでもきいた。
一番下の妹は年を取ってからの子供だったからか親父のお気に入りで、悪いことをしても成績が悪くても絶対に叱ったこともなく、ビンタしたこともなかった。それがいっそう上の姉と私を苛立たせた。当然、子供4人がなにかでもめたときは、常に上の姉と私が組み、下の姉と妹に分かれて争うことが多く、それがまた親父を怒らせた。

夫婦喧嘩はめったになかった。というのは、母は親父がいかに理不尽なことを言っても黙って言うことを聞いたから。その分、母の八つ当たりが我々子供たちに回ってきた。
祖母を引き取るときも母はハイハイといっていた。引き取ってからも母は祖母にも反論できず、たまった不満を我々に吐き出した。だから上の姉と私は、父はもちろん母も見限った。下の姉は母と同じ性格で表面上は文句を言わず陰で愚痴っていた。


親父は尋常小学校しか出ていなかったが、驚くほど物知りだった。それも生活の知恵的な知識もあったし、あらゆる分野で物知りだった。
例えばギリシア神話や旧約聖書はあらましを知っていて、ギリシアの神々の名などそらんじていた。それだけでなく夜、子供たちを寝かしつけるときそれを小出しして話して聞かせた。すごい知識量だと思う。
海軍時代、下士官がそろってフランス料理を食べたことがあり、そのとき他の下士官は左右の人の真似をして食べていたが、オレは食べ方を知っていたぞと自慢していた。
中国の故事成語にも詳しく、もちろん自動車とか機械にも詳しく、畑仕事とか親父がアルバイトしていた自動車修理屋に私がついて行ったときなど、仕事をしながらいろいろな話を聞かせてくれた。それは私に大いにためになった。門前の小僧習わぬ経を読むみたいなものだ。

特段勉強していなくても、大人になれば生活する過程でいろいろなことを知り学ぶから、子供とは比較にならない知識を有するが、親父は尋常小学校しか出ておらず、丁稚奉公、軍隊生活しかしていなかったのに、なぜか知識豊富で、それも知っているだけでなく故事成語などを場に応じて引用するような機転もきいたのである。頭が良かったのかどうか? 記憶力だけではないのは間違いない。
親父に対する恩はあまり感じないが、子供の時いろいろなことを教えてもらったことは感謝している。ただ逆に親父が物知りだったので、私が何か興味を持つと、調べるよりも親父に聞いたほうが早く、学校の図書館に浸るとか百科事典を見る習慣がつかなかった。まあ、それは私の責任だ。

そして親父は勉強家だったのも間違いない。50を過ぎてトラックの運転手から内勤に回され、お金の計算とかをするようになった。それでそろばんを練習してうまくなった。それだけでなく帳票に書く数字は独特だといって、そろばんの練習帳にあるような書体の数字を書く練習をしたりした。
またなにか忘れたが仕事の関係の資格を取るために家で勉強した。なにしろ狭い家だから親父が勉強すれば、我々も静かにしなければならず、教科書を読むようになった。
ちゃぶ台で親子が勉強する情景を思い浮かべてほしい。いきさつはともかく人は親の背中を見て育つのだ。


親父の価値観は、封建時代の家父長制そのものだった。
私が中学になったばかりのとき、祖母が亡くなった。それまで下の世話まで介護は母がしていて、親父の兄弟が介護どころか見舞いにも来ない…と母は我々子供たちにいつも不平を語っていた。
祖母が亡くなって遺産相続となる。既にマッカーサー憲法となり、民法も改正されていた。しかし親父は亡き祖父・祖母の遺産は長子相続であるべしと他の兄弟を説得して、すべて伯父に相続させた。伯父は偉そうな顔をしていたが、伯父以外はおもしろくない顔をしていたのを覚えている。
まったく訳が分からない。叔父・叔母たちそして彼らの配偶者にとっては、わけがわからないどころか腹立たしかったに違いない。母もそのときは親父にそんなこと止めてくれと泣いてすがったが、親父はこれがあるべき姿だと、今でいうと(キリッ)という態度だった。
バカというよりも価値観が明治だったのだろう。自分が好き勝手にやったことなのだから親父にとってはそれが正しく幸せだったに違いない。伯父以外の親父の兄弟も、何年も介護した母も呆れていた。

親父が好き勝手にしても親父が損するだけならいいが、私にとって損得が関係するのは困る。己が家父長制、明治憲法を奉じるのは勝手だが、他人に強制しちゃいかん。
古い奴がかっこいいのは映画の中だけ、実際にいればゴミに出したくなる。

親父ははっちゃけで自己中であったのは間違いない。母や子供たちを自分の思うように動かし、言うことを聞かないと暴力を使ってもそうさせようとした。古い価値観というよりも、おのれの幸せとか己の考えを実行することしか頭になかった。


上の姉は田舎の高校に進んだ。当時の暮らしから姉が高校に行けるなんて信じられなかった。1960年頃の全国の高校進学率は60%近くまでになっていたが、田舎では半分もいない。とはいえ姉が好きに学校や学科を選べたわけではなく、この学校を受験しろ、卒業したら知り合いの家に家事見習い…要するに女中だ…に行けという。姉がぶすくれたのはもちろんだが、反抗できるわけもない。
下の姉も同じであったが、集団就職で都会に行った。いきさつは知らないが、上の姉のように家事見習いでは、金にならないと気が付いたのかもしれない。下の姉に仕送りさせたのは言うまでもない。

私のときは、高校にやる金がないから国鉄に入れという。当時国鉄の中に高校があって働きながら高校卒業できるという。それで私は近所といっても100mくらい離れたところの国鉄に勤めている人に聞きに行った。すると全く無関係な人が国鉄に入れるわけがない、親か近い親せきが国鉄で働いていないとだめだという。
親父はそれを聞くと、それじゃあ中卒で就職しろという。当時は半分以下しか高校進学しないのだから中卒で就職しても世間並みだという。
中学の先生が、それじゃかわいそうだと親父を説得して、工業高校を受験することを親父は許した。組合活動を一生懸命していた左寄りの先生だったが、高校進学を勧めてくれたことには感謝している。今もご存命だ。というか私より10歳しか年上でない。

高校を出て就職するとき、私は都会に行くのを希望したが、当然だが親父は地元企業しか許さんといって私は田舎の会社に就職した。それも最初は知り合いの会社に行けという。学校の先生に頼んで地元では大きい企業に就職した。
就職しても、同居して仕送りならぬ給料は召し上げで小遣いをもらう身分、早い話が奴隷である。いつの日か親父から自由になりたいと心底思った。
なお親父が就職しろといった会社は、第二次オイルショックで1980年頃倒産した。人生に山谷は付きものだが、わざわざリスクの高いところに行くこともない。そこに行かなくて良かったと思った。

まあ1960年代の田舎、まだモータリゼーションの風も吹かず、コンビニがあるわけもなく、カミナリ族なんてのは映画でしか見たことがない、吉幾三の「おら東京さ行くだ」の世界である。信号機は町に1ヶ所あったけど、

しかしとかく親父の束縛がきつい。あるとき残業で遅くなったことがあった。親父は会社になぜ遅くなったのかと苦情に行った。私が遊びに行ったのを偽ったと思ったのかもしれない。先輩や同僚から嫌味を言われたし、上司の評価もべた下がりだ。
一刻も早く親父から家から脱出したいと願った。


やがて私も年頃になり女性と付き合うようになると、私が何も言わなくても親父は相手がどんな奴かと調査をした。
そして私たちがまだ結婚する気もないうちに、親父が結婚を決めてしまった。そんなことを以前書いた
ま、家内が嫌いだったわけではないが、まだ私が24歳、家内が19歳、すぐに結婚するつもりではなかったから、いささか調子が狂った。親父は自分がしていることが常に正しく人のためになっていると信じていた。親父は幸福だが、その幸福は周りの人から奪い取ったものだ。

結婚しました 家内のほうは婚約したら結婚前でもすぐに一緒に暮らせという。先方の家はそういう風習なのだろう。私はこれ幸いに親と別居することにした。当然、そのとき親父とひと悶着あった。
別居はできたものの、親父はまわりに所帯を持たせてやったと吹聴した。所帯を持たせてやったとは、生活を始めるお金を支援したということだ。
親戚や近所の人たちから「良かったね、お父さんに感謝しなくちゃいけないよ」と言われて怒り狂った。名誉棄損というか、あまりにも私をバカにしているではないか。親父こそ誰の金で暮らしているのか!
同棲して1年ほどで結婚したが、結婚式には親父を呼ばなかった。もちろん援助なんて1円もいただいていない。ほんとのことを言えば親父は援助するほど金がなかった。


やっとオヤジと縁が切れたとホッとした。それでも私は親父が干渉してくることを恐れていた。そしてそれは杞憂ではなかった。

子供が生まれ私たちは幸せに暮らしていたら、親父が具合悪く同居してくれと言ってきた。家内と話し合って、というより家内にお願いして、同居することになった。
実際に同居を始めれば病気なんて嘘っぱち、呆れた。
私ももう子供ではないし経済的には親を養っていた。それに親父ももう一人前になった息子を暴力で押さえつけることもできず、それからの日々は毎日口論である。
会社を休んで親戚の法事に行け、俺は仕事だから親父が行け。嫁が作った料理は口に合わない、なら自分たちで作れ。市長の選挙応援に行け、仕事だふざけるな…そんなことばかり。
まったく家内に申し訳ない。
  家内
家内は女神である
後光がさしてます
当時も今も家内にすまないというと、アハハハと笑ってくれる。
それでも家内は、私が会社に行き家事を終えたら当時1歳か2歳だった娘を自転車に乗せて近隣を歩いていたという。家にはいたくなかったと、
苦労をかけた家内には頭が上がらない。


同居して2年ほどのとき就寝中に親父は脳梗塞になり、当時のことで救急車もすぐには来ず、植物人間になってしまった。
入院してチューブで栄養を取って生きているだけだ。点滴の状況を見るとか、下の世話とかタンを取るのを、昼は家族が夜は看護師にしてもらう。
それからは平日の昼は家内と母が交代で付き添っていた。休日は私が付き添いだ。ますます家内にお世話になるばかり。申し訳ない。
付き添いといってもときどきなにかあるときだけだ。私は会社から仕事を持ってきてやっていた。ジグ設計など図面書きは無理だが、作業手順書とかNCプログラムの作成などをした。今のようなノートパソコンはなく、8ビット機を持ってきて仕事をした。

親父は意識もなく手足を動かすこともない。ときどき運動というか向きを変えたり手足を動かすのだが、最後の頃には手も足も固まってしまった。
それと親父は歯並びがきれいなのが自慢だったが、意識不明で何か月かすると乱杭歯になってしまった。歯は動くのだなとそれを見て驚いた。歯並びというのは日々咀嚼するから維持されているようだ。
そして40年前の今日死んだ。母も含めて周りはホッとした。回復の見込みがない意識不明の看護は三月が限度だ。

さて、親父が死んで40年が経った。短くはない。私が親父と同時に生きた時間は30年だからそれをはるかに超えたことになる。もちろん子供の1年は、大人の数年に匹敵する。それに自分で決定できない未成年のときの親の命令や決定は、その後の人生に大きな影響を与え、その精神的・物理的な影響をリカバリーできないことも多い。
仮に私が都会に就職していたらとか、別の会社に入っていたらとか、考えたことはたびたびある。別の進路をとったならまったく異なる人生があったはずだ。


今考えると、親父もそして母も今でいう毒親だったことは間違いない。自分の意思を家族に押し付け、反抗すれば暴力で押し付けるというのは毒親そのものだし、配偶者が間違えても暴力を恐れて従う、更に姑や夫への不満を子供にあたるなんてのも毒親だ。あげくに自分は姑と暮らすのが嫌いだが、嫁を同居させこき使いたいとはいい根性をしている。
お断りしておくが、両親と家内がもめたときは、私は常に家内の味方だった。エネ夫ではない。

エネ夫えねおとは……
2ちゃんねる(5ちゃんねる)用語で、エネミーと夫を組み合わせた語で、妻を苦しめる側にたつ夫のこと。一般的に嫁いびりする舅姑の側に立つダメ夫をいう。

だから私の人生は親父から離れること、親父と戦うこと、自分の家族を親父から守ること、そんなことを第一義として生きてきた。悲しいことだ。
だから24歳にして親と別居した時と、30にして親父が死んだときは、心底ホッとした。
仮に親父がもっと長生きしたならば、私は自由を得るのがもっと遅くなった。
親父が死んでからでも親父を思い出すと、憎しみしかない。あんな親父でなかったらといつも思った。
おっと、親父が死んでからは母とものすごい葛藤があったが、それはまた別の話。とかく浮世はままならぬもの。


叔父も叔母もすでに鬼籍。私の兄弟4人も下の姉と妹の二人は鬼籍に入った。二人ともまだ60代だったが、驚くことはない。70歳まで生きるのは女性でも9割しかいない。男は8割である。女性の1割、男性の2割は70前に死ぬ。
親父に反抗した上の姉と私がまだ生きているのは、神が我々を憐れんで自由に生きる時間を授けたのだと思う。

ところで、当然だが私は子供たちに、親父のようには絶対なるまいと思った。習い事でも進学でも就職でも、まずは子供たちがしたいことを優先したし、相談を受けたときにコメントするだけだ。
暴力をふるったこともないつもりだ。一度、息子が駄々をこねたとき、私が座布団を投げつけたことがある。それを息子は40になった今でも「俺はしょっちゅう親父に座布団をぶつけられた」という。まあ笑い話だが。
もちろん子供たちに感謝してほしいなんて思ったことはない。子供とは私自身が成長するために、神が与えてくれたものと考えている。子供には感謝しかない。

そう考えると、親父の存在が私に悩みと苦しみを与えてくれたことに感謝すべきなのであろうか?
うーん、私は山中鹿之助ではないから、無意味なことを考えるのはやめよう。

野放しに育てても成績はそこそこ、社会人としてもそこそこならば、子供の時に束縛をきつくしガミガミ言うのと変わらない。私の子育てが成功したなどとは思わないが、まあ子供たちを並みに育てたと思っている。
親父の時代は貧しくて世の中の自由も少なかったのだろうけど、もう少しやり方はあっただろうと思う。それに古い価値観は止めてほしい。
まあ明治の人だからしょうがない、親父がしたことを許す。許せるようになるまで40年かかったのだ。私がオヤジに許してもらうことなど間違ってもない。


線香 うそ800 命日の親父へのメッセージ
いつもは田舎の墓参りをしているが、今年は新型コロナウイルス流行で行けないので、この拙文を親父に奉る。
私がそっちに行くまでに、少しは穏やかになっていてくれ。私がそちらに行ってから、いつも怒鳴りあっては閻魔様に怒られそうだ。




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